秩序の形成
ベルリンの壁とソビエトの崩壊により世界は新たな時代に突入した。それは変化と希望を人々にもたらし、冷戦の終結により西側の軍事及び政治戦略は中枢を失うことを意味していた。明確な脅威を失ったことにより軍縮の機運が高まりをみせ、唯一の軍事超大国となっていた「アメリカ合衆国」も例外ではなくなっていた。このことを世界中のジャーナリストやマスコミは平和の配当と呼びもてはやした。しかし、冷戦の終結は超大国同士の衝突の可能性が減っただけであり、従来の民族や宗教を理由にした「小さな戦争」が勃発する可能性は増していた。
冷戦期、西側と東側そして第三世界に属していた国々は一部の国をのぞいて節度を保っていた。万が一自分の国で紛争が起きれば、ソ連とアメリカの代理戦争の舞台となりすべてが壊される。その危機感が世界をみたしていた。特に東側の国家群はありとあらゆる考えを恐怖という空気が充填されたパックのようだった。それは文化や宗教、思想さらには憎悪に至るまで社会しいてはソビエトの意思に従わぬあらゆる面、良い面悪い面問わずパックされて金庫に保管されていたといえる。だが共産主義の崩壊に伴い、金庫に飢えた人々が殺到し、自由の名のもとに保管物を略奪しそれらをばらまき始めた。そして東欧全体をつつんでいた緊張がはじけ、バルカン半島を中心に継続的な紛争が見られ始めた。理由は何でも良い、憎悪が飢えた人々を満たし隣人に銃を向けたのだ。ユーロポリタン達は同胞の殺人行為に衝撃を受けたにも関わらず喫緊の脅威、ソ連のスチームローラーがヨーロッパの低地、ドイツの平原を蹂躙するといった差し迫った脅威がなくなったことを理由に、軍縮を推し進めた。西側各国は大きな岐路に立たされた。冷戦時に想定していた、あるいはそれ以上に最悪なシナリオを作り出し準備を進めるか、それともアメリカ主導のNATOの一員として必要な時に必要量戦えるだけの戦力を維持するのか、選択に迫られたのである。確かに脅威は排除された。後者の考えを選んだ各国政府は軍隊を骨抜きにした。冷戦期には精強さを誇っていた欧州軍も同様の運命を歩んだ。そして何が残ったのか。そのみじめな残骸の上に各国政府は国防政策まがいのものをつくり、ニューユーロアーミーと宣伝した。一体どこが新しいのか軍事研究者たちは困惑した。そして批判者は、軍縮という誤った選択をした政府、NATO上層部を糾弾した。しかしイギリスでは国民党が「変化選択」という合言葉のもと軍縮を推し進め、軍の将校も「無駄を減らす」、「贅肉を削ぎ落とす」といった前向きな発言を繰り返した。それでも懐疑論者たちの心は晴れなかった。第一に軍縮により本当の利益を受け取るのは国民ではなく政策顧問であり、第二に政策の道具たるふさわしい軍隊を作るというよりも、倹約を目的とした場当たり的な処置がとられているように見えていた。事実、ヨーロッパ社会主義の実現をめざす高官にとって軍事費は無駄に思えて仕方がなく見えていたようだった。また前述の多発する有事にすぐさま対応ができるように冷戦型欧州軍は、改編を必要としていたのは事実である。こうして軍の削減「ダウンサイジング」が時代の風潮となったのである。
兵員や装備の数が減るにつれ、世界中で常にどこかで発生している「小さな戦争」に関与する機会が増えていった。少ない戦力で多くの任務をこなす、この事は世界中の軍隊の基本になったかの様だった。世界を舞台に重要な役割、つまり「小さな戦争」を安定化させるため軍を送りこまなければならない。そうした理由からNATOの新たな軍編成『緊急対応部隊』が誕生し、より広い地域の安定化作戦を柔軟で、手ごろかつ機動性に富む新世代の軍隊が好まれた。この世代に生まれた部隊には「緊急」や「即応」といった特殊作戦部隊好みの言葉が乱立していた。しかしこの世界の流れにおいてアメリカだけは、オリジナルの指針を持ち続けていた。この指針はベトナム戦争期に考え出され国防総省、しいてはアメリカの国防政策の根幹をなすものであった。それは「先進国と発展途上国との戦い」と呼ばれている考えである。1963年ケネディの死去により大統領に昇格したジョンソンは国防総省の高官に「数の力が正義ならば、我々の守るべきものは彼らに奪われてしまうだろう」と語った。ここで言っている『彼ら』とは当時対立していた共産主義者を指したものではなく、将来的に発生するだろう先進国と発展途上国による戦いを念頭に置いた発言だった。ジョンソンはこの理念を形にするため国家安全保障行動覚書278号で明文化し、国防総省に全権を与えた。これ以降「先進国と発展途上国との戦い」は、国防総省の新たな指針となり現在に至っている。軍縮の中でもこの考えは生き続け、さらにはユーゴスラビアの内戦や世界で多発する小さな戦争によりいままでの準備は間違いでなかったと国防総省は確信した。さらにはその先にある脅威の存在についても明確ではないものの、気づき始めていた。そしてそれはいつか、我々と対峙する運命にあることも。
2000年代に入ってヨーロッパは全体的な軍縮を止めることはなかった。NATO諸国では顕著であり、のちに新たな脅威の出現の兆候に気づき、国防費を増大させた合衆国とは対照的にヨーロッパ全体の国防費は合衆国の三分の一以下にまで落ち込んだ。軍事企業にいたっては重複していた企業を合併させ、兵器の生産量は大きく落ち込んだ。いまやアメリカはテクノロジーにおいても軍事力においても、歴史上類を見ない大国となっていた。この時点でアメリカに比較する国はもはやなく、挑戦できる国も存在しなくなっていた。