夢の轍
◇◇◇
かあ、かあと。
窓の向こうで烏が鳴いていた。高橋洋平は妻の絵里奈がベビーベッドに向かって何かを呟くのを横目で見ながら、ネクタイを締めた。生後三週間の娘はまだ名前の響きにすら反応を示さない。あかりという名は絵里奈が出産前から決めていたものだった。
朝の光が差し込む部屋は穏やかに見えるが空気には目に見えない緊張が張り詰めている。絵里奈の背中が小さく強張っているのを、洋平は知っていた。
「今日は何時に帰れそう」
絵里奈の声には抑揚がない。質問というより確認、あるいは責めの予兆のようなものが滲んでいる。
「八時には」
「昨日も同じこと言ってた」
洋平の指がネクタイの結び目で止まった。昨日は十時を過ぎていた。部長からの急な呼び出しがあり、どうにもならなかったのだがそんな言い訳が通用しないことは分かっている。絵里奈は洋平の顔を見ようともせず、あかりの頬を指先で撫でていた。その横顔に浮かぶ疲労の色は出産前の彼女からは想像もつかないものだった。
会社へ向かう電車の中で、洋平はつり革を握りながら窓の外を見つめていた。流れていく景色は毎日同じはずなのに、どこか見知らぬ土地を通過しているような感覚がある。
結婚して四年。子供が欲しいと言い出したのは絵里奈の方だった。洋平に異論はなく、二人で検査を受け、タイミングを計り、やがて絵里奈の腹は膨らんでいった。妊娠中、絵里奈は穏やかだった。つわりの時期を除けば、むしろ以前より柔らかい表情を見せることが多くなっていた。洋平はそれを幸福の証だと思っていた。
だが出産を境に、何かが変わった。
退院して家に戻った日から、絵里奈の目には見えない棘が宿るようになった。洋平が娘を抱こうとすると「支え方が違う」と言われる。おむつを替えようとすれば、「そのやり方じゃ漏れる」と遮られた。最初は指導だと思っていたそれが次第に非難へと変質していくのを、洋平は肌で感じ取っていた。
会社での洋平は誰から見ても有能な社員だった。入社七年目、営業部の中堅として数字を残し、後輩の面倒も見る。上司からの信頼も厚く、来年には係長への昇進も噂されている。けれど家に帰れば、その有能さは何の役にも立たない。営業トークで培った傾聴の姿勢も、絵里奈の前では空虚な仕草でしかなくなる。
昼休み、洋平は社員食堂の隅で弁当を広げた。絵里奈が作ったものではない。スーパーで買った惣菜を詰めただけの彩りのない弁当だ。絵里奈にはもう弁当を作る余裕がない。それは分かっている。分かっているはずなのに、どこかで期待してしまう自分がいた。卵焼きの甘い香りを、鮭の塩味を、絵里奈が選んだ副菜の彩りを。
「高橋さん、ちょっといいですか」
同僚の声で顔を上げると部長が呼んでいるという。弁当を半分残したまま席を立つ。午後の会議で使う資料に修正が必要だった。
帰宅は九時を回っていた。玄関を開けるとリビングから泣き声が聞こえてくる。あかりの泣き方には空腹の時と不快な時とそれ以外の理由のない時があることを、洋平は最近になって知った。今聞こえてくるのは理由のない泣き声だった。
リビングに入ると絵里奈がソファに座ったまま虚ろな目で天井を見上げていた。あかりはベビーベッドの中で、顔を真っ赤にして泣いている。
「大丈夫か」
絵里奈は答えない。洋平はあかりを抱き上げようとして、ふと手を止めた。また叱られるのではないか。そんな考えが頭をよぎる。だが泣き続ける娘を放っておくわけにもいかず、恐る恐る両手を差し入れた。
「首、支えて」
絵里奈の声が飛んでくる。分かっている、と心の中で呟きながら、洋平は娘の首を支えた。小さな体は驚くほど軽く、そして熱い。抱き上げた瞬間、泣き声が少し収まった。
「ずっと泣いてたの」
絵里奈の声には疲労だけでなく、どこか責めるような響きがあった。洋平がもっと早く帰ってくれば、という言葉が続くのを、洋平は待った。だが絵里奈は何も言わず、ゆっくりと立ち上がってキッチンへ向かう。
「ご飯、食べた?」
「まだ」
「そう」
それだけ言って、絵里奈は冷蔵庫を開けた。何かを用意してくれるのかと思ったが彼女が取り出したのは自分用のペットボトルの水だけだった。
週末になっても、洋平に休息はなかった。
土曜の朝、絵里奈に頼まれて近所のドラッグストアへおむつを買いに行く。銘柄を間違えないよう、写真を撮って確認してから出かけた。だが店に着くとその銘柄だけが品切れになっていた。
仕方なく電話をかける。絵里奈の声は冷たかった。
「じゃあ他の店行って」
「他って、どこに」
「自分で調べてよ」
通話は切れた。洋平はスマートフォンで近隣のドラッグストアを検索し、三軒目でようやく目当てのおむつを見つけることができた。家に帰ると一時間が経過していて、絵里奈は不機嫌そうにおむつの袋を受け取った。礼の言葉はない。
日曜日、洋平は絵里奈を休ませようとあかりの世話を一人で引き受けようとした。ミルクを作り、おむつを替え、泣いたら抱っこして部屋の中を歩き回る。絵里奈は寝室で横になっていたが二時間もしないうちに起き出してきた。
「私じゃないと寝ないから」
その言葉が正しいのかどうか、洋平には判断がつかない。確かにあかりは絵里奈に抱かれるとすぐに目を閉じる。だが洋平に抱かれていても、いずれは眠るはずだった。けれどそれを言葉にすることは絵里奈への反論になってしまう。反論すれば、また何かが壊れる。洋平は黙ってあかりを差し出した。
一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎた。
洋平は少しずつ、娘の扱いに慣れていった。首の座らない体の支え方、ミルクの適温、おむつ替えの手順。最初は一つ一つ絵里奈に確認を求めていたものを、今では一人でこなせるようになっている。
絵里奈の態度にも、微かな変化が見られた。以前のような棘のある言い方が減り、洋平がおむつを替えている横で黙って見ていることが増えた。それは信頼の証なのか、ただの疲労なのか、洋平には分からない。だが少なくとも、叱責の回数は確実に減っていた。
ある夜、洋平があかりを寝かしつけていると絵里奈がそっと寝室を覗いた。あかりは洋平の腕の中で、規則正しい寝息を立てている。
「上手になったね」
小さな声だった。洋平は振り向かず、ただ頷いた。娘の寝顔を見つめながら、胸の奥に温かいものが広がるのを感じる。これでいいのだと思った。このまま三人で、ゆっくりと暮らしていければいいのだと。
だが現実はそう甘くはなかった。
春が近づくにつれ、会社の空気が変わり始めていた。年度末の追い込み、新規案件の立ち上げ、人事異動に伴う引き継ぎ。洋平の仕事量は目に見えて増えていき、帰宅時間は十時を過ぎることが当たり前になった。
ある夜、終電で帰宅した洋平を、リビングの明かりが出迎えた。絵里奈がソファに座って待っている。テレビは消えていて、部屋には沈黙だけが満ちていた。
「遅かったね」
「すまん、仕事が」
「いつも仕事、仕事」
絵里奈の目が細くなる。その視線に宿る冷たさを、洋平は久しぶりに見た。
「好きでやってるわけじゃない」
「じゃあ断ればいいじゃない」
「そういう問題じゃ」
「あなたはいいよね、外で働いてれば」
言葉が遮られた。絵里奈の声は静かだがその静けさの中に刃物のような鋭さがある。
「私は毎日、この家に閉じ込められてる。あかりが泣けば私。おむつも私。夜中に何度も起こされるのも私。あなたは何もしないで、ただ寝てるだけ」
「俺だって、できる時はやってる」
「できる時って、いつ。週末に少し手伝うだけで、父親やってるつもり?」
洋平の喉が詰まった。言いたいことはあった。自分だって疲れている、仕事を怠けているわけではない、家族のために働いているのだと。だがそれを口にすれば、絵里奈はさらに怒るだろう。何を言っても、結局は言い訳にしかならない。
「……すまん」
洋平は俯いた。謝ることしかできなかった。
翌朝、洋平は眠れないまま出社した。電車の中で、昨夜の絵里奈の言葉が繰り返し頭の中を巡る。「あなたは何もしないで」「ただ寝てるだけ」。本当にそうなのだろうか。
確かに、仕事が忙しくなってからは育児に割く時間が減っている。だが洋平とて、好き好んで残業しているわけではない。会社での評価が家庭の経済を支えているのだ。それなのに、どうして責められなければならないのか。
昼休み、洋平は一人で外に出た。公園のベンチに座り、缶コーヒーを飲む。三月の風はまだ冷たく、首筋を撫でていく。
──あの女、早く死んでくれないかな。
そんな言葉が不意に頭をよぎった。洋平は缶コーヒーを落としそうになり、慌てて両手で握り直す。心臓が早鐘のように打っていた。
今、自分は何を考えた。妻に死んでほしいと本気で思ったのか。
違う。そんなはずはない。ただの疲労だ。睡眠不足で頭がおかしくなっているだけだ。洋平は自分に言い聞かせながら、震える手で缶コーヒーを口に運んだ。だが喉を通る液体はやけに苦く感じられる。
それから数日、洋平は絵里奈と必要以上の会話を避けるようになった。帰宅しても挨拶だけして寝室に向かい、朝は絵里奈が起きる前に家を出る。あかりの世話も、絵里奈がいない時だけこっそりとやるようになっていた。
だが避けていても、夜になれば同じ家で眠らなければならない。絵里奈の寝息を聞きながら、洋平は暗い天井を見つめていた。
──早く死んでくれ。
また、あの言葉が浮かんでくる。今度は振り払おうとしても消えなかった。むしろ、何度も何度も繰り返される。
早く。
死んで。
くれ。
洋平は布団を被り、目を閉じた。自分が怖かった。こんなことを考える自分が人間としてどこか壊れてしまっているような気がした。だが怖れても、心は変わらない。絵里奈の存在が日に日に重荷になっていく。
眠れないまま朝を迎え、鏡を見るとそこには疲れ切った男の顔があった。目の下には濃い隈が浮かび、頬は少しこけている。このままではいけないとどこかで分かっていた。だが何をどうすればいいのか、洋平には分からなかった。
転機が訪れたのは三月の終わりだった。
部長に呼ばれ、新規プロジェクトの責任者を任されることになった。昇進への布石だと言われたが洋平の胸に喜びはなかった。責任者ということは今以上に仕事が増えるということだ。帰宅時間はさらに遅くなり、休日出勤も避けられないだろう。
その夜、洋平は絵里奈に新しいプロジェクトのことを伝えた。絵里奈の表情が強張るのを、洋平は見逃さなかった。
「また、忙しくなるってこと」
「しばらくは」
「しばらくって、いつまで」
「分からない。半年か、一年か」
絵里奈は黙った。その沈黙の中に、爆発寸前の何かが渦巻いているのを、洋平は感じ取っていた。
「……そう」
それだけ言って、絵里奈は背を向けた。洋平は何か言葉をかけるべきだったのかもしれない。だが何を言っても無駄だという諦めがすでに心を支配していた。
四月になり、新しいプロジェクトが始動した。洋平の生活は一変する。朝は七時前に家を出て、夜は十一時過ぎに帰宅する。土日もどちらかは必ず出社しなければならない。
絵里奈との関係は日を追うごとに悪化していった。帰宅するとリビングには常に重苦しい空気が漂っている。絵里奈は洋平の顔を見ると露骨にため息をつくようになった。
「今日も遅かったね」
「ああ」
「あかり、今日は三回も吐いたの。病院連れてこうかと思ったけど、一人じゃ無理だから」
「すまん」
「謝ればいいと思ってる?」
「そうじゃない」
「じゃあどうするの。仕事辞めるの。辞められないでしょ」
洋平は答えられなかった。絵里奈の言う通りだった。仕事は辞められない。だが家庭も放棄できない。二つの間で、洋平は引き裂かれていく。
夜、あかりの泣き声で目が覚めた。隣を見ると絵里奈はすでに起き上がっている。時計を見ると午前三時だった。
「俺がやる」
「いいよ、どうせ起きてるから」
「でも」
「いいって言ってるでしょ」
絵里奈の声には苛立ちが滲んでいた。洋平は黙って布団に戻る。目を閉じても、絵里奈があかりをあやす声が聞こえてくる。その声の中に、疲労と怒りとそして諦めのようなものが混じっているのを、洋平は聞き取っていた。
ゴールデンウィーク、洋平は一日も休めなかった。プロジェクトの進捗が思わしくなく、連日会議と資料作成に追われる。家には寝に帰るだけの日々が続いた。
ある夜、帰宅すると絵里奈がキッチンで泣いていた。声を殺して、肩を震わせながら泣いている。洋平が近づくと絵里奈は顔を上げた。目は真っ赤に腫れていて、頬には涙の跡が残っていた。
「どうした」
「……何でもない」
「泣いてるじゃないか」
「うるさい」
絵里奈は洋平を押しのけて、寝室へ向かった。ドアが閉まる音が静かな家に響く。洋平は一人、キッチンに立ち尽くしていた。
何でもない。そう言われても、何でもないはずがない。だが聞いても答えてくれないのなら、どうすることもできなかった。洋平は冷蔵庫を開け、残り物の惣菜を取り出す。味も分からないまま口に運び、噛み、飲み込む。それだけのことがひどく億劫に感じられた。
六月に入り、洋平の体に異変が現れ始めた。
最初は軽い頭痛だった。それが次第に酷くなり、こめかみを締め付けるような痛みが一日中続くようになる。食欲も落ち、昼食を抜くことが増えた。夜中に何度も目が覚め、そのたびに絵里奈の寝息を聞きながら、天井を見つめていた。
ある朝、鏡を見て洋平は息を呑んだ。頬がげっそりとこけ、目の下の隈は黒ずんでいる。三月に見た時よりも、明らかに衰えていた。ワイシャツの襟がやけに緩く感じられる。
体重を測ると入社時から七キロ減っていた。
このままではまずい。そう思いながらも、洋平には休む気力がなかった。仕事を休めば絵里奈に何を言われるか分からないし、かといって仕事を続けても責められる。どちらに転んでも、苦痛が待っている。
ならば。
ふと奇妙な考えが浮かんだ。仕事も育児も、完璧にこなせばいいのではないか。誰にも文句を言わせないほど働き、誰にも文句を言わせないほど家事をする。そうすれば、絵里奈も何も言えなくなるはずだ。
洋平はその考えに取り憑かれていった。
翌日から、洋平の生活は一変した。
朝は五時に起き、あかりのおむつを替え、ミルクを作る。絵里奈が起きる前に朝食を用意し、洗濯機を回す。六時半に家を出て、七時には会社に着く。昼休みは三十分に切り詰め、残りの時間は仕事に充てた。夜は十時に帰宅し、絵里奈が寝かしつけている間に食器を洗い、部屋を片付ける。風呂に入り、二時間だけ眠り、また五時に起きる。
最初の一週間は体が悲鳴を上げていた。頭痛は酷くなり、足元がふらつくことも増えた。だが洋平は止まらなかった。止まってしまえば、全てが崩れる気がした。
絵里奈は最初、洋平の変化に戸惑っていた。
「急にどうしたの」
「別に。やれることをやってるだけ」
「無理しないでよ」
「無理なんかしてない」
嘘だった。無理をしている。体中が軋んでいる。だがそれを認めてしまえば、絵里奈はまた「だから言ったのに」と言うだろう。それだけは聞きたくなかった。
二週間が過ぎ、三週間が過ぎた。洋平の体重はさらに減り、ベルトの穴を二つ詰めなければズボンが落ちるようになった。頬の肉は落ち、鎖骨がくっきりと浮かび上がっている。
七月に入ったある夜、洋平は会社で倒れかけた。椅子から立ち上がった瞬間、視界が暗転し、デスクに手をついてようやく体を支えた。隣の席の同僚が慌てて駆け寄ってくる。
「高橋さん、大丈夫ですか」
「ああ、ちょっと立ちくらみしただけ」
「顔色、すごく悪いですよ。今日はもう帰った方が」
「平気だよ」
洋平は笑って見せたがその笑顔がひきつっているのは自分でも分かっていた。同僚は心配そうな顔をしていたがそれ以上は何も言わなかった。
電車の中で、洋平はつり革を握りながら目を閉じた。体が重い。まるで鉛を詰め込まれたように、四肢が言うことを聞かない。だが不思議と頭の中は澄んでいた。
このまま死ぬのかもしれない。
そう思った瞬間、洋平の唇が微かに緩んだ。死。それは終わりであり、解放でもある。仕事のプレッシャーからも、絵里奈の叱責からも、あかりの泣き声からも、全てから解放される。
ああ、それでいい。
洋平は目を開けた。窓の外には夜の街並みが流れていく。ネオンの光がまるで彼岸の灯火のように見えた。
家に帰ると絵里奈がリビングで待っていた。あかりはすでに寝ている。絵里奈の目が洋平の姿を捉えた瞬間に見開かれた。
「あなた、顔……」
「何」
「鏡、見てきて」
洋平は言われるまま洗面所に向かい、鏡を覗いた。そこには見知らぬ男の顔があった。頬は落ち窪み、目の周りには黒い隈が深く刻まれている。唇は乾いてひび割れ、肌は土気色に変わっていた。
確かに、酷い顔だ。だがそれがどうしたというのか。洋平はリビングに戻り、ソファに座った。
「明日、病院行こう」
絵里奈が近づいてきて、洋平の手を取る。その手は冷たく、小刻みに震えていた。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。ちゃんと休んで。仕事も、しばらく休んで」
「休めないよ」
「私が何とかするから」
洋平は絵里奈の顔を見た。その目には久しく見ていなかった感情が浮かんでいる。心配。あるいは恐怖。洋平に対する、純粋な怯え。
「お前がそうしろって言ったんだろ」
言葉が口をついて出た。洋平自身も驚くほど、冷たい声だった。
「え……」
「仕事ばかりするな、育児もしろって。だからやってる。完璧にやってる。それで何が不満なんだ」
「そういうことじゃ」
「じゃあ何だよ。俺に何を求めてるんだ。何をすればお前は満足するんだ」
声が大きくなっていた。寝室であかりが泣き出す声が聞こえたが洋平は構わなかった。体の奥から、黒い何かが噴き出してくる。今まで押し殺してきたものが堰を切ったように溢れ出す。
「俺はな、お前に死んでほしいと思ってた。毎日、毎日、早く死んでくれって願ってた。そんな自分が怖くて、だから頑張ってたんだ。お前に文句を言わせないように、完璧にやろうとしてた。でもな、もう分かったよ。何をやっても無駄なんだ。だったら、俺が死んだ方が早い」
絵里奈の顔が青ざめていく。唇が震え、目には涙が溜まっていた。だが洋平の心はもう何も感じなかった。空っぽだった。何年も一緒に暮らしてきた女が目の前で泣いているのに、何の感慨も湧いてこない。
「洋平……」
「止めるな。俺はもう決めたんだ。このまま働き続けて、死ぬ。それが一番いい。お前も楽になるだろ」
洋平は立ち上がり、寝室へ向かった。あかりの泣き声がやけに遠くに聞こえる。
それから洋平はさらにペースを上げた。睡眠時間を一時間に削り、休日出勤を増やした。体は限界を超えていたが不思議と動き続けることができた。むしろ、衰弱していく自分が嬉しかった。
毎朝、鏡を見るのが楽しみになっていた。昨日より痩せていないか、目の下の隈は濃くなっていないか。確認するたびに、少しずつ死に近づいている実感があった。
絵里奈は何度も洋平を止めようとした。会社に休むよう電話をかけようとしたこともある。だが洋平がそれを知って激昂してからは諦めたように黙るようになった。ただ毎晩、洋平が眠る前に「お願いだから休んで」と呟くだけだった。
「うるさいな」
洋平は布団を被る。絵里奈の嗚咽が聞こえるがもう何も感じない。
八月に入り、洋平の体はほとんど骸のようになっていた。会社では誰もが心配そうに見ていたが洋平は笑って「大丈夫です」と繰り返した。大丈夫ではないことは分かっている。だがそれでいいのだ。早く、この苦しみから解放されたかった。
その日の朝も、洋平は五時に起きた。
体が重い。今までとは違う重さだった。まるで全身に錘を巻きつけられているような、動くことさえ困難な重さ。だが洋平は構わずベッドから起き上がろうとした。
瞬間、胸を何かが貫いた。
痛みではなかった。圧迫感。心臓を巨大な手で握りつぶされるような、息もできない苦しさ。洋平は声を上げようとしたが喉から出たのはかすれた呻きだけだった。
「よう……へい……?」
絵里奈が目を覚ました気配がする。だが洋平にはもう、彼女の方を向く力さえなかった。視界が白く染まっていく。体中の感覚が遠くなっていく。
ああ、やっと終わる。
最後にそう思った瞬間、洋平の意識は闇に沈んだ。
◆◆◆
目が覚めた。
絵里奈は飛び起きた。心臓が早鐘のように打ち、全身が汗で濡れている。息が荒く、喉がからからに渇いていた。
夢だ。夢を見ていた。どんな夢だったか、まだはっきりと覚えている。洋平が倒れた。胸を押さえて、苦しそうに呻いて、そして……。
慌てて隣を見る。
洋平が穏やかな顔で眠っていた。
呼吸している。胸が規則正しく上下している。絵里奈はその事実を確認するために、洋平の頬に手を触れた。温かい。生きている。
涙が溢れてきた。理由は分からない。ただ夢の中で見た洋平のあの骸のような姿が頭から離れない。痩せこけた頬、落ち窪んだ目、土気色の肌。そして最後に見た、安堵したような表情。
「洋平……」
小さく名前を呼ぶと洋平が薄目を開けた。
「ん……どうした」
「何でもない。何でもないの」
絵里奈は首を横に振った。洋平は不思議そうな顔をしていたがすぐにまた目を閉じる。まだ朝は早いようだった。窓の外は薄暗く、カーテンの隙間から差し込む光もぼんやりとしている。
絵里奈はそっとベッドを抜け出し、ベビーベッドを覗いた。あかりがすやすやと眠っている。小さな胸が上下するのを見て、また涙が溢れそうになった。
朝食を作りながら、絵里奈は夢のことを考えていた。
あれは警告だったのだろうか。このままでは取り返しのつかないことになる、という。夢の中の自分は洋平に何度も「休んで」と言っていた。だがその前に、「仕事ばかりするな」「育児もしろ」と追い詰めていたのも自分だった。
確かに、最近の自分は洋平に厳しすぎた。産後の疲れと睡眠不足で、常に苛立っていた。洋平が何かをすれば文句を言い、何もしなければもっと文句を言う。彼にとって、この家は居場所のない場所になっていたのではないか。
「おはよう」
洋平がリビングに入ってきた。まだ眠そうな顔をしている。絵里奈は思わず、彼の顔をじっと見つめた。頬に肉があり、目の下に隈はない。夢の中で見た姿とは全く違う。
「どうした。俺の顔に何かついてる?」
「ううん。何でもない」
絵里奈は首を振り、コーヒーを入れた。
その日から、絵里奈は意識して言葉を選ぶようになった。
洋平がおむつの替え方を間違えても、「こうした方がいいよ」と穏やかに伝える。ミルクの温度が少し高くても、「もう少し冷ました方が飲みやすいかも」と言うだけにする。以前なら「違う」「そうじゃない」と遮っていた場面で、ぐっと堪えて見守ることにした。
最初、洋平は戸惑っているようだった。叱られるのを待っているような、おどおどした目で絵里奈を見ている。その目を見るたびに、夢の中で見た彼の姿が脳裏をよぎった。骸のように痩せ細り、「お前がそうしろって言ったんだろ」と吐き捨てる洋平。
「今日、会社で飲み会があるんだ」
ある夜、洋平がそう言った。以前の絵里奈なら、「また?」とか「あかりの世話は?」と言っていただろう。だが今は違う。
「そう。気をつけてね」
「……いいの?」
「いいよ。たまには息抜きしないと」
洋平が驚いた顔をした。その顔があまりにも意外そうで、絵里奈は少し切なくなる。自分はこれまで、どれだけ彼を追い詰めていたのだろう。
三ヶ月が過ぎ、あかりは首が座り、表情も豊かになってきた。笑うようになり、声を出して機嫌の良さを示すようになった。洋平に抱かれると以前よりも落ち着くようになっている。
「なあ」
ある夜、洋平が切り出した。
「実は来月から、プロジェクトの責任者を任されることになった」
絵里奈の胸がきゅっと締め付けられた。夢の中で聞いた言葉と同じだった。
「忙しくなるの」
「多分。しばらくは帰りも遅くなると思う」
洋平は申し訳なさそうに目を伏せた。以前の絵里奈なら、ここで責めていただろう。「また仕事優先?」「育児はどうするの?」と。
だが絵里奈は深呼吸をしてから口を開いた。
「分かった。大変だと思うけど、頑張ってね」
「……いいの?」
「仕事が忙しいのは仕方ないでしょ。でも、本当に辛い時は言ってね。無理はしないで」
洋平の目が少しだけ潤んでいるように見えた。
プロジェクトが始まると洋平の帰宅時間は確かに遅くなった。十時、十一時が当たり前になり、土日もどちらかは出社することが増えた。
以前の絵里奈なら、毎晩のようにリビングで待ち構えて小言を言っていただろう。だが今は違う。洋平が帰ってきたら「お疲れ様」と声をかけ、温め直した夕食を出す。話を聞いてほしそうな時は聞き、疲れていそうな時はそっとしておく。
一人で育児をするのは確かに大変だった。あかりが泣き止まない夜、体中が悲鳴を上げる朝、何もかも投げ出したくなる瞬間は何度もある。だがそのたびに、あの夢を思い出す。追い詰められた洋平の空虚な目。「俺が死んだ方が早い」という、冷たい声。
あんな未来には絶対にしたくなかった。
「絵里奈」
ある日曜日、洋平が珍しく早起きして絵里奈に声をかけた。
「今日、俺があかりを見てるから、少し出かけてきなよ」
「え」
「ずっと家にいるだろ。たまには一人で外出した方がいい」
絵里奈は戸惑った。確かに出産してから、一人で外出したことはほとんどない。買い物もあかりを抱っこしたまま、短時間で済ませることがほとんどだった。
「でも、あなたも疲れてるでしょ」
「今日は休みだから大丈夫。それに、あかりと二人きりの時間も欲しいし」
洋平が笑った。その笑顔はどこか照れくさそうで、でも嬉しそうだった。絵里奈は少し考えてから、頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
数時間だけ、近くのカフェで過ごした。一人でコーヒーを飲み、本を読み、何も考えない時間。それがこんなに贅沢なことだったとは出産前は知らなかった。
家に帰ると洋平があかりを抱っこしながらリビングを歩き回っていた。あかりは目を開けてはいたが泣いてはいない。
「おかえり。大丈夫だったよ」
「ありがとう」
絵里奈は二人の姿を見て、胸が温かくなるのを感じた。
それからも、洋平は忙しい合間を縫って育児を手伝ってくれるようになった。帰りが遅い日でも、朝は少し早く起きておむつを替えてくれる。休日は積極的にあかりと遊び、絵里奈を休ませようとしてくれる。
以前の「やらされている」感はもうなかった。洋平の目には父親としての自覚とそれ以上に楽しさのようなものが宿っている。
「あかり、俺の指握ってる」
「そうね。力、強くなったでしょ」
「うん。成長してるな」
そんな会話が増えた。些細なことだが絵里奈には何よりも嬉しかった。
あの夢を見てから、半年が過ぎていた。プロジェクトは無事に終わり、洋平の帰宅時間は少しずつ早くなっている。たまに遅くなる日もあるが絵里奈はもう文句を言わない。ただ「お疲れ様」と言って、温かい食事を用意するだけだ。
ある夜、あかりを寝かしつけた後、二人でリビングのソファに座っていた。テレビはついているが音量は低い。窓の外には秋の虫の声が聞こえている。
「なあ」
洋平が言った。
「最近、変わったよな、絵里奈」
「そう?」
「前より、優しくなった気がする」
絵里奈は苦笑した。優しくなったというより、ただ反省しただけだ。あの夢を見て、自分がどれだけ洋平を追い詰めていたか気づいた。それだけのことだった。
「私こそ、前はごめんね。いろいろ言いすぎた」
「いや、俺も何もできてなかったから」
「そんなことない。ちゃんと頑張ってた。私が見えてなかっただけ」
洋平が少し驚いたような顔をした。それから、ゆっくりと微笑む。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
二人は黙ってテレビを見つめた。画面ではどこかの旅番組が流れている。温泉の湯気が立ち上り、出演者が気持ちよさそうに湯に浸かっていた。
「あかりがもう少し大きくなったら、温泉とか行きたいな」
「いいね。三人で」
「三人で」
洋平が絵里奈の手を取った。その手は温かく、少し荒れていた。仕事と育児で、洋平の手も変わったのだろう。絵里奈は彼の手を、そっと握り返す。
夜中、あかりの泣き声で目が覚めた。
隣を見ると洋平も目を開けていた。
「俺が行くよ」
「いいの? 明日も早いでしょ」
「大丈夫」
洋平が起き上がり、ベビーベッドに向かう。あかりを抱き上げ、小さな声であやし始めた。絵里奈はその背中を見つめながら、あの夢のことを思い出していた。
あの夢の中で、洋平は死んだ。過労で心臓が止まり、絵里奈の目の前で息を引き取った。その瞬間の言いようのない恐怖と後悔。夢だと分かっていても、今でもはっきりと覚えている。
でもあれは夢で終わった。
現実の洋平は今ここにいる。あかりを抱いて、優しく揺らしている。その姿を見ていると胸の奥から温かいものがこみ上げてくる。
「寝たみたい」
洋平が小声で言う。あかりを静かにベビーベッドに戻し、布団をかけ直す。それから洋平は絵里奈の隣に戻ってきた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
洋平がまた目を閉じる。すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。絵里奈はその顔をしばらく見つめていた。穏やかな寝顔だった。あの夢の中で見た骸のような顔ではない。生きている人間の温かな顔だった。
絵里奈も目を閉じた。明日もあかりは泣くだろう。洗濯物は溜まるし、掃除もしなければならない。洋平は仕事に行くし、一人で過ごす時間は長い。
──でも、もう大丈夫。
一人で抱え込まなくていい。困った時は洋平に頼ればいい。洋平も、きっと頼られたいと思っている。二人で協力すれば乗り越えられないことなんてない。
窓の外では秋の虫がまだ鳴いている。その声を聞きながら、絵里奈は目を瞑る。
明日も三人で──そんなことを考えていると。
かあ、かあと。
窓の向こうで、烏が鳴いていた。
──こんな時間に?
(了)




