出会い
雨が降っていた。吹き抜ける風が駅前の街路樹を揺らし、静かに、何千、何万もの白い線が僕の視界を遮っていた。乗り換えもなく二〇分に一本しか電車のこない青石駅では、下校中の学生が他愛のない世間話をしながら目の前を通り過ぎていく。秋が近づいているからか、まだ午後の四時半だというのに、空はもう朱く染まりかけていた。
「うひゃあ、降ってきちゃったよ。傘、持ってきていないよなあ」
僕こと、高橋奈津は、この大雨のせいで、青石駅の構内から出ることができずにいた。入れた覚えのない折り畳み式の傘を探して、手探りでバッグをあさってみるが、ないことを確かめると、ため息を吐いて肩を落とした。
「制服、濡らしたら大変だよな。明日も学校だし、クリーニングに出すにもお金かかるし」
どうしたものかと頭を抱えた後、ついに意を決し、雨の中に飛び込むことにした。
「ええい、悩んでいたって仕方ない。雨がもっとひどくなる前に走って帰ろう!」
僕は部活で使用しているウインドブレーカを制服の上に羽織ると、二、三回屈伸をして、えいやとばかりに少し投げやりになって雨の中に大きく一歩踏み出した。
次の瞬間、冷たい雨の雫が僕の額と肩を濡らす……はずなのだけれど……おかしい。僕はたしかに屋根の下から出たはずなのに、僕の体には雨の一雫も降りそそいではこなかった。
「入りますか?」
澄んだきれいな声に振り返ると、そこには優しく微笑む少女がいた。僕より、一つか二つくらい年下だろうか。頭上に目を向けると、二人が入るには少しばかり小さめの、ピンク色のかわいい傘が広がっていた。男の僕が入るには少し可愛すぎるデザインだったけれど、渡りに船とはこのことで、僕は喜んで彼女の傘に入れてもらうことにした。
「え、いいの?ありがとう!」
僕の少し間の抜けた返事に彼女は、クスッと表情をゆるませて、そして、コクンとうなずいた。
「こんなひどい雨の中走ったら、風邪ひいちゃいますよ」
車道脇の歩道を並んで歩きながら、少女はやさしく微笑んでそう言った。
「へっちゃらさ!丈夫だけが取り柄だからね!」
「あら、じゃあ入らなくても平気かしら」
少女が子どもをたしなめるようにそう言うと、
「ちょっと今日は調子がでないかなあ、なんて……」
と、僕はここで追い出されてもたまらないので、一本取られたという風に、アハハと笑ってごまかした。
少女はそんな僕が面白かったのかクスクス笑うと、自分より一五センチは高いであろう僕の頭が傘に埋もれないよう、右手に持った傘を少し高く持ち上げた。僕は、その傘をそのままそっと取り上げて、彼女が雨に濡れないよう、彼女の身体をすっぽりと傘に包んだ。
しかし、彼女は左にそれて僕と距離を取った。どうも、僕の右肩が傘からはみ出してしまうことが気になるようで、僕に場所を空けようとしたようだ。
「それじゃ、雨に濡れてしまうよ」
僕が左手に持っている傘を少女の方へ動かしながら言うと、
「そっちこそ肩がはみでちゃうよ」
と少女は不満そうに僕の肩を小さく指した。指された自分の肩を見たあと、彼女のふくれっ面を見ると、育ちの良い、とても心優しい子なのだと感じる。
「それじゃこうしよう!」
と、スッと少女の肩に傘を持った左腕をまわして、後ろから彼女を抱き寄せた。
「これなら、どっちも濡れないだろ」
「ちょっと、近い近い!」
少女は少し顔をそむけたが、顔が見えずともアハハと楽しそうに笑っているのがわかった。改めて少女の顔をのぞきこむと、これがハッとするほど端正な顔立ちをしていた。細身ながらも、僕の左手に触れる彼女の二の腕は同じ人間とは思えないほど柔らかい。風に靡いた彼女の髪が、フワッとと鼻先をかすめると、シャンプーだろうか、なんだかとても心地の良い香りがする。
そのまま並んで歩いてると、ふと僕と彼女の目が合った。僕は思わずドキッとしてしまい、それを悟られまいとサッと目をそらす。そして僕は巻きつけた腕を外し、一呼吸おいて冷静になったところで、少女に向き直って聞いた。
「えっと、いくつですか?」
まだ緊張がぬけきっていないのか、つい敬語で話しかけてしまい、僕は余計に恥ずかしくなった。
「一七ですよ」
少女は首を少し傾けて、僕の顔をのぞきこむようにして答えた。女の子らしい、やさしくて甘い声だった。
「じゃあ、僕の方が一つ年上だ」
「高三?」
「そうだよ」
「わたしも高三だよ」
少女は笑いながら、残念でしたとばかりにペロッと舌を出して、横目で僕を見上げた。
「そうだ、自己紹介がまだだったね。僕は奈津、青南高校の高橋奈津。きみは?」
何度経験しても、自己紹介はやはり恥ずかしい。でもこのとき僕は、我ながら自然に自己紹介ができたと思った。少女からも当然、笑顔で返事がくる。と思いきや、少女は僕のセリフを聞いた途端、かすかに眉をしかめ、何も応えないまま気まずそうに顔を背けてしまった。
突然の少女の変わりように、もしかしたら何か気に障ることでも言ってしまったのではないかと自分の発言を思い返してみたが、これといったものも思い浮かばなかった。僕は結局深く考えることもせず、そのまま少女と並んで川沿いの車道を歩きつづけた。
この町の駅周辺には一面の田んぼが広がっている。川を挟んだ反対側には大企業の下請け工場が立ち並んでおり、住宅地は工場地帯と田んぼを抜けた先に集中している。そのため、ほとんどの学生が駅から同じ方向に進むのだ。だから、僕たちもしばらくはお互いに道をたずねるようなことはしなかった。
僕は、この先のスーパーで降ろしてもらうことにした。歩きながら何度か話しかけようとは思ったのだけれど、少女は依然と気まずそうな表情をしているし、僕自身、だんだんと居たたまれない気持ちになってきたからだ。それに、初対面の女の子に家の前まで送ってもらうのも、少し恥ずかしかった。
僕がそう頼むと、少女は一瞬申し訳なさそうな表情をしたが、すぐにばつの悪そうな表情にもどり、そのままスーパーに向かってくれることになった。
「おかげさまで雨に濡れずにすんだよ。入れてくれてありがとう」
スーパーの軒下に出ると、僕はできるかぎりの笑顔でお礼を言った。そして、少し申し訳ないとも思った。僕が傘に入れてもらったばかりに、彼女に不快な思いをさせてしまったかもしれないからだ。
とにもかくにも、お礼を済ませると、僕は振り返って屋内に向かって歩きはじめた。いつまでもここにいては彼女も立ち去れないだろうと思ったからだ。
すると突然、背後から小さな声が聞こえた。
「……しおみ」
振り返ると、少女が恥ずかしそうにうつむいている。
「それって、きみの名前?」
あまりに突然だったので、キョトンとして僕はたずねた。
彼女は返事こそしなかったが、代わりに小さくコクンとうなずき、そのまま向きなおってトタトタと足早に去っていった。
「しおみちゃんっていうのかあ」
去っていく小さな背中を見届けながら、僕は一言、そうつぶやいた。
すぐに店内に入ろうと思ったけれど、彼女の立っていた場所に小さい何かが落ちているのを見つけた。僕は、歩み寄ってそれを手に取る。それは白いビーグル犬のキャラクターのストラップだった。雨水に濡れたビーグル犬は暢気に寝ていて、黄色いリボンを首に巻いていた。
「あの子の物……だよな」
雨や泥のせいか、少し薄汚れたそれを、僕は念のため拾っておくことにした。
この日、僕らは出会った。もしこの時出会わなければ、僕らの運命は、何か変わったのだろうか。誰とも変わらない、普通の人生が送れたのだろうか。