第二夜
「――牡丹さん。青野屋の旦那がお見えです」
「……ちょっと、聞いてないよ」
「急に時間が空いたので、と」
あの爺、と吐き捨てた牡丹は、腹の底から溜め息を零した。
今日は牡丹の上客の一人、藩主の懐刀と名高い家老の弓木が登楼予定だった。約束の刻限まで、あと一時もない。見世としても最重要客の一人であり、牡丹は他の客を全て断り、弓木をもてなす段取りをつけていた。
青野屋は安さを武器に成り上がった材木問屋で、今代の翁が二代目だ。急激に力を付けた元貧乏人にありがちな、金を全ての指標とし、「持つ者」ならば何をしても許されると考える、典型的な成金である。
牡丹にとっても、決して心良く迎えられる客ではない。
牡丹は盛大に舌打ちする。
次の瞬間には、気持ちを切り替えるように軽く自身の両頬を張り、知らせを持ってきた男衆の一人、庵治に鋭く目をやった。
「狭くてもいい、空いてる客間に通しな。酒は極上のものを、食事は最低限で構わない。準備出来次第、あたしが行く」
「……よろしいのですか?」
「来ちまったもんはしょうがないだろ。追い返せる客でもないんだ」
吐き捨てるように言い、八つ当たりを恥じるように空咳をする。庵治は変わらず、じっと跪いて牡丹の言葉を待っている。
「……弓木様が見えたら、あたし専用の宴会部屋へ。四半時で戻るつもりだけど、無理ならアンタが上手く言って、お待ちいただいて」
「承知しました」
「あたしが出たあとは、あっちは明楓に任せる。補佐には翠と藍を。あの二人が着いてれば、明楓でも何とかあのひひジジイを転がせるだろ。
……ただし、誰か一人、気の回る男衆を付けてくれ。明楓は水揚げ前だ、間違っても手ェ出させるんじゃないよ」
矢継ぎ早に下した指示を、庵治は戸惑う様子もなく受け止めている。
明楓は牡丹が面倒を見ている振袖新造で、もうすぐ客を取って一人前となる「水揚げ」を控えている。翠と藍は牡丹付きの禿で、幼い頃から牡丹が手ずから鍛え上げた自慢の二人だ。引っ込みにはなれなかったが、将来の上位女郎として期待されている。
弓木の好みに寄せて完璧に仕上げた化粧を、手早く「青野屋向け」に崩しながら、牡丹はちらりと庵治に目をやった。
「待ち侘びてたとは思わせたくない。線香焚いて、半分経過したら呼びに来な。……頼んだよ、庵治」
深く頭を下げた庵治は、音もなくその場を立ち去っていく。彼は何代か前の花籠楼の部屋付き女郎と、客の間に生まれた男だ。出産で生命を落としたその女郎を憐れみ、先代の楼主が引き取って育てた。人情を失くした「忘八」を極める今代とは、えらい違いだ。
幼少の頃に花籠楼に売られて来た牡丹も、当然、庵治とは長い付き合いで、その彼に「牡丹さん」などと呼ばれるのはくすぐったくてしょうがなかった。
「――さて、こんなもんか」
下品なほどに華麗な化粧を好む青野屋に合わせ、濃いめの紅を引きながら、牡丹は鏡の中の自分にひとつ頷いた。
「おお、牡丹! 待ちかねたぞ!」
たっぷりと肉を蓄えた老翁が手を上げて、牡丹を迎える。盃を手に、いたくご機嫌だ。
しかし、その背後には、表情を強ばらせる禿たちと、跪く一人の男の姿。男の着物はしとどに濡れ、伏せた顔の額には薄らと血が流れているのが見える。青野屋を案内したあと、弓木の接待を命じたはずの庵治だった。
牡丹は敢えて、その三人には気付かぬように笑い、さり気なく禿たちの姿を青野屋から隠す位置に腰を下ろした。翠と藍が微かに息をつくのを、牡丹は背中で感じている。
青野屋は横柄に、鼻で息をした。
「遅いではないか。こんなにも待たされるとは思わなんだ」
「すみませんねぇ、旦那。なにぶん急な起こしでしたから。化粧がなかなか決まらなくて、旦那に合わせる顔がなくて」
着物の袖で口元を隠してコロコロと笑いながら、牡丹はスッと目を細めた。
「――時に、旦那。うちの若いのが、何か失礼でも?」
ちらりと庵治を見遣りながら、牡丹は僅かに青野屋に身体を寄せて尋ねる。途端にやにさがった老翁は、肉に埋もれかけた目を細めながら応じた。
「ああ、いや、な。あんまりに待たせるもんだから……。ちょっと見目が良いからって、調子に乗りやがって。俺を誰だと」
「あらあら。それは失礼しましたねぇ」
(……元はと言えば、お前が文も寄越さずやって来たからだろ。追い返されなかっただけ、有難く思え)
内心の怒りはおくびにも出さず、牡丹は老人のでっぷりした身体にしなだれ掛かる。相好を崩した男が牡丹の肩に手を掛けようとした瞬間、するりと身を躱し、拍子抜けする男に正面から笑い掛けた。
「私に免じて、許してくださいな」
「……ふん、しょうがねえなぁ」
顔を顰めながらも、老翁は喜色を隠し切れていない。牡丹は庵治に背を向けたまま、一転、鋭い声で命じる。
「いつまでもそんなナリを晒してんじゃないよ。旦那に失礼だろ? さっさと下がんな」
(……早く行って。着替えて、失礼のないように弓木様を迎えて)
庵治ならば、そんな牡丹の内心の焦りを、きっと汲んでくれる。
祈る思いで袖を振ると、彼は音もなくその場を立ち去った。間髪入れず、牡丹は背後に控える禿たちにも指示を飛ばす。
「酒が大分冷めちまった。新しいのを運んでおくれ。とっておきのを、熱々の燗で。……良いですよね? 旦那」
「おう。春とはいえ、夜は冷えるからな。温まるといい」
青野屋は上機嫌で答え、禿たちに鷹揚に頷き掛ける。彼女たちは声を揃えて、「あい」と行儀よく返事をし、連れ立って部屋を出て行った。
もうすぐやって来る弓木は冷や酒を好むから、今晩は熱燗の用意が少ないはず。「熱々」と指定した以上、準備にはそれなりに時間が掛かるはずだ。
(……この間にある程度潰しておかないと、明楓がしんどいだろう)
腹を括った牡丹は、並んだ酒の燗を手に取り、大袈裟に目を見張ってみせた。
「あらやだ旦那、酒が全然減ってないじゃないですか。もっと飲んでくださいよ」
「一人で飲んでもつまらんからな。お前も飲め飲め」
「私は熱いのが良いんです」
牡丹が上目遣いで甘えて見せると、老人は品のない笑い声を上げた。
「しようがねえなぁ。なら、これは俺が飲んでやろう」
デレデレとしまりなく笑う老翁の盃にたっぷりと酒を注ぎながら、牡丹はこっそり溜め息をついた。
飲みやすいぬる燗となっていた酒をしこたま飲ませた結果、庵治が弓木の来訪を告げに来る頃には、青野屋は急速に酔っ払っていた。
呂律が怪しくなった老翁を適当に言いくるめ、牡丹は、藍に呼ばれて部屋にやって来た明楓と交代する。
不安げに眉を曇らせる妹女郎の背中を、牡丹はさり気なく叩いて喝を入れた。庵治はお目付け役に、彼に次ぐ古株で、荒事にも強い源吉を寄越してくれていた。厳のような体躯を誇る彼を前に、さすがの青野屋も無謀は企むまい。
(化粧は……最低限しか直せないだろう。せめて紅だけは引き直せれば。――庵治なら、きっとそのくらいの時間は稼いでくれる)
品の良い席を好む弓木相手であれば、芸者たちが上手くやってくれているだろう。詩歌に優れた禿の珊瑚も、部屋に残してきた。いざとなれば、庵治が遣手をそれとなく動かして、あの子に場を繋がせているはず。
筆頭女郎としての風格を存分に見せつけるように、優雅に歩を進めながら、牡丹は上がりかける呼吸を懸命に殺した。




