第一夜
「――ああ、良い酒だ」
手酌でついだ盃を一息に干し、彼女はふうっと呼気を零す。飲みくだせなかった酒が一筋、顎を伝って滑らかな首筋に流れていった。
第六代昼三、牡丹。
大見世入りも間近と噂される中見世、花籠楼の筆頭を張る「百花の王」。今や大見世の「呼び出し」――いわゆる「花魁」にも迫る人気を誇る女郎だ。
当代の牡丹は、全ての雑用を免除され技芸を学ぶ引っ込み禿、振袖新造から部屋付きと、瞬く間に階級を駆け上り、最年少の十八でその名を継いだ。四年が経った今も、その勢いは一向に衰える気配はない。
花籠楼の「牡丹」ともなれば、見世に出る必要はなく、彼女を指名する甲斐性のある客が来れば、相手をすれば良い。ゆえに、こうして昼からのんびりと酒を味わうことも許される。
甘露のような酒に舌鼓を打つ牡丹は、しかし不意に、訝しげに眉を寄せた。
「――牡丹、入るよ」
断りもなく襖を開けたのは、昼三に次ぐ付き廻しの位にある蓮見だ。
こんな不調法、相手によっては折檻ものだが、この同輩にだけは、牡丹は無礼講を許していた。彼女は同時期に見世にやって来た、たった一人の同い年の親友だからだ。
生真面目に仕事衣装を纏った蓮見は、内衣姿でだらしなく酒を飲む牡丹に、嫌そうに顔を顰めて言った。
「あんた、昼下がりから酒かい。随分と良いご身分だね」
「生憎、今日は月の障りで休業だよ。……それに、実際良いご身分だし」
「言ってろ」
鼻で笑った蓮見は牡丹の向かいに座り、遠慮なく酒のアテを細い指先で摘み上げる。美味そうに漬物を咀嚼する親友を、胡座に肘をついて眺めながら、牡丹はおもむろに口を開いた。
「ね、さっき、なんか大きな音がしてたけど。何かあったの?」
「……ああ、桜乃と菖衣だよ。客の取り合いで大喧嘩」
「またあ? 懲りないね、あいつらも」
桜乃、菖衣。共に付き廻しの下の位、部屋付きと呼ばれる女郎だ。やれ衣の色が被っただの、やれ自分の食事が少なかっただの、寄ると触ると掴み合いをしている。
もっとも、一番多いのは、「あの客は私が狙ってたのに」という喧嘩だ。張見世女郎――店の軒先に座り、手練手管で客の関心を惹いて、店内に呼び込む女郎――の最上位である二人は、質の良い客を巡ってしょっちゅう争っている。
「あとで遣手から折檻だろうよ」
「可哀想に。庇ってあげなよ、蓮見姐さん」
「イヤだよ、面倒くさい」
肩を竦めて言う蓮見に軽く笑い、牡丹は燗を持ち上げた。もちろん、「庇ってやれ」など本心ではない。牡丹は手ずから盃を酒で満たし、また一息に呷る。開け放った窓からは、春先の暖かな空気が流れ込んでくる。
大あくびをした牡丹は、ふと、窓の外を駆け抜ける悲鳴と怒声に気が付いた。
「――蓮見、あれ」
「ん?」
呼ばれて、蓮見が窓から身を乗り出す。中見世が並ぶ通りの裏、細く曲がりくねった道を必死に駆ける男女を、怒号を上げた男たちが追いかけて行く。
蓮見は目を細め、囁くように言う。
「……追いかけてるの、『紅楼』の男衆?」
「だろうね。……逃げきれなかったか」
夜闇に紛れて間夫――代金をもらわずに相手をする、女郎がうっかり本気になってしまった間男――と共に逃げようと、朝帰りの客に紛れて大門を出ようとした。けれども、門の見張りに怪しまれ、裏通りで息を潜めているうちに、見世の男たちに見付かったのだろう。
ここでは良くある話だ。
「莫迦な女だ。妓楼なんて所詮、虚構芝居のかりそめの舞台。そう割り切って、求められる仕事をすればいいのに」
うっかり客の言葉に本気になり、入れ上げるから、人生踏み外すのだ。
逃げた女郎が捕まったのち、待っているのは、情け容赦のない折檻。
地獄の責苦の後、たとえ一命を取り止めたとして。多額の借金を上乗せされ、その男とは二度と会えない。何の位の女だったかは知らないが、この先は最下位の女郎として見世先に張り付き続けるか、河岸見世に売り飛ばされて夜鷹になるか。
逃げる女の将来を案じて、溜め息をつく牡丹に、蓮見はそっと目を伏せて微笑んだ。
「――あんたは、そうだろうね」
「え?」
か細い声が聞き取れず、首を傾げる牡丹に、蓮見は「何でもないよ」と頭を振る。腑に落ちない牡丹だったが、親友の言葉足らずはいつものこと。すぐに飄々とした表情に戻った蓮見は、同輩と客の噂話を次々に繰り出し、牡丹も嬉々として彼らを扱き下ろす。
結局牡丹は上客向けの秘蔵の茶まで提供させられ、「夜見世開始前になっても、蓮見姐さんが戻らない」と焦った禿が駆け込んでくるまで、二人は馬鹿話に興じた。




