排水溝
幼い頃、母からよく聞かされた脅し文句があった。
「排水溝から、もう一人のあなたが出てくるよ」
栓が抜かれた湯船の排水溝に、お湯が渦を巻きながら吸い込まれていく様子が面白くて、渦の中に指を突っ込んでいた僕の行為をやめさせるための方便だろう。
「そんなことをしていたら排水溝に吸い込まれて、代わりにここからにゅ〜っと、偽物のこうちゃんが出てくるよ」
僕が吸い込まれてしまうところまでは分かるが、その上偽物が「にゅ〜っと」排水溝から滑り出て成り代わられるという点が、子供ながらにやたらと不気味で記憶に残っている。
今では母と一緒に風呂に入ることもないどころか、アパートで一人暮らしをしている。
そんな歳になっても、僕はなんとなく大量のお湯が吸い込まれていく様子が苦手なままだった。母の脅し文句を未だに信じているわけでもないが、一人暮らしを始めてからはシャワーを浴びるだけで、お湯を張ったことは一度もない。
しかし、その日は少しだけ事情が違っていた。
恋人を殺してしまったのだ。
日頃の僕からのちょっとした暴力に耐えかねた彼女が別の男と関係を持って…、などという経緯はどうでもよくて、とにかくカッとなってしまった僕は、近くにあった彼女の美顔器を掴んで、彼女の顔面めがけて何度も振り下ろした。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
美顔器がバラバラに壊れるまで彼女を殴り続けて、僕が我に返った時には彼女はもう抵抗の声をあげるのもやめていた。顔が潰れて口も無くなっていたから当たり前だ。僕の服も、彼女の服も、部屋のカーペットもカーテンも血まみれになっていた。
もちろん激しく動揺したが、とにかく僕は「片付けなければ」と思い、彼女の体や血まみれの服たちを風呂場へ移動させた。汚れた物は数も多ければ範囲も広い。はやく洗わないとどんどん汚れが落ちにくくなってしまう。
散々考えた末に僕は、仕方なく湯船に水を張ることにした。
浴槽の半分の高さほどにためた水の中へ、洗いたいものたちと洗剤を入れると、たちまち水は溶け出した血で真っ赤に染まる。
服に付いている血痕は赤黒いのに、水に入れるとまるで赤い絵の具を溶かしたような鮮やかな色になるのが不思議だ。
ようやく汚れたものたちの洗濯が終わり、今度は彼女を「片付けなければ」と思った。
バラバラにする?何か酸のようなもので溶かす?
なんにせよ、この狭い風呂場の床に転がしておいては邪魔だ。一度浴槽の中に彼女を入れておこう。そのためには、この鮮やかな色水で染まった水を空にする必要がある。
僕は少しためらったが、やむを得ないと排水溝の蓋に手を伸ばした。
ごぷぉっという音の直後に、それまでは凪いでいた湯船に水流が生まれて、薄汚れた排水溝の喉へと水はどんどん飲み下されていく。
僕はその様子を静かに眺めていたが、首筋がかすかに粟立つのが分かった。
ずずーっシュずずーっと苦しそうな声をあげて流れ込む大量の水。
ずっと眺めているとまるで吸い込まれそうな気分になってくる。
……まるで?
違う
僕の頭頂部を何か見えない力が引っ張っていて、体ごと下に向かっていた。
排水溝めがけて。
その力はあまりにも強くて、僕は必死に浴槽の縁を掴んだがなんの意味も無かった。抗おうと足を踏ん張っても、濡れた床を情けなく滑るだけだ。滑った足が、近くに転がった彼女の体を何度か蹴る。
あっという間に、排水溝へ額がつきそうになる程に僕の体は引っ張られていて、閉じることもできない僕の目は、服に飛び散っていた彼女の髪と小さな肉片が排水溝の淵に引っかかっている様子をよく見ることができた。
その向こうに、何かいた。目があった。
排水溝の中に、誰かいる。
「いやだ」と叫ぼうとしたが、声は出なかった。体が細く小さくなっていくような息苦しさを感じ、少しずつ視界が黒くなっていく。体の周り全てが硬いもので包まれ、それが「壁」だとすぐに理解した。
暗い、狭い、臭い。……一生出られない。
意識を失ってしまいたくて堪らなかったが、僕の五感は以前より敏感だった。
わずかに見えた丸い光の中で、人影のようなものが動くのが見えた。
あれが新しい「僕」なのか、「僕」は彼女の死体をどうしたのか、もう何も分からない。
僕は今も、排水溝の中にいる。




