5 それは奇跡の一種によく似た
信じられなかった。こんな偶然がどこに転がっているというんだ。
探したくても、自分の問題で探しに行けなかった人が、私の前に立っている事は、限りなく低い確率と言えるだろう。
私はこの人生で、この人の幸せを見たかった。でも、自分の手持ちのお金ではとても探しに行けなくて、そして私はこの人の名前を知らなかった。
夫の名前を知らないなんておかしくないか、と思うかもしれないけれども、知らなくても何も支障をきたさなかったのだ。わらって、あなた、と呼びかければそれは夫だけを示していたのだから。
でも私は、この世界での、夫の名前も知らなかった。この世界では、私のように何かの因果が回って、夫の名前が違うかもしれなかった。
それに住んでいる町がどうなっているのかも知らない。前の人生での夫の故郷は滅び、ただ砂が朽ちていくに任せられていた。未来が変わった以上、勤め先もわからなくなった。そんな状況で、やみくもに探し回るほど、私には余裕はなかった。
経済的にも時間的にも、ただの楽師の娘という育ちの私にはないものづくしだったのだ。
それに親父の事も有った、親父の仕事は転々としていたから、それについていくのでやっとだった事も大きい。
探したいけれども探せない人。私が自立して完全に自分だけで食っていけるようになるまで、この人を探す事は出来ないと思っていた人が、私の恋人候補として紹介されるなんて、本当に運命がどう働いているの、と言いたくなる事だった。
「……」
何も言葉が出てこなかった。ただ、目を見開いて、じっと、相手を見つめ続ける以外に何もできない自分がそこにいた。
言葉を探した、でもいい言葉が口から出て来てくれなかった。
目をそらすなんて事はもっとできなかった。そらした瞬間に、どこかに消え失せてしまったらどうしよう、と本気で思ったのだ。
だからその場は、彼も何も言わないで私を、困ったように見ているから、静まり返って誰も何も言わないままだった。
何か、言わなくちゃ。私は息を吸い込んで、気合いで口を開いて、そして
「あの」
「もし」
彼と言葉が重なった。お互い意を決して言葉を発した事は間違いない。私は黙りかけた自分の根性を殴りつけるように内心で叱って、彼がとっさに黙ったから言った。
「あなたの名前を教えてください。あなたの声で」
私のこの言葉を聞いて、周囲が沈黙から、ざわりと動揺を広げていったのが伝わってきた。
私は自分の言っている事がそんなに、おかしいとは思わないのだけれども、周りにとっては信じられない事の様だった。
「……私の名前を?」
「陛下は紹介してくださいました。しかしこの場合、私もあなたもお互いに名乗るべきではありませんか。申し遅れましたが、私の名前はエーダと言います」
一度声を出すとするすると言いたい事が言えた。それも、丁寧な口調で。
私が自分の名前を名乗って、さあ、あなたも名乗れという視線で促すと、彼はかすかに目をやわらげて、唇を開いた。
「こちらこそ、申し訳ない。私の名前は、ハッサンと」
ハッサン、というのか。それは、この世界でも同じ名前だったのか。近いようで遠い過去、私の夫が名乗れなくなった名前は、ハッサンという事を、渡った過去の時の中で知っていた。
それと同じものを、あなたは名乗っていたのか。
しかしハッサンという名前は、あまりにもありふれていて、この名前だけではとても探し出せなかっただろう事も、わからない無知ではなかった。
「……お互いに、この後宮の皆様の前で話し合うのは、あまりにも私的な事を言えないでしょう。……エーダ殿、近いうちに、私の方からお伺いに行きます」
「楽しみに待っています」
それ以上の会話をしようと思っても、面白い事に目を輝かせている人達の前でやり取りするのは、あまりにもあけっぴろげ過ぎていたから、どうしようかと思った私に、ハッサンさんが言う。
またあなたが私に会いに来てくれるのか。そう思うと、泣き出しそうなほどうれしくなった。
嬉しくなって、それでも、泣いてしまったらあまりにも私がおかしな女の子になるから、ぐっとこらえて、ただ、楽しみに待っていると、それだけを言う事にした。
この言葉に、周囲はまたざわりとどよめいていた。
「エーダ殿、ハッサンは気に入ったか? 気に入らないならば他のいいのを見繕うが」
そこまで見守っていた王様が、面白がった調子で言う。私は無礼にならないように、視線を合わせないようにして、王様に言った。
「陛下は、最良の人を紹介してくださったと、信じたいので」
王様は一瞬黙った後に、愉快そうに唇を吊り上げた。完全に面白い物が目の前にやってきた子供の顔だった。
「エーダ、君の恋人候補は、どんな男だったんだい? 声は誠実そうだし、何からでも守ってくれそうな気配をしていたんだが、私の眼はあいにく全く見えないから、顔形はわからないんだ」
これからはここで生活する事になる、と王宮のはずれの、楽師とかそう言った人たちの暮らす区域に案内された後に、新しい家をぺたぺたと触って位置を確認していた親父が、なんて事はないように問いかけてきた。
「顔かたち?」
「そうそう。王様が紹介するのだから、飛び切りの色男だと思うんだけれども」
「飛び切りの色男って感じではないと思う。背が高くて鍛えられていて、親父は一発で吹っ飛ばされそうな体格している」
「ふうん、強そうだ。君を守ってくれるなら、素晴らしいこと間違いなし。でも顔はそこまででもないのか」
「陛下も、多分人格とかを優先したんじゃないかな。顔よりも大事なものがあるっていうのは、親父もよく知っている事じゃない」
「はっはっは! 確かに隣に並ぶ事に必要なのは、顔よりもお互いの心の相性だ」
「そうそう。きっとあの場所にいた近衛兵の中で、一番性格がいい人を紹介してくれたんだよ」
この世界でのハッサンが、どんな性格かはわからなかったけれども、前の人生での夫は、私ととても相性のいい性格をしていた。
そして私は、夫の気質と心を愛していた。姿かたち以上に、私は夫の素晴らしい所をいくつも見つけていたものだ。
すこし、いや、かなり、自己犠牲精神のある人だったから、放っておく事は出来ない人だったが。
「それにしても、貴族とかじゃなくて近衛兵って所が王様の優しさだ」
「なんで?」
「近衛兵なら、エーダにひどい事をした場合にすぐに、王様の手で始末できる」
「……そっち?」
「王様は自分で責任の取れる相手のなかでも、優良物件を君に紹介したんだろうね。貴族だと弱小でも面倒な事が起きがちだ。でも近衛兵なら、王様が簡単に処罰できる」
思ってもみない視点からの言葉で、近衛兵というものが精鋭部隊であっても、王様の一存で色々な事が決まる立場だと気付かされた。
確かに、紹介した相手の本性がクズでも、王様がすぐにどうにかできない相手を紹介したら、それはそれで王様の問題になりそうな事は、間違いない気がしたのだった。
「エーダはあの彼でよかったのかい」
「これから話したりどこかに出かけたりして考える」
「初対面から夢中になる顔ではないってことか」
「親父、そんなに娘の恋人の面が気になるの?」
「君が相手を見て幸せな気持ちになる顔じゃないと、だめじゃないか?」
「親父って時々わけわからん」
「人生経験の結果さ。相手を見てあまりにも不愉快になる顔や体形だと、じわじわと不快感で、育てた感情が枯れ朽ちる事も有るって話さ」
かたかたかた、とその言葉を聞いて、壺の中の暗闇が笑った。他人事だから大笑いしているに違いなかった。暗闇はそう言う、いい性格って奴をしている様子なので。
「今度君を誘いに来た時にでも、私も彼と話させてもらおう。新曲の出だしに使えるかもしれないからね」
「親父の曲は悲恋が多いんだ、私の恋人候補で悲恋の曲は縁起が悪いからやめろ」
「大丈夫。最近知り合いから、優しい愛情の曲を頼まれているから、そちらで使いたいだけだから」
大丈夫なのか大丈夫じゃないのか、いまいちわからない親父の言葉だった。