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彼の世界

作者: 蜜柑月 眞

 彼はごく普通の男だった。

 幼い頃から、運動は人並みに出来た、学力も人並みにあった、風貌も人並みであった。

 ただ一つ、人並みでないものがあったとすれば、彼は、もう一つの世界を見ていたということだ。

 それは、自我が芽生えた頃――いや、この世に生を受けてからかもしれない頃――からあった。

 彼は幼少期、奇妙な絵を描いた。

 逆さを向いた黒い手の木、畝った青い雲と桃色の空、妙に丸い物体と尖った物体。初めは、独特な感性の持ち主だと思われていたようだった。

 ただ、彼はたまに物をよく掴み損ねたり、位置を正しく把握出来なかったりすることがあった。例えば、ドアを閉めようとして、ドアノブではなく、ドアの真ん中を掴もうとしていたりした。それでも、生活に大きな支障をきたすわけではなかったので、誰も気に留めなかった。

 しかし、小学生になって、図画工作の時間に風景画を描かせたところ彼は、重力を無視した、かやぶき小屋が何軒も重ねたようなおかしな物体を大きく描いた。背景は檸檬色一色で、その気味の悪い物体の中と前には、白い箱を被った人型の影や、全身から紫の棒が突き出した四足歩行の生き物――本人は鳥だと主張した――が描かれていた。

 教員は、真面目に描くようにと、再三注意換気を行なったが、彼は不思議そうな顔をするばかりで、提出された真面目な絵は、どれも非現実的な絵画ばかりであった。

 絵だけではない。

 彼は時折、何もない空虚を眺めていた。

 閉鎖された屋上の扉、押しボタン式信号機の押しボタン、橋の裏側、空き地の隅。そういったところを眺めては、ひとりで笑い出すこともあった。

 そんな彼の奇怪な行動を気味悪がって、彼の周りから人は遠ざかっていった。

 彼がどうして避けるのかと尋ねても、お前おかしいよと、また逃げられるだけだった。

 彼は自分が、周りとは違う、異常な存在なのだと薄々気づくようになっていた。

 両親に医者へ連れて行かれたことがあったが、脳も目も何も異常は見られなかった。絵を描いて見せても、独特な感性の持ち主だとしか認識されなかった。また、空間把握の齟齬も、原因は不明だった。

 彼が中学生の頃、入学して間も無く出来た友人にそのことを打ち明けた。まだ、彼の異常行動を見せていない時だった。彼の友人は一瞬身を引いたが、それでも話を聞いてくれた。だが、年月が経つに連れて、友人はもう付き合いきれないと、彼と交わりを絶った。

 彼は一人だった。

 自分の見えている世界が、世間一般の人間とは違うことが怖かった。人はそれぞれ、特徴を持っているというが、彼には人は皆、世間一般でいう肉の塊に、箱状のものが乗っているようなものにしか見えなかった。それは自分も同じだった。ただ、感情によって色が変わる。それだけだ。犬というものが可愛いというが、あんな細長い針金みたいな生き物のどこが可愛いのだと不思議だった。綺麗なアクセサリーだと女子が身体にくっつけているのは、この国で使われている文字の入った眼球や爪だった。

 文字についてだが、彼には全く違う形が見えていたらしいが、教育とその文字が意識下で繋がって、周囲からみれば普通に識字出来ていた。

 彼の見ている世界は、彼の描く絵を通してしか見ることが出来なかった。

大多数の人間には、気が狂いそうな世界を、彼は生きていた。もっとも、彼にはそれが普通だったのだが。

 彼は中学の終わりから高校に入るまでの間にかけて、自分の見ている世界を伝えようと絵を描くことに決めた。

 ことあるごとに、メモ帳やノート、スケッチブックなど、携帯するあらゆる用紙に書き留めた。

 一人黙々と、誰にも公表することなく、しかし、自ら死を目前にした時に全てを明かそうとしていた。

 そして、たった二年でその数は膨大になったが、それにつれて、ある不可解な点が浮かび上がった。

 それは、彼が十八になるかならないかの頃だった。

 偶然彼の絵を見つけてしまった両親は、驚きながら、恐る恐る彼に絵の詳細を問うた。

 その絵には相変わらず不気味な風景が描かれていたが、その中にぽつり、制服姿の女の子が立っていたのだ。

 彼は絵が見つかったことに、落胆と少々の怒りを見せていたが、渋々答えた。

 「学校の風景だよ」と。

 どう考えても学校には見えなかったが、そんなことよりも、彼が普通の世界の物が見えることに、両親は涙が出てきたという。今まで異常で、心配だった息子が、やっと普通に戻れると思ったのだろう。当然の思いだ。

 だが、現実的な人間が絵に表れる頻度は高くなったものの、彼の描く世界は依然変わらなかった。

 もっとも、彼自身も、何に驚かれたのか分かっていなかった。あの現実通りの人間は、以前から見えていたというのだ。それゆえ、たまに描かれる現実と同じ人間以外は、奇妙な風景のままだった。

 ある日、彼の両親は、彼の絵を、どこかに出してみるように提案してみた。

 彼は、予定が何十年も早まったことに不満そうだったが、一度、インターネットや美術館、美術に関連する学校などに送ってみた。

 結果は図らずも、大好評だった。

 是非一度会ってお話ししたい。絵を描いて欲しい。そんな内容の返事ばかりだった。

 彼は生まれて初めて、本当の自分を認められた気がして、仄かな歓喜に満ちていた。

 しかしそれも、美術館職員と実際に会い、試しに絵を描いた時までだった。

 彼は美術館を描くと言って、いつも通りキャンパスに筆を走らせた。色彩から造形まで、すべて常人の意識を飛び越えた物だった。生々しい肉のドーム状のもの、窓らしき耳、鈍色の支柱に絡みつく小麦色の蔓。そして、彼はまた、通常の人間を描き始めた。今度は気難しそうな面持ちの男性だった。写実的に、描きあげていく。その間、両親と職員たちは、別室で話をしていた。

 完成したと聞いて、美術館職員が彼の絵を見にきたが、絵を見た瞬間職員はあっと声を上げたかと思うと、恐れ慄いた目で、彼を見つめた。

 そして、その職員は、震える声でこう言い放った。

 

 「私の父を、知って、いるのですか?」


 彼はもちろん、その職員の父親などみたことがなかった。ただ、その場にあった物をそのまま描いただけだ。

 その日は、それだけで帰った。

 後日、両親が職員に呼び出され、その後、両親は全ての機関の絵画の申し出を断った。

 彼が訳を問うても、貼り付けたような笑顔で有耶無耶にされるだけだった。

 彼はそれでも、絵を描き続けた。元々今公開するものでもなかったから、昔の偉大な絵描きも生前認められなかったことなんてざらだったから、と言い聞かせて。

 それを続けて時が過ぎ、彼が二十代半ばになった頃だ。

 見える世界が違うからか、空間認識が出来ない時があるのか、会社ではやはり上手くいかず、結局退職し、フリーターの生活を始めた。

 なるべく、通常を模倣して、異常を悟られないようにする。その毎日だった。

 彼がアルバイトとして勤めていたのは、ファストフード店と新聞配達だった。

 彼は、体質なのか、遅寝早起きも苦ではなかった。夜と早朝のシフトを入れ、その間の空いた時間は、出かけて絵を描いていた。

 彼がフリーターとなって五年経ったある日だった。

 彼はようやく手に入れた車で、遠出して絵を描こうとしていた。

 そうして車を走らせて、ある十字路に差し掛かった。不運にもそこは、そこの住宅街の見通しが悪い場所で、度々事故の起こる場所だった。

 突然飛び出した少女――彼が見ていたのは無機質な箱人間だが――に気づいた時には、少女の身体は、進行方向に向かって数メートル跳ね飛ばされていた。

 生死は確認するまでもない。検死によると、頭蓋骨は粉々、各部位は複雑骨折、右脚は千切れ、見るも無惨な姿だったという。

 彼は自分の犯した重すぎる罪を認識しながらも、目の前の光景を必死でスケッチブックに収めた。ものの数分で描いてしまう勢いだった。

 

 なぜなら、箱と肉塊の姿だった物体が、少女の姿に昇華されていたからだ。


 彼はその後、救急と警察に連絡をした。

 遅すぎるかもしれないが、どのみち、小さな命はすでに彼の世界へと旅立っていた。

 救急が到着するまでの間、少女はずっと彼の方を見つめていた。


 裁判の結果、彼は過失運転致死で、五年の懲役に処された。

 彼の絵は、彼の逮捕後報道され、美術関係者からは再び注目された。しかし、例の美術館の職員の一つの報告によって、彼の絵は、美術関係者ではなく、オカルトマニアの注目を浴びるようになった。

 一方彼がその真実を知ったのは、両親との面会の時だった。

 両親から、あの現実的な人間の正体を知って、彼はひどく戦慄した。

 そして、次に、彼が殺めてしまった少女の両親が面会に来た時、彼は自らの罪を、一生背負っていかねばならない罪を、再び思い知らされたのだった。

 少女の両親の持つ遺影に写っていたのは、いつも見る他の人間とは全く別の、あの日スケッチブックに収めた時の少女だった。少女はやはり、こちらを見つめてたままで、今度は何かぱくぱくと話していたが、何を言わんとしているかは理解できなかった。少女は、彼が退出する間も、ずっと目で追いかけてきていた。

 彼は服役を終えると、自分の両親と少女の家族に謝罪をした。少女の家族は、「金ではあの子の命は戻ってこない。あなたを許しはしない。もう二度と同じことを繰り返すな。そして二度と顔を見せるな」と涙ぐんで、且つ強く告げた。

 その数日後、彼はある一つのことを決心して、眼科へ足を運んだ。

 無理な頼みだとわかっていても、医者に何度も何度も頼みこんだ。


 「目を見えなくしてください」


 目が見えなくなれば、もう彼は苦しまなくて済むと思ったのだ。

 医者は、彼が退かないことを悟り、前払いで契約書を書かせて、彼の目の手術を行った。

 眼球の形は保ったまま、視神経を絶って、生体適合の絶縁体で繋げただけの荒手術だったが、それでも彼の世界を真っ暗闇に落とすことは出来た。

 はずだった。

 

 彼は手術の後、目を覆う包帯を取った。

 すると彼の手足は突然震え始め、彼は頭を抱えて叫び出したかと思うと、病院を飛び出して行った。

 何かにおびえ、医者や他の患者の姿を見て、歯を鳴らしていた。

 

 その翌日の未明、彼の遺体は、近くの山で、下山途中の老夫婦に発見されたという。喉をナイフで引き裂いており、失血によるショック死とされた。

 彼のポケットには遺書が入っており、そこには、

 「◻︎んな奇怪◻︎世◻︎で生きて◻︎◻︎ない ◻︎んな世◻︎は怖◻︎ 怖◻︎ 怖◻︎ 怖◻︎◻︎い怖◻︎怖◻︎怖◻︎怖◻︎怖◻︎怖◻︎怖◻︎怖◻︎◻︎い怖◻︎怖◻︎怖◻︎怖◻︎怖◻︎◻︎い怖◻︎怖◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎」

 と書かれていた。最後のほうになると、判読するのも難しいほど歪んだ、意味不明な字になっていた。

 警察は、自殺と見て、遺体は彼の両親に返された。


 




 彼が死亡推定時刻と同時刻。

 世界各地に散らばった彼の絵は、全て白紙に戻り、その代わりに、

 

 「これは彼の世界だ」


 という文字が書かれていたという。

 最期まで目を通していただき、ありがとうございます。

 感覚質がテーマとなっています。

 自分の見ているものが、必ずしも相手と同じってわけじゃないですし、自分や相手の見えている世界はその人だけのもので、優劣なんてないと思うんです。

 あれ、これクオリアと関係ない部分多いですね。

 

 それでは、また今後ともよろしくお願いします。

 ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] テーマが伝わる良い話でした。彼の世界と常人の世界のズレの表現が良かったです。 [気になる点] 彼の人となりが見たかったです。無い方がテーマは伝わりやすいかもしれませんが、読み物としてのアク…
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