もう二度と
「なーつ、ほら、起きて」
「しおみ……?」
目を覚ますと、僕はあかねヶ丘に寝そべっていた。そしてそこには、いつもと変わらぬ姿の汐海がいた。
「ほら、何ボーっとしてるのよ、帰るよ!」
「汐海、君、死んだんじゃ…」
「へぇ?何いってるの、まだ寝ぼけてるの?」
「いやだって僕…」
「何があっても僕が守るっていうから、もし私に本当になにかあったらどうするって話をしただけじゃん。勝手に殺さないでよ!」
「ごめん……」
「もう!」
「そっか、はは、そういえばそうだったな、さっきまでこうして話してたんだった。そかそか……」
もう、日が暮れかけていた。風が少し冷たく感じたが、それも快かった。
隣に、汐海がいる。それが何よりの幸せだった。
「よかったあ」
「なにが?」
「汐海がいてくれて」
汐海は満足げに笑みをこぼした。
「ねえ奈津」
「んーどうした?」
「もし、私がいなくなったら……」
急に世界が凍りついたように寒くなり、視界が真っ暗になった。
どうやら僕は、目を瞑っているみたいだ。
ゆっくりと目を開いていく。
空が、青かった。冷え切った空気が、肌にひりつく。
「夢……か。そうか、そうだよな」
河川敷の草木に身を隠したまま、僕は丸くなって眠りに落ちていた。木の葉を伝って、冷たい水滴が僕の頬へしたたり落ちる。全身を、言わんともしがたい虚脱感が覆い尽くしていた。昨日までは一片の疲労も感じなかったのに、今は……指一本動かすのも億劫だ。
――人を殺した。
その事実がただ重くのしかかる。
昨日の自分は、本当に自分だったのか、思い出すだけで、カタカタと震えが止まらなかった。どうしてあんなことができたのか、自分でも理解ができなかった。僕は吐いた。思い出せば出すほど吐気が止まらなかった。内臓ごと吐き出してしまいたかった。血はぬぐったけれど、臭いは落ちない。
冷静になると、おぞましいほどの恐怖が全身を包み込む。あまりの恐怖に、歪んだ自分の精神を保つため、気がつくと、あらゆる理屈を振り絞って自らを正当化させようとしている自分がいた。頭が割れるように痛く、今にもおかしくなってしまいそうだった。いや、いっそおかしくなってしまった方が楽だった。人殺し。人間社会の敵。そして、世間の人々に死を望まれる凶悪な犯罪者。クラスメイトも、昔の友達も、僕の関わってきた人たちはみんな、僕を恐怖し、嫌悪感を抱くだろう。それを自分で認めることは、拷問に近かった。
どんな理由があろうとも人殺しは赦されない、赦されてはいけない。どんな人間であれ、その人が死ねば、必ず悲しむ人がいる。家族を失う気持ちは痛いほどわかっていた。それなのに、僕は、人の命を奪った。この手で、最も無残な形で……。自分は彼らと何も変わらない、決して赦されてはいけない存在なのだと、悲鳴を上げて軋む心に、僕はそれを刻みつけた。
僕は身を起こして、涼しげに流れる川のそばまで身を寄せた。バシャバシャと乱暴に顔を洗い、水面を見る。そこには一人の男が映っていた。男の肌は薄汚れていて、頬はこけ、隈がこびりつき、いかにも犯罪者というような顔つきをしていた。水が冷たい。変な違和感を残した僕の手は、もうまるで他人のもののように思えた。川に入れた手がその冷たさに指先から赤く染まっていく。血の色に似ていると思った。
「あの時、汐海はなんて言おうとしたんだろう……」
僕は、ポケットから黄色いリボンを取り出して、夢の中の汐海のことを思い浮かべた。考えなくても、汐海が復讐なんて望んでいないことくらいわかっていた。汐海のせいにして自分のしていることを正当化するつもりは初めからなかった。もし、汐海が生きていたらこんなことは望まないだろう。でも、汐海はもういない、もう、二度と会えない。
復讐をつづけるということは、僕は本当は汐海のことを大切に思ってはいないのかもしれないと、そう考えるのがなにより怖かった。心の中で、誰かがずっと叫んでいる。もう嫌だと。苦しい、逃げ出したいと。
それでも、もう止まることなどできなかった。黄色いリボンを手首に結わえると、僕は立ち上がって、歩きだした。
僕はもう帰れない。あの頃には、二度と帰れない。歩道を歩きながら、公園でじゃれる子供たちが、ひどくうらやましく思えた。
汐海を笑顔にするためなら、汐海を守るためなら、僕は何だってできた。自分の腕を噛んだ。火傷のような痛みとともに、彼らと同じ赤黒い血が流れ出た。生きてるんだって、そう思うだけで、涙がこぼれそうになった。
もう一度、君がこの世界を見られるのなら、僕のこの眼を差し出そう。もう一度、君がこの町を歩けるのなら、僕のこの足を差し出そう。もう一度、君の笑顔が見られるのなら、僕はもう他には何もいらない。もう二度と、君の声が聞けないのなら、僕はもう――。




