第三話「桜の影、揺れる想い」
人は、いつからか誰かを特別に思い始める。
それがいつの瞬間なのか、はっきりとは分からない。
ただ、言葉の端に心が揺れ、視線が交わるたびに、微妙な違和感が生まれる。
桜の木の下で過ごす時間は、穏やかで変わらないはずだった。
けれど、ふとした瞬間に鼓動が跳ねる。
相手の仕草や言葉が、以前よりも強く胸に残る。
この想いは、ただの親しみなのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
確かめることも、言葉にすることもできないまま、春の風に乗って気持ちは揺れていく。
春乃の視点
桜の木の下で過ごす時間が、春乃にとって特別なものになりつつあった。
彼と交わす言葉は少ないけれど、その静けさが心に染みる。
けれど――。
彼の気持ちは、どこにあるのだろう。
春乃は、ふとそんな不安を抱く。
「今日は、どんな詩を読んでるの?」
春乃が問いかけた瞬間、自分の声が少し高く響いた気がして、心の奥で小さな波紋が広がった。彼はふと顔を上げ、優しく微笑むでもなく、ただ自然にページをめくる。その指先の動きが、なぜか胸の奥をかすかに締めつける。
「散る花は 何を語るか 春の風」
その詩の一節が、静かに空気を震わせる。春乃の心は、まるで薄氷の上に立っているような不安定さを覚えた。散る花――それは儚さと別れを示唆している気がして、胸が締めつけられる。
「……いい詩だね。」
言葉は自然に口をついて出たが、心の奥では彼の気持ちを探るような焦りがあった。彼はふと春乃を見た。その一瞬、視線が交差し、春乃の心臓は跳ねるように大きく鼓動を打つ。その熱が頬にまで上り、目をそらすことで必死に気持ちを隠そうとした。
「君も、詩が好きなんだね。」
彼の穏やかな声が、不思議と心を温かく包む。けれど、その優しさが曖昧さを纏っていて、春乃は戸惑った。彼の気持ちはどこにあるのだろう。その答えが見えないことが、胸に小さな痛みを残す。
桜の花びらが静かに舞い落ちる中、春乃の心は、言葉にならない想いで揺れていた。
彼の声は静かで、けれどどこか柔らかかった。
春乃はわずかに頷きながらも、心の奥で渦巻く感情を抑えきれず、視線をそっと桜の花びらへと逃がした。
彼の気持ちが見えない。その曖昧さが、春乃の胸に小さな痛みとして刺さる。何気ない言葉や仕草のひとつひとつに、意味を探そうとしてしまう自分がいる。
「どうして、こんなに不安になるのだろう……」
心の中で問いかける声が、答えのない空白に響くだけだった。その瞬間、舞い落ちる桜の花びらが、まるで彼の気持ちを映すかのように儚く感じられた。
彼の視点
春乃が詩を読む姿を、彼はそっと見つめていた。
彼女の指先がページをめくるたびに、風が桜の花びらを揺らす。その動きが、まるで彼の心の奥に小さな波紋を描くようだった。
彼はふと、自分がなぜこんなにも彼女の仕草に目を奪われるのか考える。胸の奥に広がるこのざわめきは何なのか。その答えを見つけられないことが、もどかしくてならなかった。
「……いい詩だね。」
春乃の静かな声が、彼の思考を断ち切る。その瞬間、彼は無意識に彼女を見つめ返していた。視線が交わる一瞬、心臓が強く脈打つ。その鼓動は、まるで自分の中の答えを示唆するかのようだった。
けれど、彼はその鼓動の意味に気づくことを恐れていた。気づいてしまえば、何かが変わってしまう気がしたからだ。
「君も、詩が好きなんだね。」
自分の声が少し低く、どこか震えているのを感じた。春乃は微かに頷き、視線をそっと逸らした。その仕草に胸が締めつけられる。彼女の気持ちはどこにあるのだろう。この不確かさが、彼の心に静かな痛みを残す。
二人の間に流れる沈黙は穏やかでありながら、彼にとっては耐えがたいほど重く感じられた。彼はただ、春乃の存在によって揺れる自分の心をどうすることもできずにいた。
桜の花びらが舞い落ちる中、彼の心は、言葉にならない感情と向き合おうとする小さな葛藤で揺れていた。
桜の木の下で交わされる短い言葉や、一瞬の視線の交差。
そこに生まれるのは、何気ないやり取りのはずだった。
けれど、春乃と彼、それぞれの胸の中では小さな波紋が広がっていた。
相手の気持ちが見えないもどかしさと、確かめたいけれど踏み込むことができない切なさ。
桜の花びらが舞うたびに、その想いが揺れ動いていく。
お互いを意識し始めた瞬間の、言葉にできない感情たち。
それがどんな形を取るのか、まだ分からない。
春の風に乗って芽生えたこの想いが、次の季節にどのような物語を紡いでいくのか。
ふたりの揺れる心の行方を、どうぞそっと見守ってください。