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花丸

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/15

第一章 先生


 四月の、冷気を含んだ風が、私の頬を撫でる。春になったとはいえ、外の風はまだまだ冷たく、容赦なく私の肌に触れては流れていく。


 私──宮野歩夢は、左手側に大きくカーブした登り坂の遊歩道を、自転車を押して歩いていた。赤い自転車のハンドルを握る手は、少し汗ばんでいる。焦る気持ちが、手のひらに滲み出ているのだ。


 今年から中学三年生。


 クラスメイトたちは志望校の話題で持ちきりで、休み時間になると進路希望調査の紙を見せ合っている。だが、私には受験勉強よりも大事なことがあった。


 ──荒川学習塾。


 小学校一年生の頃から通っているそこに、私は今も毎日、放課後に通っている。母が「あんたには学力をつけてほしいの」と言って、私を連れて行ったのが最初だった。当時の私は、塾なんて行きたくないと駄々をこねた。友達と遊びたかったから。


 でも、そこで先生に出会った。


 だから部活には入っていない。部活に入ると、塾に行く時間が削られてしまうから。


 学校が終わると、急いで自転車置き場に行き、目立つ真っ赤な自転車の鍵を開けて飛び乗る。一分一秒も無駄にはできない。先生といられる時間を、少しでも長くしたいから。


 荒川学習塾は、一般的な塾とは違う。独自のプリントを作り、学校の勉強のスピードとは関係なく内容が進んでいく。授業はない。生徒一人ひとりが自分のペースで学ぶのだ。プリントが配られ、それを解き、分からないところは先生に尋ね、プリントを解き終えたら先生のところに持っていく。先生がチェックして、次のプリントをくれる。


 私は国語と数学と英語を取っていた。


 中学入学と同時に辞めていく人が多い中、私だけは辞めなかった。いや、辞められなかった。


 先生に会いたかったから。


 先生がいくつなのかは知らない。歳の話なんて、したことがないから。


 少なくとも私が子どもの頃からすでに先生をやっていた。あの頃、二十代前半だったとしても、今は三十歳はゆうに越えているだろう。結婚していてもおかしくない年齢だ。でも、左手の薬指には指輪がない。それを確認するたびに、私は安堵する。


 先生は私のプリントに丁寧に赤丸をつける。間違っていたら、赤く綺麗な文字で訂正を入れる。その文字が、本当に美しい。


 普段は長めの黒髪で隠れた顔に眼鏡をかけている。プリントをチェックする時、前髪を手で押さえる先生の、僅かに覗く目を見る。大きくて黒く、澄んだ瞳。まるで深い森の奥にある、静かな湖のような目だ。


 先生の文字が好きだ。


 先生の美麗な文字の一つひとつが好きだ。その一画一画に、先生の丁寧さと優しさが込められている気がする。


 先生の目が好きだ。


 大きくて黒く、澄んだ瞳。


 ──先生が好きだ。


 この気持ちが恋なのかどうか、私には分からない。でも、先生のことを考えると胸が温かくなって、先生に会えない日は世界が灰色に見える。それが何なのかは知らないけれど、この気持ちは確かに存在する。






「先生、できました」


 その日のプリントが終わったら先生のところに持っていく。これが私の至福の時間だ。


 先生は決して多弁ではないが、無口というわけではない。必要なことは話してくれるし、時には冗談も言う。そのバランスが、私は好きだった。


「どれどれ……」


 先生は左手の中指で眼鏡を掛け直し、私のプリントを見る。


 その仕草、その大きい手、その長い指が好きだ。その左手の薬指に指輪が嵌っていないことに毎回、安堵する自分がいる。こんな風に思うのは不謹慎だと分かっているけれど、やめられない。


「さすが、宮野さんですね。全問正解です」


 先生が私のプリントに赤くて大きな花丸を描く。その形が綺麗で好きだ。丸の曲線が滑らかで、まるで絵画のようだ。先生の花丸は、他の先生の花丸とは違う。もっと丁寧で、もっと心がこもっている気がする。


 一分一秒も、先生といられる時間を無駄にしたくはない。


 だから私のプリントを解くスピードはどんどん早くなっていった。早く解けば、早く先生に会いに行ける。早く先生の声が聞ける。早く先生の花丸がもらえる。


 たまに、難しい問題で間違えることがあった。


 そんな日は、花丸じゃなくて、小さな丸だけ。


 先生に花丸をもらえない日は、私は少しだけ、存在が薄くなる気がした。


 まるで、先生の視界から消えてしまうような。


 だから次の日は、もっと必死に勉強した。


 塾の勉強は、学校の授業よりも先に進んでいる。学校の授業は退屈なほど理解できた。先生が教えてくれた内容を、学校の先生が後から説明している感じだ。


 でも、それは先生のおかげだ。先生がいなければ、私はここまで勉強できなかっただろう。





 ある日、いつものようにプリントを持っていくと、先生の机の前に他の生徒が並んでいた。


 私は後ろで待つ。


 前の生徒──確か、小学五年生の男の子──のプリントを見て、先生が赤ペンを走らせる。


「よくできました」


 そして、私と同じような花丸を描いた。


 ──同じ、花丸。


 胸が、ざわついた。


 先生が他の子に花丸を描くたび、胸の奥がきしんだ。


 その丸が、私のものじゃなくなる気がした。


 当たり前だ。先生は、私だけの先生じゃない。他の生徒にも、同じように接している。それは分かっている。頭では、分かっている。


 でも。


「次、宮野さん」


 先生が私を呼ぶ。


 いつもの優しい声。いつもの穏やかな表情。

 私は笑顔を作って、プリントを差し出した。





第二章 優先


「歩夢ちゃん、すごいね」


 実日子が声をかけてくる。


 中学でできた、唯一の友達。


 相原実日子は、少し鈍臭い。天然というか、動作がゆっくりしている。


 移動教室の時、もたもたしてなかなか持ち物の準備ができない彼女に、手を貸した。とても見ていられなかった。周りの生徒たちが冷ややかな目で実日子を見ているのが耐えられなくて、思わず手伝ってしまった。


 実日子とはそれから仲良くなった。


「ねえ、どうやったら勉強ができるようになるの?」


 朝日の差す教室で、実日子が聞いてきた。窓の外では桜の花びらが舞っている。春の始まりだ。


 実日子は勉強もできない。


 毎回、赤点スレスレの答案用紙を、恥ずかしそうに隠す。テストが返却される日は、いつも憂鬱そうな顔をしている。


「塾とか行ってるの?」


 荒川学習塾のことは誰にも教えたくなかった。あそこは私と先生だけの秘密の場所。誰にも知られたくない、大切な場所。


「いや、自分で教科書読んだりとか、かな」


 嘘をついた。実日子の顔が、少し曇る。


「……そうなんだ。やっぱり歩夢ちゃんはすごいなあ。私なんて教科書に何が書いてあるか、ぜんぜん理解できないもん」


 実日子ならそうだろうな、と思ってしまう自分がいた。


 友達をそんな風に思ってしまう自分が嫌いだった。


 私は実日子を、無意識に見下していた。でも、それは実日子が悪いわけじゃない。私が歪んでいるだけだ。


「……授業、ぜんぜんついていけてないんだ」


 ぽつり、と実日子が言った。その声は小さくて、消え入りそうだった。


「先生が何を言ってるのか、ぜんぜん分からなくて。教科書に何が書いてあるのかもぜんぜん分からない。私、どうしたらいいのかな……」


 知るかよ、と思った。


 きっと彼女にとっては切実な悩みだったのに、私は突き放してしまった。今思えば、最低だった。


「一年生の時の教科書から読み返してみれば?」


 冷たい言い方だった。実日子の顔が、さらに曇る。


「うん……。そうする……」


 実日子が肩を落として席に着く。


 授業が始まる。


 この世で一番、退屈な授業が。私にとって学校の授業は、先生に会うまでの時間を潰すためのものでしかなかった。






 放課後。


 私は実日子に「また明日ね」と告げて、荒川学習塾へ急ぐ。


 だが、今日だけは違った。


「歩夢ちゃん、待って!一緒に帰ろ!」


 どうやら実日子の入っているバドミントン部が今日は休みらしい。


 塾に通っていることは知られたくない。あの場所を、誰にも知られたくない。


「……ごめん。一人で帰りたいから」


 私はそう言って早足で廊下を駆け抜ける。


 後ろで悲しそうに立ち尽くす実日子が見えたが、気にしないことにした。


 私にとって大事なのは、実日子じゃない。先生だ。


 先生に一秒でも早く会いたい。それだけが私の願いだった。





 ある日、塾でプリントを解いていると、先生の厳しい声が聞こえた。


「何度同じ間違いをするんですか。ちゃんと見直しをしましたか?」


 振り向くと、中学生の男子生徒が先生に叱られていた。


 先生の表情は、いつもの穏やかさとは違う。眉間にしわが寄り、目が鋭い。


 ──先生の、そんな顔。

 初めて見た。


 その表情を見て、私は怖くなった。


 もし、私が先生を失望させたら。もし、私が先生にそんな顔をされたら。


 その日から、私はさらに必死にプリントを解くようになった。間違えることが、怖くなった。




第三章 絶望


「こんにちは〜!」


 今日も挨拶をして、学習塾の引き戸を開ける。いつもの光景が広がっているはずだった。


 ──先生は、いなかった。


 代わりに、先生と同じくらいの年頃の女性が、いつもの先生の場所に座っていた。見知らぬ顔。


 心臓が止まりそうになった。


「あの、荒川先生は……?」


 震える声で尋ねた。


「荒川先生はお辞めになりました」


 その女性が、あっさりと言った。まるで何でもないことのように。


「……え」


 私は呆然と立ち尽くした。足が動かない。息ができない。


「何か、あったんですか?」


「……さあ?私は一身上の都合としか聞かされていませんから」


 女性は言って、


「初めまして。今日からここで先生をやらせていただく、甲斐と申します。よろしくお願いしますね」


 私はもう、何も耳に入っていなかった。


 世界が、音を失った。






 その日のことは、それからほとんど何も覚えていない。


 ショックで呆然と立ち尽くした後、たぶんそのまま家に帰ったのだと思う。自転車のペダルを漕いだ記憶も、家に着いた記憶も、何もかもが曖昧だ。


 家に帰った後、自室に籠り、クッションに顔を埋めて声を殺して泣いた。声を出したら、母に気づかれてしまうから。


 泣き疲れて、机の引き出しからファイルを取り出す。


 先生が添削してくれたプリントの束。


 一枚一枚、めくっていく。

 赤い花丸。美しい文字。


 ──もう、これ以上、増えることはない。


 私は一枚のプリントを手に取った。


 破ろう、と思った。

 破ってしまえば、楽になるかもしれない。

 手に力を込める。プリントが少し、しわになる。


 ──でも、できなかった。


 手が、震えて、動かない。

 これを破ったら、先生との繋がりが、本当に消えてしまう気がした。


 プリントをそっとファイルに戻した。


 もう先生に会えない。

 たぶん二度と会えない。


 塾だけが、先生との唯一の繋がりだった。


 あの場所だけが、私のオアシスだった。砂漠の中の、唯一の水場だった。


 つらいことがあっても、先生に会うと嫌なことなんて何もかも忘れられた。


 先生で胸がいっぱいになって、それ以外のことなんてもうどうでも良くなった。


 先生は、どうして辞めてしまったんだろう。

 一身上の都合、ってなんだろう。


 ──一身上の都合。


 ネットで検索したけれど、『主に退職や転職の際に、自分自身の個人的な事情を指す言葉です。具体的な理由を会社に詳しく伝えたくない、あるいは伝える必要がない場合に、その詳細を伏せて「私的な事情により」と伝えるためのビジネス上の決まり文句です』と書かれていて、具体的な理由は分からなかった。


 何も、分からない。



 先生の連絡先も知らない。本名さえ知らない。「荒川先生」としか呼んだことがなかった。


 私は、先生のことを何も知らなかった。

 なのに、先生なしでは生きられないと思っていた。


 甲斐先生は言った。「続けて通ってくださいね」と。


 でも、それはできなかった。


 先生がいない塾で勉強することは、裏切りみたいだった。


 先生以外の誰かに、プリントを見てもらうなんて。


 それは、先生との思い出を汚すような気がした。


 ──塾は辞めた。




第四章 最低


「最近、元気ないね、歩夢ちゃん」


 実日子が言った。


「何かあった?」


 実日子には知られたくなかった。この気持ちを、誰にも知られたくなかった。


「──何も」


「何か話したいことがあったら言って。なんでも聞くから。聞くことしかできないけど……」


 実日子が心配そうに言う。その優しさが、逆に辛かった。


「何もないって言ってるじゃん!」


 思わず語気が強くなってしまった。実日子が驚いて、少し後ずさる。


「……ごめん。そうだよね、話したくないことも、あるよね。ごめん……」


 泣きそうな顔で、実日子は自席に戻って行った。


 ──最低だ。


 実日子に当たって、私は、最低だ。


 実は子どもの頃から塾に通っていて、そこの先生のことが好きだったけれど、先生が突然、辞めてしまったんだなんて、言えない。言いたくない。言ったら、この気持ちが安っぽいものになってしまう気がする。


 でも、それは言い訳だ。


 本当は、自分が傷つくのが怖いだけだ。実日子に話したら、慰められるかもしれない。でも、それで何が変わる?先生が戻ってくるわけじゃない。




第五章 孤独


 それから三ヶ月が過ぎた。

 先生と会えなくなって、三ヶ月が。


 実日子ともだんだん疎遠になった。

 実日子は私に話しかけてこなくなった。

 私も話しかけない。


 孤独だ、と思った。


 先生のいない世界で、私は生きる意味を見失っていた。






 半年が経ち、私は部屋に閉じこもるようになった。


 学校も休みがちになった。行く意味が見つからなかった。


 部屋のカーテンを閉めたまま、時計の音だけがやけに大きく聞こえた。


「歩夢!今日も学校休むつもり!?」


「あんた、受験勉強は!?ちゃんとやってるの?」


 母の金切り声が毎日のように響く。

 頭が痛い。


 勉強に対する情熱なんてもうなかった。

 先生に見てもらえない勉強なんて。


 先生に添削してもらったプリントを大切に保管しているファイルを開く。


 それを見る度に涙が溢れた。


 先生の美麗な文字。

 綺麗な曲線で描かれた花丸。


 『さすが宮野さんですね』


 先生の声。

 忘れられるわけがない。

 忘れたくない。


 でも、忘れなければ、前に進めない気がする。





 ある日の夕方、気づいたら塾の前に立っていた。


 なぜここに来たのか、自分でも分からない。

 引き戸の向こうに、明かりが見える。


 生徒たちの声が、聞こえる。


 ──でも、あの声じゃない。


 手を伸ばしかけて、やめた。

 中に入ったところで、先生はいない。

 知らない先生が、私を待っている。


 それが、耐えられなかった。


 私は踵を返して、自転車に乗った。

 真っ赤な自転車。先生に会うために、必死にペダルを漕いだ自転車。


 もう、ここに来ることはない。

 そう思いながら、塾を後にした。




第六章 手紙


 十月のある日、郵便受けに一通の手紙が届いた。


 差出人の欄には、見慣れた文字。


 ──荒川。


 心臓が激しく鳴った。手が震える。封筒を持つ手に力が入らない。


 先生は、私を置いていった。

 それでも私は、置いていかれたことすら、先生のせいにしたくなかった。


 部屋に駆け戻り、ドアを閉めて鍵をかけた。母に見られたくなかった。


 震える手で封を開ける。


 中には、便箋が一枚。あの美しい文字で、手紙が書かれていた。



『宮野歩夢さんへ


 突然の手紙で驚かれたかもしれません。荒川です。


 私が塾を辞めたこと、説明もなく申し訳ありませんでした。


 実は、父が病気になり、実家に戻ることになりました。父の介護をしながら、地元で新しい仕事を探しています。


 宮野さんはとても優秀な生徒でした。小学一年生の頃から、ずっと見てきました。最初はおっかなびっくりだった宮野さんが、だんだんと自信をつけて、難しい問題にも挑戦するようになって。その成長を見られたことは、私の誇りです。


 小学三年生のとき、算数の文章題で泣いていた宮野さんを、私は今も覚えています。


 宮野さんなら、どんな道に進んでも大丈夫だと思います。自分を信じて、前に進んでください。


 最後に一つだけ。


 宮野さんが塾を辞めたと聞きました。もし、勉強することが嫌になってしまったのなら、それは私の責任です。でも、もし可能なら、もう一度、勉強の楽しさを思い出してほしいのです。


 勉強は、誰かのためにするものではありません。自分のためにするものです。知識は、誰にも奪えない、あなただけの宝物です。


 宮野さんの未来が、明るいものでありますように。


荒川より』



 涙が溢れて、文字が滲んだ。

 先生は、私のことを覚えていてくれた。


 私が塾を辞めたことまで、知っていてくれた。

 そして、心配してくれていた。


 ──でも。


 ふと、手が止まった。

 これは、社交辞令じゃないのか。


 優秀な生徒が塾を辞めた。それを聞いて、元教師として形式的に手紙を書いただけじゃないのか。


 『宮野さんはとても優秀な生徒でした』


 他の生徒にも、同じことを言っているんじゃないのか。


 あの花丸も、私だけに描いていたわけじゃない。みんなに、同じように描いていた。


 私は、勝手に特別だと思い込んでいただけだ。


 先生にとって私は、数多くいる生徒の一人でしかない。


 手紙を握りしめた。


 ──でも、それでいいのかもしれない。


 もう一度、手紙を広げる。


 『勉強は、誰かのためにするものではありません。自分のためにするものです』


 この言葉が、社交辞令だったとしても。


 この言葉が、私の心に届いたことは、本当だ。


 先生が私のことを特別に思っていたかどうかなんて、もう、どうでもいい。

 どうでもいいはずなのに、それでも「特別だった」と言ってほしい自分がいる。


 大切なのは、先生が私に何を教えてくれたか。


 私が、先生から何を学んだか。

 それだけだ。


 手紙を何度も何度も読み返した。


 私は、先生に褒められたくて、先生に会いたくて、勉強していた。


 だから、先生がいなくなったら、勉強する意味を失ってしまった。


 でも、それは違う。

 先生は、そう言っている。



第七章 春


 次の日、私は学校に行った。


 久しぶりの教室は、いつもと変わらない景色だった。でも、私の中で何かが変わっていた。


 実日子が、驚いた顔でこちらを見ている。


 私は実日子の席に歩いて行った。


「実日子」


「……歩夢ちゃん」


 実日子の目が、不安そうに揺れる。


「ごめん。今まで、ひどいことばっかり言って」


 実日子の目が、大きく見開かれる。


「私、実は塾に通ってたんだ。小学生の頃から。そこの先生のことが、好きだった」


 実日子は黙って聞いている。


「でも、その先生が突然、辞めちゃって。それで、私、何もかもどうでもよくなっちゃったんだ。実日子に当たったのも、全部、そのせいで……」


「歩夢ちゃん……」


「本当に、ごめん」


 実日子は、しばらく黙っていた。

 そして、小さく息を吐いて、言った。


「……うん。正直、ちょっと傷ついたよ」


 その言葉に、胸が痛んだ。


「歩夢ちゃんが急に冷たくなって、何が悪かったのかずっと考えてた。私、何かしちゃったのかなって。それで、自分を責めてた」


「実日子……」


「でもね」


 実日子が顔を上げる。その目には、涙が滲んでいた。


「話してくれて、ありがとう。歩夢ちゃんにも、いろいろあったんだね」


 実日子が、そっと私の手を握った。


「これからは、何かあったら話してね。私、力になれるか分からないけど、聞くことはできるから」


 涙が溢れそうになるのを、必死にこらえた。


「……ありがとう、実日子」


「でもね、歩夢ちゃん」


「うん?」


「もしよかったら、また勉強、教えてくれない? 私、やっぱり全然分からなくて……」


 実日子が恥ずかしそうに笑う。

 その顔を見て、私も笑った。


「いいよ。一緒に勉強しよう」


 実日子が嬉しそうに頷く。


 窓の外では、桜の蕾が膨らみ始めていた。

 もうすぐ、春が来る。




エピローグ


 三月。高校の合格発表の日。


 私の受験番号は、確かにそこにあった。


 実日子も、無事に合格していた。違う高校だけれど、実日子は実日子なりに頑張ったのだ。


 家に帰って、机の引き出しから先生のプリントのファイルを取り出した。


 花丸が、綺麗に並んでいる。


 『さすが宮野さんですね』


 先生の声が、今も耳に残っている。

 先生に会いたい気持ちは、まだ消えていない。


 きっと、ずっと消えないだろう。

 でも、それでいい。


 ファイルをそっと閉じて、本棚にしまう。


 机の上には、新しいノートが置いてある。高校の予習用に買ったものだ。


 真っ白な表紙を開く。

 まだ何も書かれていない、最初のページ。


 数学の問題を一問、解いてみる。

 答えを確認して、正解だった。


 赤ペンを手に取り、自分の答えに丸をつける。


 ──私の丸は、先生の花丸ほど綺麗じゃない。


 少しいびつで、線も震えている。


 でも、これは私の丸だ。

 自分で丸をつけた。

 でも、心のどこかで、先生の花丸と比べている私がいた。


 スマートフォンが鳴った。実日子からのメッセージだ。


 『明日、一緒に数学の問題集やらない?歩夢ちゃんに教えてほしいの!』


 私は笑って、返信する。


 『いいよ。一緒に解こう』


 窓の外では、満開の桜が風に揺れている。


 春が来た。

 それでも、先生の花丸は、今も少しだけ眩しい。



──完──

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