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第四夜

 蓮見(はすみ)の憂いの理由は、十日後には判明した。








 蓮見が、男衆の一人である、庵治(あんじ)出奔(しゅっぽん)したのだ。









 険しい顔で知らせを運んできた楼主に、牡丹(ぼたん)は手の中の簪を取り落とした。


「なん……の、冗談だよ……それ……」

「――冗談で済むならどれだけ良いか」


 手の中の煙管を軋ませる勢いで握り締めながら、花籠楼(はなかごろう)の楼主である茂光(しげみつ)は吐き捨てた。いつもニコリともしない目は完全に据わっており、額には幾つも青筋が浮かんでいる。

 「忘八(ぼうはち)」――人としての徳を全て失ったと言われる当代の楼主は、忌々しそうに顔を顰めた。


「庵治の野郎、蓮見(しょうひん)に手を付けてやがった。……蓮見に身請け話が出て、焦ったんだろう。昨夜、珍しく蓮見が仕舞いを付けたと思ったら、二人してこっそり逃げやがった」


 仕舞いを付けるとは、女郎が自らの揚げ代を見世に支払って、休みを取ることだ。生真面目な蓮見が、仕舞いを付けるなど、初めてだと思われた。普段は女郎の休みを嫌がる女将が、珍しくすんなり許可していたと思ったら――


(身請けの前に、ゆっくりしたいとでも言ったんだろうな……)


 先日、牡丹と二人で茶飲み話をしていた際、女将に呼ばれたのは、恐らくその話のためだったのだ。

 どこかぼんやりとして、益体もないことを考える牡丹に、不意に楼主は距離を詰めてきた。


「――まさか、お前さん、行き先聞いてんじゃあねえだろうな?」


 刻み煙草の煙を吹きかけながら、ドスの効いた声で囁く楼主に、牡丹は反射的に顔を顰めた。


「……知らないよ。身請けの話も、今知ったんだ。……庵治とそんな仲だったなんて、知りもしなかった」


 真っ直ぐに楼主の目を見据えてそう告げると、茂光は目線を逸らし、馬鹿にするように鼻を鳴らした。


「……だろうな。さすがにさっきの表情(かお)が、偽り(えんぎ)だったとは思えねぇ。――親友だなんだと言いながら、所詮は女郎の友達ごっこか」


 瞬間、牡丹はカッと頬を紅潮させる。その柔らかな頬を無遠慮に片手で掴みながら、楼主の茂光は低い声で囁いた。


「いいか。万が一、蓮見から連絡があったら、即座に知らせろ。庇い立てしようなんざ考えるなよ。見つかれば……」


 蓮見の生命だけは、考えてやらんでもねえ。


 そう告げた楼主の目に、一切の光はなかった。







 蓮見(はすみ)

 共に六つの年にこの妓楼に連れてこられ、二十二の今日まで、ずっと支え合って生きてきた。禿(かむろ)時代、寂しい寂しいと泣く牡丹(ぼたん)――当時は「(あお)」と呼ばれていた――の肩を、いつだって抱き締めてくれた。

 庵治(あんじ)

 二十五年前にこの妓楼で生まれた、牡丹たちの三つ年上の男は、幼い時分の彼女たちにとって、頼り甲斐のある兄貴分だった。故郷を思ってグズグズと泣く青と、慰める(だいだい)――蓮見の幼名だ――を、いつも近くで見守ってくれていた。

 二人とも、牡丹が心から信を置いた、大切な友人、頼れる家族だった。

 そんな二人が、共に逃げた。


(足抜け……。蓮見と、庵治が?)


 楼主に馬鹿にされるまでもなく、二人がそんな関係にあったことに、牡丹は気付いていなかった。


 けれど、そう。

 今思えば、違和感は確かにあった。


 女郎の人生など虚構だと、割り切って役割を演じれば良いと、牡丹が断じた時。

 牡丹の客が、庵治に怪我を負わせたと聞いた時。


 蓮見の様子は、確かにおかしかった。


(いったい、いつから……?)


 自分はいったい、親友の、身内と断じた男の、何を見ていたのだろう。

 愕然とする牡丹は、いつまでもその場に立ち竦んでいた。








 ぼんやりと自室に引き篭っていた牡丹(ぼたん)は、不意に響いた怒号にノロノロ顔を上げた。

 蓮見(はすみ)庵治(あんじ)の夜逃げから、三日が経過していた。

 その報を聞いて以降、牡丹はまるで使い物にならず、腹を立てた楼主に強制的に仕舞いを取らされていた。休養と言えば聞こえは良いが、半ば軟禁のようなものだった。

 楼主と女将は懸命に騒動を隠そうとしたのだろうが、ここは色遊びと同じくらい、人の噂を無責任に楽しむ花街。探りを入れようと下卑た客が押し寄せ、反対に上客は様子見をしているのか足が鈍っている。それに比するように、楼主の苛立ちは日に日に増していった。


「……おい、折檻部屋だ! さっさと連れてけ!」


 ドスの効いた声でがなるのは、楼主だ。


(蓮見……! 庵治!)


 牡丹は転がるように窓枠に飛びつく。

 薄暮の中、引き摺られるように足を運ぶ人影は一つきり。華奢なその身体は男物の着物を纏い、乱れた長髪で顔は見えない。

 その着物の前面が、べっとりとどす黒い何かで汚れているのに気付き、牡丹はズルズルと壁際に崩れ落ちた。

 あの華奢な体躯は、男では有り得ない。どれだけ目を凝らしても、連行される人影は一つ。

 足抜けは、女郎にとって最大の禁忌。

 相手が間夫(まぶ)であれば、男は花街を管理する組合の私兵によって、厳しい罰を受けさせられる。

 見世の男であれば――手足の一本だけでも無事な状態で帰ってこられれば、奇跡。


(庵治……)


 兄貴分が辿ったであろう運命に思い至り、牡丹は肩を震わせた。







 遠く響くか細い悲鳴と、何かを叩き付けるような音に、牡丹は不意に目を覚ました。

 蓮見らしい人影が連れてこられたのは、昨日の夕暮れ。慌てて牡丹が身体を起こすと、傍に控えていた禿の(すい)が心配そうに尋ねてきた。


「姐さん、大丈夫? 一時ぐらい眠ってた」


 その言葉にギョッとし、牡丹は慌てて部屋を飛び出す。

 ……飛び出そうとして、岩壁のような何かに弾き飛ばされ、勢いよく尻もちをついた。


源吉(げんきち)……」


 牡丹がぶつけた鼻を押さえながら顔を上げると、そこには、逞しい腕を組み、仁王立ちした古株の男衆、源吉が立っていた。

 庵治が生まれた数年後に、見世にやって来たというこの男とも、牡丹は長い付き合いだ。かつて故郷の親を思い出しては泣いていた、禿時代の牡丹を良く知る彼は、今も「泣き虫牡丹」とからかってくる。

 そんな普段のひょうきんさは微塵も見せず、源吉は冷ややかな表情で牡丹を見下ろした。


「どうしました? 昼三(ちゅうさん)


 他人行儀なその声に、牡丹の全身が粟立つ。気圧されながらも、牡丹は懸命に眼前にそびえ立つ男を睨み上げた。


「蓮見、帰ってきてんだろ? さっきの悲鳴、何?」

「ああ」


 あくまで淡々と、源吉は応じる。


「貴女も女郎なら、……分かっていると思っていましたが」


 冷えた言葉に、牡丹は目を見開く。

 慌てて立ち上がった牡丹を、源吉は鋭い声で引き止めた。


「やめときな。――まだここで生きてくつもりなら、楼主には逆らわないこった」


 咄嗟に源吉を睨む牡丹を憐れむように、源吉は嘆息した。


「女郎の足抜けは禁忌。その行き着く先は、拷問部屋、そして縁席(えんせき)で一生張見世女郎か、河岸(かし)見世で夜鷹かだ。――生きてればな」


 妓楼は所詮、虚構芝居の舞台。

 そういうものだと、割り切って生きていけば良い。


 かつて自分が(うそぶ)いた言葉が、牡丹の総身に重くのしかかった。

 

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