3 通じない言葉は「宣戦布告」
「ねぇねぇ、知ってる? 尾張っぴ」
なにも内容も示されず、知っているかどうかを訊かれても、「知らない」としか返す答えはない。けれども、ぼくは友人のよしみで「なんですかー?」と、質問の正答になっていない答案を返す。
「ここら辺にさ、『真戒女子高等学校』ってあるじゃん。ほらぁ、あの通称『馬鹿高』て言われてる、あの日本一ヤバい学校」
ぼくと――ぼくの唯一の友人は、体育をサボって、グランドに生えている松の木陰で座っていた。こんな陽射しの強い――三十度越えの猛暑日に持久走なんて、まっぴら御免だ、というぼくの考えは、見事に友人の考えと一致し、この状況に至る。いやぁ、わかりあえるってことは、いいことだ。
友人は――強い暑さによって、その身体から、放出され、滴り落ちている汗を意に介してなんかいないようで、熱心に、それこそ、熱中して右指の爪に、ネイルを塗っている。その姿は牛丼とかのつゆだくなんかよりも、汗でだくだくになっていた。白い半袖の体育着なんか、もうびっしょり濡れていて、ほぼ完全に透明になって肌と同化している。そのおかげで、今日の友人のブラが、派手であることが判明したばかりでなく、友人のムッチリとした肉体が鮮明に浮き上がっていた。ほんまにありがたや~。
「あぁ、あそこですね。あそこ。あそこがどうかしました?」閑話休題。友人との話に戻る。なんか、ぼくのこの台詞の文字面だけ見たら、ぼくが友人に、いやらしいことを訊いているように見えるのが、どうしても頂けない。
「あーしのアソコはどうもしないけど」友人もそう受け取ったらしい。そんな、品のない意図は一切なかったのだが、健気に応えてくれる友人に対して、とてつもないほど、強い罪悪感に襲われた。
「あそこ、馬鹿高ってさぁ、なんて言うかぁ、先生が生徒ぉ殴ったり、蹴ったりするオッケーなんだって」
「それって、体罰をしてもいいってことですか? 法律に触れません?」
体罰は完全、完璧に学校教育法に抵触する行為であり、下手したら暴行罪、傷害罪まで至ってしまう、危険な代物だ。ぼく自身もあんまり――よくは思っていない。
「それがさー、国がオッケー出してるみたいなんよ」
「く、国がっ?」
それが本当ならば、流石に本末転倒である。わざわざ学校教育法なんて定める意味も――体罰をした教師を捕まえて、テレビニュースとかで流す意味も――根本的になくなる。
「そうそう。なんか、特別みたいなんよ、あそこ」
友人が右手を思いっきり、自分の顔の前に近づけながら頷いた。ネイルの方が苦境に入ったようである。その際、友人のすけすけの、乳房がぷるるんっと揺れ、見てるこっちが究竟に突入しそうになった。危ない、危ない……。
「前、聞いた話だとねぇ――前まで、あそこ、学校内で抗争していたみたいなんよねぇ。なんか、面倒臭いハングレみたいな奴がいっぱいいたみたいで」
そんな感じの話は、噂程度で何回か聞いたことある。
「で、その抗争が、学校の外にまで発展しちゃったみたいでさぁ。それに、なんか偉い人――ブンブカガクダイジンだっけ――まぁ、その偉い人の娘が巻き込まれちゃって……死んじゃったみたい」
「それ、知っています」多分、友人が言ったのは、ぼくが小学校入りたての時に起こった、事件のことだろう。当時の文部科学大臣の娘が、未成年で組織された危険集団のバイクに轢かれて亡くなった事件。その事件をきっかけに未成年に対する刑事罰やら、教育の仕方やらが、取り沙汰された。その意見のどれもが、インターネットの適当な情報や、今ではオワコン化している古い教育法から引っ張ってきたような、取るに足らない詭弁であったことを覚えている。
「それで、馬鹿高は体罰が許可されるようになったのですか」
「そうそう。そうなのよ。詳しいことはあーしもわからないけど、そんな感じでオッケーになったみたいなんねー」
「嫌ですね、そりゃ。殴られるのはまっぴら御免ですよ」
だよねぇと、ネイルが完成したようで友人はにこやかに右手をかざす。できがよかったのか、ご満悦な――にんまりとした笑顔を浮かべている。腕が上がっているので、その可愛らしい脇の下が丸見えである。なにか、ほわほわと湯気みたいなのが出ている――脇の下。それを見ることができて、ぼくもご満悦でにんまりだ。
「まぁ、ぼくたちは頭の悪い方ですけど――」これは謙遜とかではなく、実際問題、この四三高校に入学したときから、ぼくと友人は成績の最下位と、その一つ上を独占している。「――そんなところに入らなくてよかったですね」
「けど、尾張っぴとなら、そっちに入ってもよかったかも」
「へっ?」
「だって、あーしが酷いことされそうになった時、尾張っぴが助けてくれるっしょ?」
わかっているような表情で言う友人に、ぼくは意地悪をしたくなった。なので、「さて、どうでしょうか?」と若干濁して返した。そんなぼくに対して、友人は「尾張っぴ、意地悪」と、そっと、ぼくに体を押しつけてきた。
変な心づもりはなかったのだろうが、そのお胸がぼくの腕に密着する。ぼくの地肌は、体育着の湿った感触、そして、ほんわかなやわらかさ、温かさを感じとったのだった。その時の、友がいるという安心感、別な雑多な意味も混じった幸福感は今でも、頭の中に強くひっつくように残っている。正直、これから先、永遠に、無限に、このままだと、いいなぁと思った。思っていた――思っていたけど――残念なことに、この世は諸行無常、永遠も永久も存在しておらず、その代わりに終焉が、終末が、千秋楽が、終わりが存在していたのだった。
その三週間後、ぼくは合唱祭で、例の不祥事を起こしてしまい、そのまま、友人を残して、ただ一人――馬鹿高――『真戒女子高等学校』に転校することとなった。友人はぼくの他にも色々友達がいたから、ぼくがいなくなった程度、寂しくはないだろうけど……だろうけど……。もう、これ以上はやめとこう……。
** *
墓井のバットが――ツインテちゃんの頭上を目がけて、振り落とされる。が――バットがそこにあたることはなかった。
なにせ、ツインテちゃんと墓井の間に、突如、障壁ができたのだから。墓井のバットが障壁にあたる寸前に――墓井はその腕をとめたのだから。
「転校初日から、見上げたフレンドシップだなぁ。尾張罪檎!」
障壁――このぼく、尾張罪檎は自分との間が、一ミリぐらいしかない、金属バットを凝視していた。ハインリッヒの法則を持ち出すまでもなく、こんな硬そうなのが、ぼくの頭に直撃した時のことを考えるとヒヤッともするしハッともする。けど――けど、こんなものにいちいち、怖気づいてなんかいられない――ぼくは墓井を見据えるようにする。
墓井は無表情を一切崩すつもりはないようで、そのなんにも感じられない――殺気と邪気以外、なんにも感じられない、その瞳をぼくに向けていた。
「なぁ――尾張罪檎、おまえ。せっかくだが、そこを退いてもらえないか? ほら、働き方改革で、アタシも仕事を増やしたくないんだ」
「せっかくですので、残業してみたらいかがでしょう? 残業代出ますよ」
「生憎、アタシの給料は残業代百時間分込みなんだよなぁ」
「あらまぁ、教師の職場はブラックと聞いていましたが、そこまでとは。そりゃ、同情いたします」
「同情するなら、休みをくれ」
墓井はぼくの額にバットの先端――ヘッドの部分をあてた。ひんやりとした、冷たい――金属の感覚が、ぼくの恐怖心に、ゆっくりじわじわと浸透して――侵蝕していく。白蟻みたいに。
「尾張罪檎。アタシの前から今すぐ引っ込め。これは生徒の心から、歪な異物を撤去し矯正するという、教師の正統な仕事であり、正当な行為だ。おまえの行動は、ただ、おまえ自身のくだらない正義感を満たすだけであって、おまえのためにも、後ろの奴のためにも、なんのためにもならない」問い詰めるように、墓井が顔を近づける。「それに、これ以上、庇うとなると――アタシはおまえも矯正しなくてはならなくなる」
「わかりました」――墓井の今の言葉――墓井の一言一句――「歪」「異物」「撤去」「矯正」「正統」「正当」「仕事」「行為」「行動」「正義感」「庇う」……で、ぼくがとる次なる行動が、完全に定められた。
「わかってくれたか?」
「えぇ、もちろんです」
「じゃあ、退いてくれるか」
「――いやです」
教室が騒めきたつ。まるで、突然現れたライオンに怯えている草食獣のようだ。ぼくが墓井に逆らうのがそんなに恐ろしいのかい、皆。
「おまえ、なにを言っているかわかっているのか?」
「墓井先生――あなたの熱血教師ぶりには感服いたしました」
実際問題、一対一不可説不可説転ぐらいで、課題をやっていないツインテちゃんが悪党で、それを懲罰しようとする墓井は正義だ。だけれども。けれども――
「それが真善美によるものであっても――それが貪瞋痴によるものであっても――ぼくは絶対に、暴力を使って人を支配することを、許しちゃいけないと思うのですよ」――だから、だからこそ――
「暴力を使わなきゃ、その安っぽい教師観を満たすこともできない、あなたに従うことはできませんし――絶対に死んでも従いません」ぼくは誠心誠意、敬意を込めて、目の前の――ぼくが今まで見てきた中で六十一番目ぐらいにしょうもない人間、墓井無頼花に断った(ついでに、自分の順位は三十二番目ぐらいだ)。
『高校生活をいかに平穏に、難なく、楽しむこと』が、高校生活で最重要の課題なのならば、『暴力に絶対屈さない』という標語は、ぼくの人生の――最々重要の課題である。一生における最々重要が達成されるのならば、墓井に反逆して高校生活での最重要を失ったとしても、ぼくにとっては、痛くも痒くもない! むしろ気持ちがいい!
「ふ、ふ……ふはははははははははぁ‼」
墓井は笑い出した。狂ったように――壊れたように。
「じゃあ、戦争だ! なら、戦争だ! もう、戦争だ!」――笑ったと思ったら、怒りはじめた。
「もはや、話が通じないなら、考えが通じないなら、わかりあえないなら、戦争しかない!それ以外の道はない! そうだろう⁉」――怒りはじめたと思ったら、怒鳴りはじめた。
「そうだろう⁉ 尾張罪檎ぉ‼」――怒鳴りはじめたと思ったら、戦争をはじめた。
いつの間にか、墓井の怒声が宣戦布告になっていて、ぼくと墓井の――比喩じゃない本物の戦争が、はじまっていた。