真実
目の前に、汐海によく似た少女がいた。汐海と同じ香りがすると、そう思った。夜通し泣いたのだろう、少女の頬には、涙の跡が残っていた。
「あなたは初めから、逃げるつもりだったのね……人を憎みつづけることからも、悲しみを抱えて生きることからも……」
真由子が言った。
そう……僕は、はじめから死ぬつもりだった。汐海のいない世界には希望も、喜びも見出せなかった。でも死ぬ前にやり残したことがあった。生きつづけるつもりならば、彼らの贖罪を見届けることもできたろう……でも、死を決した僕には、彼らを殺す以外に道はなかった。それを終えた今、誰にどう恨まれ、憎まれていようと、もうどうでもよかった。僕の死で精算すれば全てが終わる。
――脳裏をよぎる映像……人形のように打ち捨てられた少女……それはまさしく、汐海であった。
「僕が汐海を見つけたとき……汐海はまだ生きていたんだ」
忘れもしないあの日のことを、僕はゆっくりと話しはじめた。
「なつ……くん……?」
僕を見上げる汐海の頬は、赤く腫れあがり、涙で濡れた跡があった。
汐海は、一瞬とても穏やかな表情で僕を見た。けれど、自分の身体に目をやると、今にでも崩れ落ちそうなほど悲しい表情をした。
「へいきだよ……わたしは……大丈夫だから」
汐海は、よろめきながら立ち上がって、そう言った。そして、自分で僕の手から離れ、フラフラと歩いていく。僕は、彼女になんと声をかけたらいいのかわからず、そんな彼女の姿を見守ることしかできなかった。
汐海は、堤防の縁に立ち、荒れ狂う濁流を眺めると、振り返って言った。
「わたしね、楽しかったよ。奈津くんに会えて、毎日幸せだった」
――うそだ。僕は、君を守れなかった。君を傷つけてばっかりだった。それなのに、どうして君は、そんなにやさしい笑顔ができるんだ。
「なつくん……バイバイ」
汐海はにっこりと笑って、倒れ込むように堤防から飛び降りた。
「いやだ!」
次の瞬間、僕は汐海を掴んで、力いっぱい抱き寄せた。
「はなしてよ、はなしてよお……」
「いやだ、はなさない」
「でも……わたしは……」
「いやなんだ、もう、汐海に会えなくなるなんていやなんだよ。あの日からずっと、汐海のことばかり考えてた。本当は、ずっと会いたかったんだ。勉強なんてできなくたっていい、僕に冷たくたってかまわない、だから、そばにいてよ、君が好きなんだ」
僕はありったけの想いをこめて、彼女をそっと抱きしめた。
「ひっく、なつくん、わたしっ、わたっ、ほかのっ、男の人に……」
汐海が言い終える前に、僕は彼女の頬に手を当て、唇を重ねた。彼女は一瞬戸惑うように目を見開いた後、悲しげに、けれど愛おしげに僕のキスに応えてくれた。降りしきる雨の冷たさも感じないほど、僕の胸は熱くなっていた。唇を離すと、汐海の目を見る。そのきれいな瞳は、キラキラと光る宝石のように美しく輝いていた。
「汐海はもう一人じゃないんだ。つらかったら、苦しかったら、泣いてもいいんだ。これからは、僕がずっと一緒にいるから、だからバイバイなんて、言わないでくれよ、さびしいじゃないか」
「汐海は、きれいだよ……だれよりも」
「ふぇ……」
――汐海は声を上げて泣いた。降りしきる雨音にも負けないくらい、その小さな手で僕の体をしっかりとつかんで、強く、強く泣きつづけた。
ひとしきりなくと、汐海は僕の胸に顔をうずめたまま、鼻をすすった。雨も少しずつ強くなってきており、早く帰らないと汐海が風邪をひいてしまう。明日も、学校だ。明日からはまた、一緒に二人で帰ろう。これからは、何があっても一緒にいよう。僕は、もう一度汐海を抱き締め、汐海の頭にポンと手を置いた。
「かえろっか」
そう声をかけると、汐海は僕の胸の中で、コクンと大きくうなずいた。僕が汐海を離そうとした次の瞬間、背中に何かが衝突するような感覚が走った。
――ドン!
突然、本当に突然だった。誰かに背中を押された感覚をおぼえると、気がついたときには、僕たちは宙に放り出されていた。眼下では、荒れ狂う波が僕らを待ち構えている。
宙に放り出された僕らにはなすすべもなく、遠くなってゆくエンジン音と共に、まるで、あんぐりと口を開けている悪魔のような濁流に呑まれていった。
強い流れの中、泳ぐことはできなかった。態勢を保とうとすればするほど、波に足をすくわれる。僕ひとりなら何とか泳ぎ切れるだろう。でも今は、汐海を抱えていた。必死に泳いでいないとたちまち流れにのまれ、木材や破片が身体の節々を蝕んでいく。
汐海は、力なく僕の腕にしがみついていた。なんとしても、彼女だけは助けたい。声を上げて助けを呼ぶも、激しい雨と風の音にかき消されてしまう。茶色く濁った激流が絶え間なく押し寄せてきた。僕は壁に打ちつけられながらも、上部にある堤防を見た。しかし、掴むには位置が高すぎて、少なくとも彼女を抱えていてはとても手が届かなかった。すると、根元からむしられた一本の太いカシの木が、流されてきているのが目に入った。渡りに船とはこのことで、僕はその太い木を必死に手繰り寄せる。なんとか引き寄せると、僕らはその大木にしがみついた。けれど、この先はかなりの急勾配があることを知っていた。今掴んでいる流木でさえも、容易く呑み込んでしまうだろう。もし、そこまで流されてしまったのなら、まず汐海は生きて帰ることはできない。
「汐海、もう少しだ、がんばれ」
汐海は、すでに弱り切っていた。それでも懸命に僕の腕にしがみついている。
もう少し、あと少しで、堤防に手が届きそうだった。降りしきる雨が、視界をくらませる。何度も壁に擦れた指先は、爪と皮が裂け血で真っ赤になっていた。早く、早くしないと、汐海を助けられなくなってしまう。そうだ、流木を片手に持ちかえ、もう一方の手で柵を掴んで引き寄せれば、二人とも助かるかもしれない。
しかし、それには一度汐海を握ったこの手を離さなければならなかった。
「汐海、わかるね。一度この手を離すよ。しっかり、しがみついていて」
僕がそう言うと、汐海は僕を見てやんわりと、口元を緩めた気がした。僕は汐海がしっかりと木を掴んだことを確認して、そのままスッと手を流木の端に持ち替えた。そして、流れが少し緩んだ瞬間、柵を掴もうと跳び上がった。すると次の瞬間、ザバン、と強い波が押し寄せた。しかし、僕は怯まずその指先を少しでも遠くへと、関節が痛むほど、腕を伸ばしきった。そして、堤防の端を、しっかりと掴んだ。もう一方の手では、たしかに流木を掴んでいる。
「届いた!助かるぞ!しお……」
僕は一瞬、何が起こったのか理解できなかった。振り返ると、そこに汐海の姿はなく、一本の流木だけが波に揺られていた。
「しおみ!!」
――それから何十分も流され、汐海を見つけたころには、もう遅かった。
流されながらも、ずっと握りしめていたのだろう……汐海の手には黄色いリボンが握られていた。
「動かなかったんだ……何度呼びかけても、揺すっても、汐海は、ピクリとも動かなかったんだ」
「奈津……もう自分をゆるしてあげて、仲村さんもそれを望んでるわ」
「ゆるせるわけないだろ!僕が汐海の手を離さなければ……汐海は死ななかったんだ。何に代えても守りたかった汐海を、僕が殺したんだ!」
「だから!ちがうの!」
少女が、泣きそうになりながら声を上げた。
「おねえちゃんいってたもん!黄色いリボンには大切な人の無事を祈るって意味があるって!だから奈津くんを守ってあげてほしいって!おねえちゃんは離さなかったんでしょ、怖くても、痛くても、苦しくても、あなたにもらったこのリボンをずっとにぎりしめていたんでしょ……」
汐海……君は、あんな状況でも、僕のことを……。
汐海の顔が、声が鮮明によみがえっていく。胸が熱くなっていった。汐海の目が、鼻が、口が耳が髪が……すべてがいとおしくて、たった一度でかまわない。汐海をもう一度この手で抱きしめたくて……。
「泣かないでよ……梨奈だって、おねえちゃんに会いたいよお……」
少女はやがて声を上げてわんわんと泣きじゃくった。
いつの間にか、僕の瞳からも涙があふれ出ていた。自分ですら気づけないほど、ごく、自然に、とめどなく流れていた。死すら覚悟していた。誰になんと軽蔑されようとかまわなかった。それなのに、涙を塞き止めることができなかった。汐海を傷つけた自分が赦せなくて、もう二度と、彼女会えないことが、ただ、悲しくて……。




