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番外編

番外編 汐海の生きた世界


 ちょうど夏休みが明け、秋のはじまる九月頃。もう梅雨も過ぎたというのに、この日は、雨が降っていた。私は、バイト先で売れ残ったお弁当の入ったビニール袋を片手に、青石駅の階段を降りていた。階段を下りきると、駅の構内で雨宿りをしている少年が目にとまった。困ったように何かを探してバッグをあさっている。傘を持っていないところみると、家に忘れたのだろうか私は不思議と興味を惹かれ、少しの間、その様子を眺めていた。すると、彼は雨の中に走り出そうと準備体操をはじめた。私は、そんな彼がまるで自分のうちの妹のようで、お弁当をバッグにしまうと、彼に歩み寄った。

「はいりますか?」

私がそう声をかけると、彼は振り返り、小さい男の子のように目を輝かせて、ありがとうと白い歯を見せて笑った。

彼は、二人で道を歩きながらも楽しそうに色々と話をしてくれた。そして、通り過ぎる車が水を撥ねると、私にかからないようにさりげなくかばってくれていた。それは、もしかしたらなんてことのないことなのかもしれないけれど、私には、そんな小さな気遣いがとてもうれしかった。

彼の話を聞きながら、私も、同年代の子と話をすることすら久しぶりだったからか、いつの間にか声を上げて笑っていた。

 こんなに声を上げて笑ったのなんていつ以来だろう。男の子と相合傘なんて初めてで、少し照れくさかったけれど、こんなに楽しいのなら、声をかけてよかったと思った。

 すると突然、彼は向き直って、少し恥ずかしそうに自己紹介をした。

「僕は奈津、青南高校の高橋奈津。きみは?」

 やさしくて、よく通る力強い声で、彼は私に聞いた。、私の名前は仲村汐海です。彼が自己紹介を始めた時、私はそう言おうと思っていた。けれど、彼が私と同じ高校と知ると、私は急に怖くなって、うつむいたまま何も言えなくなってしまった。

高校で、私についてひどい噂が流れていることを、私は知っていた。

二年半前、私はママの仕事の都合で、この町に引っ越してきた。私は新しい生活と、高校生になることに不安を感じながらも、入学してすぐ、美玖ちゃんという友達ができた。お昼休みにはみんなと一緒にお弁当を食べたり、お話をしたり、それがとっても楽しくて、私はこれからの高校生活に期待を膨らませていた。


「しおみちゃんのそのたまご焼きおいしそう!自分で作ったの?」

「うん、そうだよ」

「えーすごい!ウチのママ料理下手なんだよねぇ……ウチのエビフライと交換しない?」

「うん!」

 私と美玖ちゃんは、いつも一緒にお弁当を食べていた。美玖ちゃんの家は私の家とは違ってお金持ちだったけれど、とてもやさしくしてくれて、私は毎日美玖ちゃんと話すのがとても楽しみだった。

「ねえしおみちゃん、あの人イケメンじゃない?ウチねらってるんだー」

 美玖ちゃんがお箸で指した先には、茶髪で細身の少し切れ長の目をした男子がいた。

「ダンス部の先輩なんだよね、かっこいいでしょ。とっちゃだめだからね」

「わたしじゃ美玖ちゃんには敵わないから大丈夫だよ。ほら、あの人もさっきから美玖ちゃんのことチラチラ見てるし……」

「ほんとだ!うふふ」

 わたしがそう言うと、美玖ちゃんは嬉しそうに笑った。

そして次の日、いつものようにお弁当を食べながらお話をしていると、その先輩が教室のドアから、美玖ちゃんのことを呼んだ。美玖ちゃんは笑顔で、先輩のもとへと駆け寄って、二人で廊下に出ていった。そして、少し時間をおいてもどってきた美玖ちゃんに、私は聞いた。

「美玖ちゃん、どうだった?」

 すると、美玖ちゃんは私を見て言った。

「メルアド教えてだって」

「ほんと?よかったね!美玖ちゃん」

「……あんたのね」

 私が、どうしたらいいかと困っていると、美玖ちゃんがつづけた。

「でも大丈夫よ、あんたんち貧乏でメルアドどころかケータイも持ってないってちゃんといっといたから」

「う、うん。わざわざありがとう……ごめんね、美玖ちゃん」

 その日、美玖ちゃんは私と一言も口をきいてくれなかった。けれど、傷ついたのは美玖ちゃんの方だから、私は美玖ちゃんのことが心配で、次の日はいつもより早めに登校した。

「あら、美玖おはよー」

「おはよー」

 みんなが美玖ちゃんにあいさつをすると、美玖ちゃんもみんなに笑顔であいさつを返した。

「み、美玖ちゃんおはよ」

 私があいさつをすると、美玖ちゃんは私を見ることもなく自分の席に着いた。

 しかし、昼休みにひとりでお弁当を食べていると、美玖ちゃんから声をかけてくれた。

「しおみちゃん、なんでひとりで食べてるの?一緒に食べようよ」

「え……いいの?美玖ちゃん、ありがとう」

 やっぱり、美玖ちゃんはやさしい子だった。このとき、私は美玖ちゃんと仲直りできたと思って、とても嬉しかった。

「みてこのストラップ、アメリカのブランドの限定品だよー、かわいいでしょ」

「うん、すごくかわいい!美玖ちゃんによく似合ってるね」

「……あれ?しおみちゃんのそれ、なんかきたないね」

 美玖ちゃんは、私のバッグについている黄色いリボンをつけた白いビーグル犬のストラップを指して言った。

「う、うん。もう古いから。でも、大切なものなんだ」

「へー……、でも、あんまりオシャレじゃないよね。ねえ、よかったら私のこのストラップゆずってあげてもいいわよ」

 私が困っていると、美玖ちゃんはストラップを差し出した。

「ほら、はい」

「あ、ありがとう……」

 美玖ちゃんは私の机にストラップを置くと、今度は手のひらを上にして、私の前に突き出した。

「美玖ちゃん、どうしたの」

「どうしたのって、ただなわけないでしょ。それ、ジェニーの限定品なんだから。三万でいいわ」

「ごめんなさい、お金はないの」

「うそー、だってこれ普通に買ったら、六万円はするんだよ?!

「……ごめんね、美玖ちゃん。私にこんな高価なもの似合わないし、返すよ」

 私は小さな声で謝った。

「ありえなーい、こんな貧乏人はじめて。うちこんな人とうまくやっていける自信なーい」

 美玖ちゃんは、教室中に響き渡る大きな声でそう言った。それを聞いた周囲の子たちも、何かあったのかと集まってくる。

「ねえきいてこの子んちすっごい貧乏なんだよ。そういえば、なんか臭くない?あんたちゃんとお風呂入ってんの?あっ、ごめん、貧乏だからお風呂も入れないのか、きたなーい」

 美玖ちゃんがそう言うと、みんなが声を上げて笑った。

美玖ちゃんに謝りたかった。けれど、その時の私は、美玖ちゃんのその言葉に、こみ上げる涙をこらえるのがやっとだった。

私は家に帰ると、すぐにお風呂場に向かった。そして、何度も何度も体を洗った。もう臭いって言われないように、何度も何度も、体をこすりつづけた。

 そしてある日突然、私のことで嫌な噂が流れはじめた。初めのうちは、あまりに根も葉もない噂に、否定をしていた。けれど、いつの間にか学校中にその噂は広まっていて、いつしか誰も私の言葉には耳を傾けてくれなくなり、気づいた時にはもう、誤解を解くことはできなっていた。私が誰だか知らずに声をかけてくれた子もいたけれど、私が仲村汐海だと知ると、決まって手のひらを返したように、軽蔑の眼差しを向け、去っていった。入学してからずっと仲良くしていた友達も、次第に離れていき、そして、私はひとりぼっちになった。


だからきっとこの人も、私の名前を聞いたら、その噂を思い出し、同じような眼で見られるのではないかと思うと、私は怖くて何も言えなくなってしまい、ただ、うつむくことしかできなかった。

私が押し黙っていても、彼は私に声をかけつづけてくれた。その声は子どもを心配するようにやさしく、先程の元気な声とは打って変わって静かなものだった。彼が途中のスーパーまででいいと言ったとき、私は、そんなつもりじゃなかったと、そう思ったけれど、ついに口にすることはできず、彼の言う通りにするしかなかった。

「それじゃ、いれてくれてありがとね」

 彼はやさしくそう微笑むと、振り返って歩きはじめた。その時、なぜだかわからないけれど、私は彼に自分の名前を名乗っていた。

「……しおみ」

「え、それって……なまえ?」

 彼は不思議そうに、けれど少しうれしそうに、聞きかえした。

私はコクンとうなずくと、彼の反応見る勇気がなくて、そのまま踵を返し、駆け足でその場を去った。


「ただいまあ」

「おねえちゃんおかえりー!」

 家に帰ると、玄関まで妹が駆け寄ってくる。

「梨奈、今度ね、遠足があるの!はいこれ」

妹はそういって保護者宛てのプリントを差し出し、私が目を通すのをじっと待っていた。

「バッグはわたしのがあるとして、レジャーシートあったかな……」

私はリビングに上がると、バッグから取り出したビニール袋をテーブルにおいて、プリントに目を通す。

「エミちゃんち、今日食べ放題なんだって、いいなあ、食べ放題」

梨奈は私がバイト先から持ち帰ったビニール袋の中のお弁当をのぞきこむと、小さくそう呟いた。

 うちには、お金がなかった。トラックの運転手だった父は、私が八つの時に交通事故で亡くなり、その時一歳だった梨奈は、父のことをほとんど覚えていない。

「梨奈、遠足のお弁当には何を入れてほしい?」

「えっとね、甘い卵とー、たこさんとー、ピンクの!」

「卵焼きとウインナーと桜でんぶね、わかった!」

遠足のお弁当には、梨奈の好きなものを何でも入れてあげたいと思った。私が小学校の遠足に行ったときは、ちょうど父が亡くなって間もない頃で、ママは仕事で忙しく、私はコンビニで菓子パンを買い、普段と変わらない食事をした。今となっては慣れっこだけれど、その時はおやつをたくさん持ってきている友達がうらやましかったし、みんなの色とりどりのお弁当を見て、恥ずかしくて隠すようにして食べていたことを憶えている。

梨奈にご飯を食べさせると、私は一息つこうと、自分の部屋に上がった。そして、部屋の隅に置いたバッグをみて、白いビーグル犬のストラップがついていないことに気がついた。

「どこかで落としちゃったのかなあ……」

私はベッドに座り込むと、今日一日のことを思い浮かべた。不思議と、今日出会った彼の笑顔が思い出される。

「嫌われちゃったかな……」

私は、彼に冷たくしてしまったことがなんとなく気になり、ふとそうつぶやいた。


次の日、私は梨奈を見送ると高校の制服を着て家を出た。ママは、私が学校に行っていないことを知らない。私も高校に行くつもりなどなく、ママを心配させないために毎朝制服を着て家をでているだけだった。けれど、今日は学校に行ってみようと思った。なぜそんな気になったのか自分でもわからない。でも少しだけ、また昨日のあの人に会えるかなと、心のどこかで思っていた。


久々に学校に行くと、相変わらず私の席は埃を被って、いつもと同じ場所で佇んでいた。

「ほら、みて、あの子、学校に来てるわよ」

「うわあ、まじかー」

ヒソヒソと話し声が聞こえる。私は、聞こえないふりをして、自分の席の埃を払うと、イスに腰を下ろした。

授業中は、いつも下を向いていた。みんなの顔を見るのが怖かった。目が合ってしまうのが怖かった。ゴミ箱に向けて投げられた紙クズやゴミは、ときどき私に当たる。どうして、ゴミ箱はいつも私の後ろにあるのだろう。何度か、先生に相談しようと思ったけれど、私が先生に話しかけようとすると、先生はさも忙しそうに私を避けた。今では、視線すらこちらに寄越すことはない。ラクガキされた机も、見ないことにしていた。もう、誰にも話しかける勇気はなかった。無視され、ばい菌のように扱われると、きっと私は泣いてしまうから。陰口が聞こえるのはつらかった。なんでみんな、そんなこというの、と心の中で呟くのが精一杯だった。だからいつも、なにも聞こえないふりをしていた。グループ分けをする時間が、一番つらかった。私だけ、何もすることもできず立ち尽くしていた。そんな私を見て、周囲の人たちに嘲笑われることがつらかった。

はじめは、すぐ治まるだろうと思っていた。けれど、私に対する嫌がらせは、日に日にエスカレートしていった。


ある時、体育の時間が終わってクラスに戻ると、私の机にびしょびしょに濡れたワイシャツがあった。それは紛れもなく、私の制服だった。見たこともない色々なシミがついていた。ママに気づかれまいと、家に帰るとすぐに自分で一生懸命洗ったけど、ついにそのシミは落ちなかった。結局、自分でハサミで切って、捨てた。ママには、枝に引っ掛かって切れちゃったからと説明した。物を盗られたり、壊されたりすることが、一番つらかった。お金に余裕がない中、無理して買ってくれたママになんと言えばいいのかわからなくて、ただただ申し訳なくて、一人で泣いていた。

席替えのときも、私はクジをひかせてもらえなかった。私の席は、いつも一番目立たない、隅の席に決まっていた。みんなの楽しそうな声が怖かった。

はじめのうちは、私をかばってくれる子もいた。けれど、矛先がその子にも向き始めると、次第にその子も私に嫌がらせをするようになった。そうして、誰も私に近づかなくなっていった。どうして私がこんな目にあうのか、誰が噂を流しているのか、分からなかったし、誰が犯人かなんて考えれば、みんなが犯人に見えてしまった。

私をかばおうとすれば、その人が傷つく。だから、みんなは悪くない。私は心の中でそう自分に言い聞かせていた。納得できる理由なんて何もないのに、なんとなく納得してしまっている自分がいた。

私がいじめを受けているなんて、ママには話せなかった。争いごとが苦手で、体も決して強くないのに、毎日朝早くに家を出て、夜遅くまで私達のために働いてくれているママに、そんなこと言えるはずもなかった。

そんなママが、たまにお弁当を作ってくれることがあった。仕事で疲れているはずなのに、私のために早起きをしてお弁当を作ってくれることがうれしくて、私は決まってその日はいつもより早く起きて、家事を手伝いながらお弁当ができるのを楽しみに待っていた。

「できたわよー」

ママの声と共に、私は花柄のゴムバンドでとめられたピンク色のお弁当箱を大切にバッグにしまうと、「いってきます」と大きな声であいさつをして、家を出た。普段はママの方が早くに家を出るのだけど、私はママに「いってらっしゃい」と見送ってほしくて、この日はいつもより早く家を出た。

その日、私はお昼の時間が待ち遠しくて、ウキウキしながら午前中を過ごした。

ついにお昼の時間になり、私はそそくさと花柄のゴムバントを外し、そっと、お弁当箱のフタを開けた。そして、その中身を見たとき、私は絶句した。

ご飯の上には砂がちりばめられ、可愛い動物の顔をしたおにぎりや、ハート形の卵焼きはグチャグチャに潰され、その上にはアリが這っていた。

 私は何も言えなかった。怒ることも、できなかった。ただ、涙がポタポタと流れ落ちた。

美玖ちゃんたちは、そんな私を見てクスクスと笑っていた。

家に帰ると、今日は早上がりだったらしく、ママが笑顔で出迎えてくれた。

「汐海おかえり、お弁当、どうだった?今日は腕によりをかけて作ったの」

「うん、すっごくおいしかった!ありがとうママ!」

私は元気良くそう言うと、中身が空になったお弁当箱を台所において、自分の部屋に閉じこもった。

そして、ママに聞こえないように枕に顔を埋め、声を押し殺すようにして泣いた。


久々に学校に来ても、みんなの態度はなにも変わらなかった。休み時間に席を空けると、もどってきたときには、「かえれよ」と、マジックで大きく書かれていた。みんなはそれをみる私の様子をおもしろがっていた。

その日の帰り道、やっぱり私は学校にいくべきじゃなかったんだと、そう考えていると

「おーい!」

 と、背後から張りのある元気のいい声が聞こえた。振り返ろうとすると、声の主はすでに私の隣まできていた。昨日の彼だった。

「同じ高校だったんだ、あの時言ってくれればよかったのに。何組?僕は、E組だよ」

「……B」

本当は、初めて会ったときのように元気よく返事をしたかったが、どうしても、学校のことが心に引っ掛かって、小さな声で返事をするのがやっとだった。

「Bなんだ!じゃあさじゃあさ、吉田亮太知ってる?あのお調子者!」

私は、小さく首を振った。三年生になってからはほとんど学校に行っていないので、クラスメイトの名前も、私はあまり知らなかった。

「B組って言えばさ、松枝先生のクラスじゃん。いいよなあ松枝先生って、すごく正義感があって、熱い男って感じで…………」

 私はうつむいたまま、何も応えなかった。松枝先生はたしかに生徒からの人望の厚い先生だけれど、私は、あまり好ましく思っていなかった。


私がまだ二年生だった頃の、英語の時間のことだった。

英語の授業では毎回プリントが配布され、それをファイルに閉じて冊子を作っていく。担任であり、英語教師の松枝先生はとても正義感が強くて、私の好きな先生の一人だった。

松枝先生が怖いのか、英語の時間だけは、みんな私に嫌がらせをしなかった。だから、私は英語の時間が好きで、その日も、何十枚ものプリントを挟みこんだファイルを開きながら、先生の授業を聞いていた。

「へへ、見てろよ」

前の席に座る野球部の黒石くんが、誰かにそう話すのが聞こえたかと思うと、彼は私のファイルを取り上げた。

私は黙って手を伸ばしたけれど、身長の高い黒石くんには敵わない。そして、黒石くんはそのまま綴じてある私のプリントをまとめてファイルから引きちぎりはじめた。

「やめてよ、かえしてよ……」

精一杯声を出したつもりでも、みんなの視線が怖くて、喉がつかえて大きな声を出せなかった。

黒石くんはそんな私の様子を見てニヤニヤしながら、引き裂いたプリントを空中に放り投げた。

――バラバラと、教室に白い紙が散らばる。

私はなにもできず、その様子を黙って眺めていた。まるで、他人事のように。そして、席を立って、一枚ずつ拾い上げた。みんなの視線が、私に集中する。私は自分を見るみんなの目が怖くて、顔を上げることはできなかった。

ふと見上げると、教壇に座る松枝先生と目が合った。そうだ、松枝先生、松枝先生ならきっとどうにかしてくれる。期待を込めて松枝先生を見ると、次の瞬間、先生は、気まずそうに目をそらした。

そっか、みんな知ってたんだ。そっか、そうだよね……。私は心の中でそうつぶやいた。


ある日、トイレに行ったわずかな時間に、バッグから大事にしていたストラップがなくなっていたことがあった。机には、ゴミ箱に捨てたよと書かれたメモが置いてあった。プラスチック製のゴミ箱をのぞきこむと、中にはティッシュの塊や消しゴムのカス、汚い生ごみのようなものまであった。私はしゃがんで、ゴミ箱の中におそるおそる手を入れた。ゴミをかき分け、ストラップを探していく。

「うわ……あの子ゴミ漁ってるわよ……」

「ありえなーい。マジキモ……」

「よくいうわ美玖。あれ、あなたがやったんでしょ」

「あいつが調子のってるから悪いのよ」

聞こえる声で言わないでよ……私は心の中でそう嘆いた。後ろからパシャリと携帯で撮影する音がする。つらくて、苦しくて、泣きそうだったけれど、助けを求める勇気もでなくて、ただ歯を食いしばって、私はゴミを漁っていた。

 最初のうちは、毎日のように、一人で泣いていた。

そしえ、私は、次第に泣かなくなった。負けたくなかったから?ううん、泣いても、誰も助けてはくれないから……それが分かった時、自然と涙は零れなくなった。

そして、私は誰にも涙を見せなくなった。


いつも、どこかで陰口を言われているような気がしてならなかった。夜眠るときでさえ、みんなの嘲笑う声が聞こえる気がした。毎晩毎晩、夢の中でクラスメイトが私に囁く。お前なんて生きている価値はないと、死んでしまえと……。

眠っているときに、嫌がらせをされる夢を見て夜中に目を覚ますことも少なくなかった。学校に行くのが怖かった。みんなの笑顔も、声も眼も、何もかもが怖かった。

いつも私の胸は、重苦しい何かに包まれていた。

 一度だけ、一度だけ死のうと思ったことがある。その日は、どうしても寝つけなくて、深夜に、私は一人台所に立って、包丁を握っていた。死ぬことは怖かったけれど、もう、これ以上生きていく勇気がなかった。薄暗い部屋で、青白く光る包丁を自分の手首に添えて、私はジッと目を瞑っていた。

このまま包丁を持つ手に少し力を加えれば、私はもう、生きなくていいんだ。そう思うと、なんだか少し救われるような気がした。自殺は逃げだって、弱い人間のすることだって、そんなこと分かってる。それでもいいんだ。もう、あんな苦しい思いはしたくないよ。

死のうと決めたとき、私の中で今までの思い出が繰り返された。どうしてだろう、死を前にすると、私の心は、今までお世話になった家族へ感謝の気持ちでいっぱいになった。私が生まれたとき、父やママはどんなに喜んでくれたのか。私が死んだら、ママがどんな顔をするのか。悲しむママの顔を思い浮かべると、もう包丁を持っていることはできなかった。カランと、包丁がシンクに落ちた。

「おねえちゃん?」

振り返ると、梨奈が眠たそうに目をこすりながら部屋から出てきていた。

「りな、どうしたの」

「こわい夢をみたの。おねえちゃんがいなくなっちゃう夢」

「だいじょうぶ、おねえちゃんはどこにもいかないよ」

そういって私は、梨奈をそっと抱きしめた。

自分はどんなにバカなことをしようとしたんだろう。学校に行くことがつらいなら、学校になんか行けなくたっていい。一生懸命アルバイトして、少しでもママを楽をさせてあげられたら、それでいい。

そして、次の日から、私は学校へ行くのをやめた。


「部活はしてる?僕はサッカー部なんだ」

「してない」

 中学生の頃は吹奏楽部でサックスを吹いていた。本当は高校でもやりたかったけれど、アルバイトが忙しくて、結局、入ることはなかった。楽器も学校に借りていたものだったので、それっきり、サックスを吹くことはなかった。

「じゃ、じゃあ好きな番組は?」

「ない、あんまりテレビみないし」

「そか、そうだよね。みんながみんな、毎日テレビみてるわけじゃないもんね……」

「じゃあ、私の家こっちだから」

 私は自分の弱さを覆い隠すように冷たい口調で言うと、彼に背を向けて歩を進めた。

 

本当は、また彼に会えて、ちょっとだけ嬉しかった。でも、私は彼にどう接していいのかわからなくて、冷たく突き放してしまった。

「もう、声はかけてくれないだろうな……」

秋風が涼しく吹き抜ける。そして、ストラップを探すことを忘れたことに気がついた。

「また、明日も学校に行ってみようかな」

なんとなく、私はそうつぶやいてみた。


「どこにいっちゃったのかなあ、風で飛ばされちゃったのかなあ」

 次の日、私は学校が終わってすぐ、無くしてしまったストラップを探して歩いていた。

すると、突然私の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「よっ、しおみちゃん」

 元気のいい声に顔を上げると、そこには、彼がいた。私は、なんとなしに会釈をする。このままだと彼も一緒にストラップを探すと言いかねないので、私は彼に聞こえないよう小さくため息をついて、歩きはじめた。

「あのさ、しおみちゃん」

「なに」

「しおみちゃんは、将来なりたいものとかある?」

「……ないよ」

「そっかあ、ね、せっかくまた会えたんだし、メルアド交換しようよ」

「わたし、携帯持ってないから」

「え、そうなんだ……パソコンも?」

「うん」

 私がそう答えると、彼は落ち込んで、肩を落とした。「教えたくないわけじゃなくて、本当に持ってないの」と私が言おうとすると、彼はハッと思い出したようにバッグに手を突っ込んだ。

「そういえばコレ、このまえ落とさなかった?」

「あっ!!」

 彼が手に持っていたのは、紛れもなく、私の探していた白いビーグル犬のストラップだった。

「これ、大事なものなんだ」

 私は、コクンとうなずき、差し出されるそのストラップを受け取ろうと手を伸ばした。すると、彼は、ヒョイッとその手を引っこめた。

「どうしよっかなあ……返してほしい?」

私は、もう一度大きくうなずいた。

「じゃあひとつ、僕のお願いきいてよ」

「なに」

 このとき、私は何を要求されるのかと怖くて、少し身構えた。

「なんでそんなに冷たいのさ、僕なにか気に障ることしたかな」

「ちがうの、私はみんなに冷たいの」

「冷たくなかったじゃん」

「冷たいの!」

「じゃ、他の誰に冷たくしてもいいけどさ、僕にはやさしくしてよ、これがお願い」

 まさかそんなことを言われるとは思わず、変な警戒していた自分がばからしくなり、私はふふっと顔が綻んでしまった。

「あの、さ」

「ん、なに?」

「……ありがと。ストラップ、拾ってくれて」

その日の帰り道、私は生まれてはじめて猫を触った。こんなに可愛らしくじゃれている猫は見たことがなかった。

猫を撫でる彼は、とてもやさしげに笑っていた。


夕焼けに染まった道を、彼と並んで歩いていた。彼は、身振りや手振りを使って少し大げさに動物の話や、学校の話をしてくれた。そんな彼を見ているのが私は楽しくてたまらなかった。

どうしてだろう、不思議と、彼と一緒にいる間だけは、つらいことを忘れることができた。この人は、きっと、私の噂を知らない。それなら、彼が噂を知るその時までは、このまま一緒にいたいと、そう思った。

「ね、明日もこの時間に下校?」

「う、うん」と戸惑いながらも、私は小さく頷いた。

「そっかあ!じゃあ、また明日ね」

 彼はうれしそうにそう言って、軽快な足取りで去っていった。

 冷え切った私の心が、トクンと少しだけ温かくなった気がした。


「おーい」

遠くから、私を呼ぶ声がする。私は、その声が好きだった。その声の主は、私の前に立つと、まっすぐに私を見て言った。

「おはよう!偶然だね!」

肩で息をしている様子を見ると、私を探して走ってきたことが明らかであるにもかかわらず、しれっとそう言いのける彼を見て、私は思わず笑みがこぼれた。

「そうだね、ぐうぜんだね」

 あれから、私は彼と一緒に帰ることが多くなっていた。学校が終わると、私はすぐに帰ってしまうのだけど、彼はいつもそんな私を追いかけてきた。そして、いつの間にか私にとってもそれが普通で、不思議と嫌ではなかった。

「しおみちゃんはさー」

私が愛想よく返事できなくても、奈津くんはいつもやさしく笑顔で話しかけてくれる。それが奈津くんのやさしさなんだと、私は分かっていた。

奈津くんは、飼っていた犬の話や、おもしろい友達の話をたくさんしてくれた。私がわざと素っ気なくしていても、いつの間にか奈津くんのペースにのまれ、気がついたら私も声を上げて笑っていた。

こうして話を聞いていられるだけで、私は毎日が楽しかった。楽しそうに話す彼の姿を見るのが好きだった。彼と話している間だけは、つらいことを思い出さずにいられた。

「ねえ、奈津くん、どうしてそんなにわたしに関わろうとするの?」

「いや、その、なんか放っておけないっつーか、なんていうか……」

奈津くんは、恥ずかしそうに目をそらした。

「なんていうか、なに……?」

 奈津くんは一瞬目を伏せ、恥ずかしそうに言った。

「……言いたくても、言えないことがあるんだよ!伝えたくても伝えられないことがあるの!」

 奈津くんがそう言うと、私まで恥ずかしくなってしまって、目を伏せた。そして、一回コクンとうなずいた。

「わかった?」

 奈津くんに確認されると、私は、目を伏せたまま、もう一度うなずく。大切に思ってくれる人がいる。私には、それがたまらなく嬉しかった。

私は、奈津くんのことをどう思っているんだろう。ふと、自分に問いかけてみる。彼と一緒にいたい。また明日も会いたい。心の中に、そう思っている自分がいる。けれど、学校で私がどう思われているのかを知ったら、彼も離れていっちゃうんじゃないかって……その不安が、ずっと拭えないでいた。

「ねえ、どこまでついてくるの」

 私は足を止めると、彼に向きなおって言った。

「え、あ、ごめん、迷惑だよね」

「そうじゃなくて、うち、ここだから」

 そういって私は、道路の脇に位置する、古びたアパートを目で示した。奈津くんは、それが私の家だと知り、心の中でびっくりしたようだ。

まわりの友達に比べて家がみすぼらしいことは、子供の頃からわかっていた。だから、友達に家を知られるのが嫌だった。でも、この日は私も奈津くんの話につい夢中になって、家の前まで連れて来てしまった。

「それじゃ、またね」

 奈津くんは、少し申し訳なさそうに踵を返して、帰ろうとした。

「あがってく?」

 立ち去ろうとする奈津くんの背中に向かって、私は、そう声をかけた。この人ならいいと、そう思った。

「おじゃましまーす」

「べつにいいよ、だれもいないし。ママは仕事で夜遅くまで帰ってこないし、妹は今日お友達のお家にお泊りだから」

友達を、それも男の子を家に呼ぶことなんて初めてのことだったので、私は少しドキドキしていた。

奈津くんはテーブルの前に座ると、ビーグル犬のストラップに興味があるようだった。私はパパにそれを買ってもらったことや、パパが病気で亡くなってしまったことを話した。

パパが亡くなってから、私の苗字は櫻田から、ママの旧姓である仲村に変わった。私と梨奈のことを考えて、ママがそうしたのだ。それから、ママの仕事の都合に合わせて引っ越しを繰り返すようになり、私は学校を転々とするようになった。

パパが本当は交通事故亡くなって、その時に人を巻き込んでしまったことを聞いたのは、中学校を卒業した後のことだった。パパは、心臓に病気を抱えていた。いつ発作が起きるとも知れなくて、そんな状態でも、いつも私たちのために働いていた。

あの日は、看板が倒れたり、信号機が折れ曲がるほどのひどい台風の日だった。みんなはパパの病気の発作が原因で事故が起こったのだと言った。けれど、パパはいつも薬を持ち歩いていたし、あの日はとても体調がよさそうだったから、私にはそれがとても信じられなかった。


「このくらいかな、もうちょっとかな」

 私は小さなキッチンで、コップにジュースを注いでいた。

家はお金がないので、長持ちするよう、いつも希釈するタイプのジュースはできるだけ水で薄くして飲んでいた。私が小さい頃からそうだったので、他の家ではどのくらいの量を入れるのが普通なのか、わからなかった。それを知られるのも恥ずかしいので、私はちょっとだけ見栄を張っていつもよりかなり多めに入れた。……そして、奈津くんは一口飲むとごほっとむせていた。

「このジュース、濃くない?」

 私は見栄を張っていたのがばれたようで恥ずかしくて、どうしていいかわからないでいると、そんな私を見て、奈津くんが大きな声で笑った。私も釣られて笑いながら、あまりにも奈津くんが笑い過ぎだったので「もう、さいあく!」と心の中で叫びながら、少し奈津くんをたしなめた。

「なんにもなくてごめんね。テレビはあるんだけど、うちのもう古いからなかなかつかなくて、あんまり見ないの」

 奈津くんが退屈しないようにテレビでもつけてあげたかったけれど、それができないので、少し申し訳なく思っ、奈津くんのことが嫌いなわけじゃないということを知ってほしくてた。そして、奈津くんの質問に冷たく答えていたのは、私は少し自分のことを話そうと思った。

「わたし、勉強もできないし、うちお金もないから高校を出たら働くの。でも妹には同じ思いをさせたくなくて、ちゃんと進学してほしいんだ」

妹の梨奈は、今でも時々、友達たちの話題に入っていけない時があるようだった。私も小学生の頃、周りの子が持っている物が持ってなかったり、流行の話題を知らなかったりすることがあった。どうしても見たいテレビ番組がある時は、妹を連れて一時間かけてテレビのある電気屋さんまで行ってみていたけれど、今は、もうそれもしなくなっていた。できることなら、人気のオモチャを持っていなかったり、話題の遊びを知らなかったり、梨奈にはそういう思いはさせたくなかった。

「ラジオあるじゃん!」

 奈津くんは、部屋の戸棚に置いてあったラジオを見て言った。私が中学生だった頃、技術の授業で配られたものだ。授業の時間だけでは完成しなくて、自分でやってみようと思ったのだけれど、説明書を読んでも私には難しくて、結局そのまま放置していたものだった。

「なおせるの?」

「まあみてなって」

奈津くんは自信ありげにペロッと舌舐めずりをすると、手際よくラジオを分解しはじめた。彼の手はめまぐるしく動き、電子版に導線を一つ一つ繋げていく。私は何がどうなっているのかさっぱりわからなくて、目が回ってしまいそうだった。

ふと、奈津くんを見る。彼は、真剣な眼差しで説明書と、ラジオを交互に見ては、テキパキと作業を進めていた。額から汗を流すその姿に、私の胸が少し熱くなった。奈津くんと目が合うと、私はさっとラジオに視線をもどす。気がつくと、私はラジオではなく、奈津くんの様子に夢中になっていた。

「よし!」

奈津くんはそういって、ラジオを組み立て、チャンネルを合わせていった。

“カントウチホウハハレ、ゴゴカラヤヤクモリト……”

ラジオに、音が入った。もう絶対動くことはないと思っていたので、私にはそれがすごく感動的で

「ねえ、わたしにもやらせて、どうやってやるの、ほかのも聞けるの」

 と、奈津くんにチャンネルの合わせ方をせまった。

 奈津くんはそんな私の質問に一つ一つやさしく丁寧に教えてくれ、私は、奈津くんの言ったとおりにチャンネルを合わせてみた。すると音楽番組や、トーク番組に切り替わり、私はなんだか楽しくなって、ひたすら色々なチャンネルに合わせて遊んでいた。

 そのあと、奈津くんと私は、色々な話をした。こんなに楽しく話せたのはいつぶりだろう。奈津くんは、私の思い出話や、バイト先での失敗談を、うんうん、とやさしく聞いてくれていた。

「あ、もうこんな時間か、それじゃ、そろそろおいとまするよ」

「え……もうかえっちゃうの?」

「うん、楽しかったよ。おじゃましました」

 そう言うと、奈津くんは荷物を持って立ち上がったので、私は奈津くんを玄関先まで見送った。

「また、月曜日になったら会えるかなあ」

 私は、ひとりになると、そうつぶやいた。


奈津くんといると、すごく楽しい。彼の笑顔を見るだけで、私は元気がもらえた。彼がそばにいるだけで、私は安心していられた。もっと彼といたいと、そう思った。ずっとだなんて、贅沢は言わない。もう少し、もうちょっとだけと、毎日、そう思いつづけた。


 次の日の夜、家族三人で、ご飯を食べながら話していると、梨奈がテレビのリモコンを片手にママに聞いた。

「ねえママ、なんでうちのテレビ映らなくなっちゃたの?壊れちゃったの?」

「ごめんね、古くなってたぶんどこか壊れちゃったんだ」

「えー!じゃあ新しいテレビ買ってよ!」

「今がんばってお金ためてるから、たまったら買おうね」

ママは、そうやさしく梨奈に微笑みかけた。

「りなーおいでー」

「なあに、おねえちゃん」

梨奈が不思議そうな顔で寄ってくる。

「じゃーん!」

そういって、私は後ろからラジオを差し出して見せた。

「えー、でもこれ壊れてるじゃん」

梨奈は、ラジオを見て残念そうに口をとがらせた。

「いい、これをこうして回してね、そしてアンテナを立てて……」

私は、奈津くんに教わった手順通り、ラジオを起動させようとした。

“さあ今日もはじまりました!ハイスクールオブロックの時間だよー!“

「わあすごい!おねえちゃんすごい!」

梨奈は跳び上がって歓喜をあらわにした。

「梨奈にもやらせて!」

「いいよ、ほら、ここをこうして……」

私は梨奈の手を取り一緒にやって見せると、梨奈は何度もすごい、すごいと言って喜んでいた。


その日、私たちの部屋の明かりは、夜遅くになっても消えなかった。私たちの住んでいるアパートは防音加工がされていないので、私たちは、近所迷惑にならないよう、布団の中でできるだけ音量を下げ、流れてくるラジオを聞いていた。


帰りのホームルームが終わり、チャイムが鳴ると同時に生徒たちは部活へ、帰宅へと急ぎ足で教室を出ていく。私も帰ろうと、荷物をまとめていた時のことだった。

「よお、おまえ、見かけない顔だな」

聞き慣れない線の細い声に、私はびっくりして一瞬戸惑い、顔を上げる。

初めて見る少しふくよかな少年が、仲間数人と私の前の席に腰掛け、いかにも偉そうに席に座る私を見下ろしていた。

「聞いてんだよ。最近、奈津の野郎と仲良いんだって?」

この人が誰かわからず、私は何も言わなかった。

「おい、天馬くんが聞いてんだよ、答えろ」

 取り巻きの一人がそう言った。少年とその取り巻きは、私の机を取り囲んでいた。私は、どうしたらいいかわからず、ただ目を伏せた。

それに余計腹を立てたのか、少年は机に置いてあるカバンを奪いあげ、ブチッと白いビーグル犬のストラップをむしり取った。

「知ってんだよ、これ、大切にしてんだろ?ゴミ箱に捨てられたとき、わざわざ漁ってたもんなあ」

少年は気味の悪い笑みを浮かべ、手でポンポンとストラップをお手玉する。

「……かえしてください」

私は少年を見上げ、恐怖でかすれた声でそう言った。

「イ・ヤ・ダ」

少年は、そんな私を見て、ギャハハハハハと高笑いをした。

教室には数人の生徒が残っていたが、こちらの様子に気づいてか話し声はなく、教室は静まり返っていた。

「おまえ、よく見るとかわいい顔してんじゃん」

 少年が、私の顔をのぞきこんでいった。

「オレの彼女になれ。そうすりゃ返してやるよ」

「……ごめんなさい」

私が目を伏せそう言うと、少年は顔を真っ赤にして、鼻息荒く怒りをあらわにした。

「おねがいします、返してください、大切な……ものなんです」

「ハハハ、冗談だよ、ホラ、今返してやるよ!」

私が頭を下げると、少年はコロンと床の上にストラップを転がした。その様子を見て私はほっとし、床に転がったストラップに手を伸ばそうとした次の瞬間、ビキッという鈍い音と共に、白いビーグル犬の頭が取れた。少年が、思いきりかかとで踏みつぶしたのだ。私は何が起こったのかわからず、固まったように動けなくなってしまった。そのストラップには、パパとの大切な思い出があった。私が持っている、パパの唯一の形見だった。

少年は、それだけでは気がすまないようで、その後、何度も、何度もかかとで踏みつけた。少年が足をどかしたとき、ストラップは、もう跡形もなく粉々に砕け散っていた。私が呆然としている様子にに満足したのか、少年はその残骸を蹴り上げて嫌味な笑い声と共に去って行った。

私は、何が起こったのかを理解すると、しゃがみこんで、バラバラになったストラップの欠片をひとつひとつ拾いはじめた。もう、元にもどりっこないのに、欠片を全部集めることなんて無理なのはわかっているのに、誰も残っていない教室で、泣きながらその欠片を拾いつづけた。


「どうしたの、なにかあった?」

その日の帰り道、奈津くんは、心配そうに私の顔をのぞきこんだ。

「べつに」

私は、冷たくそう返した。感情をあらわにしたら、この場で泣いてしまうと思った。

「ね、いつも一緒に帰るのは駅からでしょ、今度、クラスに迎えに行ってもいいかな?」

「それは絶対いや。クラスに来たら、嫌いになるよ」

「そっか……」

「約束だからね」

そう言うと、奈津くんは少し不満そうにわかったと言ってくれた。

本当は、今すぐにでも泣きつきたかった。たすけてって、言いたかった。けれど、私が嫌がらせをされていることを、奈津くんには知られたくなかった。奈津くんはそれを知ったら、きっと悲しんでしまうから。せめて奈津くんといる間だけは、明るく過ごせていられれば、それで十分だった。

「バッグにつけてたストラップ、どうしたの?」

「なくした」

奈津くんは、ストラップがないことに気がつくと、やさしい声で聞いた。

「一緒に探すよ、どこでなくしたか心当たりある?」

「いい。いらないから」

「いらないって……あんなに大事にしていたのに」

「もう先帰りなよ」

「心配なんだよ」

「心配なんかしなくていい!」

私は怒りで自分の気持ちを覆い隠すように、奈津くんに怒鳴った。……私は、最低だ。嫌がらせをしてくる人には文句の一つも言えないくせに、心配してくれる奈津くんには、こうやってひどいことが言えるんだ。そう思うと、もう、たえられなかった。

「わかった、じゃあ今日は先に帰るよ」

 奈津くんは、申し訳なさそうに謝ると、先を歩いていく。

「……ごめん」

 私は、奈津くんの袖を掴んで、声を振り絞った。本当は心配してくれて嬉しいのに、一緒にいてほしいのに、それをうまく伝えられなかった。

「いいよ、大丈夫」

奈津くんはどうしてこんなにやさしいんだろう。私があんなにひどいことを言っても、奈津くんは嫌な顔一つせず、いつも私のことばかり考えてくれる。

「ちがう、冷たいこと言ってごめんね……一緒に帰ろ」

 私がそういうと、奈津くんはすごく心配そうな顔をした。そして、やさしく私の手を握って、ただ隣を歩いていてくれた。

「そうだ!汐海、ちょっと手貸して」

 奈津くんは思いついたように足を止め、私に向きなおった。すると、ポケットから黄色いリボンのアクセサリーを取り出して、私の左手にやさしく結わえた。

「ほら、汐海って女の子なのにアクセサリーとか何もつけてないだろ」

私が、不思議そうに眺めていると、奈津くんは照れくさそうに言った。

「えと、ごめん、僕こういうのわからなくって、家庭科の塚本先生に教えてもらいながら作ったんだけど……今度ちゃんと、プレゼントするからさ」

 よく見ると、奈津くんの袖には黄色い糸くずがいくつもついている。何度も作り直したのだろう、少しいびつなところが、ますます私の気持ちを温かくした。奈津くんが、私のために作ってくれた。ただそれが嬉しくて、私の胸は幸せな気持ちでいっぱいになった。

「ううん、これがいい」

こんなにも心のこもった贈り物は、生まれて初めてで、どんな高価なものよりも嬉しかった。私を想ってくれている人がいる。それだけで、何にも代えがたい温かみがあった。


私は、ひとりじゃないんだ。


「こほこほ……」

次の日、私は風邪をひいたので、学校を休むことにした。誰もいない家で、家事をしながら、ふと考える。

「奈津くん、さびしがってるかな」

ションボリとしている奈津くんの姿を思い浮かべると思わず、ふふと笑みがこぼれた。

風邪、早く治さなきゃ。明日になったら、奈津くんに会えるかな、なんて思うと、つらいはずの学校も、楽しみでしょうがなかった。何かお返ししたいな、奈津くんは何をもらったら喜んでくれるかな、好きな食べ物は何なのかな……そんなことを考えていると、あっという間に日が暮れて、梨奈が学校から帰ってきた。

いつものように、リビングで一緒にラジオを聞いていると、梨奈が私の手首に結わえられた黄色いリボンを見て言った。

「おねえちゃん、それ、かわいいね」

「これ?いいでしょ、奈津くんにつくってもらったの」

「いいなあ、りなにもつくってくれないかなあ」

「りなには、今度おねえちゃんがつくってあげるね」

「ほんと!?」

「うん」

 梨奈は嬉しそうに満面の笑みを浮かべると、やくそく、といって私と指切りをした。


 次の日の朝、玄関先で靴を履いていると、奈津くんがひょこっと顔を出した。まさか迎えに来てくれるだなんて思っていなかったので、私はあわてて靴を履くと、奈津くんのもとに駆け寄った。

 私が、少し咳をすると、奈津くんはやさしい声で言った。

「つらいならまだ休んでろよ」

「うん、でも……」

 ……私がいないと、奈津くんが寂しがっちゃうでしょ、と私は心の中でそうつぶやいて、背の高い奈津くんをふふと見上げた。

「なんだよ」

「なーんでもない!」

「だからなんだって」

「なんでもないってばあ」

気になってしょうがない様子の奈津くんを見て、私はアハハと声を上げて笑った。

 朝陽が、とても気持ち良かった。


教室に到着し席に着くと、私は信じられない光景を目にした。私の机が、見違えるほどきれいになっていたのだ。油性マジックで書かれたはずの汚れも薄くなって、ほとんど見えなくなっていた。どういうことだろうと不思議がっていると、女の子が二人、こちらに向かって歩いてきた。

「ほら真由子、いくよ」

「いいよ、咲、やめようよ」

「なんでそんなこと、あんたのためでしょーが!」

そういって一七〇センチはある気の強そうな女の子は、私の前まで歩み寄ると、机の上に両手の平をついた。その人は、正義感が強いことで有名なバレー部の朝倉咲さんだった。

「仲村汐海さん」

咲さんのハキハキした話し方に、私はドキッとして居ずまいを正した。名前を呼ばれること自体がめずらしいのだ。それに、咲さんだけはいつも私の悪口を言ったり嫌がらせをしたりしていないことを、知っていた。もしかしたら、この人が机を拭いてくれたのかもしれない。私はそう思って、自分からあいさつをしようと顔を上げた。

しかし、咲さんの次の言葉に、私の言葉を失った。

「もう、高橋奈津には関わらないでください」

どうしてそんなことを言われるのか、私には意味が分からず、咲さんを見上げた。すると、彼女はつづけた。

「その机を拭いたのは奈津よ。昨日部活帰りに見かけたもの。でも知ってる?あなたのせいで、彼までよくない噂を流されているの。彼は、あなたが貧しくてかわいそうだからって同情してあげてるだけよ。彼がそう言っていたのを真由子も聞いているの。ねえ真由子?」

「う、うん」

その言葉が、私の胸に突き刺さった。舞い上がっていたのは私だけなんだ、そう思うと、胸が張り裂けそうだった。奈津くんは何も悪くないのに、裏切られたような気がした。そして、やっぱり自分は独りなんだと、思い知った。なにより、彼にこんな自分のみじめな姿を知られたことが、悲しかった。

「とにかく、奈津にはもう関わらないで。彼の家知ってる?彼の父親は資産家で、この町でも一番のお金持ちだって有名なんだから。あなたとは釣り合わない」

そう言うと、二人は教室を出て行った。

“あなたとは釣り合わない”

咲さんの言葉が、頭の中で何度も繰り返された。


 その日の帰り、奈津くんはいつものように駅で私を待っていた。

「しおみ!」

 奈津くんは片手を上げて、笑顔で私を見る。けれど、私は奈津くんに応じず、そのまま奈津くんの隣を通り過ぎた。

「しおみ、どうしたの?」

 奈津くんはキョトンとして、心配そうに私の顔をのぞきこんだ。

「あのさ、僕、汐海に見せたいものがあるんだよね。今度、時間あるかな?」

私は、ピタッと立ち止まり、奈津くんを見ずに、厳しい口調で言った。

「もう、ついてこないで」

 戸惑う奈津くんを睨みつけて、私はつづけた。自分の気持ちを、知ってほしかった。

「奈津くんの家がお金ないなんて嘘でしょ!この町で一番立派な家に住んでるくせに!私が貧乏だから、見下してたんだ!」

「そうじゃない、僕は君が……」

「うそ!どうして嘘つくの!」

ちがう、こんなことが言いたいんじゃない。私は心の中で泣いた。それでも、感極まった自分を、抑えることができなかった。

「汐海、ちが……」

「ちがわない!クラスには来ないでって言ったのに、約束したのに!同情なんかされたくない!!」

なんで、私はこんなことを言ってしまうの……。本当は、この気持ちを伝えたいだけなのに、一緒にいてくれてありがとうって、言いたいだけなのに……。

急に怖くなって、私はその場から逃げ出した。

「しおみ!」

私がそういって橋を渡ろうとすると、奈津くんはそんな私を追いかけ、左手を掴んだ。

「もう放っておいて!いったでしょ!もしクラスにきたら嫌いになるって!」

「嫌いでもいい!」

 はじめて、奈津くんが声を張り上げた。私はハッとして奈津くんを見る。

「たとえ君がどんなに僕を嫌っても、僕は君を守る」

 奈津くんがまっすぐに私を見る。その瞳は、とてもきれいで、やさしく、力強かった。

 どうして、どうしてあなたは、そんなに人のことを大切に想えるの。これ以上、私にやさしくしないでよ。これ以上やさしくされたら、私はもう、あなたから離れられなくなってしまうじゃない。心の中で、私は奈津くんにそうつぶやいた。

そんな私のことを大切に想ってくれる人がいるなんて、私には信じられなかった。本当は、もう分かっているのに、どうしても信じようとしない自分がいた。

「でも、私といたら奈津くんまで傷つくんだよ!気づいてるでしょ、奈津くんまで、悪口いわれてるの」

「そんなことはどうだっていい、君がいなきゃダメなんだよ。僕にはもう、君がいない世界なんて考えられない」

 このとき、私はもう目を背けることはできなかった。この人は、今までの誰とも違う、信じていいんだと、ずっと、味方でいてくれると……そう、分かったんだ。

 泣きそうになる私を、奈津くんは、やさしく抱きしめた。奈津くんの胸は、爽やかないい匂いがした。

「悪かった、もう二度と嘘はつかない。そばにいてほしい」

「……うん」


本当は、はじめから分かっていた。奈津くんは私を見下してなんていないことも、同情なんかで一緒にいてくれているわけじゃないことも。分かっていたのに、私は人を信じることが怖くて、奈津くんから目を背けていた。もう、自分に素直になってもいいんだ。私は、彼と一緒にいたい。ずっとずっと、一緒にいたい。

私を抱きしめる彼の腕は、たくましくて、それでいてとてもやさしかった。


「見せたいものがあるんだ」

次の日、奈津くんに連れられて来たのは、町はずれにある、山の中だった。荒れた山道も、奈津くんの手を握っていると、不思議と怖くなかった。

「ストップ!」

 奈津くんは急に振り返るとそう言った。

「な、なに……」

「ここからは、目をつぶって」

「え……でも……」

「大丈夫、僕がついてる」

奈津くんはニッときれいな白い歯を見せ笑った。彼はずるい。彼に大丈夫と言われると、私の中の不安は全部どこかへ行ってしまう。

私はコクンとうなずいて目をつぶると、彼の手をきゅっと握りしめたまま、おそるおそる足を進めていった。「ついたよ」と、彼の声が聞こえた瞬間、ファッと涼しい空気が頬を撫で、暗い山道が終わったのがわかった。

「さあどうぞ、目をあけて」

 奈津くんの声に、私はそっと目をあけていった。雲間から差し込む光のように、視界が広がっていく。

それは、信じられない光景だった。黄金の田んぼに、小鳥たちの暮らす川、そして、大きく壮大に広がっている夕空、その全てが、私の胸を高鳴らせた。まるで別の町のように、私たちの暮らす町が輝いて見えた。

「……きれい」

私は一目で、その場所が大好きになった。私たちの立つ小さな丘では、涼しい風と、秋の紅葉が、あたり一面を包んでいた。

「小さい頃よくこの山にカブトムシを取りにきてさ、迷子になった時、ここを見つけたんだ。つらいことがあったときは、ここにきて景色を眺めているとさ、僕はなんてちっぽけなことを悩んでいたんだろうって思えるんだよ。ここなら誰も来ないし、僕だけの秘密の場所だったんだ」

「奈津くんにもつらいこと、あったんだ」

本当は、少し分かる気がした。奈津くんは、時々、すごくさびしげな表情をする。そのことに、私は気づいていた。

「……びっくりしたでしょ、わたしの机見たとき」

「なあ、汐海」

 奈津くんがやさしい声でいった。

「僕は、傘を忘れたあの日、今日はついてないなって思ったんだ」

 私と初めて会った日のことだと、すぐに分かった。

「けれど、そのおかげで、汐海に出会うことができた。あの日、雨が降ってよかったなって、傘を忘れてよかったなって、心の底からそう思ったんだ」

そういって奈津くんは、爽やかな涼しい風を全身で受けた。

「そう考えたら、汐海にはきっとこれから、山ほど幸せが待っているはずさ。少なくとも、もう二度と独りにはしないよ」

奈津くんの声、表情は、私を安心させてくれた。奈津くんの笑顔は私を楽しい気持ちにさせてくれた。奈津くんの言葉は、私の心の鎖を解いてくれた。彼ほど、自由という言葉が似合う人はいないと思った。


「―――好きだ」


奈津くんの言葉にドキッとして、私は奈津くんを見た。

「僕、汐海のことが好きだ、今すぐにでも抱きしめたいくらい、大好きだ」

 奈津くんは、やさしい眼差しで私を見た。ずっと、待ちわびていた言葉だった。私がコクンとうなずくと、奈津くんは、そっと私を抱きしめた。

「どこへだって一緒にいこう。僕が、君を守るよ」

「――うん」


ずっと憧れていた毎日が、ここにある。願ってはいけないんだと、目を背けつづけた夢が、今ここにある。奈津くんがいる、それだけで、世界が輝いて見えた。


 その日は、あまりに気分がよくて、私は左手に結わえられた黄色いリボンを眺めては、奈津くんのことを思い浮かべてニヤニヤしていた。

「おねえちゃんまたそれみてるの?最近いつもじゃん」

「梨奈しってる?黄色いリボンはね、大切な人を守ってくれるんだよ」

「しってるよ、パパがいってたんでしょ」

「もし、さ、このリボンが誰かの身を守ってくれるなら、私じゃなくて、奈津くんの身を守ってほしいな。時々、ほんとに時々だけど、彼、とてもさびしそうな顔をするの。私にはそれがなんなのかわからないけど、もし彼の身に何かあったら、助けてあげてほしいんだ。奈津くんのこと、守ってくれる人はいないから」

「えー、じゃあ、おねえちゃんはどうするの」

「だって、私のことは彼が守ってくれるもの」

 私はそういうとにっこりと笑った。梨奈は「ふうん」とつまらなさそうにベッドに寝転がった。

奈津くんにもらったリボンを眺めていると、不思議と心が落ち着く。慣れないお裁縫で、一生懸命作ってくれた彼の姿を思い浮かべると、胸がポカポカと温かくなる。

それから、奈津くんと私は、秘密の場所にきて、二人で並んで寝そべったり、お弁当を食べたりして過ごした。奈津くんはというと、困ったもので、真っ青な空を仰いで一緒にお話をしていると、気がついたらいつも寝息を立てているのだ。そのかわいい寝顔を見ながら、私は二人だけの時間を楽しんでいた。

「こうやって、ずっと奈津くんと一緒にいれたらいいのにな」

「……ん?なにかいった?」

 私がそうつぶやくと目を覚ました奈津くんが言った。

「ううん、なんでもない。また、明日もこようね」

「ああ、そうだな」


その日の帰り道、私と奈津くんは手を繋いでたくさんお話をした。奈津くんの手はとっても温かくて、肌寒い帰り道でも、わたしの心をポカポカと温かくしてくれた。

「奈津くん知ってる?天国に入る時には鈴の音が鳴るんだよ」

「たく、まーたラジオ情報の都市伝説、真に受けてんなあ。てか、鈴って……神社かよ。せめて鐘だろ」

そういって奈津くんは声を上げて笑った。

「いいじゃないべつに、信じたって」

私はわざとムッとして見せ、小さく頬を膨らませた。

「……パパは、天国行けたのかな」

「きっと、笑顔で見守ってくれているさ」

「ねえ、奈津くんは天国に行きたい?」

「んー、そうだなあ、行けるなら行きたいよな。汐海もそうだろ?」

「ふふふ、私はね、奈津くんがいるこの世界がいいな」

「えー、そりゃずるいよ」

「うん。天国でも、地獄でも、奈津くんがいるところがいい」

「地獄はやめとけ地獄は」

私があははと笑うと、奈津くんは、あきれたようにそう言った。

「どうして、人は、いつかお別れしなきゃいけないのかな」

 今、一緒にいる大切な人たちとも、いつかはお別れの日が来るのだと思うと、私は途端に寂しくなって、奈津くんにそつぶやいた。すると、彼は私を見てクスッと微笑んだ。

「僕は、ずっと一緒にいるよ」

「えー、でもいつかは、わたしもおばあちゃんになっちゃうんだよ?」

「これからどんなに時が経っても、汐海が僕のことを嫌いなっちゃっても、僕は汐海のことを大切に想いつづけるよ。たとえ、汐海がヨボヨボのおばあちゃんになってもね!」

「ちょっと、わたしヨボヨボなんていってない!」

「はいはい、ごめんごめん」

私が怒って見せると奈津くんはなだめるように笑った。奈津くんは、不思議な人だ。どんなに暗い気持ちの時でも、奈津くんと話をしていると、いつの間にか陽気な気持ちになっている。


 その日の夜、私は、梨奈と二人でいつものようにラジオを聞きながら、色々な話をした。

「え!おねえちゃん遊園地いくの!?いいな!いいな!」

梨奈は目をキラキラさせて話を聞きたがっていた。

「えっとね、お土産買ってきてね、かわいい動物のお顔のついたお菓子と、できれば、耳のつけるやつも」

 梨奈は、小さい指を一本ずつ立てながら、少し遠慮がちに欲しいものをあげていった。

「うん、きっと買ってくる」

「ほんと!?やったあ!」

 梨奈は喜んで跳び上がって、ふとんの中にもぐりこんだ。梨奈は嬉しいことがあると、すぐに眠ろうとする癖がある。本人いわく、楽しい気持ちで寝ると、幸せな夢がいっぱいみられるからだそうだ。


ずっと、誰かに心を開くのが怖かった。誰かが離れて行くのが怖かった。でも、見つけたんだ。やっとめぐり会えた。ただ、彼のそばにいさせてほしかった。彼は、私にとって何があっても自分の味方でいてくれると信じられる唯一の人だった。


「それでね、パパったらなんていったと思う!?」

 私の話に、奈津くんはやさしく微笑んでいた。

「なにニコニコして、ちゃんと聞いてるの?」

「いや、汐海のお父さんはやさしい人だったんだなあって。仲村……ええと、何さんだっけ?」

「正和だよ。でも、パパの名字は仲村じゃないよ。仲村はママの名字なんだ。パパは櫻田っていうの、私も昔は櫻田汐海って名前だったんだよ」

 そんな話をしていると、あっという間にアパートの前に着いたので、私は奈津くんに小さく手を振って言った。

「あ、もう着いちゃったね、じゃあ、また明日ね!」

「まって、汐海のお父さんがさ、亡くなったのって、いつだった……?」

「十年前の……十月六日だよ」

 奈津くんがなぜそれを聞いたのか、私は何も知らず、ただ笑顔でまたねといってアパートに上がっていった。

 また明日も奈津くんに会える、そんな毎日が、何より嬉しかったんだ。


 次の日の下校中、私は青石駅で、私の前を歩く奈津くんを見かけた。

「なーつくん」

 私は奈津くんに駆け寄って、やさしく肩をポンポンと叩いて言った。けれど、奈津くんは、何も反応をみせず、歩いて行ってしまう。「あれ、気づかなかったのかな」と思い、私は奈津くんの横に並んで、今度は顔が見えるように声をかけた。

「なつくん?ほら、一緒にかえろ」

 そういって手を繋ごうと手を伸ばしても、奈津くんは私を無視してどんどん歩いていってしまう。

 私は、奈津くんの隣を歩きながら、どんな話なら奈津くんが関心を持ってくれるのか一生懸命考えた。

「な、なつくんあのね、聞いてみたらあさって……」

 バイトの休みもらえたよってそう言おうと思った。けれど、

「わるい、そこどいて」

 と、奈津くんは私をすり抜けるようにして通り過ぎていってしまった。

「なつくん、あのあさっては……」

 私はあわてて奈津くんに駆け寄って聞くと、奈津くんは黙ったまま、私のポケットに封筒を差し込んで言った。

「それ、やるよ。僕にはもういらないから」

 中には、遊園地のチケットが二枚、入っていた。

「一緒にいけるからうれしかったのに、こんなのもらっても、うれしくないよ……」

 私の言葉は、奈津くんには聞こえていないみたいだった。私はその場に立ち尽くして、えぐられるような胸の痛みと共に、奈津くんの小さくなる背中を見ていた。

「きっと、体調が悪かったんだ、明日になれば、いつもの奈津くんにもどるよね。そうだ、明日は奈津くんとまた秘密の丘にいこう。元気が出るもの、作ってあげなきゃ、なにがいいかなあ……」

 誰が聞いてるわけでもないのに、私は一人で帰りながら、つぶやきつづけた。

 明日になれば昨日のように笑顔で話をしてくれると、信じていたんだ。


次の日、私はいつもよりちょっと早く下校した。いつもは奈津くんが私を待っていてくれているので、今日は私が駅で待っていてあげようと思ったのだ。

待っていると、奈津くんが姿をあらわした。明るく話しかけたかったけど、昨日のように冷たくされるのが怖くて、私は、うつむいたまま顔を上げることができなかった。

「しおみ」

 そう、やさしく声をかけてほしかった。けれど、奈津くんは私に気づかなかったように通りすぎていった。

「ねえ……まって……おねがい」

私は精一杯勇気を振り絞って、奈津くんの袖を掴んだ。すると、奈津くんは足を止めた。けれど次の瞬間、そのまま何事もなかったかのように手を振り払って、歩いて行ってしまった。

その時、私には分かった。もう二度と、奈津くんは笑いかけてくれないんだと。私が彼に何をしてしまったのかは分からない、それでも、もう、あの頃のようにはもどれないんだと思った。

家に帰ると、私は玄関を背にへたりこんだ

もう、奈津くんと一緒に帰れないと思うと、自然と涙があふれてきた。友達が離れていくことだって慣れたはずなのに、奈津くんがいなくなってしまうことが、つらくてつらくてたまらなかった。心の中で、奈津くんとの楽しい思い出が、笑いかけてくれる奈津くんの声がまだ響いていた。ずっと、ずっと一緒にいてくれるって、言ったのに……。

「同情でもいい、一緒にいてよぉ……」

 私は子どものように丸くなって座り、誰にも聞こえないよう、小さい声で、そうつぶやいた。

毎日幸せだった。ついこの間まで当然のようにあった、ずっと変わらないと思っていた私の幸せな日常は、何の前触れもなく途端に終わりを告げた。


―――この日、私は、ラジオの前に座って、泣いていた。流れているのはなんでもないニュース番組なのに、ただずっとラジオを聴いていた。大切に黄色いリボンを握りしめて。


「あら、汐海ちゃん、遊園地どうだった?あんなに楽しみにしていたものねえ」

 パートのおばさんが、お弁当にお惣菜を詰めながら、私に笑いかけた。

「はい、楽しかったです」

 私はにっこりと笑顔でそう答えた。

奈津くんと出会う前にもどっただけなのに、あの時とは違って、心にポッカリと穴が開いたように日々を過ごしていた。ひとつだけ、昔とは変わったことがある。私は、ちゃんと学校に行くようになっていた。相変わらず、つらいこともあるけれど、奈津くんと一緒にいたからか、嫌がらせも、昔ほどではなくなっていた。奈津くんに会いに行く勇気はなかった。彼も、それを望んでいないと思った。でも、彼も同じ学校にいると思えるだけで、私には十分だった。

一度だけ、秘密の丘に行った。つらいことがあると、彼はよくここにきていたと言っていたから。もしかしたら彼に会えるんじゃないかという期待を胸に、二人だけの秘密の場所を訪れた。けれど、そこには誰もいなかった。奈津くんと見たきれいな夕陽が、私をより一層悲しい気持ちにさせた。

帰ろうと、踵を返すと、足元に小さなボタンが一つ落ちていることに気づいた。拾い上げてみると、私と同じ青南高校の制服のボタンだった。このとき、私にはわかった。理由は分からないけれど、彼も今、苦しんでいるんだ。そう思うと、どうしても彼を嫌いになれなかった。


 十月一八日、木曜日、いつものように、一人で下校していると、誰かが、ポンと私の肩を叩いた。

「なつくん!」

「え……わ、わりい」

 私が振り返ると、それは、奈津くんではなかった。そこにいたのは、身長の高い、つぶらな瞳をした男の人だった。

「おれ、奈津の友達の、齋藤って言うんだけど……」

 そう聞いて、私はハッとした。

「りゅうじくんでしょ、奈津くんの幼なじみの!」

「お、おう、よく知ってるね」

「なつがいつもはなしてたもん!」

奈津くんは、いつも隆二くんや圭介くんといった、おもしろい友達の話をたくさんしてくれた。奈津くんがあまりに楽しそうに話すものだから、いつか、私も会ってみたいと思っていた。その人が、今、目の前にいる齋藤隆二くんなんだと思うと、私は自然と親しみが湧いた。

「奈津くんは最近どうしてるの?」

「ああ、元気にしてるよ。あいつはいつもあっけらかんとしてるからな。そこが良いとこでもあるんだけど……」

「ちょっとナルシストっぽいけどね」

 私がこそっというと

「ハハハッ、たしかに!」

 と齋藤くんは声を上げて笑った。

「ねえ、もっと奈津くんのお話聞かせて」

「ああ、いいぜ」

 齋藤くんの話す、奈津くんの話は、とてもおもしろいものばかりだった。私の知らない奈津くんが、そこにいた。私はもっと、奈津くんのことが知りたいと思った。

「ねえりゅうじくん、ひとつ、相談のってくれないかな」

初対面だというのに、なんだか初めて会った気がしなくて、私は柄にもなくつい話しはじめてしまった。

「今度、奈津くんになにかプレゼントしたいの。どんなものなら喜ぶかなあ」

「ん~奈津は物じゃ喜ばないんじゃないかなぁ……そういうやつなんだよ、基本的に物とかお金とかに執着しないっていうか……」

 齋藤くんはあごに手を当て、少し考えてから言った。

「手作り弁当とか……いいんじゃないか。ほらあいつ、親いないし……」

「え……」

「両親とも、小学生の頃に事故で亡くしてんだよ。今はもう、立ち直ったみたいだけどな」

 私は、奈津くんに両親がいないことも、今、義伯母さんの家で暮らしていて苦労していることも、このときはじめて知った。誰よりもやさしく、屈託なく笑う彼のことだから、家に帰れば幸せな家庭が待っているのだと思っていた。彼にそんなつらい過去があったなんて夢にも考えたことはなかった。

「もう……奈津には関わない方が良いよ」

 隆二くんは暗い顔をして、そう言った。

「どうして……?」

「えっと、だからさ……君の父親が奈津の両親を殺したんだ」

衝撃だった。私は言葉に詰まり、その場で立ち尽くした。すると、隆二くんは鼻の頭をポリポリとかきながら、とんでもないことを口にした。

「あいつは、きっと君のことをゆるさないよ。だから、あいつのことなんか忘れて、もしよかったらおれに……のりかえないか?」

奈津くんの親友と聞いたのに、こんな言葉、聞きたくなかった。

「奈津のどこがいいんだ?たしかに今は、あいつは君に同情してやさしくしてるだろうけど、飽きたらすぐ捨てる奴だぞ」

私は、うつむいて小さく首を振った。

「なあ……おれじゃダメかな。ほら、顔もおれの方がいいだろ?」

「……ごめんなさい」

 私がそういうと隆二くんの顔がメラメラと紅くなっていった。

「なんでだよ……何で奈津なんだよ!なんでおれじゃないんだよ!ふざけんな!」

「やめて、はなして!」

 私は掴まれた手を振り払って、急に怖くなって駆け出した。不気味な川沿いの道を、私は走った。奈津くんに会いたかった。会って謝りたかった。

すぐ後ろから、私を追う足音がする。もう空は薄暗くなっていて、あたりはもう人気がなくなっていた。

「大人しくしろ!」

 隆二くんに追いつかれ、力いっぱい手首を掴まれた。その拍子に、私と隆二くんは川沿いの茂みに転がり落ちた。

私が声を上げようとすると、

「し、しずかに!」

と言って隆二くんは私の口をふさいだ。その眼は、ひどくおびえているようだった。どうして、こんなにおびえているのかと、その視線の先を見ると、そこには、友達と楽しそうに話しながら歩く、奈津くんがいた。ずっと、ずっと会いたかった奈津くんが、そこにいた。

 私は声を上げようともがいた。けれど、隆二くんの太い腕に押さえつけられて、息をすることもできなかった。

“なつくん……ここだよ、わたしはここ……!”

私は、心の中で精一杯奈津くんを呼んだ。ふと、奈津くんが立ち止まり振り返った。しかし、奈津くんは私に気づくことなく、友達と少し話すと、向き直ってまた歩いて行ってしまった。

奈津くんが通り過ぎて、十分以上が経った。隆二くんは、冷や汗をかきながら、まだ私を押さえつけている。もう、だめだと思っていると、車のエンジン音が聞こえた。黒い車が、上の通りを過ぎようとしていた。

「たすけてください!」

私はもう一度もがき、隆二くんの手から逃れると、叫びながら車に駆け寄った。すると、中から、大柄の男の人が降りてきた。

「よお、待ってたぜ……」

背後から聞こえた隆二くんの声に、私はゾッとした。後ろから隆二くんが不気味な笑みを浮かべ近づいてくる。大柄の男の人は、ニヤニヤと私を見下ろした後、合図をだし、男の人たちを車から呼んだ。そして、私を持ち上げ、乱暴に引きずるように車内に投げ入れた。

「いや……いやあ!」

精一杯叫んでも、大きく分厚い手に口にふさがれ、もがいても何もできなかった。

そして、車は鈍いエンジン音と共に走り出した。

「おれの女になるって言え!」

 閉め切った薄暗い車内の中で、隆二くんは私の両肩を掴むと、そう言って差し迫った。

「……いや」

私は恐怖に震えながらも精一杯声を振り絞って、小さくそう言った。

「おい、はやくやっちまおうぜ」

 金髪の男の人が言った。

「やだっ!やめて、おねがい!なんで、奈津くんの友達なんでしょ、どうしてこんなことするの!」

私は泣きながら隆二くんに訴えた。すると、隆二くんはとても暗い表情をした。

「だからだよ、おまえみたいないい女、あいつに奪われてたまるか」

そういって、隆二くんは私に覆いかぶさろうとする。男の人たちは、私を取り囲むようにして、その様子をニヤニヤと見ていた。

「なあ、いいだろ、やさしくするからさあ、気持ちよくしてやるから」

「いやっ!いやなの!やめて!」

 私が両手で押すように拒否すると、隆二くんは「うるせえ!」と思い切り私の顔を打った。茶褐色のシーツの上に倒れ込みながら、私にはもう、奈津くんの名前を呼びながらすすり泣くことしかできなかった。

「なつくん……なつくん……」

「ああそうかい、じゃ、てめえ、もう死ねよ」

 齋藤くんがナイフを取り出し、私に向けた。あまりの恐怖に硬直しながら、私はあわてて許しを請う。

「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」

 なつくん……たすけて……。私は心の中で何度も奈津くんを呼んだ。

「じゃあ、どうすればいいか、わかってるよなあ……」

 齋藤くんの言葉の意味を知り、私はひたすら謝りつづけた。けれど、もう、逃げ場はない。

齋藤くんが私に覆いかぶさると、車内の明かりがフッと消えた。

「―――いやあ……」

もう私には、衣服に伸びる手を止める力は無かった。


 ――奈津くん……ゴメンナサイ。


全身を打つような激しい雨の音がした。堤防の下では、濁流が唸りを上げる音がするい。どれだけ時が経ったのだろう。目を覚ましたとき、私は大きくて、逞しい腕に抱かれていた。冷たい雨に打たれていても、その手はとても温かくて、やさしく私を支えてくれていた。

そう、私はこの腕の主を知っている。

「しおみ!」

ゆっくりと目を開けると、そこには、私を心配そうに見つめる奈津くんがいた。「ずっと、会いたかったんだよ」と、私は心の中で話しかけた。まるで、先ほどまでの記憶が夢であるかのように、彼の存在は私を安心させてくれた。しかし、抱き支えられている自分の身体を見て、そんな幻想は、一瞬にして崩れ去った。

「なつ……くん……?」

奈津くんは、とても哀しそうな顔をしていた。

私のせいで、また、奈津くんが傷ついた。私なんかがいるから、奈津くんが傷つく。私は泣かないよ、私が泣けば、あなたはもっと哀しむから。私が泣けば、あなたは決して私を放ってはおけないから。……やっぱり私は、あなたに相応しくない。私は女の子として、一番されてはいけないことをされた。

「へいきだよ……わたしは……大丈夫だから」

私はよろめきながら立ち上がると、破けたシャツの端で胸元を隠しながら、おぼつかない足取りで堤防の縁に立った。そして、奈津くんの方に向きなおると、にこっと笑って言った。

「わたしね、楽しかったよ。奈津くんに会えて、毎日幸せだった」

奈津くん、ごめんね、いつも一緒にいてくれて、ありがとう。私は、もう大丈夫だよ。私ね、あなたの記憶の中では、笑顔でいたいの。だから……だからね……、最期は、笑顔でお別れさせて。

「なつくん、バイバイ」

 そして、私は後ろに倒れ込むように堤防から身を投げた。

「いやだ!」

 次の瞬間、奈津くんは、少し乱暴に私を抱き寄せた。

「はなしてよ、はなしてよお……」

「いやだ、はなさない」

「でも……わたしは……」

「いやなんだ、もう、汐海に会えなくなるなんていやなんだよ。あの日からずっと、汐海のことばかり考えてた。本当は、ずっと会いたかったんだ。勉強なんてできなくたっていい、僕に冷たくたってかまわない、だから、そばにいてよ、君が好きなんだ」

私はどんなにバカだったのだろう。私がいなくなれば奈津くんが傷つくことくらい分かっていたのに。自分が、汚れた。だからもう彼に会いたくないと思った。でも違う!本当は、ずっと、ずっと会いたかった。痛くて、怖くて、真っ暗な時間の間ずっと、私はあなたに会いたかった。

「ひっく、なつくん、わたしっ、わたっ、ほかのっ、男の人に……」

その時、彼は私に口づけをした。とてもやさしく、情熱的な口づけだった。私はもう、自分に嘘はつけなかった。ただ想いのままに、私は彼を受け入れた。彼は唇を離すと、もう一度きゅっと私を抱き締めて言った。

「汐海はもう一人じゃないんだ。つらかったら、苦しかったら、泣いてもいいんだ。これからは、僕がずっと一緒にいるから、だからバイバイなんて、言わないでくれよ、さびしいじゃないか」

私は泣いた。奈津くんの胸の中で、小さな子どものように大きな声で泣きつづけた。その涙を一雫もこぼさず、彼は受け止めてくれた。

あなたがいれば、大丈夫。あなたとなら、私はどんな苦しいことでも平気だよ。奈津くんの胸に顔を埋めて、私は心の中でそう言った。

 私が顔を上げると、奈津くんは私の頭をよしよしと撫で、微笑んだ。

「かえろっか」

「うん」


――ドンッ!


次の瞬間、奈津くんが不意に倒れ込んできたかと思うと、そのまま私たちは宙に投げ出されていた。奈津くんがより一層力強く私を抱き締める。何が起こったのかもわからないまま、奈津くんと私は、水面に落ちていく。水面に衝突する瞬間、チリンと鈴の音が聞こえた気がした。

奈津くんも、何が起こったのか分からないようだった。そして、私たちは荒れ狂う濁流に呑まれていった。何度沈みそうになっても、奈津くんは自分の身体を盾にするように私を包んで、決して私を離そうとはしなかった。私は一生懸命奈津くんにしがみついていた。

「しっかり僕を掴んで、離さないで」

奈津くんの声が聞こえる。それだけで少し安心することが出来た。

 水面に顔を出した私たちは、自分たちが急流に流されていることがわかった。奈津くんは私を元気づけながら、必死にまわりを見渡している。

すると、奈津くんが私の肩に手を回し、片手で支えたかと思うと、もう一方の手で流れてきた太い木を掴んで私が掴まれるように寄せてくれた。

「これにつかまって、大丈夫、僕が支えているから」

太い木を掴むと、なんとか、私たちは顔を水面に出しつづけることが出来るようになった。奈津くんは、私が木に掴まっても、しっかりと私を支えて、離さないでいてくれた。


疲れがたまっていたのか、だんだんと朦朧としていく意識の中で、私はそっと黄色いリボンを見た。奈津くんにもらった、私の大切な宝物。私は、リボンを握りしめると、水しぶきを浴びながら一生懸命がんばる奈津くんの横顔をぼんやりと眺めた。やっぱり、がんばる奈津くんは、他の誰よりもかっこいいと思った。


奈津くん、わたしね、ずっとあなたに伝えたいことがあったの


いつも一緒にいてくれて、ありがとう


奈津くんと一緒にいるだけで、わたしは幸せだったんだよ


奈津くんは言ってくれたよね、おまえじゃなきゃだめだって、わたしが必要だって


うれしかった


だから、わたしも、あなたとどこまでも行くよ


また、一緒にお弁当食べようね


ねえ、きいてる?なつくん……




――――だいすき




                  黄色いリボン 番外編 完


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