2 ままならないけど今はいい
「もう戻るの? 気をつけて帰ってね」
その日も私は、ハッサンが渋々ながらも家族と暮らす自宅に戻る事になったので、玄関でそれを見送った。
ハッサンは知らない人が見たらわからないだろうけれども、明らかに機嫌が悪そうで、この機嫌の悪い状態の時に、ごろつきとかに襲われたら、ごろつきが顔を見ただけで気絶しそうだよな、と思っていた。
思っていても、だから心配しないなんて事はしない。大丈夫なんて不確かなものを、私は思わない事にしている。
「危ない事をしないでね。ちゃんと明日も会えますように」
「そんな儀式めいた事を毎回言うとは、律儀だな」
彼の言葉に、私は反論した。
「だって祈りたくもなるよ。私とあなたの間の事は、奇跡が大盤振る舞いされているってだけの話なんだよ。……あなたがいなくなっちゃうかもしれないって、あなたを見送るたびに思う」
「俺はそんなに信用がないのか」
ハッサンが私の言葉に呆れた顔をしてみせたのだけど、私には私の言い分ってものがある。
それに私達はそれを隠す事のない間柄だ。
「信用がないんじゃない。時々世界とか運命とかそんな嫌な物が、個人の力ではどうしようもない物を個人に背負わせたりするでしょ、だから怖いの。あなたはそう簡単にそれに屈しないけど、だからいっそう重たいものを背負わされるかもしれないから」
「俺よりもお前の方が自分を心配しろ」
強い声で言われて、私はちょっとびっくりして、何度目になるかもわからないけれども、ハッサンの目を見上げる事になった。
元々顔は見ていたのだけど、目をまっすぐに見つめすぎると威嚇になるから、ちょっと加減していたのだ。
見上げた瞳はいつも通りの、私の知っている瞳の中では一番温度の高い、超高温の流れ出す黄金の色で、他の人は皆怖がる、ハッサンだけの瞳だ。
それが私をじっと見つめている。私も彼を見つめている。
しばしの沈黙の後に、言わなきゃ伝わらなかったという事を思い出したのか、ハッサンが言う。
「お前は運命や神々といった、俺がどうにもならんものに好かれやすすぎる。そしてお前は前にもやらかしているからな」
「あ、あれは、その。蒸し返さないでよ、反省してるんだから」
「反省してくれているのはありがたい事だ。だが俺よりもお前の方が、そう言ったろくでもない者に巻き込まれやすい事を、頭の片隅に置いてもらいたい」
「わかった」
事実かもしれないし、実際に私は過去を変えるっていう事を、存在を犠牲にしてやり通してしまった事があるから、ハッサンにこんな事を言われても仕方のない事なのだ。
だから素直に頷くと、ハッサンが、体を曲げて、私を抱き寄せて、言う。
「さっさとうちの連中を説得したいものだ。だが俺では口の達者な女性達に必ず負ける」
「うーん……それどうしようね」
「いっそ辺境に転勤という羽目になれば、まあごまかしも聞く。だがそんなごまかしを続けてもろくな事にはならんからな」
「やっぱり規模が小さくても、結婚式か披露宴か新居建築か、やらなきゃいけないかな……」
「やるとしても参列者を徹底的に減らさなければならんだろう」
「新婦側が一人しかいなくて、おまけにその一人も、お祝いのための演奏者の側について誰もいないっていう、そっちの人達からしたら驚天動地な事しそうだものね」
「俺は親族の心臓を止めるつもりはないからな。そうなったら止めざるを得ない。だが彼等の考えている結婚式が、俺とお前の間ではどうあがいても成立しないという事も、いい加減に理解してもらいたいものだ」
「……なんかないかなー」
「お前に苦労を掛けたくはないのだがな」
私にしかわからない位の微量な、悔しさが声ににじんでて、私はちょっと笑った。
そう言ってくれる人が、あんまりにも愛しくて。
「仕方ないでしょ、あの時とは何もかもが大違いだってだけの話だし。私とあなたがまたこうして出会えて、お互いを覚えていて、結婚にまでこぎつけたって事が、大事だと思う」
それを聞くと、ハッサンは薄く笑った。
「お前は心底、俺を理解してくれる素晴らしい妻だ」
そこでハッサンが腕を離す。私も背中に回していた腕を離し、お互いの顔を見てまたいう。
「じゃあ、気を付けてね」
「お前も、戸締りはしっかりとするんだぞ」
「子供じゃないんだから、それ位はちゃんとやるから」
「……わかった」
そうしてハッサンは立ち去っていき、私はその背中が見えなくなるまで見送って、扉を閉めて鍵をかけた。
「……親父しか親戚がいなくてごめん」
一連の会話を聞いていた親父が、ぽつりと言う。
「親父悪くないじゃん」
「でもさ、やっぱり君には皆にお祝いされる結婚式っていうのをしてほしいとも思うんだ、でもやっぱり砂漠だと、参列者の人数でもめるって話も多く聞くからね、乗り気になれない自分が悔しいと思うな」
「いっそ青の国の流儀に合わせた、両親と兄弟までしか参列しない超小規模な奴計画する?」
「君がどうして青の国のそれを知っているんだい」
親父が意外そうに言うものだから、私はさらりと答えた。
「貸本屋の結婚式雑誌に載ってた」
「ああ、君、貸本がすっかりお気に入りだものね。確かに旅の間はそう言った物を読むひまも時間もなかったから、娯楽として楽しめなかったけれども。今は家でじっくり読んだりできるから」
親父はこの言葉に納得した様子だ。事実私が、貸本屋でたくさんの本を借りて読んでいるのを、巻物をめくる音から知っているためだ。
「そっかぁ……あっちの流儀で……誰か知り合いを巻き込めそうだな……」
親父は何を思ったかぶつぶつ言いだし、いつもの事と私は気にもしなかった。
代わりに、親父に問いかけた。
「親父、本当にあの短剣、あんな事しただけで元に戻るの?」
「私が使っている間はあれで戻ったから、確かだと思うんだが」
「丁寧に洗って磨いて、月の光に三日三晩当てておくって、本当に魔術的な儀式にしか思えない」
「あの短剣にかけられている物は、それに近しいものだからね」
私は月明かりが当たる位置に置かれている、私のすり減った短剣を見やった。
「……まるで生き物みたいだ」
「生き物かもしれない」
「……怖い事言わないでよ」
親父がからからとした声で言う言葉に、ちょっと背筋が寒くなりながら、私は寝る支度を整えて、眠りについたのだった。
「なんだなんだ、竈神とはうれしや」
「あんた、ただの術のついた短剣じゃねえな?」
「もともとは術のついた短剣、しかし今は……重なった惨劇の数だけ人間のような言葉を使うようになったまでの事」
「あんたがあの嬢ちゃんと長男坊になんにもしねえなら、俺はあんたを打ち滅ぼさねえ。でももしもそんなふざけた真似をするんだったら」
「おお、こわやこわや、さすが激情の炎、竈神と言った所」
……夜中に聞えてきた声に、怖くなったのは私だけだろうか……?




