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農家の異世界奮闘記 外伝~日鴉戦記~  作者: 今無ヅイ


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1/13

Before the Bell.

 朝露は、羽の先に重い。


 まだ陽が完全には出きらない早朝、フレイヤは高い枝の上に腰を掛け、片足をぶらつかせながら、指先で煙草を挟んでいた。火は小さい。風がある朝は、火も匂いも要らない。山の空気を読む邪魔になるからだ。


 薄く吸って、吐く。

 吐いた白い煙は、すぐに谷のほうへ流れた。


「……今日は東か」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 東から上がる風は、冷たいわりに柔らかい。夜の湿気を引きずりながら、谷底の匂いを少しだけ持ち上げてくる。湿った土、若い草、遠くの水、それに――獣の血の匂い。


 下を見ると、案の定、朝帰りの猟師たちが坂を上がってくるところだった。


 崖をくり抜いて作った集落の上段は、朝いちばんに動き出す。夜の猟から戻る者、火を起こす者、小さな畑へ出る者、羽根の手入れ道具を広げる者。山の民の日常は、平地の町より少しだけ早い。


「おーい、フレイヤ!」


 下から手を振ってきたのは、角の欠けた山羊みたいな獣を担いだ中年の猟師だった。肩から下げた革袋が血で濡れている。


「朝っぱらから高いとこでふかしてると、また年寄りどもに嫌味言われるぞ!」


「言わせときなよ」


 フレイヤは枝の上から鼻で笑う。


「あんたこそ、今日はずいぶん血の気のいい顔してるじゃないか。大物でも獲れたのかい」

「大物じゃねえ、運が良かっただけだ」


 猟師は担いだ獣を少し持ち上げて見せた。


「坂の下で脚を痛めてた。逃げ足鈍くて助かったぜ」

「じゃあ、その内臓は塩漬けにしな」

「おう、わかってる」


 そこでフレイヤは目を細めた。


「肉と脂は子どもに回しなよ」


 猟師がにやりとする。


「おう、内臓は大人のご褒美さ」

「都合のいいこと言うね」

くつくつと笑いながら、タバコをもう一口。


「じゃあフレイヤが食うか?」

「朝からそんなの、胃が重くて飛べなくなっちまうよ」


 軽口を投げ合っているうちにも、集落は少しずつ明るくなっていく。


 崖の中腹に張り出すように作られた通路には、もう子どもが二人走っていた。片方はまだ羽が短い。飛ぶどころか、滑ることだって危うい年頃だ。もう片方は少し大きくて、背中の翼を誇らしげに半分ひらいて見せている。


「こら!朝露の残ってる板で走るな!」


 下から女の声が飛ぶ。子どもたちは一瞬だけ足を止めて、それからまた笑いながら逃げた。


 フレイヤはそれを見て、煙草の火を枝に押しつけて消した。


 日鴉族の集落は、平地の村みたいに広場を中心に丸く広がるわけじゃない。

崖の面に沿って、巣を増やすみたいに伸びていく。

岩を削った住居、小さな木組みの張り出し、谷へ突き出た見張り台、狭い畑、雨水を溜める桶、羽根を乾かす棚。


 不便だ。

 でも、山を知っている者には、これがいちばん楽だった。


 上から見れば、どの通路が滑るか、どの板が傷んでいるか、どの家の子どもが今日も早起きかまでわかる。


 フレイヤにとって、この山は戦場である前に庭だった。


 庭だからこそ、どこに何があるかを覚えている。

 どの小屋の梯子が古いか。

 どの畑の土が痩せてきたか。

 あの山小屋の爺さんが塩を隠し持っていることも、あの子どもが文字を書くのを覚え始めたことも、全部知っている。


 枝の上から飛び降りる。


 地面へではない。ひとつ下の岩棚へ。さらにその下の手すりへ。羽を少しひらいて勢いを殺し、最後は足から着地する。


 日鴉族は飛べない。


 高いところから風を使って遠くへ滑ることはできる。

 だが、平地から好き勝手に空へ上がれるわけじゃない。


 だから高みは大事だ。

 そして、高みへ戻る足も同じくらい大事だった。


 通路へ降りると、小さな畑から顔を上げた老婆がフレイヤを見た。


「見張り明けかい」

「いや、いつも通り見てただけだよ」

「その“いつも通り”が仕事だろうに」

「畑仕事のほうがよっぽど立派さ」


 老婆は鼻を鳴らした。


「立派で腹は膨れんよ。こっちは豆が鹿に食われたんだ」

「じゃあ今夜、若いの一組回すよ」

「最初からそう言いな」


「人使い荒いねえ」

 そんなやりとりをしながら、フレイヤは通路を歩く。


 途中、羽根用の油を温めていた娘が会釈した。

 水桶を担いだ少年が、少し背筋を伸ばして横を通り過ぎた。

 朝帰りの猟師たちは獲物を捌く場所へ向かい、通りの隅では子どもが木片に炭で何かを書いていた。


 穏やかな朝だった。


 穏やかであればあるほど、あとで壊れたときの音は大きい。

 そんなことを、まだこのときのフレイヤは考えていない。


 考えていたのは、せいぜい今日の風の向きと、夜の見回りを誰に回すかくらいのものだった。


「頭」


 不意に、低い声がした。

 振り向くと、通路の影にニクスが立っていた。


 相変わらず、近づくまで気配が薄い。灰色の羽は朝の岩肌に溶ける。目だけがやけに静かだ。


「なんだい。朝の顔してないね」

「北の鐘」


 ニクスは短く言った。


「一拍、遅れた」


 フレイヤの足が止まる。


 それだけでは異常とまでは言えない。風向きで音は遅れる。距離でも変わる。

山では一拍の遅れは珍しくない。


 だが、ニクスがわざわざ言いに来る時は、その一拍に匂いがついている。


「何を見た」

「煙」

「どこ」

「北西寄り。細い。焚き火じゃない」


 北西。


 あの山口だ。


 幅がある。平地の兵でも押し込める。だから見張りを厚く置いている。

集落は少ない。見張り所ばかり多い、喉みたいな場所。


 フレイヤは黙った。


 谷から吹き上げる風が、さっきより少しだけ匂いを変えていた。湿った土と獣の血に混じって、何か別の焦げがある。木を焼いた匂いだ。小さい。遠い。だが、確かにある。


「何人か連れて見に行くかい」


 フレイヤが言うと、ニクスは首を振った。


「もう見に行ってる、三班」

「勝手だね」


「止める時間がなかった」

「そりゃそうだ」


 フレイヤは通路の手すりへ手を置いた。


 朝日がようやく山の肩にかかる。光が差し込む。その明るさの中で、北の空の端にごく細い煙が見えた。


 焚き火の煙じゃない。

 あんな色にはならない。


「バルトは」


「南の見回り。もう戻る」


「ルダ」


「起きてる」


「ゴルム」


「水場の橋を見てる」


「カイラ」


「寝てない」


 フレイヤは口の端だけで笑った。


「いつも通りだね」

「そうか」

「そう見えるかい?」


 ニクスは答えなかった。


 代わりに、北のほうを見たままだった。

 その沈黙で十分だった。


 フレイヤはゆっくり息を吸う。

 山の匂いは、やっぱり少し変わっている。


 次の瞬間、遠くで鐘が鳴った。


 かん。


 一打。


 間。


 もう一打。


 それだけで、集落の空気が変わった。


 畑の老婆が手を止める。

 獲物を担いだ猟師が顔を上げる。

 子どもが走るのをやめる。

 通路のあちこちで、日鴉族の顔が北へ向いた。


 北の鐘だ。


 ふつうの合図じゃない。

 短い。急いでいる。

 そして、三打目が来ない。


 フレイヤはそこで完全に頭を切り替えた。


「鐘を鳴らせ」


 低く言う。


 ニクスはもう動いている。


「狼煙もだ。他の山の鴉たちに、逃げろと伝えろ」


 ニクスが一瞬だけ振り返る。


「奴ら、山を覆う規模だ。どこに逃げる」


 フレイヤは北の空を見たまま、答えた。


「帝国側へ、だ」


 それを口にした瞬間、言葉が現実になった。


 畑ではなく避難だ。

 見張りではなく警鐘だ。

 軽口ではなく命令だ。


 フレイヤは通路の中央へ踏み出した。


「動け、鴉ども!」


 声が崖の内側で跳ね返る。


「北が噛まれた!

 荷をまとめろ!

 子どもを呼べ!

 飛べないやつから下へ回せ!

 見張りは持ち場につけ!」


 猟師たちの顔から、朝の空気が消える。


 老婆が畑を捨てて家へ走る。

 子どもの母親が名前を叫ぶ。

 誰かが梯子を外す。

 誰かが水桶をひっくり返す。

 木組みの通路が、一気に避難の音で満ちていく。


 そして、集落の中央を見上げるようにして立つ木組みの鐘楼で、最初の警鐘が鳴った。


 かん。


 高く、乾いた音だった。

 山から山へ飛ぶための、命の音だ。


 フレイヤはその音を聞きながら、最後にもう一度だけ、さっきまで座っていた高い枝を見た。

 ついさっきまで、そこは朝の風を読む場所だった。


 今はもう違う。

 庭の匂いが、ほんの少しだけ戦場の匂いに変わった。

 北の空で、細い煙がまた一本、増えた。

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