4 そこに、それがある
アニスさんが帰った後、親父が入れ替わりで帰って来て、難しい顔をして夕飯を作る私に、何を感じたのか黙ってくれていた。
その沈黙の時間が終わったのは、夕飯の片付けも終わり、楽器の調整を行いはじめたためだ。
「親父、この音?」
「もう少し弦を張ってくれる? 確認したい音がある」
「わかった」
仕事上、必要な会話だけで、何か私的な会話はなかなか始まらなかったのだが、親父が、いつもよりも時間をかけて調節をかけた楽器を片手に、試し弾きを始めながら、こう会話を始めてきたのだ。
「ねえ、今日はハレムの女性達に、面白い話を聞いてきたよ」
「面白いって、また何かの痴話げんかの結果とか? 親父好きだね」
「恋愛ごとっていうのは、楽師にとっては創作意欲の沸きあがる素敵な物なのさ。そして恋愛の歌は大多数が好ましく感じる物で、共感したり体験してみたくなったりする憧れでもある」
断言した親父が、また言葉を続ける。
「面白い話はそうじゃない方でね。この城には、王を映し出す王鏡っていうものがあるそうな。一見するとただの鏡に見えるけれども、特定の条件の元映し出すと、王を映すんだとか。特定の条件の事は、誰もまだ解明していないという話なんだが、王っていう所がまた面白くて、それは今王位についている人とか、そう言うのじゃなくて、まさに、王たる王というものを、映すんだとか」
「なにそれ……王たる王って概念がわからない」
「私もわからない。ただ、何か強い力の持ち主から、王である、と認められた王との事。ついでに言えば、それは毎回泥沼になりがちな、砂漠の王の代替わりの際にも考慮される物だとか」
「……まだ私、王様の代替わりが泥沼って漠然としかわからないんだけど」
「まあ、まだエーダが生まれてからは、派手な王位争いが起きていないからね。砂漠の王は、王位継承権を持つ複数の一族の中から、最も王に相応しい人間を選出するってのは、常識として知っているだろう?」
文字通りの実力主義なのだ。砂漠の王様というものは。
「そりゃあ、一般常識じゃないの」
「娘が一般常識をある程度知っている事に安心するよ。さて、問題はここからで、この、最も王に相応しい人間ってので、毎回もめにもめる。どの一族も、自分の一族から、王を出したいものだから、候補同士で水面下で殺し合いが行われたりする」
「血なまぐさいったらありゃしない」
素直な感想を言うと、親父もそうだそうだと頷いた。
「まったくそうだけど、この時に、王鏡に、一族の代表が全員集結して、お伺いを立てる事も有るんだ。王鏡が映した人間が、最も王たる王ってわけで。この王鏡の決定には、一族だろうが何だろうが黙らなきゃいけないとかでね。過去、名君と呼ばれる王が統治している時は、高い割合で王鏡の映した真実が考慮されたという話」
「王鏡は何をもって、王たる王、と選ぶんだろうね」
「さてね。でも面白い事に、王鏡は時折、王としてはあまりにも認められない相手も映すんだとか。大体、血筋が下の方だとか、若すぎるとか、誰かに忠誠を誓っているとか、そんな状況の人でも映し出す事があるんだって。何故そうなのかは、まだ誰も解明していない」
ね、面白い王宮の話だろう、と親父はいい、こう付け加えた。
「たまに、運命に導かれて、王鏡の前にやってくる子もいるらしい。王鏡は普通はとても入り込めない場所に会って、王様とか一族の有力者とかでさえ、王を選ぶ時以外は入れないっていうのに。まるで王鏡に呼ばれるように、そこにたどり着く子が出て来る事も有るんだって。変わった話だろう、少なくとも他の国では聞いた事がない」
弦を爪で弾きながら、音はこんな感じがいいから、曲調をこうした方が受けが良くて……とぶつぶつ言いだした親父を横目に、私は手入れ道具の手入れをはじめ、その後はろくに親父の言っている事を聞かなかった。
王たる王、もしもその鏡の前に行けたなら、あの人を少しでいいから映し出してはくれないものか。
あの人は、王たる王と言っていい、そんな人だったのだから。
……そんな事を少しだけ、考えた私は、悪くはないと思いたいものである。
それから、親父の仕事の手伝いをしに、またハレムの内部に入った私は、そこの女性達の火花の散る争いに、これが王様の寵愛を争う女性たちの戦い……怖い……と思った。
その女性達は皆、親父の腕前を盗み、我こそは王様に足しげく通ってもらうのだ、と野望に燃えている上昇志向の方々なのだ。
そのため、練習の熱意ってものが違う。
そして、自分のためなら色々な相手を踏み台にしてでも、と思うほど覚悟を決めている女性達でもあったのだ。
そんな人々に関わって見てほしい。ただの人間ならあっという間に巻き込まれて、つかいっぱしり確定だ。
かくいう私も、その中の一大派閥の女性達に目をつけられて、よりよい音を出す弦はどこの店の物だとか、自分の楽器の手入れをしろとか、親父との練習時間は平等なのだから、補助で入れとか、雑多な事を言われまくり、ハレムの中を走り回る羽目になっていた。
何故か。それは王宮に出入りしている商人に、特定の楽器の手入れ道具の注文をするとか、そんな外部との連絡係も押し付けられたからである。
ハレムの内部の女性達は、出入りの商人にさえ自分では会話ができないのだ。
出入りの商人が男性だと特にそうで、楽器のあれこれは人一倍知っていると思われがちな私に、女性達がやれというのだ。
これに対して抵抗の余地はない。抵抗したら後がものすごく怖い。楼閣で体験した女性の争いの数段は恐ろしい事が待ち受けていると、馬鹿でも想像がつくほどの圧力なのだ。
私は自分の身が可愛いので、彼女達の言う事をはいはいと聞くほかない。
これは楽師の娘の仕事じゃないんだが、と頭の中で突っ込みながらも、表面上は従うしかないのだ。
親父の仕事に支障が出てもいけないのだしね。
こんな色々な事情が重なった結果、私はハレム内を走り回り、だんだんどこをどう走っているのかわからなくなるくらいに頭が疲れて来て、押し付けられた仕事が一区切りして、少しは休憩していいだろうと思う位になった時に、宮殿内の窓枠に座り、ちょっとだけ目を閉じたのだ。
そして、五分とか十分とか、それ位だけ休憩をとった私が目を開けると、辺りは皆昼寝の時間なのか、静まり返っていて、静寂が漂っていた。
「……もうハレムは昼寝の時間? 鐘は鳴ったっけ……?」
ハレム内では、暑すぎる時間には昼寝をする事が習慣づけられていて、ハレム内の人達はそれに合わせてお昼寝をする。そのためその時間は静かで、皆思いおもい休んでいて、気を使って動かなければならない。
走り回っていた間に、そんなにも時間が経過したのだろうかと思い、私は親父の元に戻ろうと、ゆっくり宮殿内を歩き始めた。
そんな時だった。向かいの通路の方で、何かがきらっと光ったのは。
「ん?」
飛ぶ鳥が何か、光るものをくわえているのだろうか。なら一度見に行って、誰かの物なら兵士達に回収できないか聞かなければ。
そんな事を考えて、私は何かが光った向かいの通路の方に、足早に向かっていき、何度も目の端で何かがきらっと光るものだから、何回も角を曲がり、だんだんどこをどう歩いたのかもわからなくなってきて、迷子になっていたら誰かを探して捕まえよう、迷子の可哀想な楽師の娘の事くらい、皆道案内してくれるだろうと思って、足を進め続けたのだ。
だってハレムの女性の飾り物とかがくわえられていたら、泥棒騒ぎでいらぬ疑いをかけられるかもしれないのだ。
私としてはそちらの方が、迷子よりも問題なので、足を止める選択肢はなく、ずっと進んでいき、やっと足を止めた時、そこは王宮の中で、一番乾いた空気を感じさせる場所だった。
手入れをやめた庭園だったのか、日よけの建物があり、枯れた植物さえない砂ばかりの鉢に似たものの並ぶ場所で、建物の入り口で、光を反射するものをくわえた鳥がいる。
よく見ると一匹の鳥が、きらきらした金具に似たものをくわえていて、駆け足で近付くと、その金具を取り落として、飛び去っていった。
「なんだこれ……?」
金具ならどこの金具だろう、と思って、鳥が落とした物を拾ってみると、それは金具に見えたけれども、誰かの指輪で、光を良く反射する磨かれた白銀色で、男物なのか大きかった。
上質の銀だし、王様の何かかもしれないから、ハレムに戻って文官とかそう言った人達に渡せば、持ち主は見つかるだろう。素直に鳥を追いかけたと伝えれば、王様の部屋に出入りできるわけもない私が、盗んだなんて思われる事もない。
片手に指輪を握り締め、私は元来た道を戻るべく踵を返して、また何かがきらっと光ったから、今度は何だとそちらを向いて、扉のない建物の……壁の一角に大きな金属の板が、固定されているという不思議なものを見る羽目になった。
何かの装飾があれば、まだ何か意味があるものだとわかるのだが、その金属の板は装飾など一つもない。
長方形の板が、壁に固定されているばかりなのだ。
「……昼寝の時間だから」
ちょっと近付いても、仕事をさぼっているなんて思われないだろう。今は休憩時間だ、と私はその板の方に、砂に足をとられないように気をつけながら近付いて行ったのだった。
変なものが気になって近付く性格は、一回消滅しても変わらなかった悪癖である。
そんな事を思いながらも近付いて……建物の中に入り、薄暗いそこで、壁に固定された私の背丈よりもずっと大きな金属の板が、造りや素材から考えて、どうやら古くて意味をなさなくなった、曇っているどころか何も映せなくなった鏡だと分かった。
砂漠でももてはやされるのは、ガラスを加工し、銀箔を隙間なく貼り付けた、反射率も映りも最高なガラス鏡だという事くらい知っている私なので、この鏡も使われなくなってこんな所に置かれたのだな、と勝手に納得した。
さて、なんだかわかったし、今度こそ戻ろう。
私は鏡を上から下までじっくり見て、そこから立ち去ろうとしたのだ。
その時の事だった。
「……え?」
不意に鏡が黒く染まったかと思うと、暗闇の中に一人の姿が浮かび上がった。
そしてその姿は、私にとってあり得ない相手でしかなかった。
自分が映っている? そんな可愛い話ではない。
それを見ている目が信じられなくて、動けなくなって、その場に縫い付けられたように立ち尽くす私の前、その鏡の中に映った人は。
「……?」
私を見て、聞こえない音で何かの名前に似た動きを唇で行って、じっと私を見つめてきた。
「あ、」
あなた?
私は何も理解できなくなって、ただ、一言、この世界にいるわけもない相手に対する、たった一つの呼びかけを口で唱えて、相手と同じくらい、固まって相手を見つめ続けてしまったのだった。
そこに映し出されていたのは、見間違うわけのない、私の夫の姿そのものだった。




