8 見た目判定は致しませんので
室内に入ったハッサンさんは、その室内の絨毯の中央で転がっている親父を見て、足を止めてしまった。
「倒れているのだが」
「昨日徹夜で三曲仕上げて、力尽きているだけなので問題ありません。お腹が空いたら起きたりしますし、喉が乾けば呻きます」
「父親の扱いなのかそれは」
「正しい親子の形と言うものは果たしてあるんでしょうか」
「それを言われると、確かにとしか言いようのない事だ。正しい親子の形は親子で違う」
あ、この状況に引いたりしないのか、と思うといかにハッサンさんの胆力がある事をうかがわせた。
今まで家にまで来た人達のほとんどが、親父がその辺で倒れているように寝ていると、顔を青くさせて出て行ったものだから、この反応は少し新鮮でもあった。
そうか、ハッサンさんは受け流す事を知っているのか。
そんな事を頭の片隅で思いながら、私はとりあえず彼に適当に座ってもらって、たった今くんできた冷たい水を差しだした。
「どうぞ」
「ありがとう」
そんな事を言った後に、さて話とは何だろうと思って私が黙っていると、彼の方も話の切り出し方を考えていたらしい。
透明度の極めて高い金色が、じっと私を見ている。
私はそれを見つめ返して、やっぱりこの人は、私の夫の違う未来なのだなと改めて思った。
私の夫だったあの人は、瞳の金色が、高温で融けて流れる黄金のような色をしていたからだ。
この人はそう言った、かなり特殊な瞳をしていないから、違う部分がはっきりと見えていた。
その彼が、真面目な顔で問いかけてくる。
「……あなたは、王が紹介した相手が私でよかったのだろうか。何か不満があるならばすぐに、王に伝えて、もっと条件のいい相手を紹介してもらう事もきっと出来るのだが」
「あなたは自分が、王様に紹介してもらえるほどの素晴らしい人物だっていう自覚は、あまり持っていないのですね。王様があんなたくさんの人の前で、あなたを呼び寄せて、紹介したというのに」
「……私はこの顔だ。あなたも分かっているだろうが、見目はよくない。問題があるとはわかっているのだが、女性と何か楽しい会話というものも、経験がない事も有ってできない。あなたが恋人にして楽しい男とは、とても言えないだろう」
「確かに、ちょっと人に話を聞いただけでも、あなたは見た目が怖くて、女性たちに怖がられているって言われるほどでしたね。でもそれが私とあなたの間に一体何の関係があるんです?」
「……?」
きっと彼の言っている事は現実なのだろう。
近衛兵の中でも階級が下の方の彼は、見た目のおっかなさも相まって、近衛兵にあるまじき、女性に言い寄られない人生だったに違いない。
近衛兵というものは出世株で、普通に考えれば女性たちのあこがれの的になる職業なので、それでモテないっていうのはかなりの問題を抱えている人なのだ。
そしてハッサンさんは、見た目がやや怖い事で、女性達が寄ってこない人生だったのだろう。
王様や、ケビンのような見た目の男性が砂漠でも色男だと言われるこの世界では、想像に難くない。
私が親父と一緒にハレムで見た王様は、優雅な人で、筋骨たくましい、隆々とした体の持ち主とは言えない人だった。
顔も、ハッサンさんとは違う感じで、これが砂漠の色男なのかと言われると、言われれば納得するだけの整い方をしていた。それは過去の私の故郷で、見目麗しいと言われていた人達とは若干違うが。
そして、素晴らしい恋人を紹介してもらったはずなのに、こんなはずじゃなかった、と私が言ってもおかしなところがないのが自分なのだ、という自覚のような物が、この人にはあるのだろう。
しかし、その怖い顔も、女性達が遠巻きにしてしまう逞しい体も、私にとっては悪い部分ではないのだ。
私はまっすぐに彼の顔を見て言い切った。
「私は今ここにいるあなたの事を何も知りません。でもあなたが、今ここで私を心配しているくらいに、良い人だという事は明らかです。そして単なる事実として、私は今のあなたを怖いとは欠片も思わないのです」
今のハッサンさんの事は何にも知らない。
でも、こうして家に訪ねて来て、自分よりもいい男性を新しく紹介してもらうべきではないか、と心配して忠告してくるほど、お人好しな事は今分かった事だ。
そして、一番大きなところとして、私はこの顔もこの体も怖いと思わないのだから、見た目云々で彼とのあれこれを否定する事はありえないのだ。
私が今のこの人を愛しているのかと言われたら、夫だったあの人と全く同じ人とは言えないから、わからないとしか言いようがない。
だがこれから歩み寄って、お互いの事を知っていく事は、何も無駄な時間ではないと考えられるのだ。
あの人の事を忘れたいというわけでも何でもなく、こうして、王様というとんでもなく強い立場の人に紹介された事を強みにすれば、彼の近くに居られて、彼が本来感じるべきだった幸せを近くで見られるという、役得があるという考え方だ。
それに漠然とした直感に似たものが、今回も私はこの人を愛するんだろうと告げて来ている。
男女の仲で直感というものは大事だ。人の好き嫌いは直感によるところも大きいのだから。
「俺が怖くないと」
余りにも驚きすぎたんだろう。彼が丁寧な口調がはがれかけた声で言う。それは、きっと相手を怖がらせないように気を使って、声色まで変えていた人にとって思いもよらない発言だったのだ。
「……何故?」
彼がやっぱり私の事を信じられないという調子で言う。
まあ、今まで誰からも怖いと言われてきた人生なら、怖くないという普通の女の子に見える相手なんて、珍妙な相手にしか思えないだろう。
怖くないのはどうしてだと聞くのも納得だ。
「だって、ただ目つきが悪くて、体つきがごつくて、身長が高くて、それだけでしょう? 私あなたが、理由もなく他人を殴り飛ばしているのを見たわけでも、高笑いしながら人を殺すのを見たわけでもないのだから」
「……いや、そんな現場を見た事があるのか……?」
「旅暮らしの楽師の娘をやっていると、そう言った色んな場面に出くわすんで、何回かそう言う状況を見た事はあります」
そこまで言い切ると、ハッサンさんは私が今まで出会ってきた砂漠の女性達とは何かが違うのだと、否応なく理解した様子だった。
そこで私は聞いてみた。
「私達に必要な手順は、きっと見た目を除外して、お互いの事を知っていく時間だと思いませんか。私は知らない相手を毛嫌いしたりは出来ないので」
「……私もだ。あなたを単なる普通の女性だと見てはいけなかったらしい」
「褒めてくれてありがとうございます」
にこっと笑うと、ハッサンさんは何か考えた後に、こう提案してきた。
「あなたは三日後は予定が空いているだろうか。私はその日が非番なので、あなたとどこかに出かけてみたいと思うのだ」
「三日後ですか、きっと空いていますよ。ハレムの女性達も三日後は、休息日という事を聞きましたから」
ハレムの女性達が休息日という事は、親父がハレムや王宮に足を運ばなくていい日というわけで、調弦などを担当する私も、自由な時間が取れるというわけだ。
そのためその申し出を受けると、彼は頷いた。
「では、午前中の鐘が鳴る頃に、またこの家にあなたを迎えに来てもいいだろうか」
「楽しみに待ってます、あ、でも私お洒落な格好が手持ちにないので、綺麗な私というものは期待しないでくださいね」
ふざけた調子で笑うと、彼がかすかに目を丸くした後に、ゆっくりと頷いた。