10 可愛い「と」いかつい
時刻は午前八時を回る。朝のホームルームは八時半からなので、登校するにはまだ余裕があるというわけだ。わけだが、ぼくは律儀にも登校を終え、自分のクラスの前まできていた。
教室には意外にも多くの人がいる。席に座って勉強をしていたり、グループを作って駄弁っていたりしている。顔を見る限り、皆、ぼくのクラスメイトだ(自負になるのだが、ぼくの記憶力はいい方で――人の顔は一度見たら滅多なことがない限りは忘れない)。今、夢の世界で冒険をしているツインテちゃん以外、ほぼ全員集合している。きっと、遅刻した時の懲罰――個室にて、教員となんやらかんやら――が怖いのだろう。
「おはよー」と勇気を振り絞って挨拶をしながら入ってみる。
すると、教室中の人間がぼくへ目を向けたと思ったら、一斉に教室の隅へ逃げてしまった。そこから、変態や変質者を見るような感じで。ぼくに侮蔑と軽蔑が混じった目線を送ってくる。
「えぇ……」思わず絶句する。
「だ、駄目、近づいたら……」「胸揉まれて、裸にされちゃうかも……」「下手したら妊娠まで……」心なしか、心ないヒソヒソ話もしているような……。
うわぁ、中学時代を思い出す。中学校のクラスメイトもこんな感じで、ぼくに『悪魔憑き』だの『エロ画像生産機』だの、酷いあだ名をつけて避けていたなぁ……。
――高校きてまで、こんな、つまらないこと思い出したくなかった。
繊細な乙女であるぼくは――精神的にすぐ傷つきやすい。打たれ弱いとでも表現すればいいのだろうか。ぼくの心は今回のことで、影も形も跡もなくなるぐらい――粉々に粉砕されてしまった。つまり、ぼくの今の状態は、中心 (中の心)がない方の無心状態なのである。
よし、帰ろう――ぼくが踵を返した、その刹那――「えぇっ⁉」床がツルツルしていて、ぼくの足が滑ってしまった。待て、なんでツルツルしているのだ。
その答えはすぐにわかった。ぼくの目の前の娘――セミショートと萌え袖が特徴的な娘――通称『可愛いちゃん』がタピオカティーを床にこぼしてしまっていたのだ!
うぉいぃ、まだタピオカ流行っているのかよぉぉぉ⁉ どうでもいい話なのだが、ぼくがはじめてタピオカティーを飲んだのは前の学校で、唯一の友人に洒落乙なカフェに連れていってもらった時だ。いやぁ、あの時のタピオカは美味しかった。友人の開いた制服から見える胸の谷間も最高で……ガチで、クソほど、どうでもいいわ‼
今のぼくは前に向かって倒れている。そして、その前には――可愛いちゃんが呆然と突っ立っている。「避けてくださぁぁぁぁい!」ぼくの叫び虚しく、ぼくは可愛いちゃんを巻き添えにして、すっ転んでしまった。
「きゃあああぁぁぁ!」
可愛いちゃんは大胆にも両足を開いた姿勢で尻を床につけた。スカートが思いっきりめくれていて、可愛い柄のパンティーが丸見えである。で、ぼくはどうなったのか? ぼくはその上から被さるような姿勢になっていて、パンティーに鼻をつけそうなぐらい、顔を可愛いちゃんのお股に接近させている。
「はっ!」ぼくは顔を離し、すぐに起き上がる。床がタピオカティーで濡れていたので、ぼくのブレザーもびしょびしょだ。シャツが透けて今日のぼくの、紫色のブラが全面公開になってしまう。
「き、き、き、き……貴様なんか、死ねばいいのにっ!」
可愛いちゃんは大胆な姿勢のまま、凄まじい……それこそ、憤怒の形相で叫んだ。恐れるべきはずのその声を――可愛いらしいと思ってしまう、このぼくの心情が不思議でたまらない。
「ひぇぇぇえええぇぇぇ!」ぼくは負けじと奇声を上げる。「ごめんなさい。ワザとじゃなかったのですぅぅぅ!」
「で、どうするつもりなの貴様?」可愛いちゃんは立ち上がって詰め寄ってくる。「わだす様に恥をかかせておいて、なんもしないってことはないよね?」
「わだす様って……」
いや、タピオカこぼしたおまえにも非があるだろ――と言いたくなったがやめた――タピオカティーをこぼしたのは、もしかしなくても、ぼくの超能力のせいだろう。多分、全面的に悪いのは、ぼくだと思う……。
「な~んちゃって」可愛いちゃんは急に笑顔になった。
「驚いた? 怖かった? もしかして、泣いちゃった? ごめんね~。飲み物をこぼした、あだす様も悪かったね。けど、あなたを見ていると、少しからかいたくなっちゃってさ。押し倒された時、意地悪しちゃった、テヘッ」
笑いながら手をあわせて、可愛い謝罪のポーズを取る、可愛いちゃんを、ぼくは、ぽかーんとしながら、見つめていた。
「確か、尾張罪檎ちゃんだったよね。わだす様は寿松木可愛と言うんだ。よろしくっ」差し出された手――
――状況を飲み込むことに時間がかかっているぼくは――ただ瞬きしながら、その手を見つめることしか、できなかった。
「あぁ、もう、友達ってこと!」可愛いちゃんは、そんなぼくの手を無理矢理引っ張って握手した。
「あぁ、そういうことですか……」全くもって、なにが起きたかは理解してはいなかったが、とりあえず、ぼくと友達になりたいみたいなので、手を握り返しておく。
「よろしくお願いいたします」
そこに、可愛いちゃんの後ろから、もう一人、女の子が現れた。
「なんや、おまえ、びしょびじょやないかい」
ぼくの斜め前の席の日焼けした肌のボサボサ髪の女の子だった。こんがり日焼けした顔に脂汗がにじんで、てかてかしている。やはり、いかつくて怖い。
「美女がびしょびしょってな。ほら、これ」斜め前の席の子――通称『いかついちゃん』はタオルを差し出してきた。
「ありがとうございます」タオルを受け取り、ブレザーを拭く……が、拭くことはできなかった……。なにせ、それはタオルでも拭物でも、なかったからだ。「これは……」パンティーだった。黒色のパンティー。しかも、なんか妙に暖かい。
「あぁ、間違えてオレのパンティーを渡してもうたわ。ごめんなさい」
いかついちゃんはぼくの手から、パンティーを取り上げて、なんと――その場ではいた。
え、パンティーとタオルってどうやったら間違えるわけ? またもや、軽い混乱に陥る。流石、『真戒女子高等学校』……。一癖、二癖、どころか奇癖まであるぞ! まて、これももしかしたら――ぼくの超能力が呼び寄せたラッキースケベなんじゃないか。そうなるとしたら、ラッキースケベが人の思考を歪めていることとなる……。ぼくは新たなる自分の能力の可能性を見出した気になった。
「で、この娘は学級委員をやっている鹿塩平安ちゃん。色んなこと知っているの。呼び方は自由でいいけど、気軽に『カシちゃん』って呼んであげて」
「呼び方自由でいいって、おまえなんなんねん、晒されたいんかボケェ?」
可愛いちゃんの言葉にツッコミを入れる、いかついちゃん改め、カシちゃん。
「そんなことよりなぁ」
カシちゃんは近くにあった椅子の上に乗って――「皆ぁ、よく聴けな。今日、墓井休みらしいで!」――その小柄な体に似合わない大音量を出した。クラス中の人間の注目をカシちゃん、一人が浴びることとなった。
というか、墓井、今日お休みなの……?
「まぁ、昨日、皆の前で脱がされた挙句、あんなことやこんなことをされっちまったかんなぁ~」カシちゃんはいやらしいモノを見るような目で、ぼくを見た。
「ほっ、ほっといてください!」とは言ったものの……実際、ぼくが原因で学校にこられなくなったのなら、罪悪感は――芽生える。
「あぁ、後、尾張罪檎さんに特別なお知らせや」
「なんでしょうか?」
「おまえんこと、『ホムスビ』が狙っているかんな」
「お、おむすび?」
「火結煙造。二年二組の担任の体育教師や。墓井んことを姉貴、姉貴と、べったり慕っていてなぁ、今回、墓井が脱がされたって聞いて、かなりブチ切れているみたいなんや」
あぁ……いかにも厄介そうだ。『姉貴』という言葉が出てきた時点で、ぼくは耳を塞ぎたくなった。
「まぁ、あいつも担任だし、仕事も多いからなぁ。すぐすぐってわけやないやろうけど、休み時間とか気つけや」
どうやら、ぼくに休んでいる暇はないようだった。これから、ぼくは火結煙造という名に気を配るのみならず、いつ戦いになってもいいように己の気も引き締めなくてはならない。