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家族

「ただいま」

 返事はない。扉の向こうでは、テレビ番組の喝采や、食器をかき鳴らす音が入り混じっている。

 僕はリビングには向かわず、そのまま二階にある自分の部屋に上がると、ドサッとバッグを部屋の隅に置いた。さっさとベッドに腰をかけて一息つきたいところだけれど、僕はまず、制服のブレザーをハンガーに懸け、新聞紙を広げて、靴下を脱いだ。新聞紙を敷かないと、部活で服や体に着いた砂が床に落ちてしまうし、だからといって玄関先でこれをすることは許されてはいなかった。紙面に落ちた砂をこぼさないようにゴミ箱に流し入れ、着替えを持ってそのままお風呂場へと向かう。

お風呂場に着くとせっせと浴槽の掃除を始める。掃除をして沸かすところまでがこの家での僕の仕事の一つだった。一〇分を超えると義伯母さんに嫌味を言われるので、すべて終わるころにはもう一〇分ギリギリで、温もる余裕なんて、とてもじゃないがなかったけれど、掃除自体は負担になるほどのことではなかったし、正直そこまでして湯船につかりたいとも思ってはいなかった。

 ひと通り終えたところで部屋にもどると、間もなくして、バンッと無造作にドアが開いた。

「おい奈津!聞いたぞ、おまえ最近モンハン買ったんだって?オレに貸せよ」

 天馬がハスキーな大声でそう言った。

 天馬は僕と同い年の従兄弟であり、昔から僕のことを手下か何かと勘違いしている。「天の馬」だなんてたいそうな名前を持っているが、明らかにその容姿は名前負けしていて、パンパンに膨れた丸顔にその濁った眼差しといったら、あの黒光りする節足動物の方がまだマシかもしれない。現在は忍者漫画にはまって、常に額に灰色のバンダナを巻いている。……外出先でもだ。

「自分の物があるだろ」

「この前ちょっと壁にぶつけただけで動かなくなっちまったんだよ。あのクソ不良品が。ママにいってゲーム会社に文句言ってやる」

 天馬は、自分の思い通りにいかないことがあると、毎度のようにかんしゃくを起こして家中のものを壊してまわった。そういう時は決まって、赤ん坊のような叫び声が家中に響き渡る。僕はそれに巻き込まれるのが嫌で、天馬がぐずりはじめると早々に自分の部屋に避難することにしていた。義伯母さんはそのせいで近所の人に謝ってまわっているが、なんと言い訳しているのかは、近所の人の僕を見る目で、大方予想がついた。

 どうせ返ってはこないだろうと思いつつも、僕がゲームを渡してやると、天馬はそれを乱暴に奪い取って、自分の厩舎……もとい部屋へと帰っていった。


 父さんと母さんは、僕が十歳の時に交通事故でかえらぬ人となった。それからずっと、僕は義伯母さんの一家と一緒に暮らしている。この家も、もともとは父さんと母さんのものだったのだけれど、義伯母さんの一家が僕を引き取るにあたって、僕のためにも住み慣れたこの家がいいだろうという理由で移り住んできたのだ。

両親を失った当初、義伯母さんたちは僕にとても優しくしてくれた。いつも僕の体調を気遣ってくれたし、天馬にものを盗られれば叱りつけて、取り返してくれたりもした。土木関係の仕事をしている伯父さんも、僕が好奇心から何かと質問をしては、色々と自分の仕事について教えてくれた。ある時、僕が実際に工事しているところを見てみたいとお願いすると、現場に連れて行ってくれたこともある。伯父さんには、酒に酔うとなんでも話してしまう癖があった。仕事に使う機材をどこにどう保管しているのかとか、他人に言ってはいけないようなことも、ベラベラと声高に語ってしまうが、今となっては変にずる賢いよりも、そこまでマヌケでいてくれたことに感謝している。

しかし、それが上辺の優しさであることに気づくのにそう時間はかからなかった。伯父さんも、義伯母さんも、僕に遺された父の財産欲しさに、媚びを売っていただけだったのだ。幼い僕は、それを優しさと思い違えて、親戚中に伯父さんと義伯母さんは優しくて、良い人だと豪語したものだ。今では、親戚たちがどうしてあんなに難しい表情をしていたのかがよく分かる。親戚一同の信用を得ると、すぐに伯父さんと義伯母さんは父さんの遺産をつかって今まで見たこともなかったような贅沢をしはじめた。

初めはそれも良かった。義伯母さんたちは、僕に色々なものを買ってくれるようになったからだ。ゲームも、おもちゃも、本も、靴も、好きなだけ買ってもらえた。僕はそれがうれしくて、義伯母さんたちの言うことを素直に聞くようになっていった。すると少しずつ、僕の生活に新しいルールが課されていったのだ。

ある日、ご飯は自分の部屋で食べるように言われた。それを不思議に思っているうちに、僕のご飯は小銭に変わった。部屋にはテレビが、冷蔵庫が、洗面所が設置されていった。それがどういう意味なのかも知らずに、僕はまるで自分が偉くなったような気がして、無邪気に喜んでいた。そしてだんだんと、義伯母さんたちは僕の話を無視するようになっていった。お昼代をもらえず、ご飯代をねだりにいったら「いやしいガキめ」と小銭を投げつけられることもあった。

どうしてそんな扱いをされるのかわからなかった。なにか、気を悪くするようなことをしてしまったのか、必死に考えたりもした。


その意味に気づいた時にはもう、僕の心は痛みに慣れていた。


僕の部屋には空の犬小屋が一つある。そこには昔、エルマーナという名前のメスのミニチュアシュナウザが暮らしていた。(エルマーナという名前は母さんが付けた。スペイン語で姉妹という意味らしい)僕が生まれた時からずっと一緒で、父さん達が死んでからは、エルが僕のさびしさを紛らわせてくれていた。僕に残された、たった一人の家族だった。

エルは、病気だった。決して治らない病気ではなかった。二、三十万円あれば手術することもできたろう。けれど、小学生の僕にそんな大金は支払えなかった。義伯母さんたちに泣きついても、厳しく折檻を受けるだけだった。日に日に悪くなっていく病気のエルを前に、僕はただそばでさすってやることしかできなかった。そして、父さんと母さんがいなくなってから一年も経たないうちに、エルもその息を引き取った。


その時、僕は、自分が本当にひとりぼっちになったことに気がついた。


僕は先月で十八歳になった。法律上は財産管理を任される年齢だ。それを知ってか、僕の誕生日以来、伯父さんと義伯母さんは、口を開けば「ここまで育ててもらった恩を忘れるな」と高圧的に言い放つ。いや、むしろ最近は怯えるように僕を避けることの方が多くなった。僕は、その理由に気づいている。父さんの遺した財産は、もうほとんど残ってはいないのだろう。

僕はお金や、財産にそれほど固執はしていなかったし、あまり興味もなかった。お金ならいつか自分の力で稼げばいいし、それにもともと遺産を頼りにして生きていくつもりもなかった。使い込んだお金を返せとも言わない。でも、父さんや母さんと暮らしていたこの家からは、いつか出ていってほしいと思っていた。そしていつの日か、大切な家族とこの家で暮らしたいというのが、僕のひそかな願いだった。

洗面台の前に立って歯を磨くと、蛇口をひねり、水をコップに注いでガラガラとうがいをする。それがおわるとベッドに横になり、昔のことを思い浮かべた。


「ねえ、おとうさんこのきかんしゃかって」

「ダメです奈津。そんなお金、家にはないの」

「おかあさんにいってるんじゃない、おとうさんにいってるの!」

「奈津……よく聞きなさい。本当に大切なものはお金なんかじゃないんだよ、もっと大切なものがあるんだ、お金はその大事な宝物を、守るためにあるんだよ」

「わかった!僕のひこーきでしょ!」

「ハハハッ、そうかそうか、奈津はそれが大事なんだね」

「じゃあ……しょべるかー?」

「はははっ、ちがうよ、奈津」

「わかんないよ」

「奈津にもいずれ、自然とわかる時が来るさ」

 そういって、父さんは太い腕でガシガシと僕の頭を撫でた。虚ろになっていく記憶の中にあっても、父さんの言っていたことはよく覚えている。あの時、父さんは何と言いたかったのだろうか。


そんなことを考えているうち、僕はいつの間にか眠りに落ちていた―――。


朝になると、まどろむ間もなく、僕はせっせと支度を終えて、家を出た。天馬と顔を合わせると、必ずと言っていいほど面倒くさいことになるからだ。

「いってきます」

返事がないことを分かっていても、外出するときはいつも、ちゃんとあいさつをした。義伯母夫婦へなんかじゃない、大切な家族と暮らした、この家に対するあいさつだった。

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