3 平穏な日常
月日の流れは速い物で、私が親父と家族になって、もう十年以上が経過した。
その間に私達は、三回くらいの引っ越しを経験する事になったのだが、これは親父の音楽の腕前があまりにもすごかった結果だ。
何度も親父は引き抜きにあって、条件が良かったり元々の働き口に勧められたりして、引っ越しを繰り返したのだ。
本人はその事に関して全く負担がないらしくて、ただ私が友達とか知り合いと離れ離れになる事にだけ申し訳ないと思っている節があった。
「ごめんね、また友達とかとお別れになる」
「楽師ってそんな物でしょ」
「まあ、あまり一か所に留まる楽師もいないから、そう言われたらそうなんだけれどね」
「それに、私はいろんな町で暮らせて楽しい!」
そんな本心からのやり取りをした事も数回で、私は前の人生では狭い世界で暮らしていたから、こんな風に住居を転々とする生活も、結構面白がっていたのだ。
知らない土地で知らないものを見て、色んな事を経験して生きる。
それは前の人生の祖国でよくある、一家代々同じ場所で生きる、という暮らしと違いが大きくて、新鮮で楽しいのだ。
こんな事も有るから、私は親父があちこちに私を連れて行ってくれるたびに、今度はどこに連れ言ってもらえるんだろうとわくわくしたりしたのだ。
人によっては、また引っ越しで嫌になるっていう事を言う人もいるだろう。つまり親父と私の考え方とかがうまい具合にいい方向に進んでいるだけである。
そんな風に大きな喧嘩もしないで暮らして、私はたぶん十六歳くらいになった。
言い切れないのは自分の年齢がよく分かっていないからだ。
親父に拾われた時の私は見た感じ四歳くらいだったけれども、成長が遅かったからもしかしたらもっと年上だったかもしれないのだ。
それに庶民は自分の年齢を正確に覚えている事も実はまれで、だいたいの年齢で生きている人の方が圧倒的に多い。
親父はどういった暦の数え方をしているのか、私と親父が出会った日を私の誕生日という事にして、お祝いをしてくれるけれども、その暦の数え方が正確かどうかは誰も知らないのである。
「親父―? 起きた? まーた新しい曲考えて寝落ちしてんの?」
あるいつも通りの朝に、私は親父が本日も部屋の壁際にある机に、頭を乗せて寝入っている物だから、そんな声をかけた。
親父はぴくりとも動かないけれども、これも日常と言っていい。
何しろ親父の仕事の大半は夜の物であり、日付をまたいでから帰宅して、そのままご飯を食べたり体を清潔にしたりする事もなく、机にいそいそ向って、まだ自分の知らない曲を練習したり、新しい曲を考えたりするのだ。
そのためこの姿勢で寝落ちしている事も数知れず。もう見慣れ過ぎて、驚きもしない日常だ。
そんな親父に声をかけた後に、私はご飯の用意をする。
前の人生では自炊ってものにとんと縁がなかったけれども、こっちだと多少の自炊の心得がないと生活できないので、私は近所の人たちに教えてもらって、平均的な食べ物は作れるようになったのだ。
大きな進歩である。
ご飯の用意の前に、私は竈の前に座って、手を叩いてお辞儀をして、一声竈に声をかける。
「竈神さま、今日も良い一日になるように見守ってください」
砂漠では竈の神様が信仰されている。そして竈の神様が実在している事は、前の人生の経験から知っている。
そしてその竈の神様こそ、私が運命を捻じ曲げるための手伝いをしてくれた神様なので、礼節を保って暮らしていきたい私である。
そのため、近所の人達に習った通りに朝の挨拶をして、竈の神様のための捧げものである、パンの欠片を竈に入れて燃やす。これがお供え物になるのだと、最初に暮らしていた場所の近所の人達が教えてくれた。
竈の炎はぱっぱと燃えていて、今日も調子がよさそうだ。それを見て、私はご飯の用意をする。
庶民の生活では豪華絢爛な食事にはならないけれど、毎日ちゃんとご飯が食べられる幸せっていうのは大事だ。
用意するのは無発酵のパンと野菜と発酵乳で、このあたりでは日常的に食べられている物だ。
お肉は毎食食べるモノという認識がないので、だいたいうちでは親父が早く帰ってきた時に食べる物という扱いをされている。
昨日近所の砂漠鶏を飼っている人から卵を買いそびれたので、今日の朝ごはんに卵はない。そんな日もある。
無発酵のパンは粉を練って焼いて、野菜は蒸し煮にして塩で味をつけて、発酵乳を添えればそんなに飽きたりしない毎日のご飯の出来上がりだ。
寝入っていて起きる気配のない親父を横目に食事の支度を済ませると、かたかたかた、と親父の腰に下げられている壺が音を立てて、しばらくすると親父がのろのろと頭を持ち上げる。
「飲み過ぎた……」
吐きそう、と言いたそうな調子で、頭を抑えて親父が呟く。あまりにも聞きなれた発言だ。
「親父それ言うの何回め?」
「もう数えきれないほどこんな事を言っている気がするよ……いい音楽だってお酒をふるまわれるから、断れなくて飲んでしまうんだけれどね……私はあまり酒に強い方じゃないんだ」
「はいはい。ご飯食べる?」
「ああ。いただきます」
親父はそう言っていそいそと食卓と書き物机と作業台を兼用している、やや大きな机に座って、私の向かいで食べ始める。
私もそれを前にして、変わり映えのない、でもちゃんと量のある食事を食べるわけだった。
「今日の予定は? まだ三つ向こうの通りの楼閣の人が、親父を雇うの諦めてないよ」
「いつ聞いたんだい」
「親父が日中の仕事に出た時に、わざわざあの人家に来た」
「断ってくれたかい」
「もちろん。だって親父、給料安くなるって言って嫌がってたでしょ」
「仕事先が変わるのは構わないんだが、それで給料が下がるとやる気がなくなるからね。それにそう言った所では、暗闇の手を煩わせてしまう事が起きやすい」
「前にそれで、流血事件起きたもんね」
「あれは本当にびっくりした。まさか私の腕を憎んで、腕を切り落とそうと襲ってくる楽師がいるとは思わなかった」
「やっぱり腕前がすごいっていうのも考え物だって、親父は思うわけ」
「いいや? 私の腕前のほとんどは、どれだけそれに時間をかけたかって事でしかない。私は音楽漬けの生活が長かったし、とりえもそれしかないから、あいている時間はみんなこれに費やしていたからね。他の人達も、同じだけ費やせば同じくらいにはなるんだよ」
「私はわからない世界だ。あ、また弦の調整する?」
私が親父の仕事用の楽器の方を見て言うと、その気配に気づいたのか親父が頷く。
「ああ、やってくれるのかい? エーダが調整をしてくれると、暗闇好みの良い音になるんだ。しっとりしていて、艶やかで、私だとこうはいかない。どうにも鬱屈とした音になる」
「私にそこまでの違いは分からないんだけど」
私からするとそれは、ちょっとなめらかか、ちょっと重たいかくらいしかわからない。でも親父には色々とはっきりした違いが分かるらしい。
「一曲奏でるとわかるんだよ。エーダは音楽の才能はそこまでないけれど、調整の能力が飛び切りいいから、仕事先の楽師たちも、今度エーダに見てもらいたいって言っていたよ」
「金とるよ」
「そりゃあそうだろう、技能に対しての報酬は必要なものだから」
「親父ってそこら辺はしっかりしてるのに、家賃は忘れるんだよね。今月の家賃も払っておいたから」
「いつもありがとう」
そんなやり取りののちに、食事が終わってそれを片付けた親父が、いそいそと新しい曲か何かのために、自分の作業用の空間に座り込んで、楽器をつま弾き始める。
私はそれを横目で見た後に、親父が仕事先で使う、見た目の綺麗な楽器の調整を始めたのだった。