春、桜、別れの季節
小学校の入学式をふと思い出した。長く続く校内の道のわきにはそれは堂々と桜の木が何本も咲き誇っていて、はらりと落ちる何枚もの花びらが、小学生ながらにとてもきれいだと思った。地面に降り積もったピンク色の絨毯を蹴散らして、くるりとスカートを翻していた私の姿は、どう見えていたのだろうか。
幾度と季節が廻った。輪廻転生のごとく、私は同じようで違う春を通り過ぎた。私がスカートを翻して歩くのも、もうこれが最後になる。実際のところはもう三月もはじめのころに卒業式が終わり、この春から大学生になるのだけれど、こんな桜の花びらが落ちる日に制服を着ないのはもったいない気がした。そして、そう思っていたのは私だけではなかったらしい。
「久しぶり」
懐かしい声が耳を蹂躙していくのを、目を閉じて、じわり。感じる。振り返ることはしなかった。声だけで十分だと思った。川沿いの桜の木々の下で花を見上げる私の隣へ、彼は地べただということも気にせずゆっくりと腰を下ろす。彼の足が視界に入る。履き古してくたびれたローファーと見慣れたズボンが、彼もまた制服だということを示していた。通り過ぎる人々は、そんな私たちには目もくれず、桜の木だけを見ていた。散歩をしている犬でさえ、あくびをしている猫でさえ、風に揺れる桜の木を見つめている気がした。
私は返事をしなかった。否、口が動かなかった。今更どう言葉を交わせというのだろう。彼は無情にも微笑んだ。気配だけでそれがわかるほど、私たちは親しみをもっていた。指先が微かに震えた。彼が私のことを見つめている。すすり泣くことも微笑むことも、彼の前では許されない行為だった。
「制服着たくなるよな」
もう就職とか信じられねえ。そう言ってから思い出したように、ああおまえは大学生か。と付け足す彼の言葉は春風のように少しだけ冷たくて、それでも、私のからだをすべて包み込むような安心感を伴った。私は思わず、くるりと横を向いた。スカートが膝を掠める。
彼の柔らかな、すぐ寝癖のついてしまう髪を一枚の花びらが陣取っていた。私は花びらを掬い取って、地面にゆっくりと置いた。花びらは、ほかの花びらに埋もれて、どれがどれだかわからなくなる。それを蹴散らして、アスファルトに花びらが舞う中、しゃがみこんだ。
吸い寄せられるようにキスをした。目はどちらも閉じなかった。瞳を通して、私の中身すべてを彼にさらけ出す。そうすることでしか、泣いてしまいそうな衝動を抑えられない。やわらかでかさついた彼の唇を、私は何度この身に受け止めたのだろうか。二度と彼の唇を、からだを受け止めることがないのだと思うと、自然に彼の腕を掴んだ。皴になってしまうほど強く。
顔をゆっくりと引き離せば、彼の鼻の頭に花びらがまた陣取った。それを唇でできるだけ優しく食んで、そのまま自分の口の中へ誘い込んだ。彼の濡れた唇が近づく。今度は激しいキスだった。情熱的までとはいかないけれど、それに匹敵する激しい感情が互いに満ちていた。言わずともわかることだった。
「待ってる」
彼がそう言うのならば、きっとそうなのだろう。そういう人だ。きっと私を待ち続ける。私は帰ってこないかもしれないのに、なんて、どうしてそんな惨たらしいことが言えようか。待っていて、なんて、制服で立ち去る彼の背中にどうしてそんな馬鹿なことが言えようか。
桜を見上げる。花びらが頬に張り付いて、涙で濡れた。風がスカートをさらった。
春はもう、通り過ぎようとしている。




