オトナ童話「夢魔と令嬢」
「ようやく来てくれたのね」
ベッドの端に腰掛けて、彼女はそっと微笑んだ。
金髪のきれいな、妙齢の貴婦人。
「──約束どおり、きみを貰いにきたよ」
月あかりが蒼く照らす寝室。窓辺にたたずむ青年も、柔らかく微笑み返す。
「もう、きてくれないと思ってた」
「ぼくは約束を反故にはしないさ」
「だって。ずいぶん、前のことだもの」
不満げに唇を尖らせた彼女のそばへ、彼はすべるように歩み寄った。
「きみは、まだ子供だったね」
「ええ。わたしは十五になったばかりだった」
──その歳。彼女は移動中の馬車を武装した男たちに襲われ、誘拐された。
身代金を受け取っても、人質を返しはしない。
そのまま最後はよその国に人身売買──金髪の貴族の娘なんて、それはいい値が付く──までたくらむような極悪人どもだ。
だからもちろんその前に、自分たちで飽きるまで慰みものにするだろう。
暗くてかび臭い小屋の隅に押し込められた彼女は、待ち受ける絶望的な運命を察し、舌を噛んで死のうとも考えた。
けれど、一緒に拐われた四つ下の妹を残して、自分だけ現実から逃れることはできない。
もはや彼女には、神に祈ることしかできなかった。
──そこに、それは現れた。煙か幻のように忽然と。
「たすけてあげようか」
薄い唇が、甘い声で囁く。
若くて美しい青年の姿をした彼は、うずくまる彼女たちの傍らに屈んで、目線を合わせる。六人組の犯人たちは、中央のテーブルで賭け事に興じていて誰も気付かない。
「たすけて、ください」
天鵞絨の上衣の緩んだ襟もと、蒼白い首筋から鎖骨への艶めかしい線に、はしたないと思いつつも目が吸い寄せられる。
「さて、どうしよう」
わざとらしく迷う素振りを見せながら、美しい顔が吐息の掛かる距離まで近付いた。甘い花の匂いがした。
長いまつ毛の蔭にたたずむ双眸は紫水晶で、夜の海のように波うつ漆黒の髪の狭間から、尖った耳の先がちらりとのぞく。
人間ではない、かと言って神の使いでもない、きっとよくない存在だとわかった。だって美しすぎる。
それでも、すがるしかなかった。
「なんでもします。だから、妹だけでも、たすけて」
「本当に?」
「本当になんでもする。わたしのものなら、なんでもあげる」
「──そうじゃなく。本当に、妹だけでいいの?」
問い返された言葉に、彼女は目を見開く。
「……ぁ……」
その目尻から、想いと共に涙がひとすじ溢れた。
「わたしも……たすけて……ほしい……」
頬を流れるそれを彼は、白く細い指でぬぐい、鮮やかな紅色の舌で舐めとる。
「それでいい。自分が犠牲になるより、いっしょに助かったほうがいいに決まってる。欲は悪じゃない、友や味方になるものさ」
彼女の頭を優しくぽんぽんと叩いてから、彼はゆっくりと立ち上がり、踵を返した。そしていまだ賭け事に興じる男たちのほうに、視線を向ける。
「──欲に呑まれなければ、だけどね」
青年の呟く声が、不思議と今度は耳に届いたらしい。テーブルの男たちの視線が、一斉に集まる。
「うん……? なんだお前、どこから……」
「……兄貴……あいつの顔……」
「ああ。こいつは小娘どもよりよっぽど」
男たちの目が、金と色の欲に眩む。だから少女でさえ気付いた違和感──そいつが人間でない可能性を見落とした。彼らの命運は、そこで決した。
リーダー格の髭面が、椅子から立ち上がり進み出る。
「大人しく言う通りにすれば、痛い目を見ずに済むが……どうする、色男?」
腰からすらりと抜いたのは、凝った意匠の施された細身の直刀。そして真っすぐ隙のない構え。この男、どこぞの騎士崩れか。
「どうか、おかまいなく。ぼくはそちらの令嬢たちをエスコートしに来ただけで、きみたちに用は──」
青年の美声が言い終える前に、男の剣の切っ先が疾る。
尖端を目の前で寸止めし、脅かしてやろうという魂胆だ。
しかし青年は涼しげに微笑んだまま、瞬きひとつせず、なめらかに言葉を続ける。
「──ないのだけれど、どうしてもと言うならお相手しよう」
言い終えると、左手の中指と人差し指を立てて、目の前にぎらつく刃をスッと挟んだ。
「貴様、舐めると後悔するぞ」
冷たく低い声と共に、男の全身に殺意が満ちる。脅しではなく、腕の一本くらい斬り落としてやろうと剣を握る右腕に力を込めた。
「……!?」
しかし、動かない。細い二本の指で挟まれた剣は、そこからびくともしない。両手を使って、渾身の力で押し込んでも、まるで岩に突き刺さったかのよう。
「兄貴、いつまで遊んでるんだ?」
「ちがう……こいつ、おかしい……」
男が仲間に答えた瞬間、青年は剣を挟んだ指を、クイッと手前に軽く引いた。
不意を突かれて前のめりに倒れ込む男の屈強な体躯を、待ち受けていた青年は左腕だけで優しく抱きとめる。
「な……ッ……やめ……ろ……」
剣がゴトリと床に落ち、男は息を呑みながら、一拍置いて青年の両肩にしがみ付く。それからずり落ちるように、その場にくずおれた。
「!? てめえ、兄貴に何をした!」
色めき立ちあがる男たちが、手に手に武器を構える。
彼らの位置からは見えなかったけれど、反対側の姉妹はしっかりと目撃していた。青年の、男を抱きとめたのとは逆の右手が何やら蠢くとともに、男の表情が恍惚と蕩けていく様を──。
「おっと、きみたちは暫く目をつぶっておいで」
半分だけ振り向いた青年は、美しい横顔で乙女たちに告げる。
「まだ少し、はやいからね」
その隙を逃さず、男たちは五人一斉に襲い掛かっていた。ひとり迎える青年は、掲げた右手の五指を妖しく蠢かせて、艶やかに微笑む。
──男たち全員が無力化され、白目をむいて床に転がるまでに、さほどの時間は要らなかった。
「どきどきしたわ。あなたが──男のひと同士なのにあんなことして、あのあれが、あんなふうに」
十五のころを思い出し、彼女は瞳をきらきらさせている。
「おかしいな。あのときは目を閉じているよう、言いつけたはずだけど」
「だいじょうぶ。妹の目は、私がふさいでおいたから」
「──やれやれ、おませさんだ」
そう。そのときの美しい青年が、ぼくだ。なにひとつ変わらない見た目で、今ここにいる。
「やっと、あの日のお礼ができる」
妹の手を引いて小屋を出る前に彼女は、どんな対価を払えばいいのか、おずおずと問いかけてきたものだ。
なにせぼくのことを、悪魔や死神の類と思っていたからね。
だから彼女の耳元に、唇をすれすれに近づけ囁いた。
「きみがもう少し大人になったら──きみの寝処に、お礼を貰いにいくよ」
ぼくはインキュバス。人間が夢魔、あるいは淫魔と呼ぶモノ。
悪魔や死神の連中と違って、寿命だの魂だの大仰なものを奪いはしない。夢と現実を往来し、美しい姿と甘い言葉で人間を誘惑して、至上の快楽を供与する。
そのとき溢れた精命力を、引き換えに頂戴する。
──逢瀬を一夜の夢と愉しむか、欲に呑まれて堕するかは、人間次第。
奪うとすれば、心だけ。それが夢魔という存在だ。
ちなみに断っておくけれど、ぼくが自身を美しいと形容するのは自己愛じゃあない。
夢魔の姿は人間にとって美しいように出来ている。だから、正しく伝えるため仕方なくやっているのさ。
「あなたが、わたしの初恋だった」
「光栄だよ、とても」
「あなたの言葉をずっとおぼえてた。欲は悪じゃない、って」
「うん」
「だから、家のために嫁がされた公爵家でも、なにも我慢せず自分らしく生きられたの」
「ああ。知っているよ、きみのことはぜんぶ」
ベッドに腰掛けた彼女と向き合って、流れる金髪を指にからめる。
彼女が嫁いだ公爵は二十歳近く年上で、孤独と古書だけを愛する偏屈な男だった。
「うれしい。でもずるい。自分ばっかり、なんでもお見通しなのね」
そう、なんでも知っている。
きみの奔放さが、やがて公爵の凝り固まった孤独を融かしたこと。
それにつれ、きみの心にも情が芽生えていったことも──
だから、ぼくは。
「──それじゃあ、ぼくの知らないきみを見せて」
きみはうなずいて、ぼくの右手を掴んで引き寄せる。ベッドに倒れ込みながら。
雲が月を隠して、室内を優しい暗闇が包んだ。
そのなかで二つの影は絡み合い、やがてひとつに溶けていく……。
──翌日。
寝室は、すすり泣きで満ちている。
たくさんの親類縁者に囲まれて、ベッドに横たわる白髪の老婦人。
肺をわずらい痩せ細った両手は、もう上下しなくなった胸の中央で組み合わされていた。
「昨晩はずっと大雨だったから、朝まで誰も気が付かなくて……」
ハンカチで目頭を抑える女性は、婦人の長女にあたる。
その肩に後ろから優しく手を置くのは婦人の妹。別々の家に嫁いでからも、ずっと仲睦まじい姉妹だった。
「でもよく見て、おばあさまのお顔。昨日まで、あんなにお辛そうだったのに」
そのとき、ベッドの真横にはりついて押し黙っていた孫娘が、口を開いた。今年でちょうど十五歳──当時の祖母によく似てる。
「──なんだか、幸せな夢でも見ているよう」
窓の外。軒下にぶらさがっていた美しい毛並みの蝙蝠が、天鵞絨の羽を広げ曇天に飛びたっていった。
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