オジサンのままでいて
「第9回私立古賀裕人文学祭」参加作。
お題のテーマは「ママにならないで」。執筆持ち時間は1時間です。
本物の草じゃないね、と夏の夜にケチを付けたのは、私がまだ幼児だったからだ。
跳ねるような私の指を手のひらで好きにさせながらも、手首をしっかり掴んでいたオジサンは、やたら長ったらしい説明と化学式で、ことの次第と合成香料の配合を説明してくれた。
けれど私は幼児だったからやっぱり理解できなかったし、オジサンもどこかの電子辞典からの引用しただけだったから、今だって理解できたかは怪しかったのだ。
それでも私は話し相手ができたことが嬉しくて、オジサンの汗もかかない、匂いもしない首筋に、通りがけにちぎった草の葉をほぐしてその汁をなすりつけたのだった。これで夏の匂いがするね、と。
錬金術は等価交換だという。なら、欲望と理性も等価交換なのかもしれない。
快適さを得た人類は地球上の資源を消費することを止められなかったので、世界の偉い科学者たちは話し合って人類に理性を外付けすることにした。
つまり、マザー・コンピュータを追加したのである。
民主主義による国会の意思決定。気温の予測と注意報の発令。人口の調整。工場の生産高。様々な予測と調整に、合理的で理性的なもの、計算と予測に、マザー・コンピュータは関わることになった。
そういえばそもそも、何故ファザーでなくマザーなのかは分からない。色々な小さなコンピュータを生み出し統合しているからかもしれないし、国会は相変らず高齢男性が占めていたからバランスがとれると思ったのかもしれない。
ともかく彼女は「ママ」と呼ばれ、人類は彼女との二人三脚で、倫理的で理性的な生活を営もうとしていた。
ところで伝統的なSFでは、コンピュータは暴走するものと決まっているらしい。
元々そのようなプログラムを仕込まれていたり、完全なコンピュータの善意であることもあったが、人間との感情や感覚の齟齬がしばしば被害をもたらすらしいのだ。
合理性を求める余り外れ値を処刑したり、入り込んだ虫を退治するために室温を200度のオーブンにしてしまうとか、そういうやつである。
「ママ」を開発した科学者たちはその辺のことをよく心得ていて、彼女の独善と暴走を防ぐため、AIを常に変化する人類に寄り添わせるために様々な体験をさせることにした。
それが、一家庭に一台のアンドロイド貸し出し政策で、人は彼らと十年をともに暮らすことを義務づけられた。
老夫婦のところには力仕事が得意なアンドロイドが、多忙な独身のところには家事が得意なアンドロイドが派遣された。そうして彼らが抱える――そして変化する――それぞれの家庭の問題を把握し解決して学んだアンドロイドたちは年月が経つと回収され、その全てを「ママ」に移植される。
そうやって「ママ」は政策決定時にも、様々な人の視点で考える。人々を気にかけることを学ぶ。時に、公園で出てくる水の量を、その人に合わせて勝手に調整してくれるほどに。アルコール依存症患者には、自動販売機が酒類の販売を拒否することもあった。
私の両親は仕事で忙しかったので、私の子守役のアンドロイドを選んだ。穏やかで家事が上手くて暴走しなくて――当たり前だが――人間に擬態することがそれほど上手くない旧式のタイプだ。
私は学校から帰宅すると彼の作ったおやつを食べ、一緒に子供番組を見たり一緒に遊んだり勉強の面倒を見てもらった。
彼は見た目はまだ30歳くらいだったのに、受け答えは友達の家庭にいるアンドロイドよりずっとぎこちなくて、なんだか子供と接するのが苦手な親戚みたいだったので、私は叔父みたいなその人を「オジサン」と呼んでいた。
週に一回の習い事の帰り道、私とオジサンは遠回りをして少し大きな公園で暇を潰し、近くの店で売っているお菓子を食べるのがお決まりだった。
今川焼きとか大判焼きとか呼ばれているその名前は100種類以上あるらしい、とオジサンは律儀に話し始めて、30個くらい聞いたところで私は止めた。
湯気と握りしめたせいで、くしゃっとなった今川焼きは泣きそうな顔をしていた。
「泣きそうな顔に見えるんですか。困っている顔でなく?」
旧式のオジサンは人の表情を読むのが苦手だったけれど、子供の考えを読むのはもっと難しかったに違いない。
「オジサンはもっと人間のこと知った方がいいよ」
私はその日から、今川焼きに顔を描くようになった。紙の上から爪を立てることもあったし、帰ってからチョコペンやホイップのスプレーで一緒に髪を付けたりもした。
だから私たちの間で今川焼きのことはいつしか「頭」と呼ばれるようになっていた。
私はとんでもない顔を描いてオジサンに無茶ななぞなぞを出して、オジサンはそれに一時間以上頭を悩ませて、三日後になって突然答えを話し出すこともあった。
オジサンは律儀だった。
数年経って一人で習い事から帰れるようになっても、たまにオジサンは「頭」を買ってきてなぞなぞを出してくることがあった。
私はその遊びにはとっくに飽きていたけれど、フィードバックが欲しいんですと言って、あらゆる顔を――まるで漫画家みたいに描けるようになったオジサンが、私が悩む顔をにこにこして見ているのは嫌いじゃなかった。
約束の10年が過ぎた。
オジサンは、政府の人たちによって回収される最後の日にもなぞなぞを出していった。とびっきりわけのわからない顔をした「頭」を置いて。
「アンドロイドが覚えた些末な出来事や、個人に関わる情報は全て削除され、また識別できないようにされた上で――」
政府の人の話を両親は聞き終えると、長ったらしい書類にサインをした。私はまだ未成年で自分でサインする必要も義務も、権利もなかった。
しかもオジサンの行動も記憶も全部「ママ」に取り込まれる。世間をよりよくするための素晴らしいAIの一部になるのだ。
あれから時が流れて私は母親になった。
夏の日、習い事の帰りに子供の手を引いて懐かしい公園に行けば、昔よく「頭」を食べた公園の店はまだあった。
記憶よりずっと小さい店頭で、記憶よりずっと小さくなったお祖母ちゃんがまだ「頭」を焼いていた。
二つ買って、公園で食べようとベンチに座る。手元のそれをずっと使い続けていた古いスマホで写真に撮って、懐かしいとコメントを載せてSNSにアップしようとしたとき、画像検索のボタンを押してしまった。
「ママ」のAIが勝手に話し出す。
『それは頭と呼ばれるお菓子で』
『頭?』
『失礼しました。今川焼き、大判焼き、回転焼き、あるいはベイクドモチョチョと――』
ぽたりと水が画面に落ちる。
それはただのバグだったのかもしれない。偶然だったのか、どこかで録音された言葉だったのかも。散々話していたから。
昔撮った、あの日の、訳の分からない「頭」の写真を呼び出す。
「……ママ、泣いてるの?」
ぐちゃぐちゃの「頭」は、たぶん今の私と同じ顔をしていた。