6 気になって仕方がない
この世界のあの人は、一体どんな人だと言われているんだろう。
ふと自宅で調弦を続けていた時に、思った事はそんな事だった。
私の前の人生で出会ったあの人は、人相が怖くてことごとく人から恐れられていて、人格はとてもよかったのに皆、目を合わせようとしない人だった。
お互いにそれを理解していて、それが失礼だとわかっていても、相手は視線をそらさずには会話もままならない人、それが前の人生で出会ったハッサンだった。
あの人は、過去が変わった事で近衛兵の中でも割と下の階級の立場にある事は分かった。
でもそれ以上の事は何もわからない。王様の精鋭である近衛兵の事を、砂漠の夜の町で働く楽師の、拾われた子供が知るわけがないのだ。
あの人は、今はどういう人生をたどってきたんだろう。
そう思っている間に、調弦のネジをやや固く締めてしまったらしい。
試しにはじいて音を確かめると、きつく締めた事で楽器に文句を言われているような音になった。
かたかたかた、とそれに対しての不満がたっぷりあるのだろう、親父の壺の暗闇が、壺のふたを鳴らした。
「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしていたんだ」
かたかたかたかた、とまるで楽器の調弦中に余計な事を考えるな、と叱るような音が鳴る。
この壺の中身を今まで一度も視認した事はないが、こうして音で意思疎通を図る器用な存在なのは、慣れているから驚いたりはしない。
他人が見たらかなり驚くのだろう光景でもだ。
ちなみに壺の持ち主の親父は、自宅の床に柔らかい布を広げて転がっている。
その場で倒れたような寝相だけれども、私は知っている。親父は昨晩、私に恋人が紹介されたという事で浮かれまくって、新たな曲を三曲も作って、一気に燃料切れを起こして爆睡しているだけだという事を。
この楽譜に似合う調弦をしておいて、と言って渡された譜面は、今までの親父の作曲したものと大違いの、甘くて華やかな音の塊だった。
「……そんなに、娘に恋人ができるのがうれしいなら、自分に恋人ができた時はもっと世界がきらきらしそうなのに、なんで親父は恋人ってものを作ったりしないんだろう」
譜面に合わせて楽器を調整して、とりあえず鳴らしてみる。調弦のための曲というものがこの世には存在していて、それで鳴らしてみて、加減や具合を確かめる事も広く知られた技法だ。
私はこれを親父から徹底的に仕込まれたので、譜面を見てすぐにそれを手に入れるという事は出来なくても、調弦の曲は何度も奏でたもの、慣れ親しんだ曲だから、何も確認しないで鳴らせるわけだ。
奏でるための爪を装着して、まずは軽くつま弾いて、それから調弦用の曲を紡いでいく。
普段この曲を奏でる時は、やや愁いを帯びた、艶っぽさが出て来る事が多いのだが、親父のご希望である甘く華やかな音に調整した結果なのか、奏でられた音は今までにない華やかさで、煌きを感じる物になった。
調弦一つでこうなるのだから、親父が本気で演奏すればそりゃあ、信じられないものになるだろう。
私はド素人ではないけれど、演奏の玄人ではない事は自分でよく分かっているから、心底親父の技量だけは尊敬できるのだ。
社会生活はちょっと残念な所のある人だけれども。
「……こんなきらきらした音にしていいのだろうか」
あの甘くて華やかで、とても澄み切った曲に合わせるならこれだと思う、でもこれをやっていいのかちょっと迷う位に雰囲気が違う。
王様の御前で演奏した物とは決定的に色々なものの違う状態だ。
これでいいんだろうかと悩むのは、調弦担当の悩みの一つである事に間違いない。
まして私には、他にもっと気になる事があるのだから。
「……誰に聞けば、あの人の事を知れるんだろう」
恥ずかしながら私は、この人生ではもちろん、前の人生でもちゃんとした形の恋愛というものにことごとく縁がなかった。
この人生の中で、誰かと恋に落ちるって事は考えた事がなかった。何しろ、前の人生をかけて、幸せになってほしかった人がいたから、その人以外の事に心を砕く余地なんてなかった。
そして、前の人生での私は、荒っぽくてがさつで、何かと口が達者で手加減知らずで、大の男と殴り合いや取っ組み合いをするくらいで、女の子が普通にたどる恋愛というものの辿り方をしなかったのだ。
よくまあそれで結婚したなとか言われそうだが、あの結婚は色々な事が重なり合って、奇跡ってものがいくつも結びついて出来た結婚だ。
私が寮のある女学校で、手ひどいいじめを受けた結果、ぼろっちい塔から転落しかけなければ、旦那との出会いはなかったし、夫になる人が私を気に入る事もなかっただろう。
その女学校で開催された舞踏会での私は、誰がどう見ても顔色の悪い、ふらふらした、お姫様らしさの欠片もない残念な女の子だった。
更にお姫様らしさと言えるであろう高貴さとは、とても結びつかないだろうから、誰も声なんかかけなかっただろうしね。
あれが一大お見合い大会の一種だったのだと後から聞かされたけれども、きっと普通に出会っていたら私達はすれ違って、見知らぬ二人のままだっただろう。
その後の事も起きる事などなく、あの人は死んでいたかもしれない。
お互いに偶然が重なって出会って、そしてその偶然が起きなければ、お互いを好きになる事なんてなかっただろうから、結婚なんてものをしなかっただろう。
そんな事情から、私はこの砂漠での女の子達が、どういった出会いをして、どういったやり取りを行った後に、恋愛という形に持って行くのか、まるで想像がつかなかった。
お前砂漠で暮らしてんのに何言ってんだと思うだろうが、私が暮らしていたのは割と夜の町に近い地区で、普通の女の子が通る区域で暮らした事がないのだ。
行き交うのはそれなりに夜の商売をしている女性達で、年若い女の子がふらっと通る通りじゃなかった。
更に親父の仕事の関係で、恋愛の事でおしゃべりしたりするような、女友達にも恵まれなかったのだ。親父の仕事先はあまりにも変わりまくっていたし、そちらの人間関係を覚える事だけで手いっぱいな人生だった。
女の子ってどういう事をして恋愛するの? という感じが私の問題なのかもしれない。
「普通の恋愛ってどんな感じなんだ……? いやその前に、また会いましょうってどういう段階を踏むとそうなる事になるんだ……?」
私は楽器の調弦が終ったので、頭を抱えて悩んだ。しかししっかりとした答えなど、経験のなさ過ぎる私には、見つかるわけなどなかったのだった。
「情報は水場で手に入るっていうけどさ……水場にいる人たちってどんな階級なんだろう」
砂漠での情報は水場で手に入りやすい。それは多くの人がより集まる場所だからだ。
玉石混合で、雑多なものを手に入れるなら人の多い場所がいいと、相場も決まっているわけだし。
「なんか水を……って水瓶が空だった……」
私は水をくむ用事がない物かと、自宅の水瓶を確認したのだが、昨日やってきた私達のどちらも、水場に水を汲みに行かなかった事で、水瓶が空っぽだった。
「水汲むか」
前の人生の故郷は、水の豊かな国で、たくさんの井戸がある土地だった。
しかしここは砂漠、水はその数倍は貴重な物と言われている場所なので、水をぜいたくに使うわけもない。
よし、水を汲みに行きそこにいた人に、あの人の事を聞いてみよう。
近衛兵というのは王様の護衛であり、花形の仕事というのが基本的な考え方だ。
普通の兵士団の人以上に、情報が流れるのが近衛兵という人たちなので、情報を手に入れられる確率はずっと高いに違いない。
そう言うわけで、私はまだ転がってぴくりともしない親父を見た後に、親父の腰の壺に声をかけた。
「水汲んでくるから、いなくても気にしないで」
かたん。
おうおう、承ったぜ、と言わんばかりの音が鳴り、私は壺の中の結晶水石を掴み、濡れないように小さな容器にそれを入れて、自宅を出たのだった。
「おや、見ない顔だね、どこにお勤めなんだい」
「こんにちは、はじめまして。父がこのたび新しく、宮廷楽師の一人になったんです」
「ああ! ハレムで御前演奏をしたっていう人の娘さんかい? あっちに勤務していた兵士や文官や武官たちが、神様が降臨しそうな素晴らしい演奏を聞いたって自慢していたよ」
「ありがとうございます、父に伝えておきます」
砂漠でひとが集まる水場というのは、清潔に管理された人口の池だ。そこに水が流れるように計算に計算を重ねたもので、建物の中に水が流れるという事は、王権の権威の象徴と言われている。
事実、町の中にあまり水は流れていなくて、王宮では流れているというだけで、すごい事だと誰もが思うのである。
私は結晶水石を池に浸して、十分な水を吸い込ませていく。結晶水石は砂漠ではありふれているけれども、他国にはとんでもない高値で取引される神宝石の一種だ。これは他国では取引されてないけれども。
神宝石と言われるのは、神の力を宿した宝石と言われている。
事実、強力な神の加護を宿している鋼玉などは、採掘される地域でなければ、庶民はお目にかかれない珍品だ。
神の力を宿すと言われている神宝石だが、見た目が宝石に見えない屑石も結構多い。
一定の水を吸い込ませる事しか出来ない物もあって、これが庶民に流通する神宝石の割合の中で一番多い。
重たい水瓶を担いで歩かないように、どこの家にも大体これが使われているのだ。
そして神宝石という名前が似合わないと、砂漠では結晶水石という通り名で呼ばれているわけである。
一定の水を吸い込ませて、腐らないようにする。そして重さは変動しない。
これを聞くと、やっぱり神宝石の一種という事に間違いないな、と私は他国も知っているから思うけれども、砂漠だとありふれたもの過ぎて、神宝石の認識はあまりされないのである。
更に、砂漠が神宝石を他国とやり取りする時は、決められた宝石以外は取り扱わないという事になっていて、結晶水石は国民の生活に必須で、枯渇すると問題があるからという事情なのか、他国に売る事はないとされている。
まあ、見た目も綺麗なすべすべした白い石にしか見えない物だから、宝石に見えない事も有って、屑石という認識を他国もしている結果かもしれなかった。
「私達も聞いてみたいものだわ、天下一の楽師さんの演奏。その楽師さん、歓迎会を開いたら演奏してくれないかしら」
「親父……すみません、父は演奏が好きなので、そう言った事で頼んだらまず断りませんよ。でも直接頼まないと心に響かないようですよ」
「まあ、伝聞じゃ、あっそって流されるものよね! 楽師さんの家はどの区域だい? やっぱり楽師の集まるあっちかい」
話しかけてきた女性の指さした方と、私の家は違ったので、私は家のある方を指さした。
「いいえ、父はあちらに居をもらいました」
「まあ!! あっちは上位なんだよ! あんた自分で来なくても、誰かに頼めばよかっただろうに」
「……ええっと、区画でも場所によって上位とか決まっていたりするんですか」
「そうさ。あんた本当にそう言った事に詳しくない生まれなんだね。まあ旅暮らしの楽師さんの娘さんだったらそうなのかもね。砂漠では、ハレムに近い方が信頼されているって事で、より身分の高い人や、実力者が暮らすんだよ。……って考えるといよいよ、楽師さんの腕前は本物って事だね、絶対に頼んで演奏してもらおう!」
気安くばしんばしんと背中を叩かれて、危うく池に突っ込みそうになったところを踏ん張って耐えた私は、そこでそうだ、この人は何か知っているかもしれない、とハッサンの事を聞く事にした。
「あの、私、昨日ハレムで父が演奏した時に補助をしていたんですけれど、その時に気になった人がいて、ハッサンという名前しかわからないんですけど、どういった人か、知っていらっしゃいませんか?」
「ハッサン殿! あんたよっぽど怖い思いをしたのかい? あの人が気になるっていうと、大体悪い方なんだけど」
「わ、悪い方なんですか」
その女性はやっぱり情報通だった様子で、私を心配した調子で言い始めたので、よし、詳しく聞いてみようとさらに質問を重ねてみた。
「そんなに評判の悪い人だったんですか」
「評判が悪いっていうんじゃないんだよ。そりゃいい人だし、実務に関しては超有能さ。でも見た目がね、あんたも見ただろう? おっかなくって声もかけられないくらいで、女の子は顔を合わせたら怖くて口もきけないくらいで」
……どうやらこの変わった未来でも、ハッサンはこわい日と認定されているようだった。