2 それからは目を背けていた
きっと愛するんだと信じて疑いもしなかったのに、いま私は、その人を愛する事はきっと永遠にないのだと、思い知らされていて、その事実に膝をついてしまいたかった。
「エーダ殿?」
私が不意に立ち止まった場所に、視線を向けて、ハッサンさんが、そこに取り立てて特別なものがないものだから、不思議そうに私を呼んだ。
「……何でもないです、ただちょっとだけ、日差しで目がくらんだだけで」
「そうですか、大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ。砂漠ではありがちな事、そうでしょう?」
私は何もなかったのだという顔をして、少し先を歩いていた彼に歩み寄っていく。
彼はそんな私を優しい目で見つめている。
その目は、透明度の高い透き通った黄色で、また私の中の柔らかくてどうしようもない部分が、彼じゃない、と叫んでいた。
そうだ、この人はあの人の違う未来で、あの人そのものではないのだ。
分かっている、理解している、実感している、認識している、確信している、納得している。
それでもどうして、私の心のどうにも頑固で譲らない部分は、膝をついて叫び散らかして、あの人じゃないっていう現実に打ちのめされるのか。
……わかりたくない。分かりもしない。
私はまた、自分の一番目を向けてはいけないどうしようもない部分から目をそらして、ハッサンさんの隣を歩くのだ。
さっき足を止めた場所は、私が時を巻き戻して、運命を捻じ曲げる前、夫だったあなたが花を探していた場所に似ていた。
その花をどうするの、と聞くと、
「おばば達に、女性には花を贈る事も必要だと言われ続けてな。……お前はどれを贈られたらうれしいと思うんだ」
そう、真顔で言いだすものだから、私は大笑いをして、あの人が眉間にしわを寄せるほど笑い続けて、こう答えた。
「いつか枯れてしまう物よりも、枯れないあなたとの思い出が欲しいから、贈らなくていいわよ」
あの人はその言葉を聞いて、心底難しいと言いたげに、無表情の口元を難しくさせて、こう言った。
「女性の心はおばば達の方がはるかに詳しいと思っていたのだ、お前はそうでもないらしいな」
「女性っていく枠組みだけでくくっちゃだめでしょ、だいたい私とあなたの間で、普通とか平均的とか、当たり前の感覚とか、あんまりないでしょ」
「……そうかもしれんな」
「私はあなたに花をもらう位だったら、あなたと手をつないで、ゆっくり街を歩きたいよ。それであなたが知る、この広大な砂漠の素晴らしい街の話を聞くの」
あなたが今まで守ってきた物の話を聞かせて、とねだって、あの人はその流れ出す黄金の温度に似た瞳を私の方に向けて、ゆっくりと目を瞬かせて、こう言うのだ。
「面白味を求めるなら、一族の女たちに聞いた方がいいだろうに」
「私はあなたと夫婦なのよ、あなたが見てきたものを分かち合いたいって事くらい、どうしてわからないかな」
「俺にお前の感情を推し量れという方が難しいだろう。お前は俺ではないのだ」
「そりゃそうだ。私はあなたじゃ無いものね」
あの、新婚旅行を切り上げて、早く王宮に戻らなくてはいけなかったあの日、私達はその先の未来がこんな事になるなんてまったく思いもしないで、未来の話をしていたのだ。
あの頃私は、愛する夫と色々なものを分かち合いたかった。
もう二度と、それは叶わない願いだけれども。
その未来の話をした花屋の店先に、そこはとても良く似ていたのだ。ここは砂漠の王宮がある町で、もしかしたらあの時の町と同じ町で、だからよく似た花屋があるのかもしれないけれども、並んでいる花とか、育てている植物とかは違っていたから、違うものだと私は認識している。
それでも、もう帰れない場所の思い出に似ているから、私は足を止めてしまったのだ。
そして、花屋の前で足を止めた私に、ハッサンさんはあまり深く聞いてこない。
……あの時は、あの人が私よりも足を止めて、その商売の邪魔になりそうな大きな体で、花々を見下ろして睨んでいた事すら思い出す。
ハッサンさんは、過去の変わった私の夫だった人だ。
でも、私が命をかけたいと思った夫じゃない。
幸せになる姿を見たいと思う人だ。
でも、私が幸せにしたい相手では、ないという嫌な現実が、そこに転がっていた。
同じ人だ。
でも、あのひとじゃ、ない……
私はハッサンさんに見られないように、そっと目元をこすった。ここで涙を流したら、ハッサンさんが泣かしたんだと、いらぬ噂が立つだろう。余計な噂になる事は遠慮したい。
この人をこんなどうしようもない理由で、困らせたくないんだから。
「エーダ殿、日差しに参ったのなら、どこかで休んだ方がいいだろう。それとも、もう今日は切り上げるか」
ハッサンさんが私に気を使って、そんな申し出をしてくれる。優しい人だ。気遣いの出来る人だ。
人間性は百点満点なのだろう。
それでも、私はこの人を、そう言った意味では愛せないのだろう。
「今日は切り上げましょう。……本当にごめんなさい、あなたの大事なお休みを無駄にしてしまった」
「私の事よりも、自分の事を大事にしなさい。沙漠の日差しを甘く見てはいけない事は、あなたもよく知っているだろう。具合が悪いのに、誘ってしまった私の方が申し訳ない事をしている」
「そんなのじゃ、ないんですよ」
ただ私が弱いだけなんだ、とそれを言う事はどうしてもできなくて、私はハッサンさんに最後まで気遣われながら、自宅に戻って行ったのだった。
そして、自宅に戻った時に、ハッサンさんが少し考えていた事のように、こう言った。
「今度、あなたを家族に紹介してもいいだろうか」
「なんて紹介したいの」
「……結婚するかもしれない相手として」
「まだ私はあなたをそこまで知らないから、待ってください」
「そうか、私は少し気が早かったかもしれない。あなたの事を考えないで、先走って」
「……ごめんなさい、決めきれなくて」
私がうつむいてそう言うと、ハッサンさんは穏やかな声でこう言った。
「一生を左右する選択肢なのだから、あなたが悩み、即決できないのは当たり前の事だ。お気になさらないで」
「ありがとうございます」
最後にそれだけを言って、私は家の中に、ハッサンさんの方は自宅に帰って行った。
親父は今、ハレムで女性達を教えているのだろう。室内には誰もいないし、砂漠の明るい陽射しが部屋に少し入ってきている。室内が少し暑く感じて、私は窓からの光を遮った。
「……確かに、結婚を意識している人に対して、私は残酷な事をしている」
親父が出かける前に言った事が蘇る。そうだ、ハッサンさんの方はこれまでずっと女性と縁がなくて、私が初めて、彼を怖がらないで一緒に出掛けたりする女の子なのだ。
これで色々な未来を意識しない方がおかしかったのだ。
親父の方が正しかった。態度をはっきりさせなくちゃいけないのは、私だった。
きっとハッサンさんは、私が気付かないだけで、色々考えて動いているのだ。
私は不誠実だ。あの人に対しても、ハッサンさんに対しても、とても不誠実だ。
そんな事実が自分によって突きつけられて、私はどうしたらいいのか全く分からなくなって、ぼろぼろと涙ばっかりこぼれて来てしまうのだった。
泣いてどうにかなる事じゃないのくらい、よく分かっているのにね。
涙がしょっぱくて、喉まで回って、私は水を少しだけのもうと、座り込んでいた場所から立ち上がった。
水瓶の中の結晶水石から、水を小さな器に注いで一息に飲んだ時の事だ。
「すみません、こちらが、楽師アーダさんとその娘のエーダさんのご自宅でしょうか?」
明るい女性の声が玄関の方からかけられて、親父に何か用事のある女性だろうか、と私は涙を拭いて、いつも通りの顔である事を、安物で曇り気味の金属の鏡で確認して、玄関に向かった。
「はい、こちらで合っていますよ。親父……いえ、父に何かご用事でしょうか? 父は今あいにくと仕事に出ておりまして……」
私が慣れた言葉を言いながら、玄関を開けた時の事である。
「……」
「こんにちは。私はアーダさんではなくて、エーダさんに用事があってきた者です。少し、中に入れていただいてもよろしいかしら?」
玄関の前に立っていたのは、私なんか目じゃない位に華やかな、砂漠の美女で、私よりちょっと年上に見える人で、とても友好的ににこにこと笑っている女性だった。
こんな人の知り合いなど私にはいないのでは、と心の中で知り合いの目録をめくって確認してみたが、やはり知り合いではない。
いったいこの女性は何者なのだろう。
そんな事を思いながら、私は彼女を中に入れる事にしたのだった。




