Before the Bell.
朝露は、羽の先に重い。
まだ陽が完全には出きらない早朝、フレイヤは高い枝の上に腰を掛け、片足をぶらつかせながら、指先で煙草を挟んでいた。火は小さい。風がある朝は、火も匂いも要らない。山の空気を読む邪魔になるからだ。
薄く吸って、吐く。
吐いた白い煙は、すぐに谷のほうへ流れた。
「……今日は東か」
誰に聞かせるでもなく呟く。
東から上がる風は、冷たいわりに柔らかい。夜の湿気を引きずりながら、谷底の匂いを少しだけ持ち上げてくる。湿った土、若い草、遠くの水、それに――獣の血の匂い。
下を見ると、案の定、朝帰りの猟師たちが坂を上がってくるところだった。
崖をくり抜いて作った集落の上段は、朝いちばんに動き出す。夜の猟から戻る者、火を起こす者、小さな畑へ出る者、羽根の手入れ道具を広げる者。山の民の日常は、平地の町より少しだけ早い。
「おーい、フレイヤ!」
下から手を振ってきたのは、角の欠けた山羊みたいな獣を担いだ中年の猟師だった。肩から下げた革袋が血で濡れている。
「朝っぱらから高いとこでふかしてると、また年寄りどもに嫌味言われるぞ!」
「言わせときなよ」
フレイヤは枝の上から鼻で笑う。
「あんたこそ、今日はずいぶん血の気のいい顔してるじゃないか。大物でも獲れたのかい」
「大物じゃねえ、運が良かっただけだ」
猟師は担いだ獣を少し持ち上げて見せた。
「坂の下で脚を痛めてた。逃げ足鈍くて助かったぜ」
「じゃあ、その内臓は塩漬けにしな」
「おう、わかってる」
そこでフレイヤは目を細めた。
「肉と脂は子どもに回しなよ」
猟師がにやりとする。
「おう、内臓は大人のご褒美さ」
「都合のいいこと言うね」
くつくつと笑いながら、タバコをもう一口。
「じゃあフレイヤが食うか?」
「朝からそんなの、胃が重くて飛べなくなっちまうよ」
軽口を投げ合っているうちにも、集落は少しずつ明るくなっていく。
崖の中腹に張り出すように作られた通路には、もう子どもが二人走っていた。片方はまだ羽が短い。飛ぶどころか、滑ることだって危うい年頃だ。もう片方は少し大きくて、背中の翼を誇らしげに半分ひらいて見せている。
「こら!朝露の残ってる板で走るな!」
下から女の声が飛ぶ。子どもたちは一瞬だけ足を止めて、それからまた笑いながら逃げた。
フレイヤはそれを見て、煙草の火を枝に押しつけて消した。
日鴉族の集落は、平地の村みたいに広場を中心に丸く広がるわけじゃない。
崖の面に沿って、巣を増やすみたいに伸びていく。
岩を削った住居、小さな木組みの張り出し、谷へ突き出た見張り台、狭い畑、雨水を溜める桶、羽根を乾かす棚。
不便だ。
でも、山を知っている者には、これがいちばん楽だった。
上から見れば、どの通路が滑るか、どの板が傷んでいるか、どの家の子どもが今日も早起きかまでわかる。
フレイヤにとって、この山は戦場である前に庭だった。
庭だからこそ、どこに何があるかを覚えている。
どの小屋の梯子が古いか。
どの畑の土が痩せてきたか。
あの山小屋の爺さんが塩を隠し持っていることも、あの子どもが文字を書くのを覚え始めたことも、全部知っている。
枝の上から飛び降りる。
地面へではない。ひとつ下の岩棚へ。さらにその下の手すりへ。羽を少しひらいて勢いを殺し、最後は足から着地する。
日鴉族は飛べない。
高いところから風を使って遠くへ滑ることはできる。
だが、平地から好き勝手に空へ上がれるわけじゃない。
だから高みは大事だ。
そして、高みへ戻る足も同じくらい大事だった。
通路へ降りると、小さな畑から顔を上げた老婆がフレイヤを見た。
「見張り明けかい」
「いや、いつも通り見てただけだよ」
「その“いつも通り”が仕事だろうに」
「畑仕事のほうがよっぽど立派さ」
老婆は鼻を鳴らした。
「立派で腹は膨れんよ。こっちは豆が鹿に食われたんだ」
「じゃあ今夜、若いの一組回すよ」
「最初からそう言いな」
「人使い荒いねえ」
そんなやりとりをしながら、フレイヤは通路を歩く。
途中、羽根用の油を温めていた娘が会釈した。
水桶を担いだ少年が、少し背筋を伸ばして横を通り過ぎた。
朝帰りの猟師たちは獲物を捌く場所へ向かい、通りの隅では子どもが木片に炭で何かを書いていた。
穏やかな朝だった。
穏やかであればあるほど、あとで壊れたときの音は大きい。
そんなことを、まだこのときのフレイヤは考えていない。
考えていたのは、せいぜい今日の風の向きと、夜の見回りを誰に回すかくらいのものだった。
「頭」
不意に、低い声がした。
振り向くと、通路の影にニクスが立っていた。
相変わらず、近づくまで気配が薄い。灰色の羽は朝の岩肌に溶ける。目だけがやけに静かだ。
「なんだい。朝の顔してないね」
「北の鐘」
ニクスは短く言った。
「一拍、遅れた」
フレイヤの足が止まる。
それだけでは異常とまでは言えない。風向きで音は遅れる。距離でも変わる。
山では一拍の遅れは珍しくない。
だが、ニクスがわざわざ言いに来る時は、その一拍に匂いがついている。
「何を見た」
「煙」
「どこ」
「北西寄り。細い。焚き火じゃない」
北西。
あの山口だ。
幅がある。平地の兵でも押し込める。だから見張りを厚く置いている。
集落は少ない。見張り所ばかり多い、喉みたいな場所。
フレイヤは黙った。
谷から吹き上げる風が、さっきより少しだけ匂いを変えていた。湿った土と獣の血に混じって、何か別の焦げがある。木を焼いた匂いだ。小さい。遠い。だが、確かにある。
「何人か連れて見に行くかい」
フレイヤが言うと、ニクスは首を振った。
「もう見に行ってる、三班」
「勝手だね」
「止める時間がなかった」
「そりゃそうだ」
フレイヤは通路の手すりへ手を置いた。
朝日がようやく山の肩にかかる。光が差し込む。その明るさの中で、北の空の端にごく細い煙が見えた。
焚き火の煙じゃない。
あんな色にはならない。
「バルトは」
「南の見回り。もう戻る」
「ルダ」
「起きてる」
「ゴルム」
「水場の橋を見てる」
「カイラ」
「寝てない」
フレイヤは口の端だけで笑った。
「いつも通りだね」
「そうか」
「そう見えるかい?」
ニクスは答えなかった。
代わりに、北のほうを見たままだった。
その沈黙で十分だった。
フレイヤはゆっくり息を吸う。
山の匂いは、やっぱり少し変わっている。
次の瞬間、遠くで鐘が鳴った。
かん。
一打。
間。
もう一打。
それだけで、集落の空気が変わった。
畑の老婆が手を止める。
獲物を担いだ猟師が顔を上げる。
子どもが走るのをやめる。
通路のあちこちで、日鴉族の顔が北へ向いた。
北の鐘だ。
ふつうの合図じゃない。
短い。急いでいる。
そして、三打目が来ない。
フレイヤはそこで完全に頭を切り替えた。
「鐘を鳴らせ」
低く言う。
ニクスはもう動いている。
「狼煙もだ。他の山の鴉たちに、逃げろと伝えろ」
ニクスが一瞬だけ振り返る。
「奴ら、山を覆う規模だ。どこに逃げる」
フレイヤは北の空を見たまま、答えた。
「帝国側へ、だ」
それを口にした瞬間、言葉が現実になった。
畑ではなく避難だ。
見張りではなく警鐘だ。
軽口ではなく命令だ。
フレイヤは通路の中央へ踏み出した。
「動け、鴉ども!」
声が崖の内側で跳ね返る。
「北が噛まれた!
荷をまとめろ!
子どもを呼べ!
飛べないやつから下へ回せ!
見張りは持ち場につけ!」
猟師たちの顔から、朝の空気が消える。
老婆が畑を捨てて家へ走る。
子どもの母親が名前を叫ぶ。
誰かが梯子を外す。
誰かが水桶をひっくり返す。
木組みの通路が、一気に避難の音で満ちていく。
そして、集落の中央を見上げるようにして立つ木組みの鐘楼で、最初の警鐘が鳴った。
かん。
高く、乾いた音だった。
山から山へ飛ぶための、命の音だ。
フレイヤはその音を聞きながら、最後にもう一度だけ、さっきまで座っていた高い枝を見た。
ついさっきまで、そこは朝の風を読む場所だった。
今はもう違う。
庭の匂いが、ほんの少しだけ戦場の匂いに変わった。
北の空で、細い煙がまた一本、増えた。




