裏百花繚乱
オーデュボンの祈りの祈りにい憧れ、自分の経験を基本に書きたくなった。
裏百花繚乱
気が付いたら白い天井。右腕を見ると腕に針が刺さっていて点滴がつながっていた。左右を見ると、自分が病室のベッドの上にいる事が分かった。
「あぁ。またか。」
目を閉じて眠る事にした。
私の名前は百花礼奈。
大の酒好きで社会人だった。我が強くて上司と喧嘩すれば実家に帰り退職して、アルバイトで日銭を稼ぐばかりだった。ストレス発散の方法を飲酒以外に知らず、毎晩ウィスキーや9%のチューハイを6缶買ってその晩のうちに飲み干してしまう。γーGDPの値なんて成人女性の+100を超えていて脂肪肝と診断されている。まだ若いからいいだけであって、このままいったら確実に肝硬変だと複数の医者に脅されていた。そんな事構う事もなく、飲み続けて、友達と散々飲んだ後、コンビニで9%のチューハイを飲みながら帰宅していたら、意識がなくなり、今に至る。
翌朝、救急救命の先生と両親が来て私を見た。
「どお? 気分は?」
「記憶にございません。」
何回も経験したせいか、政治家の嫌な答弁の様に答えてやった。私こそ、ほっとけば朝になって、ふと起き上がって意識を取り戻すはずだろうに、誰かが倒れている私を見て救急車を呼んでこのざまらしい。しかも、実家の両親まで呼んで、もう70近い父親が怒りを悲しみが織り交ざった顔をして私の事を睨みつけていた。
「あのね。急性アルコール中毒で倒れて運ばれたのは覚えてる?」
「記憶にございません。」
「そうなんですよ。あのね? まだ若いからいいけど、膵臓や脾臓、肝臓、あらゆる消化器に多大なダメージを与える上に、脳細胞も1回の発作で何百万個も死んでしまう怖い事なんですよ? 今回はというか、ご両親に伺ったら、何回も数えきれないくらいやらかしてるって聞いたんだけど、そのどの段階で死んでいたのかもわからないんですよ? 内科的にもそうだし、急性アルコール中毒、詳しくは急性アルコール性てんかんっていうんだけど、道端じゃなくて道路に倒れこんだりしたら轢き殺されてもおかしくない怖い事なんだよ? わかる?」
私はムスッとして何も言わなかった。そんな事、今まで別の医者にも何度も言われている。今更お前に言われる筋合いはない。
「それでね? ご両親にも相談したんだけど、今後の為にもさ、精神科に入院したらどうだい? ここで根本的治療をするのもいいと思うよ?」
私は医者の言葉を無視した。嫌になったらすぐ辞める自分の性格を肯定するつもりはないが、その経緯を知らない人間に、自分の人格をとやかく言われたくなかったし、精神病院に入るなんて、今後の就職活動にも絶対支障が出る。嫌だ。
しばらくの沈黙に、医者も両親もあきらめたのか、大きなため息をついた。
「気持ちが決まらないなら、じっくり考えて。自分の体なんだから、しっかり養生しないとね。考えておいてね?」
医者が私から離れて、両親と何かを話している。何があったって、精神病院なんて行くもんか。そう決めていた。
その夜だった。
私はナースコールのボタンを押しまくった。
強烈な吐き気、うんこを漏らし、体中が熱く、だるかった。夜中にも関わらず駆けつけてくれた看護師は体温を測り、病衣からうんこを取り出し、「大丈夫ですかぁ?」と何度も声をかけた。意識が朦朧とするくらい気持ち悪い私は呼吸も荒く、首を横に振るだけだった。「ポカリと解熱剤飲みますか? お注射の方がいいかもしれないけど、当直の先生が判断しないといけないから!? わかる?」
私は何度も頷いた。看護師があてがってくれるビニール袋にゲロを吐きながら大汗をかいて呼吸を荒くしている。「あら! こっちも出ちゃった! いったんベッド変えよう!」とベテランの看護師が言う。私もわかっていた。失禁したんだ。遠のく意識の中、当直の先生がやってきて、ポカリスエットと解熱剤を飲ませて私はまた吐きたくなった。もう混沌とした状態の中、私は高熱と吐き気と腹痛で正常な判断力を失っていた。
「百花さーん? 百花さーん? 聞こえてますかー?」
私は何度も頷いた。
「もうね? ここの病院の治療だけじゃダメかも。入院してもらうか、他の専門病院に入院してもらうしかないと思うんだよね? どうかな?」
大汗をかいているのに止まらない強烈な寒気。手足の震えも止まらない。私はアル中でばれる度いつもこんな痙攣発作を起こしていた。正常な判断ができず、当直の医師の言葉に何度も頷いた。
「わかった。じゃーあー。専門の病院に紹介してあげるから、そこできっちり治してね? お酒の事。まだ若いのに、人生台無しになっちゃうよ?」
医師と看護師が処置をした後、強烈な寒気は1時間程で治り、汗も引いてきた。苦しみと自分への嫌悪感で悲しくなった。
翌朝、目が覚めると熱も寒気もなく、落ち着いていた。点滴はついたままで、私は眠る事を考えた。看護師が来て「朝食は食べられますか?」と聞いてきた。私は頷いた。反抗する気力もなくなっていた。しばらくして出てきた朝食は、おかゆと卵焼き。誰もが想像できるまずい病院食だった。だが、のっそりと上半身を起き上がらせ、ゆっくりと食べた。
不思議と大丈夫だったようで、時間をかけて完食した。片づけにきた看護師の女性が「あぁ。よかったですねぇ。食欲があって。あとで先生きますから待っててくださいねぇ。お父様とお母様もいらっしゃるとの事でしたので。」
私の気分は最低だった。父は教師だったせいか、何かにつけて説教する。そんな父が私は大嫌いだった。どうせ「それ見た事か」と説教を垂れるのだろう。これから精神病院にぶち込まれるのかと思うと更に嫌になる。その前に寝ておく事にした。
昼過ぎに、昨日の医師と両親が病室に入ってきた。
この時、私は気分は最低ながらも体調は戻り、意識もはっきりしていた。これから嫌な時間が始まると思うと、最低の中の最低な気分になった。
「百花さーん? お加減どうですか?」
「大丈夫です。退院させてください。」
「えーっと、その事なんですが。昨日の当直医からも聞きましたが、専門病院で治療された方がよいと聞いたところ納得してくれたとか。」
「嫌です。考えが変わりました。出してください。」
「でもねぇ、これ以上、こんな事が続くと体もですけど心の病にもなっちゃいますよ? ご両親もすごく心配なさってますし、少し時間はかかりますが、じっくりアルコールとの向き合い方を考える時間、必要だと思うんですよ。」
私は無視し続けた。案の定、想定内の事が起きた。口にも出したくないが、軽蔑している父が病室で大騒ぎをはじめ、私を専門の病院に入れと命令してきた。私は無視を続けた。どのくらい経っただろうか、父が黙る様になってから、さらに沈黙が続き、我慢強いだろう医師が口を開いた。
「入院、してみませんか?」
私はそっぽを向いて黙っていた。だが、右腕には点滴、胸には吸盤がついて心電図の様な、専門用語はわからないがバイタルというのだろうか。そんな器具がついていて、動けない自分が嫌になった。ちょうど、勤めていたバイト先の店長や先輩とも相性が悪かったしもういいやとやけっぱちになり、数分してから口を開いた。
「わかりました。お願いします。」
医師は安堵し、母は泣いて喜んだ。父は怒り心頭の中でも、うんうんと頷いた。
「では、紹介状を書きますね。安心してください。アルコール外来でも入院治療でも実績の高い良心的な病院ですから。」
そう言って医師と両親は病室を出て行った。
私は自分の情けなさも痛感したが、正直言って不安だった。
翌日、体調も安定し、食事もできるとの事で、退院となった。そもそも救急だったので長い間ベッドを占拠する事はできないらしいが、両親が紹介状をもって専門病院まで送ってくれるそうだ。
深沢メンタルホスピタルという所で、実家からも近い。院長の深沢武というのは地元では有名らしいが、私は精神病院の評判なんて知らない。とにかく、ぶっ倒れて運ばれた病院から深沢病院まで、両親の運転で向かった。運転しながら、また説教垂れる父の言葉を無視しながら、車窓からどの辺りか見当をつけていた。あわよくば脱走してやると思っていた。だが、彼氏もいない、実家に帰るわけにもいかない。どこにも行く当てはない。我慢するしかないのかと思うと、何度もため息が出た。
30分もしないうちに車が止まった。車窓から見える病院は4階建ての小奇麗な外観だった。車を降りて、無言のまま両親と一緒に受付に向かう。入院手続きの間、私は待ち受けで座って待っていた。周りを見ると、どう見ても普通の人間ばかりだった。一般的な病院と何ら変わりがない。てっきり、奇声を上げたり奇行をする人間の集まりかと思っていた。図書の所には絵本や新聞。その隣にはキッズスペースも設けられており、精神を病んだとは思えない子供達がきゃっきゃ遊んでいた。私は懐疑的に周囲を観察しながら自分の名前が呼ばれるのを待っていた。すると、母が私の隣に座った。
「礼奈ちゃん。ここの先生評判いいっていうから、短気起こしちゃだめよ?」
母は酒を飲むと短気を起こす父の連れ添いを何十年も続けてきた。私への愛情も含まれているのだろうが、尊敬できるところは、私と違って、余計な事を言わない事だった。
しばらく待っていると、父も待合の席に座り、私の名前が呼ばれるのを待っていた。どうやら、診察してから入院になるらしい。医者らしい回りくどいプロセスだと思った。紹介状があるんだからそのまま通せばいいのにと思った。
「百花さーん。百花礼奈さーん。1番診察室にどうぞー。」
私は渋々立ち上がり、両親もついてきた。これが一番嫌だった。
診察室に入ると、眼鏡をかけたひょろっとした男がいた。
「こんにちわー。おかけください。ご両親も、そちらのベッドでも椅子でも構いませんのでおかけください。」
私は第一印象からしてこの男が嫌いだった。喋り方。それでいて人をどこか馬鹿にしている様な印象だ。
「えーっと、アルてんでご入院されて、本格的な治療を受けると。間違いなかったでしょうか?」
「アルてん?」
「あぁ。アルコール性てんかん発作の事です。飲んでいる時とか、そうでない時でもいきなり卒倒してしまうてんかん発作ですね。」
「あぁ。はい。何度もやってます。」
「うんうん。わかりました。もう結論から言っちゃいますと、お酒をやめる以外に方法はありません。肝臓はもちろん、脾臓や膵臓に負担をかけますので。どの臓器も痛み出したらもう手遅れです。まだ29歳とお若いので症状が出ていない様ですが、健康とは言えません。それでですね、当院で目指していただきたいのは、アルコールを一切飲まなくても十全な生活ができる生活習慣を会得する。そういった事なんですね。」
「一切ですか?」
「はい。それ以外完治は不能です。ただ、アルコールが1滴でもダメというわけではなく、例えば、調味料のみりん、あれにもアルコールが入っていますし、断酒ではなく、減酒という道を選ぶ方もいます。それは百花さんのご意志で決めて頂きます。」
私は頭に来ていた。酒をやめるくらいなら死んだ方がましだ。そう思っていた。
「減酒じゃだめですか?」
「それは百花さんのご意志ですので減酒でも結構です。ただ、禁酒の方が簡単ですよ? ハードルが高いようで実は簡単なのは禁酒なんです。お酒の誘惑は百花さんがよくわかってらっしゃるでしょう?」
「そうですね。でも、禁酒するくらいならセックスするなっていわれた方がましです。」
沼池は視線を落としてため息をついた。
「お酒とセックスは一緒にしてはいけません。百花さんは手を出した事がないようですが、お酒とセックスに溺れる人は、ドラッグにも溺れる傾向にあります。合法でも違法でも。お酒だって合法ドラッグなんですよ。」
「アル中にならなければいいんでしょ?」
百花は冷たい目で沼池を見た。沼池は慣れたもので、静かな目で話し始めた。
「アルコール中毒というのは、厳密にはアルてんです。てんかん発作なんですよ。百花さんの場合はアルコール依存症です。アルコールなしには生活もままならない。立派な病気なんです。お仕事中に飲まれたりした事ないですか?」
百花は鋭い事をつかれて、言葉に詰まった。昔、アルバイト中に酒を飲んで店長に怒られ、帰らされた事がある。今の職場でも昼休みにこっそり飲んでいる。百花は煙草を吸わないから、喫煙者の匂いには敏感だ。休憩がてら吸ってきた奴の臭いはすぐにわかる。それと同じ様に、酒を飲んだら臭いといわれる。わかっていても、行動に異常がないならいいじゃないかと開き直っている。
「仕事はきっちりしてます。」
「そう言う事じゃないんですよ。」
沼池はズバッと百花を切り捨てた。
「お酒っていうのはプライベートではいくら飲んでも罪に問われません。ですが、社会に出て飲んでいると一気に信用を失います。煙草の方がまだましです。どちらも依存症ですが、アメリカやヨーロッパの様に嫌われる事は、日本ではありません。ニコチン依存症の患者さんも診ていますが、あなたと同じ様に罪の意識はない依存症です。海外では煙草の延長でドラッグに手を出す患者さんが多いです。何が言いたいかといえば、合法ドラッグであるお酒は、百花さんの社会的信用を失う結果になりますし、体も蝕みます。将来、旦那さんができて、妊娠したりしたらお酒は飲めませんよ? 煙草もダメです。お子さんに悪影響を及ぼす事が証明されていますからね。だから、将来の為にも、今のうちから、お酒をコントロール術を学んでいて損はないと思います。」
「しっかり仕事してればいいじゃん。」
沼池は頭をかいている。どう説明すればいいか悩んでいる様だった。
「そう言う事じゃないんですよ。お酒を飲む仕事もあります。ホストやホステスなんかね。そう言った仕事に就きたければ百花さんのお好きにどうぞ。ですが、そういった人達は必ずと言っていいほどあなたと同じ様に身を滅ぼしたり、意固地になってお酒を飲み続けます。そして、セックスとドラッグに溺れる人も多い。お酒っていうのはあなたが思っているよりも恐ろしいものなんですよ? 合法というだけで。」
百花は沼池が気に食わない。禁酒するくらいなら死んだ方がましだという気持ちは変わらない。沼池はそれを察したのだろうか。ため息をついて、診察書に目を落とした。
「ではこうしたらどうでしょうか。体験で結構です。入院してみて、現実を知ってください。百花さんと同じアルコール依存症で悩む患者さんの意見を聞いてからでも遅くないでしょう。」
百花は嫌な顔をした。沼池は半笑いで何度か頷いた。
「精神科というのはお酒の問題だけじゃないんです。先程も言った通り、ニコチン依存症の方もいれば、統合失調症、異常行動をする人達もいます。いろいろな人を見てから判断してもいいんじゃないですか? 百花さんは頭もいいみたいですし、冷静な判断ができるはずですよ。」
「アタシ、頭良くないですよ。先生が言った通り、何回もアル天でしたっけ? それで脳細胞を何億個ぶっ壊した事か。」
「それがわかっているだけでも優秀なんですよ。こうした一般的な会話もできない患者さんもいます。」
百花は不満だったが、沼池は書を進めていた。
「それでは体験入院という形にしましょうか。それでも飲みたければ私も諦めます。」
百花は渋々納得した。2週間の入院という事だった。本来は3か月との事だが、百花の不満げな表情で沼池は折れた。
「では、待合室でお待ちください。入院手続きを取りますから、ご両親、ご家族に説明しないといけませんし。安心してください。3か月の入院を強制することはしません。百花さんのご意志を尊重しますから。」
不承不承、百花は納得して病室を出た。病室を出てから、駆けつけた両親が入れ替わりで診察室に入っていった。百花礼奈は大きなため息をついて待合室で待った。
随分長い事を待って、両親が出てきた。礼奈の母親がやたら心配して「先生の言う事をちゃんと聞いてね? いい? 礼ちゃん。」と言ってきた。父親は黙っていた。礼奈は母親を受け流して、看護師の案内する先について行った。エレベーターで3階に上った。シーツと病衣を渡されて、個室に入れられた。普段着から病衣に着替えて、部屋を出た。看護師のおばさんについていくと、廊下で驚いた。
「あぁー!!」と叫びながら両手を振り回しながら廊下を走る小柄な男。
「ウマちゃん! 走んないの!」
案内してくれている看護師がぴしゃりと怒った。ウマちゃんと呼ばれた男は走り止まらず、廊下を行ったり来たりしている。看護師についていく間にまた衝撃があった。半裸の女が卒倒している。大丈夫かと心配したが、看護師は落ち着いていた。
「みーちゃん! 廊下で寝ないの!」
目はぐるっと宙を向いていて胸が見えている。
まだまだいた。向かいから異臭を放つ老婆が来た。病衣の足元から茶色いものが落ちている。看護師がため息をついた。
「加奈子さん! オムツ取り換えるからお部屋で待ってて!」
老婆はなぜかニコニコして看護師に頷いていた。
診察室ではまともな人ばかりだったのに、3階に来た途端、異常者ばかりだった。背後ではウマちゃんという男が走り回り、みーちゃんという半裸の女が廊下に転がり、加奈子さんという老婆がウンチを漏らしながらトイレに入っていく。
沼池が言っていた事が分かった。アルコール依存症でまだしっかりしている自分が分かった。異常者の集まりだった。
看護師に連れて行かれた部屋は4人部屋だった。私以外、みんなベッドで寝ていたり、テレビを見ている。女4人、一部屋に押し込められた。個室とは思っていなかったし、集団生活は慣れているが、さっき廊下で見た様な異常者だったらどうしようか不安だった。
「はい! 皆さん! 今日からこの部屋に入る百花礼奈さんです! 百花さん、自己紹介して。」
看護師の紹介に戸惑いながら、百花は頭を下げた。
「今日からお世話になります、百花礼奈と申します。よろしくお願いします。」
70代くらいだろうか、白髪の老婆がにっこりと「よろしくね。」といい、50代くらいのおばさんはじろっと見てから視線をそらして寝た。まだ若い20代か30代くらいの女性は「よろしくお願いします。」とだけ言って視線をそらした。3人とも、廊下で見た様な強烈なインパクトがある人間達ではなかった。百花礼奈は自分のベッドに座らされ、看護師から日常のルールを説明された。朝食、昼食、夕食、消灯時間、運動、トイレ。入った事は無いがまるで刑務所の様だった。スマホは取り上げられ、財布も看護師が管理する。自動販売機で自由に飲み物を買う事も出来ない。酒なんかもちろんない。煙草もだ。テレビカードというのが1000円で売っていて、1枚で10時間見られるらしい。旅行先のホテルの様だと思った。食堂にある小説や漫画は好きに読んでいいし、他の患者さんとの歓談もO.Kだという。初対面という事もあって、居場所がなく、ベッドで大人しく座っていた。70代の白髪の老婆がニコニコと近寄ってきてぺこりと頭を下げた。百花も頭を下げた。
「百花さん? よろしくね。私、金井。金井澄子っていうの。よろしくね。」
「いえ、私こそよろしくお願いします。」
「何歳? まだ若いわよね。」
「今年29です。」
「あら羨ましい。あやめちゃんよりは年上なのね。」
金井澄子がちらっと百花の向かいのベッドを見た。20代か30代くらいの若い女の子が百花を見た。数秒して、口を開いた。
「黒木あやめです。23です。アルコール依存症です。2か月目。」
百花はぺこりと頭を下げた。
「最後は、白井桃子ちゃんね。たしか55歳だったかしら。私たち皆アルコール依存症。無口な性格だけどいい人よ。いつも寝ているか、イヤホンでテレビを見ているの。バディって刑事ドラマが好きで、昼間はずっと無口にドラマを見ているわ。テレビカードが切れると、食堂に行って小説を読んだり漫画を読んだりしているの。孤独を好むのよ。」
白井さんがじろっと百花を見た。百花はぺこりと頭を下げた。白井は無言でテレビに振り返った。気難しい人だと思った。
「同部屋として歓迎するわ。困った事があったら誰にでも何でも聞いて頂戴?」
金井はニコニコと微笑んでいる。百花は恐縮するばかりだった。
何もする事がなく、緊張もあって、百花はずっと寝ていた。疲れたせいもあってかすぐに寝る事ができた。
ぽんぽんと叩かれて寝ぼけ眼で振り返った。
黒木あやめが百花を起こしていた。
「昼御飯ですよ。」
「あ、ごめんなさい。すっかり寝ちゃって。」
「いえ。この病院の慣習で、同室の人は一緒にご飯に行って、同じテーブルに座るんです。行きましょう。」
黒木あやめに連れられて食堂に行った。私達の席には金井さんと白井さんが既に座っていた。今日の昼食は中華丼だった。工場勤務だった私は基本的に大盛りばかり食わされていたが、病院ともなると栄養バランスとカロリーを気にするらしい。つつましい量だった。「いただきます。」と言って皆で食事をとる。ウマちゃんやみーちゃんは食卓に着かない。暴れたり廊下に寝転がったり。加奈子さんの方からは異臭がして、他の患者が看護師を呼んだ。また漏らしたのか。
百花の部屋の人間は大人しい方だった。金井澄子がきれいにご飯を食べている。白井さんも黒木さんも静かだ。食事の途中に奇声を上げたり、いきなり廊下に倒れこむみーちゃんは看護師も無視していた。慣れっこの様だ。
「百花さん。気にしないでいいです。あんなのは日常茶飯事ですから。」
黒木あやめが黒豆を食べながら視線を落としている。百花礼奈は静かに食事を続けた。
食事が終わる頃、おぼんを下げて配膳の列に並ぶ。百花は黒木あやめの後ろに並んでいた。眼下にみーちゃんが転がっている。看護師は何も言わない。食膳を下げた後、自室に戻る。白井さんはすぐにイヤホンを付けてテレビをつけた。お気に入りのTVドラマを見ていた。金井さんはお腹をさすってベッドに横になっていた。黒木あやめは寝転がってから数分して起き上がり、部屋を出て行った。トイレにでも行ったのだろうか。私は落ち着かなくて、部屋を出て食堂に向かった。おじさんやおばさんがトランプをしたり、歓談をしている。「あうりゅあれー!」と叫びながら廊下を走り回るウマちゃん。「ウマちゃん! 走んないの!」と看護師が怒り、別の看護師が両手に腰を当ててみーちゃんを見下ろしていた。
「みーちゃん! いつまで寝転がってるの! お部屋に戻りましょ!」
精神病院というのは本当に変わった人達の集まりだった。大暴れしたり、大ゲンカしたりはしないけど、普通の人達じゃなかった。百花は何だかいづらくなって、ウーロン茶を飼って1人席に座った。ため息をついてじっとテレビを見ていると、正面に1人の女性が座った。「失礼します。」そう言ってコーラを片手に黒木あやめが座った。百花礼奈は「どうも。」と緊張してウーロン茶をすすった。年下だけどここでは先輩だ。何を語ればいいのかわからない。会話の糸口がない。
数秒だろうか。沈黙が続いた。3口目くらいだろうか。黒木あやめがコーラに口をつけてから軽いげっぷをした。百花は何の会話をしたらいいのかわからないままだった。
「百花さんって、この病院初めてですか?」
突然の質問に百花は驚いた。ウーロン茶でぬれた口を拭いて、居住まいを正した。
「そんなにかしこまらないでください。年上なんですから。」
「いえ、黒木さんの方が先輩ですし、多少なりとも緊張します。」
「ううん。私なんて、緊張される資格すらないんです。看護師さんから聞きました。百花さんって、アルてんの緊急搬送からの入院なんですよね? 沼池先生とも対等にやり合ったとか。」
「いえ、やり合ったっていうか、その。言いたい事は言いましたけど。」
黒木あやめがコーラを飲みながらクスクス笑った。口元を抑えて百花礼奈を見ている。
「百花さんって有名人ですよ。看護師さん皆、百花さんの事知ってるって。沼池先生にいきなりかみついたアルてんの患者さんだって。」
百花は、そんなに悪名高いのかと心配になった。だが、黒木あやめは涼しげな顔でいる。
「私ね? 百花さんと違って、自分からこの病院に入ったんです。」
黒木あやめが何を言い出すのか、百花にはわからなかった。
「私、16歳から日本酒好きで。父の影響なんです。勉強が嫌いで中卒。アルバイトをして、稼いだ金は全て日本酒につぎ込んでいたんです。百花さんと同じで、アルてんで救急搬送されたのが16の夏。意識を取り戻した時は白い天井でした。
退院して、ドラッグには手を出さなかったんですけど、アルコール依存症になって、近くのスーパーで9%のアルコールを買ったり、お気に入りの日本酒だったり。酒浸りでした。バイト先で知り合った彼氏と一緒に飲んでセックスするばっかり。そんな汚れた青春を過ごしていました。」
いきなり重い話をしてくる黒木あやめに、百花礼奈は面食らった。
「そんな酒とセックスの日々。何回もアルてんで運ばれました。いつだったかな。数えきれないくらいアルてん起こして、私、妊娠している事に気づいたんです。医者からは、これからは禁酒する様にって。それでもやめられなくて、流産したんです。恥ずかしい話ですよね。いつ子供ができてもおかしくないのに酒がやめられないなんて。」
「いえ。気持ちはわかります。」
百花の答えに、黒木あやめは微笑んだ。
「父に大怒りを受けました。酒もタバコもやめろ。まっとうな人生を送れって。」
「それで。」
数秒してから、黒木あやめは顔を横に振った。
「男の方がドラッグに手を出して危険を感じ、別れを切り出しましたが、男が酒に酔って逆上し、多大な暴力を振るわれました。両親の元に戻ったんですが、父親にかなり嫌われていて勘当同然でわずかな日銭でアパート暮らしをしていましたが、すぐに金は尽き、警察に保護されました。保護施設で禁酒を諭され続けましたが、酒がやめられなくて、もう手に負えないと、強制入院させられました。」
「いつの事ですか?」
「そうですね。18くらいだったかな。私も当時、血気盛んで、保護観察官や病院の先生にキレまくってました。お酒も入っていましたし。朝から飲んでいないとやっていられない。そんな心境だったんです。」
黒木あやめがコーラを飲んで、またげっぷをした。百花は何も言えずウーロン茶を飲んだ。
「母からです。保護施設に面会に来たというから渋々会ったんですけど、会うなり大泣きして、封分間、私の前で泣いてました。私は何もできないでいました。」
壮絶な話。百花は黙って聞くしかできなかった。
「緊急入院でも何でも構わない。今すぐにでも、精神科で禁酒治療を受けてくれって。母は言いました。私は何度も断りましたが、母は何度も頭を下げて、お願いだからって。」
「それでどうしたんですか?」
数秒間、黒木あやめが百花礼奈を見つめ、コーラを飲んでため息をついた。
「1回目。この病院に入る事にしました。不本意だったし、看護師さん達にも迷惑を掛けました。その時は義務感。これが過ぎれば自由に戻れるって思った。その時の担当医は沼池先生だったんです。禁酒するつもりなんてない。やるとすれば減酒で。そういいました。沼池先生はそれで構わないといいました。それから3か月間、入院生活を続けました。」
「そうなんですか。でも、1回目とおっしゃいましたよね? 何回か入院を?」
「えぇ。 もう3回目。1回目は減酒。2回目も。減酒と言いました。でも、仕事場で飲んだり、朝起きて1本入れないと気分が悪かったり。社会人としてダメになっていく自分がいやになったんです。だから、そんな自分を今度は根本から変えようって、3度目の入院を決意しました。母は喜んで入院費を出してくれるといい、父も黙殺してくれました。今回の入院は私のけじめなんです。かなりお世話になった保護観察官が、深沢メンタルホスピタルを紹介してくれたこともあって3度目の正直って奴です。」
百花礼奈は言葉を失った。そんな事もあるかもしれない。
自分の感情と重なった。酒をやめたくはない。だが、沼池の言葉とも重なった。煙草よりも酒で失うものは大きい。黒木あやめの場合、彼氏も両親の信頼も社会的地位も失った。自分から3度目の入院を決意したのは生中な決心ではないだろう。彼女は黙っていた。
「黒木さん。ちょっとよろしいですか?」
黒木あやめがコーラを飲んでから「何でしょう?」と聞いた。
「何故、私にそんな話を? 看護師さんから聞いています。院内の集会とか、外部の例会でも、こういう話は聞けると。このタイミングでなぜ?」
百花の問いに、黒木あやめがコーラを飲んで、「ふふ。」と微笑んだ。
「なんででしょうね。なんか、百花さんには私の事を知っていてもらいたかったんです。ほら、強情な所とか似ているかなって思ったし。そんな感じ。」
黒木あやめがコーラを飲んで、すごくかわいい表情で席を立った。
「また部屋で会いましょう。」
笑顔で立ち去り、コーラの秋コップをごみ箱に捨てて黒木あやめが百花の視界から去った。
百花はウーロン茶を口につけて「はぁ。」とため息をついた。
百花礼奈が部屋に戻ると部屋には3人がいた。まだ午後3時。夕飯には時間がある。
時間を持て余した百花は廊下を歩く事にした。3階は外に出る事ができない。運動といえば廊下を歩く事。他の暇つぶしと言えば、食堂で小説か漫画を読むことくらいだ。あまり文字に親しみがない百花にとって、小説は苦手だが、無いよりはましだと思って気になった小説を取ってみた。「オーデュポンの祈り」という小説だった。何かノスタルジックな展開なのだろうかとめくっている。書き出しは何の変哲もない男だった。それが知らない島に行く事になり、熊みたいな漁師と、犬みたいな案内人、そして殺しを許された詩を読む男と、地面の音を聞く少女、凶悪な警官、嘘しか言わない芸術家、フーゴという未来を予測できるかかし、魅力的なキャラクターに魅了されて文字が苦手な百花でも読み進む事ができた。ラストシーンは主人公の彼女も相まって音楽をテーマにしたきれいなラストシーンに仕上がっていて、楽しく読み終わる事ができた。素人ながら一筆書いてみたいと思う程感動を受けた。実は、子供の頃から剣と魔法のアニメにはまっていて、稚拙な文章を書いた事もある。文章化する勇気もないまま、大学時代を過ごし、就職し、アルコール依存症になってこの体たらくだが、もう一度チャレンジしてみたいと思った。
「あら。百花さん。その作家さん好きなの?」
かなり気さくに話しかけてくれる看護師さんだった。洗いたてのタオルを抱えている。
「えぇ。初めて読みましたけど面白いですね。」
「アタシも好きなんだぁ! 最後の最後で意外な展開があるよね! 大好き!」
看護師さんの名前は、長谷川さんという。40代くらいだろうか。素敵な笑顔で去っていった。さっぱりしていて好感が持てる。
廊下で奇声が上がった。長谷川さんがタオルをテーブルに置いて奇声の下に駆けつける。
「みーちゃん! また寝っ転がって! あとウマちゃん! 走んないの!」
まだ数日だが、慣れっこになりつつある日常を見ていた。
「あら。百花さん。本好きなの?」
声をかけてきたのは金井澄子だった。百花がいる部屋ではボスみたいな存在だ。自然と緊張した。黒木あやめの比ではない。それを見越したのか、金井澄子はニコニコと百花の正面に座る。数秒だっただろうか。緊張でこわばっている百花を目にした金井澄子は、ゆっくりと立ち上がり、自動販売機でお茶を2本買った。1本を百花礼奈に差し出し、百花は小銭入れを取り出した。
「いいのよ。気を使わないで。」
金井澄子はニコニコしている。百花礼奈は恐れ多くて「いただきます。」と言ってお茶を受け取った。ふたを開け、1口付けてテーブルに置いた。
「お邪魔だったかしら。本を楽しんでいたなら。」
「いえ! 私、本来活字は苦手なんです。漫画は好きですけど、すぐ読んじゃうし、テレビカードって、無尽蔵に買っちゃいそうだから、ケチって、つい。」
金井澄子がきょとんとして、数秒してから笑った。
「そうなの? 白井さんみたいな大富豪だったらテレビ三昧かもしれないけど。百花さんって意外と庶民派なのね。」
「いえ、両親に借金してここにいる身分ですので。贅沢なんてとんでもないです。」
金井澄子がクスクス笑う。
「ふーん。そうなんだ。アタシもあやめちゃんと同じで聞きたい事があったの。」
百花は呆気に取られた。あやめちゃん? 黒木あやめの事か? 聞きたい事? なんだ。
「えっとね? あやめちゃんが聞きたかった事とも被るかもしれないけど、百花さんって禁酒派? 減酒派?」
金井澄子がじっと見てくる。沼井先生に見られている様な威圧感を感じる。
「今のところ、減酒です。」
「ふ~ん。そうなんだ。」
特段、金井澄子に怒りも諦めもない。ただ、そうなんだと思っているだけに見えた。
「あやめちゃんから、何か聞いた?」
「え? あぁ、はい。2度、減酒に失敗して、3度目の入院だとか。沼池先生からも、減酒の道は厳しいと聞かされました。」
「ふ~ん。そうなんだ。」
親指で顎を撫でる様にして、金井澄子は数秒間考えた。その間が百花礼奈には苦痛だった。
「あやめちゃんって。本当に優しいね。」
百花は、金井澄子が何を言っているのかわからなかった。だいぶきょとんとしていると、金井澄子がクスクスと笑った。
「あやめちゃん、何度もお酒で失敗してるの。私もそうなんだけど、まだ若い分、あやめちゃんの苦労は計り知れないわ。私みたいな老い先短い老人とは違うもの。」
「いえ。そんな事は。」
「あやめちゃんの昔話と比べてもらったら恥ずかしいんだけど、私の昔話も聞いてもらえるかしら? お時間あればだけど。」
百花は頷いた。
「私はね、アルコール依存症になってこの病院に入ったの。入院は5回目になるわ。1回目の百花さんからしたらどんだけバカなのかと思うでしょ?」
百花は首を横に振った。
「好きで結婚した人がすごいアルコール依存でね。毎日、焼酎や日本酒を飲んで、私の頭を掴んで両頬をはたいたり、お腹を蹴飛ばしたり、酷い暴力夫だったのよ。その腹いせもあって、ストレス発散の為に私もアルコールに頼ったの。2人の子供がいて、それなりに幸せだったんだけど、夫の暴力がひどくてね。子供を守るのに精一杯だった。精一杯、守ったつもりだったんだけど、子供達は夫だけじゃなくて私の事も軽蔑してね。とてもつらかったわ。2人とも早くに独立して、夫は私に辛く当たる様になった。怒りのはけ口がなかったんでしょうね。でもね。子供2人に孫ができたの。私ももちろん愛したわ。私以上に夫は孫を溺愛したの。バカじゃないのかと思うくらい孫に貢いで、子供と孫の言うことは何でも聞いてあげる。私には辛く当たる。私が弱かったんでしょうね。お酒におぼれたの。どんどん私に辛く当たる夫に私が我慢できなくなったの。それで、毎日、朝からウィスキーを飲むようになって、酒臭い私を夫も、子供や孫達も避ける様になったの。」
金井澄子の悲しい表情に百花は何も言えなかった。黒木あやめの話は若気の至りと言えるが、金井澄子の話は重さがまるで違った。
「自分からアルコール依存症を直そうと思った。でも、何度も繰り返すの。今回で5回目の入院。正直、今でも飲みたいわ。あの夫との生活に酒は必要。そうじゃなかったら、子供と孫の笑顔が欲しい。そうじゃなかったら辛すぎて無理よ。」
「そうなんですか。心中お察しします。」
金井澄子が首を振った。
「いいえ。百花さんに言われる事じゃないわ。私が弱いだけだもの。」
「旦那様とはまだご良縁で?」
「ううん。離婚した。もう何十年前になるかしら。」
百花は驚いて言葉も出なかった。金井は微笑んで話を続けた。
「その頃ね。私妊娠してたの。ただ、もうこの男の子供なんてどうでもいいって、そう思って、欲望のまままにウィスキーを飲んだくれてた。流産して、大喧嘩になった。夫は私を人殺しだって罵って、私はアンタのせいでしょって。その光景を見ていた子供達はいい加減頭に来たのか、こんな家出てってやるって。夫は頭に来たみたいで即離婚だって。親権はお前に絶対渡さないって。徹底抗戦したけど、私が負けたわ。それでこのざまよ。」
金井澄子はあきらめた様に手を振って、百花はその人生の深さにぐうの音も出なかった。金井澄子は大きく笑い出した。
「笑っちゃうわよね。そこからは転落人生。親権は夫。私は離婚した惨めな女。老いさらばえてこんな牢獄で生きている。子供や孫に会う事すら許されない。もう、持病との闘い。余命いくばくもない。残念な老人よ。」
百花礼奈は絶句した。
数分程黙っていた金井澄子に、やっと声をかける事ができた。
「私が言える事じゃないですけど、まだまだこれからじゃないですか。ここでやり直して、お子さんにも、お孫さんにも会えると思いますよ。」
「こんな情けないおばあさんに会ってくれるかしら。」
「世界でたった1人のおばあ様じゃないですか。やり直したら、きっとあってくれますよ。私も話していいですか?」
金井澄子は「どうぞ。」とにっこり笑った。
「私、黒木あやめさんに少し話しましたけど、アルてんで何回も運ばれてるんです。飲み過ぎた時の理由は様々です。ついつい好きなお酒に手が出ちゃうときもあれば、仕事がうまくいかなくて飲み過ぎる事もあるし、彼氏と別れた時なんかも。皆酒に逃げてたんです。そういう意味では、私は金井さんのことをどうこう言う筋合いなんてないんです。でも、母は言ってました。毎回怒ってましたけど、ここに来る時、しっかり治して戻ってらっしゃい。いつまでも待ってるから。焦らないでって。」
視線を落とした百花に金井は優しく微笑んだ。
「優しいお母様なのね。」
「いえ。子供の時から教育ママで、厳しく育てられました。私がお酒を覚えてからもいつもお説教で。それでも、家族なんだからって、待ってくれてるんです。一度喧嘩したことがありました。私が大酒を飲んで、母から説教された時です。」
「あらまぁ。お母様はなんて?」
「思いっきりビンたされました。私も反抗して殴り返してやろうと思ったんです。でも、母が怒り心頭なのに静かに泣いていたんです。馬鹿に付ける薬はない。もういい年なんだから、自分の事は自分で考えなさいって。私、何も言い返せなかったんです。ただ涙を流して怒って部屋を出て行く母が、去り際に言ったんです。あなたは私の娘なんだから。いつでも帰ってきなさい。私は待っているって。」
金井はじっと黙った。百花も何も言えずにいた。数分経った頃だろうか。百花が口を開いた。金井は静かに百花を見据えていた。
「家族って良くも悪くも選べないと思うんです。私、両親にひどい事言いました。親から先に、親は子供を選べないんだ!っていわれて、お酒が入っていたせいもあって私がテーブルを叩いて反論したんです。アンタ達が勝手に作っておいて何言ってるのよって。親が子供を選べないんじゃない。親は勝手に子供を作って自由に育てる事ができるけど、子供はそれができない。私が生まれる前に、アナタ達の子供として産んでくださいっていう依頼書でもあったら出してみろ。そうしたらアンタらあの言い分を聞いてやるって。そう言ったんです。」
「ご両親には厳しい言葉かもしれないけど、百花さんの言っている事の方が正しいわね。突き詰めればたどり着く現実論よ。」
「私は自信をもってそういいました。両親は黙って何も言い返してきませんでしたけど、私が論理的に勝ち誇って缶ビールを飲んだ時、母は激怒して私の手から缶ビールを奪い取りました。あの時の母の鬼の形相には驚きました。怒り心頭で、数秒黙ったあと、やめなさい。とだけ言って、缶ビールを台所に持って行って捨てたんです。台所から帰ってきた母が私を見て言いました。ごめんなさい。あなたの言う通りだわ。でも、親子なのよ。私のことは愛してくれなくて構わない。でも、お父さんや家族は嫌いにならないで。そして、自棄にならないで。私はそのためなら何でもするから。そういいました。」
「やっぱり、優しいお母様ね。」
「大事な事は家族の絆だけじゃないんだって。私達がアタシの事を思ってくれている事を理解してと、母は言ってました。それが一番大事。だから、金井さんだって、お子さんやお孫さんの事を思っているなら、それが一番尊い事だと思うんです。お酒の失敗や元旦那さんとの不仲よりも、ご家族への思いがある限り、いつでも会いに行って、抱きしめる資格はあるんじゃないですか。誰もそれに文句言えませんよ。」
金井は封分間黙った。何か、涙をこらえているようにも見えた。百花も黙った。しばらく2人の間に沈黙が続いた。
「ふふ。やっぱり私は情けないわね。娘くらいの百花さんに立派な説教されちゃって。年ばっかり取って、学がない。情けないったらありゃしないわ。」
「いえ! そんな事は! 私の方こそ、若輩のクソガキが偉そうにすみませんでした。」
「ううん。気にしないで。本来はミーティングでこういう話をするんでしょうけど、ここで百花さんにお話を伺えてよかったわ。元気づけられちゃった。ほら、ミーティングの場だといろんな人が同じ話をして、聞こえのいい事しか言わないから、話し合った気にならないの。それぞれの人生を垣間見る事はできるんだけどね。丁度今晩、夕食後にあるから、百花さんも体験して。」
金井澄子が席を立ち、ぺこりと頭を下げた。
「あやめちゃんも、きっと百花さんの不思議な魅力を感じ取ったんじゃないかしら。普段クールで、マイペースなんだけど、個人的に接触する事なんてほとんどないから。とても優しくていい子よ。」
「はい。黒木さんとも話しましたけど、結構、壮絶な人生を送ってきて、私なんかよりも数倍はつらい経験してきた人だと思います。」
「ふふ。そうね。3度目だったかしら。あやめちゃん。5度目の私が言えた義理じゃないけど、退院する時は皆いうの。ここでは2度と会わないでいましょうって。それなのに、あやめちゃんも桃子ちゃんも何回も会っちゃってる。百花さんとはそうならないように願っているわ。」
金井澄子がにっこり笑い、手をひらひらと振ってテーブルを去った。百花は立ち上がり、その後ろ姿を見切った後に、すとんと腰を掛けた。夕食まで時間がある。周りの患者さん達を横目に、何をするわけでもない。てきとうな漫画を取り出して、1人食堂の隅で読みふけっていた。
「ありゅりゅあれー!!」
「ウマちゃん! 走んないの! なんかいいったら覚えてくれるの!?」
看護師の長谷川さんがみーちゃんを部屋まで引きずりながら怒っていた。
夕食の時間になった。
百花は漫画を置いて、いったん部屋に帰る事にした。金井さん、白井さん、黒木さんがベッドでくつろいでいた。百花は黒木あやめと金井澄子とは話したが、白井桃子とは一言も口を聞いていない。かなりぶっきらぼうで無口な性格。夕食前の今でもテレビの刑事ドラマを見ている。金井さんと黒木さんの来歴を聞いた後だから、白井さんの来歴も気になった。食事の時にでも聞いてみようかと、百花は思った。
チャイムが鳴って、夕食の時間になった。病室の全員が立ち上がり、金井さんが「行きましょう。」と言って、百花もついて行った。
今日の夕食は定食で、名前が呼ばれる。受け取るとサバの味噌煮定食だった酒が欲しくなるメニューだが望みはかなわず、ほうじ茶をコップに入れて席に着いた。
「はーい皆! いただきますしましょう! いただきまーす!」
長谷川さんが合掌して頭を下げると、患者さん全員がそれにならった。みーちゃんは相変わらず食堂の前で半裸で寝転がっていた。それを相手にしていない看護師達。それが当たり前の光景になっていた。ウマちゃんは走りもせず、黙々と夕食を食べている。こういうときだけは大人しい。百花も夕食を食べていた。金井さんも黒木さんも黙々と食べている。百花が一番チラチラ見ていたのは白井桃子だった。無表情で黙々と食べ進む。何か会話の糸口がないかと考えながら箸を進める百花。いつも病室で見ている刑事ドラマの話でもすれば打開策になるだろうかと考えた。百花も知っているもう15年は続いている刑事ドラマだ。左遷された警視庁の窓際部署にいる主人公と、何代も取っては変わる相棒の刑事ドラマ。百花の母も好きでよく見ていた。売れていない俳優を使うキャスティングが特徴的だと百花は思っていた。だが、ここはフランクに、一般的な話題で切り込んでみようと思った。単純に、あのドラマが好きなのか? それで十分と判断した。
「あの、白井さん?」
白井桃子がぎろっと睨んでくる。百花は一瞬たじろいだ。あまりの眼光の鋭さに驚いたのだ。無口で偏屈とは知っていたがここまでとは思っていなかった。百花の行動は、百花自身もチャレンジングな事だとは自覚していたが、驚いたのは金井と黒木の箸が止まって百花を見ていた事だった。何かまずい事をしたのかと百花は思った。
「なに?」
白井桃子がぶっきらぼうに、鋭い視線で百花を見ながら聞いてくる。お吸い物を飲みながらぎらぎらと睨みつけている。
「白井さん、いつもあの刑事ドラマご覧になってますよね? 私の母も好きで一緒によく見ていたんです。第何シーズンからご覧なんですか?」
白井桃子は、じーっと百花を見ている。無言で、白米を食べ、お吸い物を飲み、視線はそらさない。百花はそこまで怒らせる事を言ったのだろうかと思った。
「あ、あぁ! あのドラマ面白いわよね。私も好きなの。私お金ないからあんまりテレビ見れなくて残念なんだけど。」
金井さんが白井桃子と百花の間を取り持つように話を合わせてきた。それでも、白井桃子は無言で百花を見続け、食事を進めている。百花は後悔した。白井桃子には取り付くしまもない。金井澄子や黒木あやめの様に順調に会話を進められるかと思っていたが、大きな見当違いだった。白井桃子はすさまじい偏屈な個人主義だ。黒木あやめもなかなかのものだと思ったが、その比ではない。百花は地雷を踏んだと後悔した。
「アンタ。誰だっけ。」
白井桃子がお吸い物を飲み切ってじっと百花を見てきた。
「あ、すいません。1回しか挨拶してなくて。私」
「んなこといちいち覚えてないよ。名前。」
百花は白井桃子に恐怖すら感じた。数秒経ってもぎらぎらとした視線で見てくる。
「百花礼奈です。よろしくお願いします。」
百花がぺこりと頭を下げると「ふん。」と鼻で笑い、白井桃子がサバの味噌煮を大口で食べ、ご飯をかっこんだ。その後は4人の食卓は無言が続いた。1番早く食べ終わったのは白井桃子だった。おぼんを持ち上げ、席を立った。「ご馳走様。」と言って、食膳車に食器をおさめ、自室に戻った。金井澄子がため息をつき、続いて黒木あやめもため息をついた。2人がアイコンタクトをして、黒木あやめが口を開いた。
「百花さん。白井さんはすごく気難しい人なの。一般人と思っちゃダメ。普通な会話なんてしてくれないの。アタシだって何回も入院して、通算1年近くは一緒にいるけど、数回しか話した事ないわ。アタシや金井さんと一緒に考えちゃだめよ。」
百花は黒木あやめに「ごめんなさい。」と頭を下げた。
「いいのよ。誰でも最初は白井さんにアタックして撃沈するの。あやめちゃんが言う通り、すごく気難しい人で、なんていうのかな? 昔の職人気質みたいなところがあるの。1回心を開いてくれたらフランクになるんだけど、元々の性格が無口で難しいの。」
百花は後悔した。そこまで気難しい人とは思っていなかった。「すみません。」とだけ言うと金井さんが「謝る事じゃないのよ。でも、白井さんは難しい人って、注意しておいてね。お願い。」と優しく言ってくれた。黒木あやめは無言でいた。その時間が百花にとっては辛い時間だった。
金井、黒木、百花も食事を終えて病室に戻ると、白井桃子はイヤホンをつけてまたドラマを見ている。白井以外の3人は無言でベッドに入る。百花は食事の時の事もあって、なんとなくいづらくなって、食堂で漫画か小説を読む事にした。オーデュボンの祈りと同じ作家の小説を見つけて、端っこに座り、大きなため息をついてページを開いた。読みやすい文章で20分位した頃だろうか、物語に感情移入した頃、声がかけられた。
「百花さん?」
百花が顔を上げると金井澄子がいた。百花は驚いて本を閉じ、居住まいを正した。
「そんな緊張しないで。気楽に話しましょう。」
そう言われても、夕食の時の百花の行動が話の原因である事は想像できた。
「あのね。白井さん。気難しい人だけど悪い人じゃないの。それはわかって頂戴?」
「はい。私が悪かったんです。」
「ううん。百花さんも悪くないの。きっとだけど、私やあやめちゃんが百花さんに気軽に接したから、その延長で白井さんにもッて思うの。むしろ悪いのは私達だわ。」
「いえ、全然そんな事ないです!」
身振り手振りで百花は否定したが、金井澄子の表情は少し沈んでいた。ため息をついて、重たい口を開いた。
「私もね? 白井さん苦手だったの。不愛想で無口で意地っ張りで、孤独を愛する。アルコール依存症の患者さんには多い傾向なんだって。向後さんっていう先輩の患者さんがいるんだけど、アルコール依存症の患者は孤独を求める。だから酒に走る。そこに癒しを求めるんだって。白井さんはその典型なのよ。自分以外の誰の事も信頼しない。アタシの事もきっとね。でも、昔の話をしてくれたことがあったの。」
百花はじっと金井澄子を見て、呼吸を整えた。金井は深呼吸して口を開いた。
「白井さんはね、4度目の入院なの。最初は百花さんと同じでアルテンからの緊急入院で、残り3回は救急搬送だったり、自分からだったり。今55歳だったかしら。結婚歴はないんだけど、結婚を誓った相手がいたんだって。その人に裏切られて、いわゆる浮気よね。それで男性不信になって、アルコール依存症になって、仕事も続かなかったんだって。孤独を好み、お酒に走る。その悪循環を断ち切りたいって今入院しているの。でも、孤独を好む癖はまだ解消されていないわ。白井さんにとっての根治は、孤独をやめる事だと思うんだけど、お酒をやめるのと同じかそれ以上に、孤独を拒絶する事は白井さんにとって厳しいの。だから、夕食の時、百花さんにもあんな態度をとったのよ。きっとね。」
「担当の先生はなんて?」
「白井さんの先生は院長先生よ。投薬治療してるけど、それはあくまで、てんかん発作を抑える薬と吐き気止め、胃腸薬。白井さん自身が孤独を解消する事に向き合わないから、ずっと加療中なの。」
「それじゃあ、白井さんはいつまでたっても。」
「えぇ。根治はしないでしょうね。百花さんと同じ様に私やあやめちゃんも話を聞こうとしたけど、全部無視されたわ。想像するに、その、結婚を決めた男性に裏切られた事が余程のショックだったんでしょうね。男性だけじゃない、女性も。人間不信になっちゃったのよ。だから、あんなに攻撃的で、排他的で、自分以外信じなくなっていくの。私やあやめちゃんもどうにかしたいんだけど、肝心な、白井さんの心の鍵が閉じたままだから。」
「そうだったんですか。そうとは知らずに、勝手に白井さんの心にズカズカ入るような真似をして、すみませんでした。」
「ううん。百花さんは悪くないのよ。ただ、ここにいる人って皆、何かしらの問題、闇を抱えているのよ。だって、百花さん? ウマちゃんとか、みーちゃん、加奈子さんの事を自分でどうにかできると思う?」
「いえ。」
百花は言葉に詰まった。
「この病院には、統合失調症の人もいれば、かたわの人もいる。ニコチン中毒の人もね。私達、アルコール依存症、ドラッグ中毒、私古い人間だから表現が古いかもしれないけど、ウマちゃんとかみーちゃんなんてセイハクでしょ? 加奈子さんは加齢によるものだろうけど、この病院で手に負えなくなったら老人ホームにさようならよ。」
百花はさらに何も言えなくなった。金井は大きなため息をついて口を開く。
「本心を言えばね? 白井さんには老人ホーム行なんてなってほしくない。でも、根治の要因である、孤独を愛する性格がそれを阻害しているの。私もあやめちゃんもあと数か月でここを退院する。白井さんも野に放たれるかもしれない。そしてまたここに帰ってくる。本当は、ここで2度と会う事なんてないのがいいの。でもできてないのが私達なの。百花さんは、体験入院なんでしょ? 3か月もいなくていいはずよ。私達の事なんて気にしないで、優しいお母様やお父様を悲しませないで。白井さんもきっとそれを望んでいる。きっととしか言えないけどね。」
金井澄子が大きなため息をついて死んだ様な目つきをした。
百花礼奈は、金井澄子の話を聞いて、かなりの間黙っていた。数分した頃だろうか。金井澄子が「じゃあ。」と言って席を立った。
金井澄子はあまりの衝撃に右を振り向いた。百花礼奈が金井澄子の右手首を握りしめていた。痛いと思うほどの強い力だった。金井澄子は何も言えず黙っていた。
「決めました。」
金井澄子は驚きを押し殺して、首を傾げた。
「なにを?」
「アタシ! 3か月いたってかまいません! 沼池先生にお願いします。両親にも言います。お金は後で返しますから! でも! 許せないんです! あなた達みたいに何度も同じ事を繰り返して、あきらめながら生きている事が! 白井さんもウマちゃんもみーちゃんも加奈子さんも全員救えるなんて思いません! でも! 同室のあなた達は絶対救います! 今私の中で決めました!」
金井澄子は数秒黙っていたが、ため息をついてから口を開いた。
「だから、それは」
「無理なんて言わせません! 沼池先生に止められたってアタシはやります! 院長先生でも! やります。」
金井澄子は大きなため息をついて、百花の肩を叩いて諭そうとした。
「あのね? 百花さん世の中にはできる事とできない事が」
「うっせぇ!うっせぇ!うっせぇわ! 私は思ってるよりも健康です!」
あまりの声量に金井澄子は驚いた。鬼気迫る表情の百花礼奈。何をどう発言したらいいかわからなくなった。当時流行りの曲の歌詞を連呼しただけの百花。それは理解していた金井澄子。数秒黙った。
「なんであきらめモードなんだよ! アンタ昨日かおとといもおんなじ様にあきらめてたよね! 人生70代かなんか知らないけど、あきらめたらそこで試合終了だよ! そんな姿お子さんとか孫にみせんなよ! そんなおばあちゃん見たらお孫さんもがっかりするよ! 酒に負けてんじゃないよ! 4回失敗してるんなら5回目で成功すればいいじゃんか! アタシはここを1回で終わらせて社会復帰して見せるさ! だから、アンタも、白井さんも、黒木さんももう2度とここに戻ってくるなよ! 向後さんの言う通りだぜ!」
金井澄子はきょとんとして、百花に返す言葉も無かった。
数秒して、金井澄子は大きなため息をついて口を開いた。
「うっせぇな、か。そんな事言われたの久しぶり。いいわ。白井さんも含めて、あなたに賭けてみようじゃない? サポートはするわ。」
金井澄子が左手を差し出した。百花礼奈ががっしりと握手をして涙した。
食堂から見えない廊下の隅で、人影があった。腕を組んでいて、大きなため息をついた。
「すごいわね。あんな意固地な金井さん黙らせた上に、白井さんまでどうにかするっていうの? 期待してるわ。百花さん。」
腕を組んだ黒木あやめが病室に戻っていった。
翌日、朝8時のラジオ体操が終わる。
金井さんが病室の人達を引き連れて食堂に向かう。朝食はコッペパン2つとマーマレードだったりマーガリンだという。小さな小鉢がついて、まさに軽食だ。白井さんは5分も経たずに食べ終えて席を離れた。金井さんと黒木さんはゆっくり咀嚼して時間を過ごしている。ウマちゃんはさっさと食べて変な絵をかいたり廊下を走り、長谷川さんに怒られ、みーちゃんは廊下に寝転がっている。もう、いつもの光景として受け入れる事にした。昼食まで時間がある。百花は白井さんを攻略する事から作戦を立てた。だが、取り付くしまがない。1時間くらい考えた。解決策は思いつかない。そこで、最後の手段に出た。
「あの、金井さん? ちょっとお時間よろしいですか?」
ベッドにいた金井さんは快諾して、食堂に2人で向かった。その様子を白井桃子は横目で見ていた。その様子を横目で見ていた黒木あやめがクスリと笑った。
食堂には何人か他の病室の患者もいる。
百花と金井はあるテーブルに座り、居住まいを正した。
「何かしら?」
金井がどや顔で百花に聞いてくる。あれだけの啖呵を切ったんだ、簡単な泣き言じゃないでしょう? という気分だった。
「金井さん。早速の泣き言ですみません。」
腕をくみ直して金井がため息をつく。
「白井さんの元ご主人? そのあたりの話を聞いた状況を教えてください。」
「そお。白井さんの過去については百花さんに話したことがすべてよ? 白井さん、口下手なの。積極的に自分の事を話してくれる人じゃないのよ。」
「金井さんからも黒木さんからも聞いてます。だから、作戦を立ててみたんです。」
「どんな?」
頬杖をついて意地悪な笑顔で金井澄子は百花礼奈を見てくる。それに負けまいと、百花は深呼吸をしてから見返した。
「アイソレーションです。」
金井澄子はきょとんとして「愛想がなんだって?」と聞き返した。百花はもう一度深呼吸をして口を開いた。
「私なりに考えたんです。自分の殻に閉じこもって、孤独を愛する人をバールでシャッターをこじ開ける様な事をしても逆効果だろうって。それだったら、自分からこっちに来るように仕向けたらいいんじゃないかって。白井さんも、金井さんに話を聞いてほしくなったから自分の殻を破ったんじゃないかって思うんです。まだ私は、白井さんにとって他人。どうせすぐ出て行く人間としか思っていないでしょう。でも、私が金井さんや黒木さんと仲良くしていたら、自分だけ疎外されていると思う。そしてそれが嫌になる。そう仕向けるんです。そうして、白井さん本人から話しかけてくれるように仕向けるんです。」
金井澄子はきょとんとしているままだった。数分間黙って考えていた。百花は黙って待った。沈黙の後、金井澄子が口を開いた。
「私も、白井さんとは何回もこの病院で一緒にいた。ある時打ち明けてくれた。今思えば、百花さんの言う通りかもね。白井さん自身が自分の孤独に耐え切れなくなって、私に話しかけてきたのかも。最近の言葉だと、ツンデレっていうのかしら?」
「かもしれません。ですけど、私がガンガン追いつめて話を聞きだすよりは、金井さんや黒木さんと仲良くしていて、自分だけ蚊帳の外って思わせる方が、話を引き出せる気がするんです。一度引き出せばもうこっちのもんです。」
「かなりの策士だけど同時にギャンブラーね。言わなかったかしら? 先輩の卒業患者さんで向後さんっていう人が言ってた。アルコール依存症は孤独を愛する病気なんだって。アイソなんだっけ? そうやって阻害する事で孤独を助長する事にならないかしら?」
「実績があるじゃないですか。孤独に耐え切れなくなって、金井さんに自分の過去を吐露したんでしょう? ずっとベッドとテレビに向き合っているだけで満たされていないはずなんです。私はそこに賭けたいんです。」
また、金井はきょとんとした。数秒黙ってから、大笑いをした。百花が驚いた。
「あなた、社会人経験があるんでしょうけど、人事かなんかやってたの?」
「いえ。普通のOLでした。つまらない仕事が定時に終わると、同期とカラオケとかスナックに行って飲んだくれて。ホストクラブとかは苦手でした。ケバイお兄ちゃんとかクソガキとかみ合わない話をするのが嫌だったし、それに何万も払うのがばかばかしくて。」
金井はケラケラ笑った。百花はその真意がわからず首を傾げていた。
「そうなのね。わかったわ。あなたの計画にのるわ。他の意味でも楽しそう。是非、OL時代の武勇伝も聞かせて頂戴?」
「私程度でよければ、いいですけど。」
金井澄子がクスクス笑って席を立った。百花は肝心な事を言い忘れていた事に気づいた。
「金井さん!」
金井澄子が振り返る。百花は何をどう切り出したらいいかわからずに迷っていた。それを察したのか、金井はにっこり笑って口に人差し指を当てた。
「あやめちゃんにも根回ししておけばいいんでしょ? わかってるわよ。」
呆気に取られた百花を、微笑みで流し、金井が去った。
次の日から、百花は金井と黒木と積極的に話すようになった。白井桃子とは、積極的に話さない様にした。白井桃子もそれを苦にしている様子はなかった。さっさと食べて、部屋に戻ってテレビを見る。それを続けていた。金井澄子と黒木あやめもそれを知っていたから何も言わなかったが、かなりの博打なんじゃないか。それで白井さんが心を開いてくれるだろうかと内心ハラハラしていた。だが、百花礼奈は待った。アルコール依存症は孤独を愛する病気だという。だが、それに1回でも負けたんだ。白井桃子は。そこに賭けたい。そう思った。
金曜日に定例のミーティングがある。医師と看護師長、担当看護師が古臭い会議室に列席して、アルコール依存症の患者達を呼ぶ。そこで、自分がどんな経験をしてきたか、どんな酒歴があるのかを話すのだ。そこでは、先輩にあたる、退院した患者さん達も現れる。OB,OGとして助言をすると言う。百花は初めて参加する金曜ミーティングだった。多少の緊張もありながら、金井澄子が「緊張しないで大丈夫よ。」と声をかけてくれた。
看護師長と長谷川さんが入ってきて、少し遅れて沼池と院長先生が入ってきた。OB、OGもぞろぞろと入ってきて、ネームプレートを自分の前に置いた。百花は全員の名前を見た時気づいた。向後という男が座っていた。金井澄子が言っていた男だと直感した。
「えぇー。それでは金曜ミーティングを始めます。よろしくお願いします。」
病院側は全員、自己紹介をした。長谷川さんは看護師としてではなくケースワーカーとして参加するらしい。そんな資格も持っているのかと感心した。
「では、進行をどうぞ。」
院長先生がそういうと、金井さんがマイクを取って原稿を読み始めた。アルコール依存症の患者だけかもしれないが、金曜ミーティングでは、総務、書記、会計の役があるらしい。百花は入ったばかりなので役職はないが、総務は金井澄子、会計は白井桃子、書記は黒木あやめだという。書記の仕事が一番大変だという。一番若いのに大変な仕事を任されたものだと半ば感心していた。一連の現行の読み上げが終わり、院長先生が手を組んで小さな咳をした。沼池も長谷川さんも看護師長も黙っている。
「では、酒歴発表をお願いします。本日は初回という事もありますし、百花礼奈さんからお願いします。」
百花は、初回でいきなりかよと思ったが、多分、自己紹介も含めてだろうと思う事にした。
「すみません。ちゃんとした原稿など用意していないのですが。」
百花の隣に座っていた黒木あやめが肘をついた。
「いいんですよ。自分の酒歴、どんな飲み方をしてここに来たのか話すだけです。難しいことはありません。」
黒木あやめの言葉に頷いて、百花は、おもたい口を開いた。
「えっと。初めまして。百花礼奈と申します。29歳です。アルてん? って言うんですか? それで救急搬送されてここにお世話になる事になりました。正直言って、何回もやらかしてます。いまだに酒をやめるつもりはありません。タバコは吸いません。仕事中に飲めない時に吸うことはありますし、学生時代は興味本位で吸っていました。でも、ニコ中じゃないです。吸おうと思えば吸えるだけで。よろしくお願いします。」
ぺこりと頭を下げて、院長先生がにやにや笑っている。
「お酒はいつから?」
百花は数秒黙ってから、口を開いた。
「未成年の頃からです。大学のコンパで19歳の頃でしょうか。」
「それ以前には?」
「ありません。」
院長先生はうんうんと何度か頷いた。長谷川さんと看護師長は何か必死にメモを取っている。OB、OGの席にいる田中さんと斎藤さんという人はじっと百花を見ていた。百花にとっては嫌な目線で、チラリと左に視線を流した。そこには向後さんがいた。作業着の下半身とTシャツで、静かな目をしていた。
「ここに救急搬送された経緯、覚えている限りで話していただけませんか?」
百花は覚えている限りの事を院長に話した。記憶がない事、友達とべろべろになるまで飲んでいた事、何度も運ばれたが、今回ばかりは父親が許せない、根治するまで帰ってくるなと大怒りだったらしいといった。院長はうんうんとうなずいて黙っていた。
「私としては、禁酒してほしいのですが、百花さんはやめるつもりはないんですか? 酒は百薬の長、でも万病の元です。百害あって一利なし。そういうものなんですよ?」
百花は言葉を失った。院長先生が言うのだから従うのが筋だろう。だが、やめる気なんて毛頭なかった。沼池にも、禁酒するつもりはありません、あくまで減酒でと言っていたのだから。長谷川さんも看護師長もため息をついた。
数分間だろうか。じっと百花を見つめてくる院長。百花は何も答えなかった。そんな時だった。ある男の声がした。
「深沢院長。」
場の全員がその声に振り返った。沼池だった。
「主治医として、私は彼女の、百花さんの意思を尊重します。断酒、禁酒する方が簡単だと、私は説明しました。ですが、彼女は減酒を望むといったんです。彼女の意志を尊重する事も医療の根本として大事な事じゃないでしょうか?」
深沢院長は苦虫をかむような顔をしていた。だが、沼池は口を進めた。
「院長先生。私は主治医として、彼女の意志を尊重します。その反面、彼女がどんな悲惨な目にあったとしても責任を持ちません。彼女が泣きついてきたって、自分の選択でしょ? と切り捨てるつもりです。」
深沢院長は腕を組んで頭をかいた。
「私はそこまでの意志を持って、彼女の意志に敬意を表します。泣きつかれて助けてくれだなんていわないと思います。むしろ、そんな患者さんだったらこっちからお断りです。私は百花礼奈さんをそんな軽く見ていませんから。私なりにできる最大限の彼女に対する礼儀です。私の一任で、減酒としての治療を許していただけないでしょうか。」
かなりの深沢院長の沈黙があった。場は静まり返っていた。
そんな時だった。男の声がした。
「百花礼奈さん? でしたっけ?」
男の声の方を向いた百花。男の正体は向後さんだった。
「はい。」
「初めまして。向後昭雄と申します。ここの卒業生みたいなものです。」
百花はぺこりと頭を下げた。向後も頭を下げた。
「百花さんは、アル中で何度も運ばれているんですよね?」
「アルてん何だかアル中なんだかわかりませんけど。」
「俺もそうなんすよ。ガキの頃から飲み始めて、気がついたら道端に転がってたり、仲間がサイゼリヤに保護してくれた時もありました。そんなときなんて、性懲りもなくべろべろの状態なのにワイン飲んで、仲間が寝ている最中にレジに行って、ペペロンチーノが! とか言って店員さんが相当困ってたそうです。その時は仲間が強制連行して席まで運んでくれたみたいですけど。」
向後さんはケラケラ笑って話してくれたが、百花は、自分も同じだと思って向後さんに見入っていた。
「それでね? 俺の経験からしても思うんですけど、アルコール依存症って、孤独を愛する病気なんですよ。俺、その言葉聞いた時に、確かにそうだって思ったんですよ。」
金井さんから聞いた話だったが、向後さんから直に聞くと重みが違った。
「百花さんに説教垂れるつもりはないんです。でも、アルコール依存症が孤独を愛する病気だってことは覚えておいて損はないと思いますよ。俺だって、彼女もいらねぇ、嫁もいらねぇ1人で生きていけるんだって思って、バカみたいに飲んだくれてアルコール依存症でここにお世話になったくらいなんだから。百花さんもそうなってほしくないんです。俺みたいなバカは俺だけでいいんです。百花さんは俺なんかよりも立派な人でしょ?」
「いえ。私なんか。普通のOLでしたし。」
百花が視線を落とすと向後が笑い声をあげた。
「充分立派じゃないですか! 俺なんか普通のOLにすら、箸にも棒にも引っかかりませんよ。むしろ俺と結婚して欲しいくらいですよ。」
百花はきょとんしてどうしていいからなかった。
「えっと。おほん。できれば、次の酒歴発表に行きたいのですが?」
深沢院長がじろっと向後さんと沼池先生を睨んだ。2人とも「はい。」「すみませんでした。」と頷いて視線を落とした。百花も視線を落として黙る事にした。
百花の次は金井澄子だった。既に個人的に聞いていた話だけで、深沢院長や沼池も何も言わなかった。その次の黒木あやめも同じだった。百花にとっては聞いた話だけだった。
百花にとって気になったというより、待ち遠しくしていたのは次だ。深沢院長が、「えーっと、白井さん?酒歴発表を。」と言った。百花にとっては一番聞きたい話だった。だが、数秒しても、腕組みをしたまま白井桃子は黙っていた。深沢院長がしびれを切らしたのを見たのか、長谷川さんがメモをやめて顔を上げた。
「白井さん?」
長谷川さんの眼力はすごかった。看護師長もだ。だが、白井桃子の眼力もすごかった。
「何回同じ事を言わすのよ。アンタ達には同じ事を何回も言ったでしょ?」
金曜ミーティングだというのに、白井桃子は立ち上がって、深沢院長や沼池、長谷川さんや看護師長をにらみつけた。深沢院長は担当医だったせいもあるのか、怒ってテーブルを叩き、「白井さん!」と睨みつけた。白井桃子は平然とにらみ返し、深沢院長を見て鼻で笑った。深沢院長は怒っていた。
「何べんも何べんも、毎週毎週言わされる身になってみれば? 少しはアタシの気持ちにもなれる。少しは人生勉強になるんじゃない?」
怒った様子の白井桃子がミーティング部屋を出て行った。
「ちょっと! 白井さん!」と、長谷川さんが追いかける。看護師長は頭を抱えていた。
「あぁー! もう白井さんはがっちゃん部屋か4階に移した方がいいんじゃないのかい!?」
「いえ、院長先生、白井さんはちょっとだけ、自閉症の気がありますが、加療の段階ではありません。様子を見ましょう。」
深沢院長は頭を抱えていた。金井さんも黒木さんも頭を抱えていた。
「ね? あなたのやろうとしている事、相当難しいわよ?」
金井澄子の言葉に、百花礼奈は頷いた。
土日は、白井さんの好きなドラマがやっていない様で、ぼーっと食堂で外を見ているか、病室のベッドで寝ている。百花はその間も、金井や黒木と積極的に話をしている。数日した頃だろうか、百花は白井の視線を感じていた。なんでかは知らない。とにかく、相手からコンタクトがあるまで待つ事にした。
何でもないガールズトークをして金井澄子と黒木あやめ、百花礼奈が話疲れてベッドで寝ている時だった。数日した後だろうか、ベッドで寝ている百花を揺り起こす人間がいた。何事かと思って鬼の形相で起き上がった百花。揺り起こしたのは白井桃子だった。
「なに?」
きょとん顔で白井桃子を見つめる。時計を見ると夜中の11時だった。
「ねぇ? 今ちょっとだけ時間ある?」
百花にとっては求めていた時間だったが、あまりの急さに驚くしかなかった。白井桃子はすごくかしこまった格好でペコリと頭を下げた。食堂に誘われた百花は、同じ様に頭を下げて白井桃子の前に座った。随分長い沈黙が続いた。これから長い説教になるのかと不安になった。だが、白井桃子は、ぺこりと頭を下げた。百花は、きょとんとしていた。
「ごめんなさい。あなたに悪い態度取ったわよね。ごめんね。」
深々と頭を下げる白井桃子に、百花はそれよりも深い、土下座に近い礼をした。
「アタシね。あなたの事嫌いだったわけじゃないの。私の性格で、すごい人間不信なの。男の人に対しても、女の人に対しても。だから、いきなり話しかけられたら、怖くなっちゃって。距離を置く癖がついちゃったのよ。」
「いえ。正直な事いうと、金井さんとか黒木さんから、白井さんの事聞いてます。あんまり詳しいこと言うと失礼でしょうけど、昔のご結婚をかんがえていた男性に裏切られて、
いろいろ不幸があったとか。かなりお辛い経験をなさったんですね?」
「そう。金井さんやあやめちゃんが、私の事言ったのね。」
百花は急に狼狽えた。白井桃子はたじろいだ。
「いいのよ気にしなくって。むしろ私の方が無神経で、百花さんの事無視してたわよね。それは本当にごめんなさい。」
白井桃子がしっかり謝ってくれた。百花は何も言えずにいた。
「金井さんから聞いたかしら? アタシの事?」
百花はブンブンと頭を振った。白井さんはクスリと笑って、ウーロン茶を飲んだ。
「多分、金井さんにいった内容は私のすべて。なんでアタシの内容が全部バレてるのかも、金井さんに聞いたの。」
あの人は善人ぶって、裏で散々動き回るあざとい人だと百花は思った。だが、今回ばっかりはうまい方向に話が曲がった。
話が曲がったついでだった。白井桃子がとんでもない質問をしてきた。
「ねぇ? あんたさぁ? アタシと金井さんとあやめをなんとかしようって思ってるんだって? 何様よ?」
じっと見つめてくる白井桃子。
百花礼奈は何も反論できずに黙っているだけだった。数秒黙った後だった、白井桃子が腕を組んで大声で笑い始めた。
「うっせぇ!うっせぇ!うっせぇわ! あんた金井さんにそうぶちまけたそうだよね? ならアタシにもやってみなさいよ? どお!? できないの!?」
百花は何も言えず、数秒黙っていた。
頭に来たのか、白井桃子が腕を組んで立ち上がり、さようならと言った。ここで負けてはいけない。そう思った百花がガシッと白井桃子の腕をつかんだ。白井桃子は右腕つかまれて、掴まれた右腕と百花を交互に睨んでいた。
「痛いわよ。放しなさいよ!」
「放しません!」
あまりの腕力に圧倒された白井桃子はきょとんとして、猛烈な眼力の百花礼奈に圧倒された。考えていた。そうして、出てきた言葉が最悪だった。
「弱者が!」
数秒、言葉を失っていた白井桃子が、やっと「は?」と口にした。
「アンタだって、金井さんだって、黒木さんだって何回もこんな所に入っている負け犬じゃない! 向後さんみたいに自分を理解しているわけでもなく、負け犬中の負け犬! そんなアンタにあーだこーだ言われたくないわ!」
白井さんが感情を露わにして、百花のくびもとを掴んだ。息を荒げて壁に叩きつけた。白井桃子は頭に来て叫んだ。
「アンタ!何がおかしいのよ!」
息を荒くしている白井桃子の手を振りほどいて、百花は白井の怒りの手を振りほどき、居住まいを正した。
「やっと、白井さんの本当の顔が見えた気がしました。」
「どういう意味よ?」
百花礼奈は微笑んだまま、何も言わずにいる。
「また会いましょう?」
百花礼奈が病室に戻った。白井桃子は、百花礼奈がすぐに病室に戻ったかと思っていたから、部屋にいなくてベッドを叩いてテレビカードを入れて夜のドラマを見始めた。
金井はクスクス笑い、黒木あやめは食堂から拝借してきた小説を愛読していた。
1週間くらいした頃だろうか。
毎朝のコッペパンとマーガリン、週1の紅茶、2日に1回のお風呂。段々と精神病院の生活にも慣れてきた。嫌なもんだが。今日もウマちゃんは廊下を走り回り、みーちゃんは寝転がっている。ほとんどルーチンワークになっているのだからか、長谷川さんも「ウマちゃん! 走んないの! みーちゃんも床に寝っ転がらないで! 配膳車が通るわよ!」と決まった事のように言う。
昼ごはん。中華丼の定食だった。
百花と白井の関係は静かなものだった。百花は相変わらずアイソレーションを続け、金井と黒木とばかり話している。白井はさっさと食事を食べ終えて病室に戻っていく。黒木は何も言わなかった。
「ねぇ? 百花さん。」
「何ですか?」
金井澄子が百花礼奈をじっと見つめている。
「ごめんなさいね。」
百花はきょとんとしている。何のことか、想像すれば大体予想はできた。
「私、桃子ちゃんに言っちゃったの。それで、桃子ちゃん、百花さんに話しかけたんでしょ? そこまでは聞いてるわ。」
「聞いてます。白井さん本人から。」
「そうなの。桃子ちゃんはなんて?」
百花は箸を止めてため息をついた。
「私があなた達3人に、半ば喧嘩売ってるようなもんだって。」
金井も黒木もきょとんとして顔を見合わせた。金井がぷっと笑って、黒木が視線を落とした。百花は何が起きているのかわからなかった。
「そうかもね。桃子ちゃんならいいそうだわ。」
黒木あやめは黙っていた。年上の争いに近い状態に口を出したくなかったのだろう。
「もう1回言うわね。ごめんなさい。余計な事をして。」
「いえ、逆に助かりました。白井さんをそそのかしてくれて。」
金井澄子が首を傾げた。百花は微笑んで中華スープを口にした。
「どういう意味かしら?」
「助かったんですよ。私がやろうとしてる事。正直、アイソレーションだけじゃ不安だったんです。でも、金井さんが裏で動き回ってくれたおかげで、白井さん、前よりは私に興味を持ってくれました。正直邪魔でしたけど、金井さんが動いてくれたおかげで、白井さんの気持ちも少しは動かす事ができました。それに新しい発見もありました。」
「どんな?」
金井澄子がとても不思議そうな顔をしてくる。
「白井さんって、閉鎖的で孤独を愛する様に見えますけど、本当は人一倍さみしがり屋で、孤独を嫌う人なんだって。金井さんが言う様に、元の彼氏さんに裏切られて人間不信になったんでしょうけど、それでも人に恋焦がれる。そんな少女チックな所もあるって。だから、私の作戦は間違ってなかったって確信したんです。白井さんにはアイソレーションが一番の適策だったって。」
金井澄子はきょとんとしていた。数秒後、黒木あやめが大笑いを始めた。それには百花も驚いた。
「すごいですね。百花さん。尊敬しちゃう。そんなにすぐに人を見抜いちゃうんだ。」
ケラケラ笑う黒木に何も言えない百花。金井澄子はきょとんとして、数秒してからやっと口を開いた。
「そうね。すごいわ。私の余計なおせっかいがなくても白井さんの闇を見抜いていたのね。すごい能力だわ。」
「いえ、金井さんのご助力がなかったら無理でしたよ。」
金井もクスクスと笑い、3人で笑い合った。
「そうね。第1ラウンドは桃子ちゃん。一番ハードステージだろうけど、次はあやめちゃん? それともアタシかしら?」
金井が微笑みで百花を見る。百花は不敵な笑みで返した。
「その頃には勝負はついてると思います。後、沼池っていうカードもある事ですし。」
金井も黒木も呆気に取られて、数秒してか笑い始めた。
「沼池先生まで巻き込むの? 百花さんってホント大物ね。」
「何なら院長先生も。金井さんと黒木さんの担当医ですもんね?」
「あっはっは! 沼池先生だってかなりの厄介者なのに、院長先生まで? アナタって本当に怖いものしらずね!」
金井が昼食を食べ終えてゲラゲラ笑い、合掌してご馳走様をした。上機嫌で下膳をして病室に帰っていった。
「本当に期待してるわ。アタシの事も変えてくれるの?」
黒木あやめがいじわるな顔で百花を見てきた。
「そのつもりですよ。」
数秒してから黒木あやめが口を開いた。
「敬語使わないでください。私、年下なんですから。」
そう言って、黒木あやめも下膳して食卓を去った。一番食の遅い百花はまだ中華丼を食べ残していた。
憎たらしいのか怒っているのか、白井桃子は百花礼奈をガン見する様になった。たしかに怒らせる発言をした。だが、そこまでするかと言うのが百花の感想だった。相変わらず、アイソレーション作戦で白井桃子の感情を扇動する。作戦は順調だった。百花は待っていた。白井桃子がもう一度接触してくることを。それは、そんなに時間がかからなかった。数日後、ベッドで寝ている百花に「ねぇ!アンタ!」と怒声がした。金井も黒木も何事かと思って振り返る。
「ちょっと来なさいよ!」
そう言う白井桃子に腕をつかまれて、百花は病室から連れ出された。行った先は食堂だった。半ば放り投げられた百花はおずおずと白井桃子を見る。白井桃子は腕組をして鼻息を鳴らし、百花を威圧している。百花は、内心、しめしめと思っていた。アイソレーション作戦は相手の孤独を助長するかもしれないかなり分の悪い賭けだったが、ここまでいい方向に転じるとは思っていなかった。金井さんから聞いていた、白井さんの人間不信は相当に強いものだったらしい。
「ねぇ! どういう事よ!」
百花は、はっきり言って何を言われているかわからず、きょとん顔でいた。白井桃子の怒りは収まらない様でテーブルを叩いた。
「アンタ院長先生に何言ったのよ!」
百花は「は?」としか思えなかった。百花の担当医は沼池で、院長ではない。何をどう白井さんの悪口を告げ口できるのか、百花の方が知りたいくらいだった。
「えっと、私の担当医は沼池先生で、院長先生とは話したことは2回くらいですけど。」
「いいえ! アナタが言ったって言ってたわ! 院長先生が!」
何の事か全くわからない百花は首を傾げた。怒りが収まらない白井桃子は腕を組んで大きなため息をついた。
「アタシが例会に行くときにコンビニで酒を買って焼酎飲んだり、タバコ買って吸いまくってるって! 院長先生から厳重注意されたのよ!? これ以上続くようなら強制退院だって! 私そんなことしてないの! アンタが言いふらしたんでしょ!?」
例会と言うのは、アルコール依存症の集まりで、金曜ミーティングの酒歴発表の様な事をするひどく退屈な集まりだ。もう2度と参加したくない。新型コロナウィルスの問題が起きる前までは毎日の様にあったらしいが、今は週に1,2回で済んでくれているらしい。それだけは、新型コロナウィルスに感謝する。要は何が言いたいかと言うと、例会に行くのはアルコール依存症の患者にとって必須であり、コンビニやスーパーマーケットに自由に出入りできる時間なのだ。酒やたばこも自由に買える。その時間を、百花が、白井桃子は酒もタバコも好きかってやっていると院長先生に通報した事になっているらしい。何がどう勘違いされたのかわからないが、百花は落ち着いた。きっと、この前の挑発的な態度に対しても、白井桃子は怒っているんだろう。敵意むき出しの目の前の初老の女性の激怒の表情を見ればその怒りは容易に想像がつく。
一端、百花は深呼吸した。怒り心頭の白井桃子を諭すチャンスかもしれない。
「白井さん。私、同じ話をしますが、担当は沼池先生で院長先生と話したことは2度くらいしかありません。そんな話をしたこともありません。」
「じゃあなんでよ! アナタこの前アタシに喧嘩売ったわよね! その腹いせなんじゃないの!? 沼池通して院長先生に言ったんじゃないの!?」
百花は戦略を考えた。どう好転させようか。そして、こんな稚拙とも思える策略を誰が考えたのか。思い当たる節は2人しかない。可能性が高いのは1人。だが、ダークホースも1人。いろいろ考えを巡らせながら、百花は目の前の怒れる女を相手にする事にした。
「ねぇ。白井さん。何回も言うけど、私そんなことしてないの。院長先生とも話してないし、沼池先生にも、白井さんが例会のついでにお酒飲んだりタバコ吸ってるなんて、言った事ないわ。それは信じて?」
白井桃子が憮然とした表情で百花を睨んでいる。百花はこれをチャンスだと思った。
「ねぇ? 冷静に考えて? 私が白井さんを陥れて何が楽しいの?」
白井桃子が黙って腕組みをした。数秒して。
「院長先生が!」と叫んだ。
百花はじっと白井桃子を見据えていた。
「なによ。」と怒り心頭で白井が百花を睨んでいた。百花は微笑んで白井桃子を見ていた。
「この前、白井さんに言いましたよね? 忘れましたか?」
「覚えてないわよ。」
百花はにっこり笑って、腕を組んだ。白井桃子は露骨に不機嫌な顔をしている。
「訂正して言い直しますね? アナタ、負け犬なんですよ? もう何回この病院に入ってるんですか?」
白井桃子はテーブルを叩いて怒り心頭で百花を睨む。その時、百花もテーブルを叩いて「おい!」と叫んだ。その声に白井桃子は仰天して席に座った。何が起こったのかわからず佇むばかりだった。百花はいずまいを正して「失礼。」とだけ言った。
「私は、あなたにもうここで会いたくありません。私もここを3か月でさようならする。あなたともここで2度と会いたくありません。だから強い言葉も言います。例会だって、正直、金曜ミーティングだって無駄な時間だと思いますよ? あんな時間、いくら重ねても誰も救われない、無駄な時間だと思います。でも、あなたはそんな無駄な時間を月数万円もかけて、朝はコッペパン2個とマーガリン、週1日の紅茶! 他はお茶! 昼食と夕食はそれなりのものが出ますけど、あなたの家族はあなたのそんな生活を望んでいるんですか!? 優しいおばあちゃんだとか、親切なおばさんだとか! そんな人物像を望んでいるんじゃないですか!?」
百花の言葉に、白井は何も言う事ができなかった。ただ涙を流し、立っていた。
「アタシだって、子供を抱きしめたいし、孫の顔をすりすりしたいわよ! でも! こんな情けないおばさんなのよ?! 彼氏にも捨てられ、相手もいない、アルコール依存症の情けない婆! 今更どうしろっていうのよ!」
白井桃子は泣き崩れた。数秒してから、百花は優しく抱いた。
「いつからだって遅くないと思いますよ? 若輩の私が言う事じゃないかもですけど。」
白井桃子が大泣きして百花礼奈に抱き着いた。
「大丈夫大丈夫。おまじないおまじない。」
これは百花礼奈が祖母から聞いていたおまじないだった。
「ハードステージクリアね?」
食堂の隅にいた少女が食堂から去った。
翌日から、金井も黒木も百花も驚くぐらい、白井が社交的になった。金井が「えー。桃子ちゃんそうだったんだぁー。」黒木も「へぇー。白井さんのそう言うの初めて聞きました。びっくりです。」と言う。百花も初めて聞く話ばかりで、白井桃子の本質を知る事になった。だが、百花が一番気にしていたのは、白井桃子に嘘を吹き込んだ人間がどっちかだった。一番怪しいのは裏で暗躍する金井澄子。だが、清純そうに見えて腹黒そうな黒木あやめも疑わしい。だが、正体を明らかにしたところで何の利益になるわけでもない。百花は考え始めた。
そんな時だった。
頻繁に話を交わす金井澄子。「ももちゃーん!」と親し気に話しかけてくる。百花は「あら、金井さーん!」と返す。お互い知った仲だからいいんだけれども、何とはなしに食堂でお茶を飲みながら話をするようになった。なぜか、白井桃子対策で作戦建てたアイソレーション作戦から、黒木あやめが離れる様になった。百花は不思議がっていた。
「ねぇ? モモちゃん? 聞いてくれる?」
「はい。何でしょう?」
嬉しそうに金井澄子がお茶を飲んで聞いてくる。
「あのね? 最近、あやめちゃんが相手してくれないの? この前まではすっごい仲良くしてくれたのに。 気難しい年ごろなのかしらねぇ?」
はっきり言って、70代の婆の感想なんてわからない。百花もどっちかと言うとあやめ寄りだ。一応、訳わかめの人間から意見を聞く事にした。
「私が言うのもなんですけど、難しい年ごろでしょうし、怒りやすかったり色々するんじゃないですかねぇ?」
「そうかしらぁ? 私の頃はしっかり堅実に、先生の言う事は聞きなさいってしっかり躾けられたけど?」
「あぁ。そうかもしれませんね。」
何十年前の話をしてるんだよと百花は思った。
白井桃子をそそのかしたのは、金井澄子か、黒木あやめか、百花は悩んでいた。一番怪しいのは金井澄子。白井桃子を操れるのは金井澄子なんだ。だが、立場は弱いが白井桃子を裏から操る狡猾さを持っているのは黒木あやめだ。しかも、どっちも主治医は院長先生だ。どっちが何の目的で白井と百花を遊んでいるのかと想像するだけでむかむかした。
「金井さん? 聞いてくれますか?」
金井が首を傾げて「何かしら?」と聞いてきた。
「実はですね?」
百花は先日の白井桃子とのやり取りを全て話した。金井は「あらまぁ。」と言うばかり。たまに「大変だったわね。」と言ってくる。百花は、なんだか犯人が金井澄子ではないんではないかと思った。だとすれば、残りは1人。だけれども、黒木あやめが、百花と白井の関係をこじらせようとする必要があるだろうか。その理由がわからない。でもやはり、第1容疑者は金井澄子だ。なんとなく違う気がするだけで、確証はない。百花は聞いてみる事にした。数秒置いて、深呼吸をした。
金井澄子は不思議そうに百花の顔をのぞき込んできた。
「どうしたの? 具合悪いの?」
百花は顔を上げて、金井澄子を見据えた。
「今度はアンタの番よ。ラスボスはアンタじゃなくて、あの小娘なきがしてきた。」
金井澄子がきょとんとしている。しばらくたった頃だろうか。トランプではしゃいでいるグループや、廊下を走り回るウマちゃん。みーちゃんが寝転がり、青山さんがまたオムツ全開にして廊下を歩いている。そんな中、金井澄子が大笑いを始めた。百花はじっと見つめていた。
「なに? 桃子ちゃんはもう終わったの?」
「えぇ。白井さんはあなたと違って純粋で、薄汚れていなくて、正直で、すごいひねくれもの。だからこそ、私、思ってたより白井さんの事が分かった気がする。」
「酷い言い様ね。ちょっと待ってね? 紅茶飲みたくなっちゃった。」
金井澄子が席を立った。百花礼奈はいずまいを正した。金井澄子が本気で向かってくるんだろう。ここからだ。白井桃子をそそのかしたのは金井澄子なのか、黒木あやめなのか。その真贋を見極めるのがこの時だ。
「お待たせ。百花さんは何かいらなかったかしら?」
「いえ。お気遣いなく。」
「そお。」
金井澄子は静かに紅茶に口をつける。百花礼奈は喧嘩を売ったはいいが、必勝の作戦なんてなかった。はっきり言って、白井桃子に変な話を吹き込んだのが、金井澄子なのか、黒木あやめなのかもわからないんだ。それを怒るつもりもない。知りたいのは、なぜそんな事を仕向けたのかだった。でも、やみくもにそんな事を聞いても誰もちゃんと答えないだろう。自分から仕掛けておいて、百花は自分の準備不足を悔いた。
「あぁ。紅茶は美味しいわね。百花さんはアールグレイ? ダージリン?」
「私、ウーロン茶とか、紅茶だったら甘いのが好きです。正直、アールグレイとか苦手で。ダージリンは日本茶で言うと渋茶みたいで苦手なんです。」
「あら、そうなの? じゃあ百花さんはどんなお茶が好きなの? ウーロン茶でもいろいろあるでしょ?」
数秒黙って、百花が口を開いた。
「冷茶。白茶が好きです。」
金井澄子が不思議そうに首を傾げた。
「ウーロン茶も好きなんですけど、冷茶とか白茶の方が香りが強くて、大好きなんです。中国茶の中では白いお茶、パイチャが大好きです。横浜中華街にかいにいったりします。後、日本茶も、京都に行ったとき、茶道をたしなんだ民宿の女将さんが立ててくれた抹茶が、甘くて渋くて絶妙で。一緒に行った友達とも絶賛しました。」
「へぇ。百花さんはお茶にも詳しいのね?」
「いえ、金井さんみたいに、ヨーロッパのお上品なお茶にはまったく疎いですよ。」
金井澄子が紅茶を吹き出しそうになりながら、口元を抑えてブンブン手を振った。
「やめてよ。私なんてかじった程度の知識しかないの。ただ、若い頃にかぶれたせいか、日本茶よりも西洋のお茶に興味を持ってね? いわゆるおフランスのものなんかも若い頃は買いあさったわ。ろくに味もわからないガキの分際でね。」
百花はぷっと笑ってしまった。飾り気のない金井澄子の話にどんどん魅了されていく。お茶の話から酒の話に変わっていった。80年代のイケイケのバブル時代を謳歌していたといい、男はひっかえとっかえ、酒は飲み放題。1日10万なんてバケツの様に使っていたという。ぎりぎり昭和と、平成と令和を生きてきた百花にとっては、なんとバブリーな時代だったかと思った。やんややんやと金井さんの話が続いて、その話を聞いているうちに、百花は金井澄子に対する疑念が無くなっていた。白井桃子も純粋だが、金井澄子も純粋だ。ただおバカなだけで、5回も精神病院に入院している。加齢による痴呆症と言うわけではない。もしも、今、金井さんと酒を飲んでいたら相当盛り上がるだろう。百花はそう思った。時代さえ違えば、最高の飲み仲間になっていただろうと思った。
「あー! 話疲れちゃった。ごめんね。百花さんの話聞いてなくて。で? なんだっけ? 百花さんの聞きたい話って。」
百花は数秒間黙った。そして笑った。金井澄子はきょとんとしていた。
「ごめんなさい!」
金井澄子はさらにきょとんとしていた。
「絶対、金井さんくらい賢い人ならわかってると思ってました。私の浅はかな読みなんて見抜いているんだろうって。でも、私がバカでした。金井さんは私の事なんてとっくにおみとうしなんだろうって。」
「何言ってるの? 百花さん?」
「いいんですよ。全部お見通しで、金井さんは私をあしらってくれているんでしょ? ありがたいです。それだけで十分です。」
金井澄子は、数秒間黙ってから、丁寧にお辞儀して、「ごめんなさい。」と言った。百花礼奈はすぐに頭を下げて、沈黙が続いた。金井澄子は口を開いた。
「あの子は責めないであげて。私からのお願い。あの子も悪気があってやったはずじゃないのよ。ただ、悪気がさしたっていうか、百花さんや白井さんを傷つけようなんて、そんな事思う子じゃない! だからそこは責めないで!」
百花は黙っていた。しばらく黙ったあと、口を開いた。
「私の両親、言ってました。けじめはけじめ! つける所つけないとだらしないよって。親の家訓です。」
だいぶ黙ってから、金井澄子がうるんで頭を下げた。
「同じ事を言うわ。あの子を責めないで。悪い子じゃないの。」
「はい。金井さんの言葉もありますし、白井さんをあんな風に傷つけたけじめは、しっかりと取ってもらいますけど、安穏と楽に悠々自適に生活できると思ったら大間違いだぞこの小娘が! って言ってやります。」
金井澄子が涙を流した。
「本当、強いわね。百花さんって。」
百花は首を横に振って、笑顔を金井澄子に向けた。
「私の母よりも母性がありますよ。金井さんは。私も子供ができた時に、金井さんのかけらくらいの母性があったらなって思います。」
金井も百花もお辞儀をして席を立った。
白井桃子は黙ってテレビを見ていた。金井澄子もベッドで寝ていた。百花にとって張本人かつ主犯格の年下の小娘がテレビを見ている。散々な悪行を働いておいて、何静かな目でテレビを見ているんだと思う。だが、百花は黙っていた。朝9時。病室がノックされて、白井桃子は「はぁー。」とため息をついた。長谷川さんがドアを開けた。
「みなさーん! ごはんですよ?」
「うっせーわ!」と、白井さんが反論する。
「モモちゃん? そんなにケンケンしないの? 長谷川さんだってお仕事なんだよ?」白井さんが渋々納得する。
「はぁーい。金井さんありがとうね? 白井さーん? コッペパン2つでも、食べないとダメなんだよ? 成人女性でも? 1日に2000キロカロリーは必要なの? 動いたりトイレ行くだけでよ? コッペパン2つなんかじゃ足りないんだから。しっかり食べましょうね? いい? 白井さん? 看護師の先生が管理してくれているんだから? いーい? 白井さん?」
長谷川さんの言葉に白井さんはムスッとしたままだった。黙ってさっさとコッペパン2つを食べてお茶を飲んで、「ご馳走様!」と言って食堂を立ち去った。
百花は、悪性の無い金井澄子と白井桃子は想定の範囲から排除して、黒木あやめに注視する事にした。金井澄子はその様子を視認した様子で、落ち着いて朝食を食べる百花礼奈を見ていた。百花礼奈は、自分自身を黒木あやめの敵ではないと思っていた。だが、戦略を仕掛けてきた、何かしらの敵意がある。まずそれが何だろうと疑う事にした。
「ねぇ、黒木さん?」
金井澄子の箸が止まった。この女何を言い出すのかと緊張している表情だった。
「最近、白井さん気難しいわよね。私、仲良くしたいんだけど、コツとかないかしら?」
黒木あやめの箸も止まった。3人の間に沈黙が走った。
「私と金井さん、百花さんと仲良くしてますけど、白井さんとも? 不満?」
黒木あやめが露骨に嫌がっているのを百花は感じた。金井澄子は箸を止めて頭を抱えた。だが、百花礼奈は毅然として、箸をおいて大きなため息をついた。
「はっきり言って、アンタのそういう所が大ッきらい!」
黒木あやめが「は?」と返した。金井澄子は頭を抱えるばかりだった。
「嫌いなのよ! とにかくとにかく嫌いなの! あんた何様? 偉そうに踏ん反り返って文句ばっかり言って! 女王様気どりなの? プリンセスやるんだったらもっと立派な格好の1つもしてみなさいよ!」
黒木あやめが頭に来てテーブルを叩いて立ち上がり、同じく立ち上がった百花礼奈を睨みつける。数秒間黙ったあと、黒木あやめが「何よ!」と大声を出した。
「中卒のアタシと違って、ご立派でご優秀な経歴の持ち主なら、アタシより成功してみなさいよ。どうせ、人の悪口を言いふらしたり、ネットにあげてクソみたいな人生送ってるんでしょ? はっきり言ってあげましょうか? クズ人間!」
百花がが頭にきて、黒木あやめを殴った。
「うっせぇわ! クソが!」
百花の言葉に、大声をあげて黒木あやめがグーで百花の顔を殴った。息を切らせて右こぶしを握り続けている。警察を呼ぶかどうかにもなったが、長谷川さんが止めに入って、病院としては不問にふしたいようで、男性看護士が仲裁に入った。
かなり時間が経って、突然、黒木あやめに左頬を殴打された百花礼奈、暴行をした黒木あやめが警官と教官の前で聴取を受けている。百花は何も言わなかった。黒木あやめは「私がやりました。」と自供している。警察官は、「はいわかりました。」と、供述を認めている。警察署に連行されそうになった時、百花礼奈が、「すみません!」と声を荒げた。警察官も何事かと思い、戸惑いながら百花に質問をした。
「なんですか?」
「私、黒木さんを無罪にしたくないんです。」
警察署は慌ただしくなった。百花はじっと黒木あやめを睨み、黒木あやめはテーブルを叩いて百花を睨んでいる。
「冤罪です! そうに決まってます!」
黒木あやめが叫ぶ。百花礼奈は首を横に振り「いいえ!」と断言した。
法廷に呼ばれた。
殺気迫る視線で黒木あやめが被告人席にいた。証人として出廷する百花礼奈。深々と礼をして、裁判に関する文言を言わされた。簡単に言えば、嘘をつかない事、言った事の責任は全て自分で持つ事。刑事裁判になった場合、全て自分が持つ事。百花はそれにすべて納得して、証言台に立った。裁判官は、ゆっくりと主文を読み始めた。百花はじっと黙っていた。裁判長が「間違いございませんか?」と言ったあと、涙ながらに「まちがいございません。」と言い、テーブルを叩いて猛抗議する女がいた。黒木あやめだった。自分は全くの無実で、百花礼奈が100%悪い! 私は悪くない! そう主張を続けた。裁判長の判断は無く、黒木あやめが執行猶予もつかない実刑判決になり、黒木あやめは絶叫した。裁判所を出た百花は、担当弁護士や裁判官とお辞儀をした。
「この度はお世話になりました。」
「いえいえ。私達なんかよりも、沼池先生とか、特に、金井さんと白井さんにお礼を言ってください。」
百花はきょとんとしていた。沼池はまだしも、なぜ金井と白井まで?
弁護士は微笑みながら続けていた。
「今回は、黒木さんの名誉棄損罪です。本来は執行猶予が付くのですが、他人を巻き込んでますからね。それに、余罪もあるみたいですよ。ドラッグを、例会の帰りに、悪い友人から買っていたそうです。相当依存性が高いものだそうです。」
「そうだったんですか。」
「えぇ。尚のこと、悪質性が高いし、違法ドラッグだったらしいですから。においとかで気づきませんでしたか?」
「いえ、例会の時、時間までそれぞれ好きに動いていましたから。その間、黒木さんが何をやっていたのか知りませんでした。」
「そうですか。まさかドラッグとはね。私も驚きました。」
「黒木さん、私のこと何か言ってませんでしたか? 私、黒木さんにうらまれるような事した覚えがないんですけど。」
黒木あやめの担当弁護士は、大きくため息をついてから、百花に口を開いた。
「黒木さんは、あなたのことが羨ましかったって、そういってました。」
百花はきょとんとしていた。
「私なんて中卒なのに、アル中になって、でも、おんなじアル中のくせに私よりも美人で頭もよくって、白井さんや金井さんを黙らせて、自分がどれだけ馬鹿か、百花さんと話しているだけで思い知らされた。だから、やり返してやろう。そう思ったんだって。そう、
黒木さんはおっしゃってました。」
百花は沈黙した。仲良く話していたつもりなのに、黒木あやめはそうおmおっていたのかと。そんな思いが百花を塗りつぶした。訴えてやるとまで言う必要はなかったんじゃないかと反省した。
そんな百花を見て、黒木あやめの担当弁護士は、重い口を開いた。
「でも、黒木さんの場合は、名誉棄損罪よりも違法ドラッグの常習犯だったことの方が主な罪です。」
「そうなんですか。」
百花は暗い顔をしていた。
「余計なお世話かもしれませんけど、金井さんと白井さん、本当に百花さんの事を心配していたんですよ? 金井さんは黒木さんが暗躍していた事を知っていた様子でしたが、ドラッグのことは知らなかった様で。黒木さんが院長先生とか他の人に、百花さんの事を言いふらしているなんて、後になって初めて知ったそうです。あやめちゃんがそんな子だと思いもいよらなかったって。金井さんは特にびっくりしてました。白井さんも、黒木さんがそんな子であるはずがないってました。」
「そうなんですか。私としては被害者ですので、あまり多様な事は言えませんが。」
「いえいえ。被害者も立派な被害者ですから。」
「あぁ、いえ。大変恐縮です。」
「いえいえ。こちらこそ、今回はありがとうございました。それでは。」
「はい。失礼いたします。」
百花はぺこりと頭を下げて弁護士と別れた。
ある日曜日、百花はある建物の前にいた。
大きなため息をついて、建物の中に入っていった。
「32番。面会よ。」
ビニールの畳で寝転がっている少女が嫌そうに女性刑務官をにらんだ。
「だれ!?」
「百花礼奈さんっていう方。」
黒木あやめは舌打ちをして思い切り壁を叩いた。隣の囚人が「うるせぇ!」と怒鳴った。刑務官もため息をついてじっと黒木あやめを見ている。
「拒否!」
女性刑務官は黒木あやめを見据えて口を開いた。
「そういわないの。会いたいって言ってきてくれてるんでしょ?」
「アタシをこんなところにぶち込んだ張本人でしょ! 会いたいわけないじゃない!」
「そうかもしれないけど、アンタがしたことだし、会いに来てくれるだけありがたいじゃない。お父さんもお母さんも、ドラッグに手を出して勘当だって怒り狂って、面会にも来ないじゃない。来てくれる人がいるだけでもありがたいと思いなさい?」
数分間、黒木あやめは黙っていた。女性刑務官はじっと黙って牢屋の前で視線を落としていた。長い沈黙の後、女性刑務官が立ち去ろうとした時、黒木が立ち上がった。
「聞くだけなら。」
女性刑務官が微笑んで、独房の鍵を開けた。
サル縄を付けられ、手錠をかけられ、黒木あやめは、女性刑務官につれられた。3番と書かれた個室に女性刑務官が招き入れ、黒木あやめは表情を凍らせた。穴だらけのプラスチックの壁の向こうに、百花礼奈がいた。手錠を外され、百花と面と向かう黒木あやめ。数秒だろうか。百花の方から口を開いた。
「久しぶりね。元気?」
黒木あやめはいらいらして腕を組んで舌打ちした。
「アタシをここにぶち込んだ張本人が何言ってんのよ。」
「黒木さん、はっきり言っておくわね。私、あなたに悪い事したなんて思ってない。今日は確認に来たの。」
「は?」
黒木あやめの怒りの表情は変わらない。百花礼奈はため息をついて、ゆっくりと話し始めた。黒木あやめが苛立ってテーブルをたたき、女性刑務官が「やめなさい!」と制する。
「弁護士さんに聞いたの。なんで黒木さんが私のことをおとしいれようとしたのかって。後から聞いた話だけど、本当は名誉棄損どころか、もっとやばい事やってたのね。」
「それが何? アンタさえ黙ってれば、金井さんだって白井さんだって黙ってたのよ? 例会ついでに、元カレからドラッグちょろまかしてたのだって、2人とも臭いで気づいてたんだよ! 気づかなかったのは正義感溢れる革命少女のあんたくらいなもんだったのよ! ばーか!」
「それがアンタの言いたい事?」
百花の冷たい視線に黒木あやめが激昆した。
「弁護士先生に聞いたわ。アナタ、私のこと、羨ましがってたんですってね。全然気づかなかった。」
「うるせぇよ。」
百花は冷たい口調を変えなかった。
「今でも思うわ。金井さんも白井さんも、アンタも負け犬よ。何回自分に甘ったれて人に迷惑かけてるのよ。負け犬!」
黒木あやめがプラスチックの壁を殴打して怒声を上げた。女性刑務官が「やめなさい!」と言って、黒木あやめを制した。だが、百花は冷静なままだった。
「金井さんにも、白井さんにも言った。あなたたちは負け犬だって。アナタが一番予想外の負け犬中の負け犬だわ! アタシなんかに嫉妬している暇があれば、自分で夢叶えなさいよ! アタシよりも全然若いのに、酒とドラッグ、セックスにおぼれて、そりゃご両親だって勘当するっていうわよ! 何甘ったれてるの!」
「あんたに私の何がわかるんだよ! あんたらみたいな勝ち組は、ホワイトカラーっていうんだろ!? アタシみたいな中卒の負け組はブルーカラーだ! ホワイトカラーだからって偉そうに説教垂れてんじゃねぇよ!」
激昆する黒木あやめを女性刑務官が抑える。
「昔ね? OLやってるとき。橋本と坂本っていうクズ中のクズがいたわ。今のあなたと同じように見える。皆から嫌われていた。自尊心だけは高くてね。」
「それが何なのよ!」
「あなたは間違いを犯した。でも、まだいくらでもやり直せる。金井さんと白井さんの話聞いた?」
「そんなの知らないわよ。また何度でも入るんでしょ?」
黒木あやめを、静かに見据えて百花は微笑んだ。黒木あやめは嫌そうに百花礼奈を見た。
「2人とも、来月退院するらしいわ。もう2度とこないって。それとね、金井さんと白井さんから伝言があるの。」
百花がバッグからごそごそと便箋を取り出して、「これ。こっちが金井さん、こっちが白井さん。」
プラスチックの壁に百花が教えてて、黒木あやめはじっと見つめた。「あ、この字。」百花はうんうんと頷いた。黒木あやめは気づいていた。すごく達筆な手紙は金井さん。乱暴だけどにくにくしい文字を書くのが白井さんだ。黒木あやめは涙腺が決壊した。
「代読するわね? いいかしら?」
黒木あやめは視線を落とした。百花は深呼吸してから、達筆なてがみを読み始めた。
「あやめちゃんへ。元気? 私は元気よ? きょうもコッペパンとマーガリン。あの甘い紅茶が出たの。お昼はオムライスだったのよ? あやめちゃんは、きっと私なんかよりも
つらい生活でしょうね。でも、法律を犯しちゃったんだから、償わないとだめよ? 辛抱強く、しっかり生きて。あやめちゃんならできるって信じてる。あとね? 百花ちゃん、あやめちゃんにとっては憎たらしいかもしれないけど、怒っちゃだめよ? 短気は損気。百花ちゃんも、私も、桃子ちゃんだって、いつでもあやめちゃんのみかたなんだから。退院したら、あやめちゃんに会いに行くわ。まだしんでなかったらだけどね。」
もうすでに黒木あやめは号泣していた。その姿を見て、百花も、女性刑務官も涙していた。百花は深呼吸をして、「次読むわね?」といった。黒木あやめの涙腺はまったくとまらない。「はぁ!」と気合を入れなおして、百花が手紙を開く。
「あやめ。何ばかしてんのよ。ドラッグなんかに手を出して。本当にばかなんじゃないの? アタシは刑務所に入ったことない。せいぜい、トラ箱位よ。ばーか。百花さんの言うのも一理あるわよ。しっかり反省して、しっかり出てきなさい。そん時は、酒でもごはんでも、ソフトドリンクでも付き合ってあげる。臭いのはわかってて、ほったらかしにしてたアタシが悪かった。ごめんね。こころの底から謝るよ。また、4人で会おう。あたしも金井さんも、多分、百花さんもいつまでも待ってるから。やくそくだよ。」
黒木あやめの号泣は止まらなかった。百花も泣きじゃくらないように涙を止めるので精一杯だった。女性刑務官も涙を流している。
「黒木さん。この手紙、あなたのものだから。」
百花が2通の手紙をテーブルにおいて、泣き崩れる黒木あやめを見ていた。女性刑務官が、立ち上がり、百花に一礼した。
「規律上、直接の手渡しはできませんので、預からせていただきます。ちゃんと、黒木さんにはお渡ししますので、ご安心を。」
「お願いします。」
そういって、百花礼奈は立ち上がった。号泣する黒木あやめを背に、3号室を出て行った。
警察署を出て、数分間だろうか。
百花はLINEで電話をつないだ。いつも暇にしている女友達だ。
「何よ?」
百花は楽しくなってコンビニで缶ビールを取り出した。店を出てからプッシュっと缶あける音が聞こえた様だ。LINEから「なに? 飲んでんの?」と聞かれた。
「いいじゃない! かんぱーい!」
友達は鼻で笑っていた。
「ねぇ? 金井さんと、白井さん、黒木さんって同室の友達だったんだけど、一緒に話さない? いい人達だよ?」
「誰よその人達。知らない人とかみ合わない話するの嫌いなの!」
「何よ。ホストは大好きなくせに。」
「うるさいわね! だからいつまでたってもアンタはモテないのよ!」
「お互い様でしょ!」
そんな話が2時間くらいは続いた。
おしまい
取材の結果、同じ経験をした人、これからしてしてほしくない人に向けて。と感じた。