しあわせ
ある日の帰り、なんだか汐海の様子がいつもとは少し違った。何を言ってもほとんど返事がない。怒っているような、涙をこらえているような、それにいつもより、少し顔がむくんでいる気がした。
「どうしたの、なにかあった?」
「べつに」
僕が心配そうにたずねると、汐海は冷たくそう言い放った。
「ね、いつも一緒に帰るのは駅からでしょ、今度、クラスに迎えに行ってもいいかな?」
「それは絶対いや。クラスに来たら、嫌いになるよ」
「そっか……」
「約束だからね」
わかった、といってうなだれながら、ふと汐海のバッグみると、僕はある異変に気がついた。
「バッグにつけてたストラップ、どうしたの?」
「なくした」
汐海はわずらわしそうに一言、そうつぶやいた。
「一緒に探すよ、どこでなくしたか心当たりある?」
「いい。いらないから」
「いらないって……あんなに大事にしていたのに」
「もう先帰りなよ」
「心配なんだよ」
「心配なんかしなくていい!」
汐海は声を張り上げて、キッと僕を睨みつける。僕も彼女をまっすぐに見た。僕たちの鼻先が、その距離わずか数センチとも感じられるほどに近づくと、僕は、彼女の目から今にも涙がこぼれ落ちそうなことに気がついて、しまったと思った。
「わかった、じゃあ今日は先に帰るよ」
僕は、これ以上、汐海を追いつめたくなくて、今は汐海の言うとおりにしてあげようと、そう思った。
「……ごめん」
汐海は声を張り上げたことを後悔したのか悲しい表情をし、小さな声で謝った。
「いいよ、大丈夫」
僕がやさしくなだめるようにそう言うと、汐海はうつむいたまま僕の袖をつかむ。
「ちがう、冷たいこと言ってごめんね……一緒に帰ろ」
汐海は、消え入ってしまいそうなほど小さい声でそう言った。こんな汐海は初めてだった。どうにかしてあげたいけれど、こんな時に限ってふさわしい言葉が思い浮かばない。彼女の小さな背中は、ちょっと押したらすぐにも崩れてしまいそうなほど、かぼそく震えていた。
「そうだ!汐海、ちょっと手貸して」
僕はやさしく笑って、汐海の左手を取った。そしてポケットから黄色いリボンのアクセサリーを取り出して、すっと彼女の手首に結わえた。
「ほら、汐海って女の子なのにアクセサリーとか何もつけてないだろ」
汐海がリボンの結わえられた手首を不思議そうに眺めているので、僕は不安になってつづけた。
「えと、ごめん、僕こういうのわからなくって、家庭科の塚本先生に教えてもらいながら作ったんだけど……今度ちゃんと、プレゼントするからさ」
僕は顔が熱くなるのを感じ、ぎごちなくそう言うと、汐海はフルフルと首を横に振った。
「ううん、これがいい」
その時、汐海の表情がふわっと笑顔に変わった。
その後、汐海は時折手首に結わえられたリボンを見ては、うれしそうにふふっと笑みをこぼした。このキラキラとかがやく瞳をみているだけで、自然と僕の胸はあたたかくなっていった。
「じゃ、また明日ね」
アパートの前に着くと、汐海は向きなおって楽しそうに笑いかけてくれた。
「あ、まって」
僕はもう、心を決めていた。心臓が、激しく胸を打つ。女の子に告白なんて、今まで一度もしたことがない。もし失敗したら、今までのように話してもらえないかもしれない。それでも、目の前にいる汐海がいとおしくてしょうがなかった。たとえ振られるとしても、自分の気持ちはもうごまかせない。この想いを、ハッキリと伝えておきたかった。
「あのさ、僕、汐海のこと」
「なあに?」
言うと決めたはずなのにいざとなると「すき」という二文字がなかなか言い出せなかった。いつもは強気の僕も、汐海に関することだけはどうしようもなく弱気になってしまう。汐海はちょこんと立って僕のことをジッと見つめていた。僕は汐海の目を見つめたまま、その二文字を言おうとしては立ちどまり、言おうとしては立ちどまりを繰り返していた。はたから見ればかなりマヌケな様だろう。
「もう、帰る!」
しびれを切らした汐海はクルッと振り返って、スタスタとドアの前まで歩いていってしまった。このままでは汐海が行ってしまう、いや、行かせちゃだめだ、伝えるんだ、自分の口で、言葉で!
「しおみ!」
汐海は、まさにドアを開く直前に呼び止められたので、ドアノブを握ったままコツンとおでこをドアにぶつけた。そしてその状態のまま、顔だけこちらに向け、困ったように笑って長くきれいな髪の隙間から可愛らしい笑顔をのぞかせる。
「もお、なに~」
その汐海の姿があまりにも可愛くて、僕は、バクンバクンになった自分の鼓動以外、もう何も聞こえなくなっていた。そして、ついにその言葉を口にする。
「す……」
―――ドサッ
その瞬間、上から何かが地面に落下した。ドタドタという足音が聞こえてくる。
「あらやだ!お布団が落ちちゃったわ!」
そういって二階から少し太めのおばさんが顔を出した。そして、僕たち二人に気づくと
「あら、ごめんなさい……若いわねえ」
オホホとでも言わんばかりに愛想笑いを振りまいて、おばさんはサッと布団を拾いに一階へ降りてくる。
「あー……またね」
「うん」
僕は疲れ切ったような笑みを浮かべ汐海に言うと、汐海もニコッとうなずいて家の中へ入っていった。またね、と言ったらうなずいてくれた、ただそれだけで、僕の胸の中は幸せな気持ちでいっぱいになった。
人は、過去を思いかえしてあの時は幸せだったと気づくのだという。でも僕はこの瞬間、たしかに幸せを感じていた。こんな時間がずっとつづくよう、心の底から願ったんだ。汐海の笑顔は、僕のすべてを癒してくれた。
ただ、この時僕は、胸に抱えた一抹の不安を拭いきれずにいた。




