16 とある決意の果て
「大丈夫、なのか」
私を困惑したように見つめて来るハッサンさんに、何を持ってそんな事をと思った私は、周囲を見回して、どさくさで砂漠の髪型に結い上げていた髪の毛が、軒並み垂れ下がっている現実に気が付いた。
それもかなりぼさぼさになっている。
「うわ、やだ!! ちょっと背中むいて!! 私今すごくみっともない!!」
砂漠で髪の毛をきちんと結ばない女の子は、だらしがないと言われるのだ。髪の毛を結い上げて、そこに布を巻き込んで、更に日よけで通気性のいい華やかな色の布を被って、女の子の一般的身だしなみが完了するわけである。
今の私はそれが軒並みないわけで、砂漠の常識に生きているハッサンさんに、向き合うにはあまりにもだらしない状態なのである。
そのため慌てふためき彼の前で手を思いっきり振り回して、見ないでと伝えると、彼は上から下まで私を見た後に、こう言った。
「確かに身だしなみという観点からは、相当に逸脱しているが、目が離せないものがある」
「目を離して!! 今すぐに直すから!! ぎゃあ、最悪、被ってた布がどっか飛んだ!!」
気になる相手にみっともなかったりだらしなかったりする見た目を、見てもらいたい女性がいるわけもない。
そして私も当然それに該当するわけで、周囲を見回して、何かのどさくさで吹っ飛んで行ったらしい被っていた日よけの布を探したけれども、それらしきものは見当たらず、とにかく急いで最低限の身だしなみを、髪の毛を結ばなければ、と焦るのに、手が滑ってまともに髪の毛を一つにくくる事さえできない。
手ばっかり急いで、指が言う事を聞かなくて、本当に泣きそうになった時である。
「失礼」
そう言ったハッサンさんが、あっという間に近付いて、私の背中に回ったと思うと、あっという間に髪の毛をまとめてしまったのだ。
とんだ早業である。こんな早業どこで培った、と言いたくなるくらいに早い。
「わ、私より早い……」
「髪の毛をいじるのが大好きな妹を持つと、手伝いという事でこれ位は覚えさせられる」
ハッサンさんは何にもおかしくないという調子なので、そうなのか、妹を持った男の人ってそんな技術も手に入る事があるのか、と私は納得した。
それにしても早すぎた。触られたかどうかもわからないくらいの速さで、手際の良さに感心してしまう。
「……本来女性の髪の毛に触れていいのは、肉親や恋人だけなのだが、あなたが困っているから手を出させてもらった。ひどい事をすると思うならば、謝罪したい」
「いや……、その、……ありがとう」
人によっては、変態、とか、最低、とかいう事だったんだろう。実際に、夜の女性達に言い寄る男性達は、彼女達に
「あなたのその美しい髪をすいてみたい」
とか
「あなたの髪を枕にしてみたい」
とかいう口説き文句を常套句としているのだから。
しかしハッサンさんはそう言うわけでなくて、私が自分で髪の毛を結べないくらいに焦っていて、見ていられなかったから手を貸してくれたわけで、変態だのなんだのというのは出来なかった。
ただ、なんとなく頬が熱くなって、まっすぐ彼を見上げられなくなって、視線が彷徨って、お礼の言葉もぽそぽそとしたものになったのが、どことなく悔しく思えた。
「さて、儀式も終わったし、逃げるよエーダ」
そう言ったのは親父で、親父は立ち上がり、しっかりと壺の方に声をかけ、楽器を背中に背負い直している。
「これ以上青の国に居たら、君も私も望まない未来しかやってこないからね。ハッサン殿、私達が先に砂漠に戻る事を、王様にお詫びしておいてください。私も王様が帰国し次第、謝罪に向かうとも」
「……どうやってここから今すぐに?」
「はっはっは、私はここからどう走れば、最短距離でこの城を脱走できるかを、熟知している身の上なんですよ」
「……わかりました。では、急いでください。あちらの方々が、混乱から息を吹き返しそうなので」
「情報をありがとう。……暗闇、道順は教えただろう? 逃げるぞ。行くよエーダ」
「うん。……ハッサンさん、また後で」
私はそう言ってハッサンさん達に一礼し、親父が信じられない速さで突っ走るのを、全力で追いかける事になったのだった。
もう、親父の全力疾走はいつ体験しても早すぎて、親父なんでそんなに速いんだ、と言いたくなる。
普段はのんびり屋なので、本気で走る時は何か切り替わって疾走するのだろうと、私は勝手に考えている。
そんな状態で、王宮を貫くように走りぬけ、私達は裏庭らしき場所の井戸に、親父が躊躇なく飛び込んだので同じように飛び込み、その後は視界など一切効かない隠し通路らしき水路を、親父に手を掴まれて駆け抜け、どれくらい走ったかも見当がつかないくらいの時間走って、ようやく町の外の水路の出口に到着したのだった。
その時点で私の足はがくがくと震えていた。距離が長すぎたというよりも、親父の超速に合わせて走ったために、体の力が限界になってしまったという奴である。
「……追手はまだこのあたりまでは来ていない。……となると……エーダ、もうちょっと先に、砂漠行きの連絡船の、夜間のみ乗船を受け付けている停留所があるんだ。そこを目指すよ。そこから乗れればこっちのものだ」
「なにそれ……きいたこと……ない……」
「連絡船の隠し停留所だからね。知っている人は有効活用をするし、知らない人は一生知らない秘密の停留所だ。違法でもなんでもなく、単純に、夜にだけ人を乗せるから知られないってだけの停留所だが、停留所の時刻表を眺めても見つからないものになっている。専用の時刻表があるものだから、日中の時刻表には載っていないだけの話なのだけれどね」
親父はあっさりとした物で、違法でも何でもなく、ただ知っている人が少ないだけだ、という調子なので問題はなさそうのである。
そのため私は、ぜえぜえ言いながらもまた親父に続いて走って、その停留所を目指したのだった。
「本当に真夜中に乗れた……知ってるって便利……」
「だろうねえ」
私達は本当に、打ち捨てられたようなぼろっちい停留所の目印の前に、真夜中にそこに角灯をつけて待っていたのだが、そうすると本当に、連絡船の一番安い雑な席に乗れたのである。
こんな方法があるなどびっくりしすぎて目が落っこちそうである。
そして、私達はとった席に座る事なく、いいや座れず、定期船の甲板にある木箱の上に座っていた。
何故座れなかったのかというと、その近くで流血沙汰になりそうな、席争いの喧嘩が始まり、巻き添えを食らわないために、こそこそ逃げただけの話だ。
そんな状態で、私はやっと座って体を休め、親父に問いかけた。
「……で? 親父は何を確かめたかったの」
「……今から言う事実は、私ともう一人の実際にそれを見届けた人しか知らない事だと、先に言っておく。そして私はそれを今まで口にした事など一度もなく、その人は誰にも言わずに死んだ事も。つまり、この事実を語れる人間は私だけだと、念頭に置いて聞いてほしい」
そう言う、真面目な前置きをした後に、親父はとある、親父とその死んだ人以外誰も知らない、とある隠された真実を話し始めたのだった。
「私の妻は絞首刑に処された。これは誰でも知っている。隠されているのはその後の事だ。……そして墓場に運ばれ、いざ土の中に入れるとなったその時、私ともう一人、墓穴を掘る役人は、妻の膨れていたお腹がへこみ、股からおびただしい血が流れ、……想像がつくだろう? 赤ん坊が生まれ落ちていた事に気が付いた」
「どうして気付いたの」
「最後、彼女の事を目に焼き付けようと、棺のふたを開けたんだ。そうしたら、彼女の股の部分が真っ赤に染まり、確認したらそう言う事だった」
「……」
「いささか月足らずの赤ん坊でね。そのまま育てる事が難しく、治療が必要であろう子供で、……私は、迷った。妻が私以外の胤で育ててしまったかもしれない赤ん坊だったからだ。……でも私は、妻の娘を、そのまま殺してしまう事などとてもできなかった。妻は、普通の家庭に憧れていた。家族がいて、笑ったり怒ったり、一緒に悩んだり楽しんだりする普通の家庭を。だからこの子を殺したら、妻に顔向けができないと思った。そして、墓場に来るまで、妻が死んでもなお子供の事を守るために、お腹に隠したのだと考えてしまった。そうなると、もう、赤ん坊を殺したり、処分を受けさせるために報告したりする事など、とても出来なくなった」
「それで、どうしたの」
声が震えた。親父は、その状況の中で、その赤ん坊をどうしたのか。……愛した妻の産んだ、その子供を。
「墓場というものと、古い病院というものは、距離がとても近い事は君も知っているだろう? 何処の国でも、病院と墓場は表裏一体とされて、すぐそばにある物だった事も。だから当然、その墓場の目と鼻の先にも、古い病院があった」
親父は何かを決意したように息を吸い込み、言葉を続ける。
「私は墓穴を掘る役人に、この子が死んでいたらすぐにまた連れて戻るから、待ってほしい、病院で死亡確認をさせてくれ、と赤ん坊を抱えて走った。その古い病院は設備も古くて、あまり人のいない時間帯だった事も有ってか、閑散としていた。だから私は、医者を探して走り回り……一人の赤ん坊を見つけた」
「その赤ん坊も、生まれたばかりで、ちょうど医者達が治療のためかそれとも、違う何かのためか、席を外していた。……そして、その赤ん坊は、医者が治療のために席を外している間に、死んでしまったようだった。もう、素人目にもわかるほどはっきりと命が消ているのが分かった。そしてその場には私以外誰もいなかった。だから私は思いついた。この子供と、彼女の赤ん坊を、入れ替えてしまおう」
親父の声がぞっとするほど寒くなった。親父は、何をさっきから言っているのかと、理解していたはずの言葉が分からなくなりかけていた。
「彼女の子供は、生きていると知られたらひどい待遇になるか、最悪子供のうちに殺される。それ位世論で彼女が悪だと当時の国王達が広めたからだ。彼女の子供は、私の子供であれそうでないであれ、彼女の子供というだけでろくでもない人生を歩く。……愛した人と血を分けたその子を、そんな目に合わせるくらいなら。そんな過去のない人生を歩いてほしい、一生私が顔を見る事がなくても、と私はその赤ん坊を入れ替え、冷たくなって心臓の鼓動も聞こえず、顔も判別が難しい状態の赤ん坊を、抱えてすぐに墓場に戻った。そして役人にこう言った」
声が重たくなる。体を支配するのはすさまじい重量感だと言わんばかりの声で。
「私の娘は死んでしまった。医者に診てもらう前に、こんなに冷たくなってしまった。心臓も止まってしまった。蘇生のためだと体をいじられるよりも、お母さんと一緒に土の中で安らかに眠ってほしい。だからこの子も、私の上着とともに埋葬してほしい」
「……」
「そして、彼女の子供は、私とその役人以外誰にも知られる事なく、生まれて、どこかにいなくなった。……だから私は旅に出た。彼女以外との再婚など受け入れられなかった。何より何が働き、彼女の娘の事に国が気付くかわからなかったからだ。そして私は罪を償うために、地位を捨てる事にして、国を去り、……今に至る」
長い秘密の思い出話が終って、親父は私の方を見た。
「君は」
ずっと目が見えなかったから、気付く事もなかったのだろう事実を、親父は私にこう告げた。
「私の妻に、驚くほどよく似ている」
「王族の歌しか効果を発揮しないあの場で、君の歌は力を示した。君は王族で」
「私の、娘だ……っ」
親父はそこまで言うと、とうとう耐え切れなくなったのか、涙をこぼして顔を覆った。
「生きてくれていて、ありがとう……!!」




