終夜
三日三晩続いた拷問部屋の悲鳴と怒号は、四日目の朝には静かになった。
蓮見の亡骸は見せしめのように、見世の裏庭に投げ出されていた。
周囲を見張る男衆の隙間からその様子を覗いていた、禿や振袖新造たちは凄惨なその姿に嘔吐き、女郎たちも変わり果てた同輩の姿に一様に青ざめていた。
輪の一番外に立つ牡丹は、直視に耐えない親友の姿を、じっと睨み付けていた。
昼前には、蓮見の遺体は木箱に押し込まれ、男衆たちの手によって運び出されていた。
見世に多大な利益をもたらした上位女郎は、無縁塚に葬ってもらえることもある。けれど、ろくに稼げなかったり病気にかかったり、罪を犯した女郎は、花街を囲むドブに捨てられる運命だ。
すすり泣く女たちをじっと監視していた楼主は、男たちの姿が見えなくなると、不意に手を打ち鳴らして叫んだ。
「……ほら、昼見世の時間だ! とっとと支度しろ! ただでさえここ数日、売上が落ちてんだ。気合い入れて稼げ!」
のろのろと動き出す女郎たちに混ざって、牡丹もゆっくりと部屋に戻った。
とはいえ、さすがに昼三の牡丹が、張見世、ましてや昼の見世先に並ぶことは出来ない。「稼げるならやれ」が楼主の本音だろうが、そんなことをしては、他の見世に迷惑を掛ける。
牡丹は大人しく自室に向かいかけ――通りがかった蓮見の部屋から、幾人かの集団が出てくるのに気付き、咄嗟に身を隠した。集団を率いるのは女将。後に続くのはいずれも男で、中には牡丹も見知った者もいる。
(簪屋、呉服屋、縮緬問屋……。蓮見の、遺品か)
女郎が部屋に残したものは、見世が残らず売り飛ばし、返し切れなかった借財の返済に充てる。見世にとっては当然の権利、仕方のないことだろう。
割り切れない思いを抱えて、牡丹は男たちの集団をやり過ごす。人の気配がしなくなった頃、牡丹は、ちり紙一つない蓮見の部屋に足を踏み入れた。
廊下に一番近い部屋、蓮見が幾人も客を取った部屋の入り口に立ち、牡丹はそっと目を伏せた。
(蓮見……なんで、こんな莫迦なことを)
女郎としての規律規範や心構えには厳しい分、適度な散財で自分を甘やかしてきた牡丹とは違い、蓮見はいつも堅実だった。
禿に関わる費用と、大見世入りも近いと噂される中見世の、付き廻しの品位を保つための衣装や調度品の購入費は惜しまなかったが、間夫も持たず、仕舞いも付けず、十五で客を取り始めてから今まで、真面目に働いていた。
たとえ今回の身請け話を断ったとしても、年季明けは牡丹よりも早く見えていたはずだ。そこまで耐えれば、穏便に庵治と所帯を持つ未来もあっただろうに。
(所帯……)
代々花籠楼の楼主を務める家に生まれた今代と、芸妓出身の女将との間には、遅くに生まれた一人娘が居たはずだ。
もしかして、後継者になる一人娘の婿候補として、庵治の名が上がったのか。だから、楼主は庵治が逃げたことに、あれほど怒り狂っていたのか。
今となっては、何があったのかは分からない。
もし牡丹の推論が当たっていたとしても、娘の恥となる事情を、楼主は決して口にしないだろう。
(あたしは……何も見えていなかったのかもしれない……)
苛立ちをぶつけ合う同輩たちも、間夫に入れあげる女たちも、その間夫と逃走を企てて捕まった女たちも、ずっとずっと馬鹿にしてきた。
女郎に求められる芝居を演じ切れば、年季が明ければ自由になれるのに、と。
賢く割り切っているつもりでいた。
その実、何も考えず、何も知らず生きていた。
苦悩し、それでも懸命に生きる彼女たちを、見下していた。
自分はただ、何も知らなかっただけだ。ままならぬ状況に、否応なく向き合わされた時の苦しさも、無力さに打ちひしがれる辛さも、それでも足掻かずにはいられない強さも。
賢しらな彼女の言葉を、蓮見は何を思って聞いていたのだろう。
(ごめん、蓮見……)
拳を握り締め、立ち竦む牡丹は、不意に背後から自分の名を呼ぶ声に息を飲んだ。
「――牡丹? 何やってんだい、こんなとこで」
「……女将」
振り返ると、かつては花街で評判の芸者だった女が、今は慎ましやかな着物に身を包んで立っている。
皺が目立ち始めるものの、在りし日の美しさを留めた顔を顰め、女将は牡丹の横に並んだ。
「……まったく、幾つかは高値で売れたけど、随分買い叩かれちまった。これじゃとても、借財の完済には足りないよ」
不満げに鼻を鳴らす女将に、牡丹は声を潜めて問いかけた。
「……蓮見付きだった子たちは? どうなるの?」
女将は頭が痛いとばかりに溜め息をつき、ゆるゆると首を振って答える。
「そりゃ、いったん見世で引き取るか……。誰か面倒見てくれる子、探さないとだけど……」
忘八の楼主であれば、振袖以外は全員叩き出せと言いかねないと思っていたが、かつては『こちら側』であった女将が取りなしたのだろうか。
桃に、紫。蓮見付きである禿たちは、牡丹の禿たちとも仲が良かった。蓮見が面倒を見ていた振袖新造の小梓も、牡丹の明楓の翌月に水揚げを控えている。
姐の死に衝撃を受け、これから自分はどうなるのか、さぞ怯えているだろう。
無意識のうちに、牡丹の口から言葉が零れていた。
「――いいよ。みんな、あたしンとこ連れて来て」
女将は弾かれたように顔を上げ、牡丹をまじまじと見上げてくる。
それは禿たちの生活丸抱えとなること以外にも、水揚げのための衣装や装飾品など、蓮見の返し切れなかった借財をも背負うことを意味していた。もちろん、独り立ちの日までの、振袖新造の寝食に関わる費用一式も。
「……良いのかい? あんた、明楓の水揚げ準備、えらく張り切ってるだろう? その上、禿も、五人になっちゃ……」
「大丈夫だよ、何とかする。……あたしはここの、筆頭だもん」
顔を上げたまま言い切る牡丹に、女将は再び溜め息をつく。それが安堵からなのか呆れからなのか、牡丹には分からない。
いつもの抜け目ない表情に戻った女将は、「なら、頼んだよ」と声を掛け、足早に部屋を出て行った。
一人になった牡丹は、改めて蓮見の部屋をゆっくりと見て回った。
付き廻しに上がったのは、ほぼ同時。広い私室を手に入れたことに、二人ではしゃぎ、部屋を駆け回っては怖い姐さん方に怒られた。
牡丹が昼三に任命されたのちも、しょっちゅう部屋を行き来しては、湯呑み片手に無駄話に興じた。
牡丹がひょいと部屋を覗くと、色とりどりの衣装を身体に当てた小梓を、蓮見は穏やかに笑って眺めていた。その周囲で目を輝かせる、桃と紫。
もうその日々は、二度と戻らない。
(……抗ってみせるさ。あの子たちを、幸せに、生きて、ここから出してやる)
そう覚悟を決め、牡丹は蓮見の部屋を後にした。
「――おお、牡丹、遅いじゃねえか!」
「今晩は、青野屋の旦那」
優雅に微笑み、牡丹はゆっくりと老翁の隣に腰を下ろす。後ろに着いてきていた翠と紫も、楚々として姐に倣う。
見慣れない禿に、青野屋が目をぱちくりさせている。
「お? 新入りか?」
「紫というの。良くしてやってくださいね」
肉付きのよい腕に触れながら囁く牡丹に、青野屋は瞬く間に鼻の下を伸ばした。機嫌よく酒を呷る老人に、牡丹はにこにこと酒を注ぐ。
青野屋はふと思い出したとばかりに、膝を打った。
「そういや牡丹、お前、ついに道中するんだって?」
「まあ、さすが、お耳が早くていらっしゃる。――玲鳳館が総仕舞いの日に、試しにと譲っていただいたの」
「玲鳳館! 大店じゃねえか! こりゃあ、花籠楼の大見世入りもいよいよか?」
大袈裟な、と牡丹は笑った。禿たちもくすくすと追従笑いを浮かべている。
道中を許された筆頭女郎を、敵娼にしている。その事実に大いに自尊心をくすぐられたのか、青野屋は「今夜は祝いだ!」と次々に酒と膳を頼む。
すっかり上機嫌になった老人は、届いたばかりの酒を口にしながら、「そうだ」と独りごちた。
「牡丹、今度、うちの番頭と倅を連れてくる。よろしく頼んだ」
「まあ、息子さん?」
ド吝嗇の青野屋が、たとえ息子であっても、揚げ代を払ってやるのは珍しい。目を瞬く牡丹に、青野屋は照れくさそうに笑った。
「さすがに俺もこの歳だ。いい加減、不肖の息子に商売を譲りてぇんだ。……大店の主として、こういう場所での付き合いも、学ばせねえとな」
まあ、と目を見開き、牡丹はつと首を傾げる。
「……それなら旦那、うちから今度独り立ちする子も二人、呼んでも良い? 明楓と、小梓って言うんだけど。
初めてのお客さんはもう決まってるんだけど、息子さんと番頭さんには、あの子たちを贔屓にしてやってもらえたら嬉しい」
「構わん、構わん! 何とも麗しい、姉妹愛じゃねえか」
そんなんじゃないですよ、と袖で口元を押さえ、牡丹は笑う。
女郎の世界は所詮、惚れたはれたの虚構芝居。
ひとたび舞台に上がれば、女たちはどんな思いを抱えていようと、にこやかに笑い、閨で男たちを翻弄し、年季明けの日まで闘い続けるしかない。それが出来なくなれば、待つのは転落と死。
(生き抜いてやる。――生き抜かせてやる)
百花の王の名を背負い、今日も牡丹は、舞台に立つ。
道中──客と待ち合わせた茶屋まで、着飾った女郎が見世の男や禿を従え、大通りを歩いて向かう、いわゆる「花魁道中」のイメージです。
花街の威信と絢爛さを背負い、大見世の筆頭女郎にのみ許された行為と解釈しています。
吉原をモデルにした、架空の花街を舞台にした物語です。女郎たちがありんす言葉でないのも、「架空」の世界だからということで、ご容赦ください。




