約束
政治経済担当の明石先生が経済について淡々と語りつづける中、生徒たちはおのおのに好きなことをしていた。隣では佐藤のへたくそなペン回しが何度も机を打つ音がする。うるさい。そういう僕も、授業なんかそっちのけで、気がつけば彼女のことを考えていた。シオミなんて、珍しい名前だな、漢字ではどう書くのだろう、塩海かな、潮美かな……そんなことを考えていると、あっという間に時間が過ぎていった。
「おい奈津、昼飯買いに行かなくていいのか」
隆二の声に僕はハッと気をとりもどした。
「あ……もうそんな時間か」
「おいおい、しっかりしてくれよ。昼休み十五分も過ぎてるし、たぶんもうたいしたもん残ってねえぞ」
購買部の品は、チャイムと同時にこぞって集まる生徒によって、そのほとんどが売り切れてしまう。売れ残るのはいつも味気のないコッペパンや、ミルクパンだった。
「まあ、今日はいいかな」
「どうした、おまえらしくねえなあ、いつもは人の分までヨダレを垂らして狙っているのに」
「ちょっ、そりゃオーバーだろ」
僕がわざとらしくムキになって言いかえしてみせると、隆二は声をあげて笑った。そうだ、落ち込むことなんてない。縁があれば、嫌でもまた会うさ。
僕は結局一日中、もう一度彼女に会えないかと、まるで小学生のようにウキウキしていた。放課後のチャイムが鳴ると、ついにいてもたってもいられなくなり、すぐにB組に向かう。
すると、B組の教室から、ちょうど同じサッカー部の田村がでてきた。
「田村、おまえB組だったよな、しおみちゃん見なかった?」
「しおみ?ああ、仲村さんか、彼女ならもう帰ったよ」
「まじか!」
「あ、でも……おい、奈津!」
田村の言葉を聞き終わる前に、僕はもう背を向けて走り出していた。なんとしても、もう一度会いたかったのだ。
しかし、どんなに走っても、ちっとも彼女の姿は見えてはこなかった。よく考えたら、彼女がいつ帰ったのかを聞きそびれていた。もしかしたら、早退したのかもしれないのに……。そんなこんなでついに高校からの最寄駅まできてしまい、ガタンゴトンと電車に揺られ、結局、青石駅に着いてしまった。僕が「おそらく今日はもう会えないだろうな」なんて考えながら道路の端を歩いていると、ふと、キョロキョロとあたりを見回しながら歩いている一人の少女が目にとまった。たしかに、彼女だった。
僕は再び彼女に会えたうれしさを隠し切れず、小走りになって彼女のそばまで駆け寄った。しかし、いざ話しかけるとなると、なぜだろう緊張して、僕はなかなか声をかけられずにいた。だからといって、このまま素通りするわけにもいかず、僕は、思い切って声をふりしぼった。
「よっ、しおみちゃん」
彼女は呼ばれて初めて僕の存在に気がついたようで、顔を上げ、髪を耳にかけながら軽く会釈をする。僕は彼女の下校に付いていく恰好で長い下り坂を歩きながら、授業中に考えておいたいくつかの質問を投げかけてみることにした。
「あのさ、しおみちゃん」
「なに」
「しおみちゃんは、将来なりたいものとかある?」
「……ないよ」
一瞬だけれど間をおいて、彼女はそう答えた。
「そっかあ、ね、せっかくまた会えたんだし、メルアド交換しようよ」
「わたし、携帯持ってないから」
「え、そうなんだ。パソコンも?」
「うん」
今時携帯をもっていないなんて珍しいとは思ったが、他にそういった子もいないわけではないし、きっとすごく厳しいご両親なんだろう。親が厳しいのはむしろ、僕にとっては好印象だった(ただ単に断る口実でそう言ったのかもしれないが、それは考えないことにした。たしかに、返事の内容はそっけないが、彼女の態度は冷たいものではなかったからだ)。
僕は困っていた。せっかく念願の彼女と並んで歩いているというのに、会話が繋がらないのだ。その時、僕はハッと思い出し、バッグからあるものを取り出した。そう、黄色いリボンをしたビーグル犬のストラップだ。
「そういえばコレ、このまえ落とさなかった?」
「あっ!!」
彼女はそれを目にすると、とびつくように僕の手元に寄ってきた。(いや、実際にはそれほどではないけれども、今までの彼女の反応と比較するとそう形容してもいいほどの手ごたえを感じた)
「これ、大事なものなんだ」
僕が聞くと、彼女はコクンと大きくうなずく。
そのまま、ストラップを持った手を伸ばすと彼女も受け皿のように手を差し出した。しかし、彼女の手に乗る直前に僕はひょいっと手を引いて不敵な笑みを浮かべてみせた。
「どうしよっかなあ……返してほしい?」
彼女はまたも大きくコクンとうなずく。
「じゃあひとつ、僕のお願いきいてよ」
彼女は一瞬ためらいをみせ、すぐに冷たく「なに」と聞き返した。その時、彼女は少し眉をひそめたが、僕はちっとも怖くはなかった。むしろ彼女が関心を寄せるものを今この手に持っていると思うと、なんだか妙に心地がよかった。
「なんでそんなに冷たいのさ、僕なにか気に障ることしたかな」
彼女はフルフルと首を横に振る。そして、言いづらそうに答えた。
「ちがうの、わたしはみんなに冷たいの」
「冷たくなかったじゃん」
「冷たいの!」
彼女は目を伏せて、かなしそうに少し声を張った。
「じゃ、他の誰に冷たくしてもいいけどさ、僕にはやさしくしてよ、これがお願い」
彼女は目を丸くし「なにそれ」と言わんばかりにクスッと笑みをこぼす。
そして、大きく一回コクンとうなずいた。
「僕、メンタル弱いんだ。特に君にそうやって冷たくされるのにはね。だから、やさしくしてよ」
「うん」
「約束だぞ」
「うん」
僕がしつこく何度も確認すると、彼女はその度に微笑みながらコクン、コクンとうなずいた。そして、僕と彼女はゆっくりと並んで歩きはじめた。
歩きながらふと彼女の方をみると、ちょうど目と目が合った。しかし、目が合うとすぐに彼女は視線をそらす。
「その目が合いそうになってそらすのもやめない?」
「アハハッ!はい!はい!」
まさかそんなことまで突っこまれるとは思っていなかったようで、彼女は声を上げて笑った。その時久々に彼女の笑い声を聞けた気がして、僕は、なんだか胸が暖かくなった。
「あの、さ」
「ん、なに?」
「……ありがと。ストラップ、拾ってくれて」
彼女は少し気恥ずかしそうにそう言った。
「いいっていいって、それよりさ、ずっと聞きたかったんだけど“シオミ“って漢字でどう書くの、塩海?潮美?」
「えっとね、海を表す“汐“に、”海“だよ」
彼女は、自分の手の平に文字を書くまねをして、僕に教えてくれた。
「え、海の“塩”に、“海”……?なんだか、とてもしょっぱそうな名前だね……」
「そうじゃなくって!サンズイに夕方の夕の“汐”の方!」
彼女は楽しそうに笑って、そう説明した。
「“汐海“かあ、素敵な名前だね。自分でも気に入ってるでしょ」
彼女は少し考えてから「うん、ありがと」とうなずいて微笑んだ。
そんな話をしながら川沿いを歩いていると、歩道の脇にある梨園のブルーネットの下から、ブチ猫がモソッと顔を出した。僕は、汐海がその猫に目を奪われていることに気がつくと、猫に向かってしゃがみこみ、「おいで」と手を前に出してみせる。首輪をしているところを見ると、どうやら飼い猫のようで、僕の言葉がわかったのか、ブチ猫は、ノソノソと僕たちの目の前まで近寄ってきた。
「この近くに一人暮らしのおばあさんの住む家があってさ、たぶんそこの猫だと思う。こいつらほんと、人懐っこいんだ。すり寄られすぎて、制服に毛がついちゃうのは困るけどね」
僕がその猫のあごや首をなでてやると、ブチ猫はごろんとあお向けになって甘える仕草をした。僕は汐海を隣にしゃがませると、さわってごらんと手で合図をした。汐海にはそれがあまりに新鮮だったようで、はじめこそおどおどしていたが、おそるおそる少しなでてみると、ぱあっと明るい表情になって、瞳をかがやかせていた。
僕は汐海を今まで出会った誰よりも美しいと思った。透き通るような白い肌、通った鼻筋に、淡い桜色の唇、そして艶やかな黒い髪は決して造られた美しさなどではなく、自然体でこれほど人を惹きつける人間がいるのかと思わされるほどだった。なにより、笑ったときにぱあっとかがやく瞳が好きだった。彼女の笑顔を見ているだけで、不思議と胸が熱くなる。髪をかき上げる仕草、汗を拭う姿、ほんのり漂ってくるやさしい香り、彼女のすべてを、僕はいとおしく思った。そしてその美しさとは裏腹に、どこか、さびしげな雰囲気があることも感じていた。
「汐海ちゃん、動物好きなんだ。僕も好きでさ、将来獣医になれたらいいなって思っていて。汐海ちゃんは犬とか猫、飼ってる?」
「ううん」
汐海は首を横に振った。僕がまた外したとうなだれていると
「……うさぎ」
と小さな声がした。
「うさぎ、飼ってる」
「うさぎかあ!いいなあ。ミニウサギ?ピーターラビット?」
「わかんないけど、中学生のころに近所のおばさんにもらったの」
汐海は人差し指をあごにあて少し考えたようだが、それでも分からなかったようでそう答えた。その間、ブチ猫はなでられるのが気持ちいいようで、まだあお向けになってじゃれている。
僕らの背後を自転車が通り過ぎると、ブチ猫は満足したのかノソノソとブルーネットの向こうへ帰っていった。気がつくともう日が暮れはじめており、僕たちは目で示しあわせ、また歩きはじめた。
「奈津くんは?」
汐海は少し首を傾けて、ひょこっとこちらの顔をのぞきこむようにしてたずねた。このときはじめて名前を呼ばれたので、僕は思わずドキッとしてしまい、言葉につまってしまった。
「どうぶつ、飼ってないの……?」
「え、ああ昔、犬を飼ってたよ、エルっていう名前でミニチュアシュナウザで、こう、毛がモシャモシャのやつ」
「あ、白い毛玉みたいなの!?」
「いやそれはたぶんトイプードルで、もっとこう、白とか灰のファサファサーって……」
僕が両手をつかって一生懸命伝えようとすると、その大げさなジェスチャーに汐海はクスクスと笑ってくれた。
そのあとしばらく、僕は知っていても何の役にも立たなさそうな豆知識の数々を披露した。ウサギは汗をかかないんだとか、ゴリラはみんなB型だとか、ペンギンは仲間を海に落として安全を確認してから飛びこむんだとか……ウソかホントかもわからないような話を得意になって話しつづけた。汐海はその一つ一つに関心を示し、身振り手振りで夢中になって話している僕を見ては、顔をほころばせていた。
「でも、この町ってつまらないよなあ、なんにもないんだもの。カラオケもボーリング場も、映画もない。なにがあるって工場と田んぼばっかり……」
僕はわざとらしく口をへの字に曲げて、さも残念そうに話してみせた。この話はこの町に住む中高生の間では鉄板だ。話題がなくなるといつも、学生たちは社交辞令のようにこの話をして、周囲の共感を得ていた。
「わたしは好きだけどな、この町」
「え、どうして」
予想外の答えに、僕は思わず振りむいて聞きかえしてしまった。
「わたしね、この町の景色が好きなの。夕方ここに立つとね、夕焼けがパーッと水面をオレンジ色に染めて、すっごくきれいなんだよ。なんにもなくても、このきれいな景色はここにしかないでしょ」
汐海は両手を広げて夕日をつかむようにトコトコと歩いてみせた。その姿はまるで、陽気に歌を口ずさむ美しい小鳥のようだった。
「そっかあ、そうだね」
汐海の姿にみとれていた僕は、そういってなんとも気の抜けた返事をした。そう言われるとそんな気がしてきたし、なにより、汐海に出会えたというだけで、僕はこの町が他のどの町よりも好きになっていた。