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幻想

僕は、人目を避けるように移動しながらも、いまだにあかね町内を移動していた。電車を降りると、空からはサーサーと雨が降っていて、数日前と変わらない、いつもどおりの青石駅が、そこにはあった。なぜだろう、数日ぶりだというのに、とても懐かしく感じる。

うっすらと空を覆う白い雲を眺めながら、雨の中、歩くのも悪くないと考えている間に、下車する学生たちの姿もなくなっていた。

あの頃は、僕はいつもここで彼女を待っていた。彼女は、僕を見つけるとぱあっと笑顔になって足早に階段を下りてくるんだ。

「なーつくん!」

 途端に彼女の声が聞こえた気がした。

ハッとして振り返ると、その先には、ただ閑散とした階段のみが佇んでいる。

「そうだよな、汐海は……もういない」

青南高校の制服を着ているのは、制服が一番自然に移動できると考えたからだ。血の染みついた衣服は遊水地の茂みの中に隠した。人の高さほどの草がぎっしりと茂っているので、少なくとも数日間は気づかれることはないだろう。裏路地に止まったままになっている車もスモークがかかっていて内部が覗き難くなっている上、あの辺りは人通りも少ないため、早朝から気づかれるとは思えなかった。あの少女が通報したとしても、警察が僕の痕跡をたどるには、少し時間を要するだろう。

そんなことを考えていると、ランドセルを背負った一人の少女の姿が僕の眼にとまった。小学四、五年生ぐらいであろうか。傘を持っていないのだろうか、駅の構内から出られずにいるようだ。

少女は、時々姿勢を変えながらも、雨の降る景色をじっと眺めていた。後方には傘の自動販売機が備え付けられているが、少女はピンク色の小さい財布を開き、軽くため息をついた。僕はその販売機の前に立ち、千円札を入れる。ゴトン、という音と共にビニール傘が取り出し口に出てきた。少女は、そのそんな僕の様子をさびしそうに眺めている。

僕が目が合うと、少女はその様子を気づかれまいと、少し焦って向きなおった。僕はそのまま少女の隣に立ち、そっと、声をかけた。

「このままここにいたら、風邪ひくぞ」

少女が返答する前に、僕は手に持っている傘を少女に差し出した。

「でも、お金……」

そう言いかけた少女に対して、僕は口角を上げて言った。

「貸すだけだ。明日になったらあそこのコンビニの傘立てにいれておいてくれればいい。明日の帰りに持っていくから」

僕の着ている制服をこの駅でよく見かけるからか、少女は少し信用してくれたようだ。僕はそっと傘を少女の手に持たせ、そのまま雨の中に歩を進めた。

日暮れ時の冷たい雨の中、思い出していた。僕もまた、この場所で、傘を忘れ立ち尽くしていたことを。

「あのあと、どうしたんだっけ」

僕がそうつぶやくと、不意に体に降りかかる雨が止んだ。どうしたのかと振り向くと、先ほどの少女が、手をめいっぱい伸ばし、僕を傘に入れてくれていた。

「あたしに傘貸したら、じぶんのがなくなっちゃうよ」

「ありがとな。でも、僕は濡れてもかまわないんだ」

「あっそ、じゃあこの傘もらっちゃうからね!」

雨音で声が届きにくいと感じたのか少女は少し張った声でそういった。僕は、ムッとした少女の顔を一瞥し、意外に勝気な子なのかもしれないと思うと同時に、どこか懐かしい匂いを感じていた。

「ああ、やるよ」

そういって僕は足を速めたが、少女が懸命についてこようとする。僕は撒くことをやめ、低い声で、少女にたずねた。

「まだ何か?」

「あたしの家もこっちだから途中まで入れてあげる」

少女はまっすぐ僕をみてそう言った。

「学校帰りか?それにしては、荷物が多いな」

「ちがうよ。修学旅行の帰りだよ。みんなはまだあっちにいるけど、ママが早く帰ってきなさいっていうから梨奈だけ早く帰らなきゃいけなくなったの」

「そりゃあ、残念だったな」

「うん、でもね、ママの声、とても悲しそうだったから心配なんだ」

「きみ一人で帰ってきたのか?」

「きみじゃない、梨奈だよ。それに先生も一緒だよ。先生がトイレ行ってる間に先来ちゃったけど」

「そうか」

僕はそういって、今度は少女が遅れないよう歩調を緩やかにして歩いた。大事な生徒を見失って、今頃先生は大慌てだろう。

しばらく歩いていると、だんだんと雨が緩やかになっていった。

「そのリボン、かわいいね」

 僕の手首についている黄色いリボンを見て、もの珍しそうに少女がつぶやいた。

「やるよ」

僕はリボンを外すと、少女の手首に結わえてやった。

「傘入れてくれたお礼だ」

「いいの?」

「ああ、僕にはもう必要ないし、きみが持っていた方がいい」

なにより、これを血で汚したくはなかった。

「それと……」

少女に向きなおって僕は言った。

「これからは知らない人にホイホイついていかないように。いくら親切でも、それはだめだ」

「なんで?」

「もし、悪い奴だったらどうする」

「でもお兄ちゃんは悪い人じゃないでしょ?」

少女が僕の顔を見て得意げに言う。

「悪い人だよ、それもすっごい」

「なにかしたの?」

「傷つけたんだ、大切な人を」

「そんなんだれだってするよ!そういう時はね、ちゃんとごめんねすれば大丈夫だって、おねえちゃんがいってたよ」

もう、謝ることもできないんだと言いかけて、僕はそこで話をやめた。

「あの……傘、ありがとう」

少女はそう言うと、少し照れくさそうに握手を求めてきた。僕も手を差し出したが、途中でその手を止め、そのまま引いた。

触れなかった。触れられなかった。少女の真っ白な小さな手に、触れるには、僕の手はもう汚れて過ぎているのだから。

雨が上がり、雲間から光が差し込む。曇天のせいで見ることができなかった夕空もこの日は冴えわたってみえた。


しかし、僕の眼はもう、空を映してはいなかった。


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