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風そよぐ丘

「しーおみ!」

汐海が振り向くと、彼女の頬に指が当たる。

「してやったり」

僕が笑うと、汐海もつられて少し笑ったかに見えたが、すぐに無表情になってしまった。

「しおみ?」

汐海は依然として無表情に、黙って歩きつづける。

「また、なにかあったの?」

僕は不安になって、機嫌をうかがうような声でたずねた。すると汐海は

「なんちゃって」

といってかわいい舌をペロッとだして、いたずら好きの少年のように笑った。

「なんだよー、うそかよ、あーもう、マジメンタルとんだー!」

「奈津くんってさ、弱いよね」

「え……僕が?」

「うん」

「よ、よわかないよ!」

僕は精一杯強がって見せた。好きな女の子に弱くみられるなんて男の名折れだ!

「よわい!」

「よわくない!」

「自分でいったんじゃん!僕メンタル弱いから僕にはやさしくしてって!」

「え……それは、えっと……そこだけ!そこだけ弱いの!」

「そこって?」

「君に冷たくされるところだけ!」

「なんでわたしに冷たくされるとこだけなの?」

「え、いや、なんでかなぁ……」

僕は困ったように頭をかいた。

汐海は時々そうやって遠まわしに僕に好きだと言わせようとする。でも、汐海のキラキラした瞳に見つめられると、恥ずかしくてとてもじゃないが口にすることなんてできなかった。

「そうだ、汐海、明日の帰りちょっと時間ある?」

「明日はバイト休みだけど……なんで?」

「見せたいものがあるんだ」

「なになに」

「それは行ってのお楽しみ!」

僕はニッと笑って汐海の頭にポンと手を置いた。汐海はちょっと残念そうに、小さく頬を膨らませていた。


「ねー、まだつかないの?」

 汐海は、もう疲れたというように眉をひそめた。

「もうすぐだよ、もうすぐ」

僕たちは三〇分かけて町のはずれにある山の中へ来ていた。

はじめこそ、整地された山道を歩いてきたのだが、ひたすら進むうちに徐々に道は荒れていき、しまいには草木を踏みならした程度の山道となった。僕が途中で進む方向を変えると、目の前は、自然の石垣に阻まれている。僕がそのまま乗り越えようとすると

「そっち、道ないよ」

と汐海が不安そうな声を漏らした。たしかに、女の子にはこれほどデコボコした山道は大変かもしれない。

「大丈夫、ほら」

僕が手を差し出すと、汐海はまだ不安そうながらも「うん」とうなずいてその手をつかんだ。

「離さないでよね」

「ああ、ぜったいに離さない」

僕は汐海の手を握って、汐海が足を滑らせないように、汐海が歩きやすいようにと、落ち葉の上を一歩一歩確実に踏みしめてゆく。悠々と自然に作り出された地形は一見すると人間の侵入を拒んでいるようでも、少し目を配ればところどころ突き出た岩や、浮き出た根を足掛かりに進んでいくことができた。

草木を踏み分け歩いていると突然、まばゆい光が、瞳にさしこんできた。

「ついたよ」

汐海は顔を上げると、小さな子供のように「わあ」と声を上げた。

僕たちは山の中腹にある丘の上に立っていた。

そこには、僕たちの暮らす、あかね町の街並みが広がっていた。静かにたたずむ青石駅。黄色や、紅色の煉瓦で造られたイタリア街を思わせる住宅街。瑞々しい梨が青々と実った果樹園。風そよぐ黄金色の稲穂に、緑をかき分け静かに流れゆく清流。そして、汐海を初めて抱きしめ、一緒に景色を眺めた堀之内橋。その一つひとつがオレンジ色の夕陽を浴びて、僕たちの見る世界を朱く染め上げていた。

汐海は、ただただ目の前の光景に目を輝かせていた。電線の上では、小さな秋鳥たちがパタパタと飛び交っている。

「すごい、すごいわ!こんなきれいな景色見たことない!」

「ほら汐海、この町が好きだっていってたろ。だから、ずっと見せてあげたかったんだ」

「……きれい」

汐海は感心したように一言、そうつぶやいた。

「小さい頃よくこの山にカブトムシを取りにきてさ、迷子になった時、ここを見つけたんだ。つらいことがあったときは、ここにきて景色を眺めているとさ、僕はなんてちっぽけなことを悩んでいたんだろうって、思えるんだよ。ここなら誰も来ないし、僕だけの秘密の場所だったんだ」

「奈津くんにもつらいこと、あったんだ」

汐海が少しにやけながら言う。僕は「まあね」と返して、草地に腰を下ろすと、汐海も僕の隣にちょこんと座り、一緒になって空を眺めていた。

本当は、両親を亡くして後、両親のいない家に帰るのが嫌で、さ迷い歩いていたときに、偶然見つけた場所だった。それ以来、僕は学校が終わると家には帰らず、ここに座ってこの景色を眺めていた。ここへは誰も来られないから、一人でいることが自然で、孤独でも辛くなかったんだ。ここは、大切な場所。僕一人しか来られない場所。僕の心の、一番、奥の部屋。そこに、僕は初めて人を招いた。僕にとって、何よりも大切な人がきてくれた。

「ごめんね」

 少し悲しそうな顔で、汐海は言った。

「……びっくりしたでしょ、わたしの机見たとき」

 汐海は僕を見ずにそう言った。

「なあ、汐海」

 汐海は呼ばれると、風になびくきれいな髪をかきわけながら、僕を見た。

「僕は、傘を忘れたあの日、今日はついてないなって思ったんだ」

 僕がそういうと、汐海が僕を見る。

「けれど、そのおかげで、汐海に出会うことができた。あの日、雨が降ってよかったなって、傘を忘れてよかったなって、心の底からそう思ったんだ」

僕は立ち上がって大空を仰ぎ見た。

「そう考えたら、汐海にはきっとこれから、山ほど幸せが待っているはずさ。少なくとも、もう二度と独りにはしないよ」

 僕がいうと、汐海は黙ってうなずいた。

空は透き通るように真っ青で、白い雲が綺麗な水玉模様を描き出していた。吹き抜ける風は、胸の中まですいてくれるようで、僕は目を閉じ、その風を一身に受け止める。


「―――好きだ」

「へぇ?」

汐海は不意を突かれたからか、不思議そうにやわらかい声を漏らして、僕を見た。

「僕、汐海のことが好きだ、今すぐにでも抱きしめたいくらい、大好きだ」

 汐海に伝えたい。誰よりも、君を想っている人が、ここにいることを。

「……いいよ」

 汐海はうつむいて、頬を朱く染めて言った。

「抱きしめても、いいよ」

汐海は、恥ずかしそうに上目づかいに僕を見る。そんな汐海がたまらなく可愛くて、僕はそっと、彼女を抱き寄せた。

「どこへだって一緒にいこう。僕が、君を守るよ」

「――うん」


胸まで焦がすようなあかね色の夕陽が、僕たちのシルエットを重ね合わせる。


――この日、僕たちは初めてのキスをした。


汐海と並んで草地に寝そべっていると、僕はいつの間にか、ウトウトとしてしまっていたようで、目を覚ました時には、すでに日がほとんど沈みかけていた。少し冷たい風が、僕の頬をなぜる。山を下りようと僕があたりを見回すと、町を見下ろすようにそびえ立っている、ひときわ大きな一本のケヤキの木に、汐海が枝をつかって何かを刻みこんでいる。

「なーに描いてんの」

僕は、しゃがみこんでいる汐海の後ろから声をかけた。

「みちゃだめー」

汐海は照れたように立ち上がって両手をつかい僕の視界をさえぎろうとしたけれど、僕は少し背伸びをして、小さい汐海の手の隙間から大木の幹をのぞきこんだ。


「あ……」


汐海のほんのりピンク色のくちびるが、愛らしくひきむすばれる。耳まで真っ赤にしてうつむく汐海を見て、僕はやさしく微笑んだ。

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