4 思いもしない相手
「親父この調弦でどう?」
「あと半音高く」
「そんなに違うもん? 前はこの感じが一番って豪語してたのに」
「それは前の仕事先での雰囲気にちょうど合致していたから。新しい仕事先はまた少し空気の響き方が違うんだ」
私は知らなかった事を聞いてさすがに言うしかなかった。
「いったいいつ仕事先が変わったの!?」
「昨日の夜に、急遽変わったんだ」
「言ってよ!! あいさつ回りとかがあるって知ってるでしょう!」
「新しい仕事先に、君が入れるか微妙な所なんだ」
「なにそれ、もしかして女性の立ち入り禁止の高級楼閣? 入っただけで店の人間だと勘違いされるから、出入りできない最高級の店?」
「いいや、後宮」
「……は?」
親父がいきなり仕事先を変えるのは珍しい話でも何でもなく、一晩明けたら別の仕事先、という位ころころと変わっていた時期もあるので、仕事先を転々とする事に関しての問題はあまり感じない。
しかしながら、時々夜に仕事に向ってから、昼まで帰ってこない時もあり、その場合迎えに行かなければならないのだ。
いつまでも仕事先の床に、楽師が転がっていると掃除も調度品の交換も出来ないという事情の結果だ。
そのため大きな問題だとは考えていないけれども、仕事先を変えたって事まで言わないのは珍しかったのだ。
調弦の手を止めて突っ込むと、親父が難しそうに唇を尖らせて言う。
「前の仕事先に、王宮の関係者というか、後宮の管理人の女性が宴会の席で来ていたらしくて、その時に私の腕前にいたく感動したという事で、ぜひともなかなか外に出られない後宮の女性達のために演奏してほしい、と仕事先に打診されてしまったんだ」
「それは仕事先も断れないって奴か」
「そうだろう。王宮の中でも、特に王様に絶大な影響力を持つ後宮の管理人の女性の、たっての要望とあっては、誰も断れない。店の営業を停止する命令でも出されたらたまったものでもないし」
要望という名前の命令だろうね、と親父はあっさり言い切り、弦楽器を演奏するために着用する爪に、鑢をかけて整える手も止めない。
「それに私の演奏の腕前だけは、じわじわと広まっていた様子でね。その女性以前にも、私をハレムの演奏家に、という話はあったそうだ。それもあって、後宮の管理人の女性が私の腕前を確かめるために、宴会にやってきたという事でもあるそうだ」
「……それを聞くと、やっぱり親父の腕前って卓越してるよ」
「そんな素晴らしい物ではないと思うな。私は日がな一日演奏の練習をするし、こういうものは結局どれだけの時間をかけられるか、という所が大きいって言っただろう」
それしかできないから、私は結局問題のある人間にしかなれなかった、と親父はいつも以上に静かな声で言う。
親父は何か後悔する過去を持っていて、その過去に触れる事がある時、こう言う静かな声でしゃべるのだった。非常に分かりやすいけれども、深く踏み込まないでくれと言外に言われている気がして、親父の過去を聞いた事は過去一度もない。
「今日が初仕事になる。しかし王様の後宮というものなのだから、人の出入りは厳しいだろう。だから君も一緒に連れて行く事が出来るかどうか、聞かなければならないけれども、誰に聞けばいいのかさっぱりわからなくてね」
「……じゃあ、今日の初仕事の時に、親父の荷物を抱えて手伝いって事で一緒に行く。そうすればその時に咎められるなり、許可されるなりするでしょう」
「確かにそうだ。思いつかなかった私は抜けている」
ぴん、と強く弦を鳴らした親父に、かたかたと壺のふたが何か苦情を申し立てた様子だ。
「ああ、ごめんごめん、いきなり変な音を出してしまったね」
壺に対して親父が謝ると、壺は静かになる。いつ見てもいつ遭遇しても、親父と壺の中の暗闇の関係性は不思議なものだ。
……きっと普通は、壺の中の暗闇を恐れて、拒否するんだろうとなんとなくわかるものがあり、そうならなかった親父は、特に珍しい楽師なのだろう事も、なんとなくわかるものがあったのだ。
「……さて、後宮に入るように言われたのは何時くらい?」
「昼過ぎと言われたよ」
「昼過ぎ……? って、後半刻もないじゃないか!! 親父のんびりしてないで、早く沐浴場に行って身なりを整えて、私は調弦の道具も楽器も運ぶから! 後宮での演奏なのに、酒臭い状態で入ろうとしないで!!」
「もうそんな時間になるのかい?」
「親父が寝過ごしたんだよ!! 急げ!!」
私は親父を急かし、親父はちょっととぼけた事を言ったものの、こちらがすぐさま用意した着替えその他一式を持つと、足早に家を出たので、私は沐浴が終わるまでの間に、必要なものを一切合切持ち運びできるようにまとめて、烏の行水よろしくあっさり身支度を整えた親父を、また急かして、王宮の方に、向かったのだった。
「え、娘いたんですか。へえ……似てませんね」
「そりゃそうでしょう、私に似ていたら問題だ」
門番に名前を告げて、そこから案内の兵士に連れられて、私は見た事のある造りの建物の中を歩いている。もちろん前には親父が歩いているし、私は楽器などの荷物をしっかり運んでいる。
兵士の人は私と親父が父子という所がかなり納得いかない様子だけれども、親父は適当にはぐらかしている。
別に私が拾われた子供だと言っても、誰も怪しまないだろうに。
いや、砂漠だと捨て子は高い割合で親族を見つけてもらって、一族に迎えられるんだっけ?
そうなると、私は散り散りになった村の生まれで、それ以上に問題な事に、今では誰も口に出さない呪われた領地の出身と知られて、大変な目にあうという推測の結果だろうか。
親父は能天気に見えて色々考えているから、あまり口を出さないように気を付けておこう。
そんな事を考えつつ、私は前の人生で何度も見た建物の中を歩いている。
ここにまた来る事になるなんて思わなかった。前とは全く違う形で、同じ場所を歩くというのは不思議な気分だ。
そしてこの通路の先は、前の人生の時は立ち入り禁止区域だった。
理由は誰も使わない事による老朽化で、夫はその区域を新しく作る事に関わっていた。
しかし、そんな事はもう起りえないからか、未来が変わった結果か、この通路の先は今もしっかり使用されているのだろう。
前の人生では見る事もかなわなかった、老朽化していない後宮だ。
とても気になるし、そこにどんな人たちが集まっているのかも好奇心が湧く以外に何もない。
ハレムの住人達の大半が、奴隷出身だというのは有名な話で、理由は近親婚を避けるためだというのも広く知られた話だ。
この人生になってから、後宮を作る前の砂漠では、血筋に固執しすぎて、滅んだ一族が結構いたとも聞いた。
親父はそれを聞いて、ちょっと寂しそうに笑った後に、
「王族の血筋の継承の事は、どの国でもそれに近い事を引き起こすんだ」
と何か知っている調子で答えてくれた。それの意味は今もわからない。
だが、王位継承権を持つ複数の一族が、比較的まともに子供を作るための制度であるとも、他の一族の介入や、他国から嫁いできた人の影響力を減らすためだとも言われているのが、この後宮制度であるだろう。
砂漠はぎりぎりの権力の拮抗で、平穏な顔をしているだけで、それが崩れたらあっという間に戦の炎が焼き尽くす事も、現実としてあり得そうなのであった。
そう考えると、前の人生の時にとても平和だった事は、かなりの奇跡の重なった結果だったのだろう。
十七年も、砂漠は大きな争いが起こず、繁栄していたのだから。それも、他の諸外国がちょっかいを全くかけられないほどの強国として。
「エーダ、調弦はどれだけ済ませた?」
「だいたい。親父が一度確認して、最後の調整をすればいいくらいまでは」
「私の娘は本当に腕利きの調弦師だ。楽師は一人では最高の音楽家にはなれないという事を、しっかり表している頼もしい子だ」
「褒めてんのか自分を卑下しているのかどっちなんだ」
「君をほめているんだよ。他に何があるというんだ」
かたかた、と壺が呆れた調子で音を鳴らしたけれども、兵士さんは気付く事もなかったのだった。
前の人生では、砂漠の建物の色んな場所を見る事が出来ていたけれども、後宮だけは入った事がなかった。老朽化して立ち入り禁止だったのだから、私どうこうという話でもない。
そう言うわけで、初めて足を踏み入れる後宮は、暑さを防ぐために日陰の多い造りで、しかし柔らかな光を感じる、陰鬱さとはまるで縁のない場所だった。
「……へえ、この空間か」
親父は数回踵を鳴らして、何かの反響を確かめた後に、楽しそうにそう言った。眼だけはまるで見えていないという親父は、音から色々な事を導き出す人で、踵を鳴らして建物の広さを測る事も造作もないのだとか。
「何か問題でもありますか?」
「問題どころか、これなら思い切り心を解放して演奏しても、苦情がどこからも来ないのがよく伝わって来て、とても楽しみですよ」
「楽師殿の演奏は卓越していると評判ですが、まだ心を解放していらっしゃらなかったのですか」
「建物の広さに相応しい演奏というものが、この世にはあるのですよ」
親父は平然とそう言う。こう言ったどこか不遜な雰囲気が、親父の言葉からはたまににじむ。
普段は自分を卑下した調子なのに、時々、妙に自信家になるのだ。いつもその基準が分からない。
そんな私は、ここで演奏します、準備を、と女官達が促す場所に座り、親父は胡坐をかいて楽器を掴み、音を鳴らしだす。私は急ぎ拍子をとるための打楽器の調整を始める。
ここで失敗したら、何が起きるかわかったものではない。
そして王様というものは、下手に機嫌を損ねると何をするか全く分からない人種だ。
それは前の人生で嫌と言うほど知った事だったから、親父の邪魔にならないように、しかし親父の演奏がよいものになるように、私も全力を尽くすのだった。
夕方になると、いよいよ御前演奏という事で、たくさんの女性達が集まってきた。皆様とても綺麗で、仕草も美しく、ハレムの女性達はハレムに入った時点から、たくさんの教育を受けると聞いていた事が事実だとわかる人ばかりだ。
人間は顔以上に、仕草の美しさで美女かどうか判断されるが、ここに集まってきた人は、女官も后も皆立ち振る舞いが美しくて、眼福と言えそうなものだった。
目が見えている楽師ならば、この美しさに感銘を受けて、何か新しい曲も思い浮かびそうだ。
しかし親父はそんな事全く考えていない調子で、弦をいじり、爪をいじり、いよいよ、王様がやってくるという知らせで、姿勢を正した。
ゆっくりと王者の余裕を見せる調子で現れたその人を見て、私は驚きを隠す事もできなかった。
その人は、温和そうな目をしているのに、唇や立ち振る舞いに圧倒的な自信を見せている人で、まさに砂漠の王者として、この広い大地を統治している誇りに満ちていた。
堂々とした身ごなしや、歩き方、そして周りの人たちの躊躇のない従う姿勢、後宮の女性達の染めた頬やうるむ瞳や、隠しきれない喜びの声が、その人の絶大な人気を示している。
その人は親父や私と言った、演奏する人間から距離を置いた豪勢な背もたれのあるクッションに座り、胡坐をかいて頬杖をつき、ことさら楽し気な調子で言う。
「さて、天下一の演奏家の演奏との触れ込みだ、お前は私を満足させられるかな? これでも私の耳は肥えている」
「……」
「おや、何も言えないのか」
「では発言をお許しくださいませ」
「なるほど、礼節の心得は西の方のそれか。西は立場が上の物に、やたらに話しかけられないと聞く」
「……」
「よいよい、話してみろ。ここに来た心構えなどをな」
目元は柔らかに緩むのに、唇は力強く笑い、完全に親父を面白がっているのが伝わってくる。
その人は圧倒的強者という自信に満ちていた。
「ならば。……陛下のお耳汚しにならないように、努めてまいりますので、わずかばかりの時間を、いただきたいと思います」
「はっはっは!! 砂漠で最も素晴らしい、天下一、と言われている楽師が、これはまたずいぶん謙遜するな。お前は自分以上の演奏家を知っていると見える、それは誰だ?」
王様は面白がっている。会話を楽しんでいるのがなんとなく伝わってくる。それ位親父は面白いのかもしれない。
「はるかに西の国での記憶ですが、とある海辺の寂れた村で聞いた、水の神にささげる婚礼の歌ほど、美しい調べは聞いた事がありません」
「ほう。西では水の神をあまり信じていないというが、それは本当に西の方の国だったのか」
「……方角は、ここより西なので、西という事は間違いないですが、私の無知が示されているだけかもしれませぬ」
「ほうほう。……では、はじめよ」
親父の物言いが気に入ったのか、王様がさらに何か言う前に、これでは演奏が始まらないと判断した、懸命な人が王様に視線を向けて、それで王様が、親父に演奏を始めるように告げた。
親父はそれを聞き、一番楽器を弾きやすい姿勢になったと思うと、こちらを見て拍子をとるように動きだけで伝えてきたので、私は打楽器を手で鳴らし、そして……親父が手にはめた爪で、びいん、と一音を鳴らして、ついに演奏が始まった。
舐めていた。私は親父の演奏を舐めていた。それしか言葉が思いつかないくらいに、親父が本当に心を解放して奏でる曲は、尋常な演奏ではなかった。
奏でたのは、楽譜のある広く知られた曲でも、砂漠で流行している曲でもなくて、それは誰かにささげた、祈りであり許しを求める物だった。
一音を鳴らして、二音めから、親父の技術は圧倒的で、その曲は歌詞のあるものだったのか、前奏だけで周囲を呼吸の音以外何も聞こえない状態にしておきながら、親父が喉から解き放った声は、まさに神がかりそのものだった。
私は必死に、それに飲み込まれないように打楽器で拍子をとっていたけれども、それも忘れたくなるほど、親父の歌はすごかった。
すさまじいというのは褒め言葉じゃないけれど、それ位の迫力があり、親父が実は、とんでもない声量を持っていた事まで知る事になったのだ。
なるほど、普段もこれだけ声量で歌っていたら、近所じゅうから苦情が殺到し、楼閣でもほかの楽師たちから盛大に文句を言われて、仕事にならないだろうな、と曲が終ってから理解した。
それ位、親父のそれは普通の楽師の物とは違っていた。
親父の奏でた曲は、誰かに向けた祈りで、その誰かがどこかで幸せになってほしいと願う愛情で、誰かに対しての許しを求める弱さだった。
はっきり言おう、それは親父が誰か……いなくなったか死んだかした、最愛の誰かをずっとずっと思うという曲だった。
悲恋の曲は受けがいい。だから楽師は悲恋の曲をたくさん知っている。
でも親父が、きっと自作したのだろうその曲は、そこらへんの一通り存在する悲恋の歌とは段違いの物だった。
愛が、こんなに痛みを伴うとは知らなかったという、恋で目の見えなくなった男は、最後罪を代わりに背負うのだといってどこかに消え去る。
そんな終わりを感じさせた歌が終わり、辺りは針が落ちても聞こえそうな静寂に包まれて、やがて。
ぱちぱちと、王様が手を叩き、そこでようやく誰もが息を吹き返し、自分達が泣きぬれていた事に気が付いた。
「すばらしい……」
「天下一はまことの称号だった……」
「これほどの才能の人が、市井に紛れて暮らしていたとは……」
誰もが親父に感嘆し、その腕前に感動していた。
そして一通り誰もが感想を口にした後に、王様が口を開いた。それまで一言も言わなかったのだ。
「さて、実に素晴らしい演奏だった。この砂漠で与えられる褒美ならば、なんでも差し上げよう。それほどの素晴らしい物を聞かせてもらった」
これだけ賞賛されるのは、楽師にとって最高の名誉だろう。
そして大体の楽師の最高の出世は、宮廷楽師になる事で、親父もそうなるのではないか、となんとなく私も考えていたのだが……親父はここで、信じられない事を言った。
「この砂漠で望める物なら、なんでもでございますか、陛下」
「この王が都合できるものならばな」
「では。……私の娘に、素晴らしい恋人を紹介していただけませんか?」
「は?」
さて、当代一の楽師が何を望むのだと、誰もが見守る中で親父が言ったのは、一番近くにいた私でさえ、は、というしかない望みだった。
親父は続ける。
「娘には、私が至らぬがゆえに、大変な苦労を掛けて生活させてきてしまいました。そのせいか、こんなに良い子なのに、浮いた話が一つもない!! というわけでして、陛下がご紹介してくださる方なら、私も安心して見守れますので、どうかこの望みを聞いていただけませんでしょうか」
しばし誰もが黙った。こいつ何言ってんだという視線が親父に突き刺さっているように思える。
私も突っ込みたいくらいだったのだから当然だ。
しかし親父はひるまない。背筋を伸ばして、包帯に覆われた目のある位置からは、まっすぐに王様を見ている様子だ。
そうして、不意に、不意に王様が噴出したと思うと、彼は腹を抱えて大爆笑を始めた。
呆気にとられる人たちの中で、ひいひいと言うほど笑った後に、砂漠で一番偉い人は周囲をぐるりと見回して、こう言った。
「ハッサン、来い」
いきなり呼びつけられた人は、どうやら後宮にも出入りできる近衛兵の人らしく、しかし階級はあまり高くないのか、装備は質素なものだった。
そんな物を着用する男は、王様の前に来ると膝をついたものの、王様が私達の方を向くように指示したため、こちらを向いた。
大きくて、逞しくて、何からも王様を守り切れる、そんな事を思わせる男の人が、こちらを向く。
……嘘だろう?
私が何も言葉を出せないまま、その人を見ている間に、王様は楽し気にこう言った。
「この男はハッサン。この私の眼から見て、なかなか有望かつ優秀な男だ。性格も下劣とは縁のないやつでな。楽師殿の娘には、この男ほど良い男がふさわしいだろう」
その人は、ハッサンは、私をどこか困惑した調子で見ている。
そして私は、予想もしなかった出会いに、声も出ないし視線を外せないし、何も反応できない。
「楽師殿は、話した通りこれからは王宮の部屋住まいとさせてもらおう。娘もだ」
王様が楽しそうにそう言っている間、私はそのハッサンから全く目をそらせないで、呼吸するのがやっとだった。
その人は、私が前の人生ですべてをかけて幸せにしようと願った、夫としか思えない人だったのだから。




