暗闇
僕は、青石川を流れていた。ゆったりと浮かぶ藻屑ように、ゆっくりと。
幸い夜の闇と茂った大草に身を隠されて、まだ僕の存在は、誰にも気づかれてはいなかった。しかし、もし気づかれれば、堤防に挟まれたこの状態では逃げようがない。
静かな夜、冷え切った水の中で、僕の体を揺り動かすのは鼓動だけだった。警察に、追われている。隆二の家からここまで、もうすでに三キロメートルは離れているはずだ。それでも警察が正確に自分の位置を押えてきていることは、恐ろしいと思った。確実に包囲網が展開されている。ここから逃げ切ることは不可能に近い。高塀のおかげで一時的に姿をくらますことができたのは良いものの、見つかるのは時間の問題だった。このまま流されつづけていれば、いずれ、必ず見つかるだろう。この先の水脈から田畑の中へ、そこからなら、こどもの国園が近い。こどもの国園は広大な敷地を一般開放した施設で、昔は軍の武器倉庫だったらしく、いっこうに開発が進んでいない。閉園後は人影すらなく、隠れるにはうってつけであった。
そんなことを考えながら流れに身を任せていると、頭上を覆い隠す茂みが終わり、目の端に赤い警告灯をとらえた。二〇メートルほど先だろうか、一目でパトカーの明かりだとわかった。僕が川から逃亡する可能性を、一応は考慮に入れたのだろう。視界がひらけた場所で、僕が姿を現すのを今か今かと待ち構えているように見えた。ここで見つかれば、まさに袋の鼠だ。黄色いライトが照らす水面まですでに一〇メートルを切った。もう、身動きひとつできない。ここで動けば、その振動と音で、確実に気づかれるだろう。ゆっくりと、身体を水中へ沈めてゆく……片耳は水につけないでおいた。静まり返った空気の中で、足音一つも聞き逃すわけにはいかなかった。しかし目を出すことはしない。ライトに、反射する恐れがあるからだ。塀の上にいる警官たちに、心音が聞こえるんじゃないかと思うほど、鼓動が激しくなっていく。水の中の黄色い光に自分の肩が触れるのを感じた。外がざわつく。耳を出していても水の音が邪魔をして、何を言っているのかはっきりとは聞こえなかった。
「なあ、あれ人に見えないか?」
「ん?どれどれ……」
瞼越しに、ライトの明るさを感じた。
「おい、あれは人間だ、しかも男だぞ!捕まえろ!」
……見つかった!叫ぶような声が鳴り響く、瞬間、僕は体勢を立て直し、バシャバシャと音を立て、水面をかき分けると反対側の堤防をよじ登る。
「逃がすな!絶対に捕まえろ!」
怒鳴りつけるような声が背後から轟いた。サイレンの音がこだまする。
もう一息で歩道に上がれると、最後の一手を伸ばしたとき、誰かに腕を掴まれ、引き上げられた。
「おい、捕まえたぞ!」
「離せ!」
声を張り上げる。しかし暴れる自分を取り押さえる腕は無数に伸びてきた。
「やめろ、離せ!だめなんだ、僕は、こんなところで捕まっちゃいけないんだ!もう少し、もう少しなんだ…………」
その時、後頭部に、衝撃が走った。
目を覚ますと、僕は刑務所にいた。
「そうか、僕はあの後捕まって……」
刑務官に連れられ、面会室へと足を運ぶ。アクリル板の向こうには、悲しい目をした圭介がいた。僕は、かける言葉が見つからず、ただ、うつむいていた。
「……げんき、だったか」
圭介が言葉を発すると、僕はゆっくりと顔を上げて圭介に言った。
「分からない。よく、覚えていないんだ。圭介、隆二は今どこにいる。僕は、あいつに復讐しなくちゃいけない」
「隆二に復讐……だと?!隆二は、あいつは公判中おまえの無罪を主張し続けていた!そのせいで去年、お前の殺した菊池らの遺族に襲われて失明したんだ……今だって、その時の後遺症のせいで、病院で寝たきりだ。美玖も僕も、おまえの友人だってことで世間から散々非難されて……美玖は結局高校を辞めた。僕も、ネットに名前と顔が載って、日本中から目の敵にされてる」
「そんな……そうだ、真由子は……」
「真由子は、おまえが捕まってすぐ、自殺したよ。おまえが、あんな人間だなんて知らなかった。僕ももう、二度とここへは来ない。少しでも申し訳ないと思うなら……さっさと、死んでくれ」
黒幕は隆二ではなかった。そして、僕の思い違いが原因で、僕を大切にしてくれていた友人全てを道連れにしてしまった。あまりのショックに、僕は息ができなくなり、声も出せず、その場で倒れだ。視界が歪み、次第に黒く蝕まれていく。ついに、視界が真っ暗になった。
――あまりの苦しさにハッと目を開けると、目の前には夜空が広がっていた。そう、夢だったのだ。僕はまだ、青石川を流れていた。現実は、僕に味方をした。ほんの三十秒くらいのことだったのだろうか、気がつくと、呼吸が荒くなっていた。黄色い光は何もなかったかのように通り過ぎていた。僕は、警官に気づかれることなく、この関門を突破した。
明かりがなくなると、フッとあたりが暗くなった。暗闇の中にいると、ほっとする。なんだか、孤独が紛れる気がして。家族を失ってから僕は、ずっとそうだった。夜眠る時は、一筋の光も嫌った。でも、汐海に出会って変わった。彼女は僕なんかより、ずっと孤独だった。
その汐海の命を奪ったこの川に救われるとは、なんと皮肉なことか。冷え切った川の水も、夜の澄んだ空気の中にいると、不思議と辛くなかった。キラキラと光る星々を映す水面を流れていると、まるで、夜空を泳いでいるようだ。風に揺られて木々がさざめく。青黒い空にかたどられた木々のシルエットは、冷たく乾燥した夜風とあいまって一層さびしく感じられた。
今の僕を見たら、彼女は何と言うだろう。怒って……くれるかな。もう叶わないとわかっているのに、望まずにはいられない世界……時間、瞬間。僕は瞼を閉じて、冷たい川の水に身を沈めた。
終わりさえも見えない真っ黒な道を、僕は流れていく。ひっそりと、ゆっくりと、僕は暗闇に埋もれていった。




