3 思い描けない未来がある
この人は一体何者なのか。少なくとも王宮内に入って来られるという事で、ある程度の身元の保証は出来るはずである。
以前私と親父が青の国に連れて行かれた時、後々聞いてみたところ、バルロ達は知り合いのまっとうな人の手伝いとして入り込み、物陰に隠れて隙をついての誘拐だったとの事だったから、こうして堂々と家を訪ねて来る時点で、人目に付く事も恐れない、後ろ暗さを持たなさそうな人というのは確率として高かった。
「あの、用意できる物が水しかないんですけど」
「お水でもてなしてくれる、あなたの人格が素敵よ」
にこにこと、厭味など欠片もない顔で言う女性が、そうだ、と手を叩いて思い出したように言った。
「いけないわ、私ったら自己紹介もしていないのだから、あなたに怪しまれても仕方がないのに! 兄様からずっとあなたの事を聞いている物だから、すっかり知り合いのように思えているなんて、いけない私ね」
「兄様……?」
誰か私が兄と呼べる相手と知り合いなのだろうか。
私は複数人の男性を頭に思い浮かべた。親父の仕事の手伝いが必要で、王宮内に入った時に、顔見知りになった男性も数人いるし、親父の仕事中に暇になって、女官たちの手伝いをする最中で、話をする事になった男性達もある程度はいる。
その誰かの妹だろうか、と思って、私は顔の中に何か誰かとの似た部分はない物かと彼女を見つめた。
彼女は大変な美女で、立体的な顔の作りと言い、睫毛の長さと言い、人のよさそうな綺麗な笑顔と言い、かなりの数の男性に言い寄られていてもおかしくない見た目だ。
その顔や仕草や立ち振る舞いに、私は誰かとの似た部分を見つけられなかったから、本気で困った。
しかし、彼女はそんな困っている私を見つめて、優雅な一礼をして、驚くべき事実を言ったのだ。
「初めまして、エーダさん。私は近衛兵ハッサンの末の妹の、アニスです」
「え、ええっ」
「驚きました? 私と兄様はまるで似ていませんものね。でも下の兄様とは、私少し似ているんですよ。兄様は家族の中で一番大柄で、顔も年々怖くなって、似ている大人がいないってよく言われるんです」
それを聞いて目を疑った。疑うほかないほどに、彼女はハッサンさんと似たところが一つもない。いや、確かに髪の毛の色や目の色は近いだろうか。でもそんな似た色はありふれていて、あと五人くらい似た色の人を知っていた。
「私、ずっとあなたにお会いしたかったんですよ。あの堅物でこわもてで、女性から軒並み怖がられる兄様と、一緒に二人っきりで出かけてくれる方なんて初めてですもの! それに帰ってきた兄様から、根掘り葉掘り聞きだすと、それはもう兄様があなたに夢中だって分かってしまって! いったいどんな素敵な方なのだろうって、ずっと思っていたんです」
「えーと……ハッサンさんの妹さん?」
「アニスって呼んでくださいな。未来のお姉様になるんですから」
「……そちらのご家庭では、もう、私がお嫁に行くという認識でいらっしゃるんですか」
「あなた以外に、あの上の兄様と面と向かって会話してくれて、笑いかけたりしてくれる方他に心当たりあります? 陛下のご紹介だと聞いていますが、この上ない良縁だって、うちでは言い合っているんですよ」
外堀が徐々に埋められているのだろう。
確かに、王様の紹介で出会った男女というだけで、結婚までの段階はかなり短縮されていたのかもしれない。
逃げ場がないような気持ちになり、私は言葉を飲み込んだ。
そして、アニスさんは私の内心に気付いているのかどうなのか、身を乗り出して聞いてくる。
「あなたは、兄様の事をどう思っていらっしゃるのですか? やはり当人同士の気持ちというものが一番重要だと、うちでも友人達とも話し合うんですけれど、あの口下手な兄様が相手ですから、ここはきっちり私や一族が補助に回らないと!」
この言い方だと、一族全員が私とハッサンさんの結婚に肯定的に聞こえる。
それだけハッサンさんが結婚とかそう言うのと縁が遠かったのだと、推測できた。
本人もああいった事を言う位だから、結婚に対しての何らかの肯定的な感情がないわけでもないだろうし。
私はそこまで思ってから、興奮気味のアニスさんに座ってもらい、水を出して、私も同じ卓に向かい合って座り、少し迷ってから口を開いた。
「怖い人だとは思いません」
「まあ! 兄様が、いつも、エーダ殿は俺を全く恐れないで見上げてくれる。というのは真実だったのですね! よかった! 本当は怖いんだけれども、陛下やお父様の事を考えて、我慢していらっしゃるわけではないのですね!」
あなたは自分の兄に対してどんな事を思っているんだ、と言いたくなったものの、私はそれを言う事はしなかった。
それだけ一般的観点から見て、ハッサンさんの見た目だけはこわいのだろう。
確かにあの体格で、圧力をかけられたら、普通の女の子は泣いたりしてしまうだろうしな。
「丁寧な人で、気遣いの出来る人で、思いやりのある人で、優しい人だと思います」
私がハッサンさんに対して思っている事を、ゆっくりと言葉にすると、アニスさんは目をきらきらさせて身を乗り出してきた。
「兄様の良い所を、そこまで見てくれる結婚相手候補の女性は、今まで一人もいなかったんですよ! 皆揃って、顔が怖い、体格が怖い、良い所を見つける前にそれが先に出て無理!! って」
「あの人は、良い人ですよ。……それに」
「それに?」
アニスさんはわくわくとした表情を隠す事もなく、私の方を見つめて来る。
「私から見れば、少しばかり顔がいかつくて、ちょっとばかり体格が立派で、……それ位でしかないんです、あの人の見た目は」
「すごい!! 兄様の見た目の問題をそこまで無視できる人なんて! なんていいご縁を陛下は結んで下さったんでしょう!」
アニスさんは快哉をあげそうなほどの喜び方をしている。でも、私は大事な事をまだ隠している。
それを言わないと、変に期待させたままにしてしまうだろう。
「……でも、私は、わからないんです。彼に対して抱く感情や心の動きが、果たして友に抱くものなのかそれとも、愛する人に抱くものなのか」
「あら、詳しくお聞きしてもいいかしら? それとも、私が聞いてもかまわないお話ではなくて、もっと複雑なものだったりしますか?」
「いえ、誰か、父ではない人に聞いてほしい物かもしれません」
私は、目の前の、恋愛というものをたくさん体験していても、おかしくなさそうな絶世の美女に、この胸の内を聞いてもらう事にした。
「……私は、恋愛的に好きな人が一人もいない人生を送ってきました。無論、友達と呼べる相手も、この人生では一人もいないという恥ずかしい人生です」
「……旅暮らしですもの、ありふれた話でしょう?」
「そのせいか、わからないんです。私は、ハッサンさんが、彼の大事な家族達と幸せになってほしい、と強く思います。それを見守りたいと思います。でも、その先が思い浮かばない。……私がその中に加わって、幸せを一緒に体験したいとか、そう言った物を、まるで考えられない」
「……」
アニスさんが黙った。じっと私を見つめているのが、視線の強さからよく分かる。
私は苦笑いをした。
「幸せでいてほしい。むやみな苦しみを味わってほしくない。……そこから感情がどうにも育たないんです。一緒に幸せになりたいとか、そう言った物が、まるで思えないんです」
事実だった。私はハッサンさんに、過去の変わった夫だった人に、幸せになってほしいと思うし、いらぬ苦労をしてほしくないと思うし、辛い運命を背負ってほしくないと思う。
でもそこに、私がいなくていいと心底思ってしまうのだ。
……私が、一緒に幸せになりたかった人は、たった一人しかいないというむごい現実が心の中にある。
私はその人のためになら、血まみれになっても戦える。どんな傷でも立ち上がろうとする事が出来る気がする。
その人との幸せのためなら、苦労を背負ってもちっとも構わないと言い切れる。
その人と並んで、二人で顔を見合せて、笑ったり怒ったり、人生という長い道を、進んでいく事も、嫌だと思わない。
そう言う人が、いてしまう事こそ、ハッサンさんに対してひどい事になるのかもしれなかった。
私から目をそらさずに、アニスさんが私を見ている。何かを読み取ろうとしているような表情だ。
そしてそこまで話した私は、それ以上何も言えなくなり、大きく息を吐きだした。
そんな時だ。アニスさんが、何かを考えた後に、口を開いたのは。
「エーダさん……あなたはもしかして、どなたかいらっしゃるんじゃないですか。そしてその人は……兄様に、重ねてしまう程度には、似た部分のある人では。いいや、そうじゃなくて」
「アニスさん……?」
「あなたは、あなたのすべてで愛する人が、兄様ではない方で、いらっしゃるんでしょう? ……何か、どうしようもない理由のせいで、その人の元に戻れないだけで」
私は驚いた。私の言っている言葉から、それを読み取るなんて、相当に勘が鋭く感じられたのだ。
そして思い出す。そうだ、夫だった人の死んだ妹は、とてつもなく勘の鋭い子で、この人も、同じハッサンの、違う未来の妹だから、勘が鋭いのでは、と。
しかし、彼女の言葉に答えられるわけもなく、私は口をつぐんだままだったのだが、アニスさんは言った。
「ねえ、エーダさん。どうか、二度と会えない方ではなくて、兄様との未来を少しは考えていただけませんか? その方が、きっとエーダさんにとっても幸せな未来が待ってますよ」
「……」
私はそれに、諾とも否とも、答えられないで、アニスさんとのお喋りは終わったのだった。




