2006年 民族の衝突
フランスでの出来事に話を移したいと思う。アルジェリアの騒乱を受け長年に渡り多数の難民が地中海、ジブラルタル海峡を経由しヨーロッパに流入したのは周知の事実であるが、フランス経済は彼らを養うほど余裕はなく、さらには従来から存在する肥大化した国営企業や官僚機構の腐敗、高レベルの福祉社会を維持するための支出から逃れられないでいた。こうした背景の中でフランス国民はただでさえ高い失業率の中、押し寄せる難民や移民との競争を強いられ不満が高まっていた。そのなかで、難民は特に制限された生活のなかでこの高い失業率に苦しんでいた。そして彼ら難民が多く住む都市、パリやマルセイユ等で現状の生活環境の改善とフランスの掲げる「自由・博愛・平等」を求め連日、デモを行いフランス治安当局と衝突を繰り返した。この混乱のなかで北アフリカ地域の少数民族に起源をもつ、フランス生まれの世代は同胞が催涙ガスや警棒で痛めつけられている光景をテレビで見せつけられひどく傷つき同族意識を刺激された。そして彼らは自ら何ができるのかを考え最も愚かで短絡的な結論にたどり着いた。暴力による手助けである。アルジェリア難民を中心とした「全国難民協議会」や移民を中心とした「イスラム・フランス戦線」などの過激な思想をもつ組織が作られた。
彼らの不満はデモや暴動という身近な運動をはけ口とした。パリやマルセイユのスラム街では一層暴力的となったデモ隊が通りを埋め尽くした。彼らの手には家庭から持ち出したナイフや角材、手製の火炎瓶を持ち警官隊や国家憲兵隊と対峙した。もちろん治安当局はこれらの暴力行為を放っておくはずがなく、厳しく対処した。雑な隊列を組み自らを正当化するシュプレヒコールを繰り返しながら、通りを埋め尽くしているデモ隊。行く先の交差点には完全装備の機動憲兵隊が整然と並んでいる。デモ隊はとっくに彼らの存在に気づいていた。フランスの犬どもめ、デモ隊は突破のために先頭が火炎瓶を投げつけようと振りかぶり、後続が憲兵を蹴散らせようと身構えた。その時、一歩先に催涙ガス弾が憲兵隊から発射されデモ隊…いやもはや暴徒とよんでもいい様な連中の鼻先におちた。ガス弾からは灰色の煙が勢いよく噴出し催涙ガスのカーテンを作り出し、行く手を阻む。しかし暴徒たちはひるむことなく前進を続けた。攻撃は最大の防御とはよく言ったものだ。拡声器を持った若者が今さっき言い逃した言葉をようやく言えることができた。「奴らは敵だ!奴らを殺せ!武器を、ガスマスクを奪え!」まさにこの言葉が双方にとっての合図となった。憲兵隊は二発目の催涙ガス弾を今度は水平射撃で暴徒に対し撃ち込み、暴徒は憲兵隊へ襲い掛かった。ガス弾の一部が暴徒に直撃し地面に倒れ込んだ。憲兵隊は日ごろの訓練の成果を見せるべく奮闘した。盾で襲い狂う暴徒を押し返し、特殊警棒で力いっぱいぶん殴った。この暴徒のリーダーだと思われる拡声器の若者も逮捕ができた。これには今さっきまで威勢が良かった暴徒も驚き足が止まった。この機を逃すことなく憲兵隊は前進した。連中の間に無理やり割り込み、分断、手あたり次第逮捕し暴徒は後退を始めた。この現場ではうまくいったが全ての現場がうまくいったわけではなかった。ある場面ではパニックに陥った警官が暴徒鎮圧ゴム弾を乱射し、デモ隊の一人が死亡したために一層強い反発が起き大規模なデモが誘発された。
当局の厳しい対応をみて過激派の指導者たちは、より組織的な抵抗に戦略を変えようとしていた。まず、それまでバラバラに活動していた組織を統合し「自由平等同胞団(FEB)」を結成。より組織的かつ過激な手段で、フランスに対し攻撃を加え、生活環境の改善と「自由・博愛・平等」の獲得、フランスのアルジェリア政府に対する支援の停止を求め活動を多角化していった。同胞団はいままでのデモや暴動といった従来からの運動部とは別の特殊班をつくりテロ活動を始めた。そして国外の過激派組織、欧米が「国際テロ組織」と呼ぶ連中との繋がりを求め行動をおこした。その動きに喜んで賛同したのが後に、イスラム同盟の中核となる組織「神聖イスラム細胞」やアルジェリアの過激派「イスラム解放同盟団」である。特殊班はイスラム細胞から送り込まれた高性能爆薬と銃火器そして、それらを装備した狂信的なアルジェリア人コマンド達「アッラー鷹の群れ」が中心となり組織の戦力を飛躍された。彼らはアルジェリア本国のイスラム解放同盟団により選抜された元アルジェリア軍特殊部隊隊員であり、市街地戦の訓練をシリアで積み、イランから大量の銃火器を受け取っていたとされている。
武装闘争を繰り返すうちにFEBが当初掲げていた理念(生活環境の改善や自由・平等の獲得)は忘れ去られ、いつしか海外から持ち込まれたイスラム原理主義が幅をきかせ始めていた。この事態を憂慮した指導部は次第に自分たちが行っている暴力行為に対しても、危機感と嫌悪感を募らせはじめた。そして「アッラー鷹の群れ」が無断でパリの中心部で作戦を展開し、憲兵3名を殺害したのをきっかけに、指導部は彼らを解散することを決断した。しかしこの決断は履行されることはなく、決断をしたアルジェリア人指導部は皆一様に粛清される運命にあったとされ、その後、新たに指導部に着いたのは主にイスラム原理主義者であり彼らが組織の中心となったことは大いなる悲劇である。
フランス国民は暴動を鎮圧はおろか下火にすることすらできない政府に憤慨したが、フランスが誇る超高速列車TGVを停止させる暴挙におよんで怒りは頂点に達した。政府はイギリスやアメリカから特殊作戦部隊の指揮官や民間の対テロ専門家を招き、事態が緩やかに悪化する中、会議が重ねられた。その結果、最も有効な対策は中心人物の排除しかないという結論に行きつきフランスの有する主要な情報機関にたいし作戦の立案が命令された。しかしこの時のフランスと北アイルランドの時のイギリスとは大きく諜報機関の質が違っていた。さらに肌が白いフランス人と浅黒い肌のアルジェリア系移民とは決定的な民族的な違いから、組織に潜入させることを難しくしていた。一応アルジェリア人の情報屋を雇ってはいたが、彼らのうち半数以上はFEBとのつながりを持っていた。彼らは諜報機関やその協力機関に偽の情報をながし混乱を助長させた。それでも対外治安総局や国内治安総局に所属する工作員や特殊部隊らはフランス国内やアルジェリアで作戦を展開し、複数の人物の捕縛や暗殺に成功した。だが中心人物の物理的排除は不満という火に油を注ぐ行為に等しく、暴動やテロがあっというまに広がって被害がない都市を数えるほうが難しくなっていた。
フランス政府や諜報機関、ヨーロッパ諸国は夏いっぱい使い、アルジェリア本国の情勢の様子を見ていた。そしてフランスはアルジェリア国内にいる過激派分子の根絶したほうがよい、と考えに至りアルジェリア政府に対する直接的な軍事支援と、アルジェリア本土における無制限の軍事作戦を確約した緊急事態対応計画が立てられた。ヨーロッパ諸国は概ねフランスの姿勢を支持したが、控えめに言えば物理的安全保障、荒っぽく言えば国家によるテロリズムを同胞が演じていることにたいし嫌悪していた。