第二話 堕落した少年
三年前の話――
中学生の鋭太郎と、その姉が家のリビングにいた。
テーブルを挟んで向かい合って椅子に座っている。
鋭太郎は小説を読み、姉は問題集を解いていた。
「あっ、鋭太郎! テストどうだった?」
思い出したかのように姉がテストの結果を聞いてくる。鋭太郎は動じることなくすんなりと、床に置いてあるバックから全教科のテスト用紙を取り出し、姉に渡す。
「えっ!? 全教科百点!? すごいじゃない! やっぱりあなたは私の自慢の弟よ!」
結果を見た姉は嬉しくて思わず用紙を放り投げ、鋭太郎の元に駆け足で寄り、横から笑顔で抱きしめる。
鋭太郎はそれに対し特に反応がなかった。感情がないわけではない。幼生期に受けた両親の虐待が、彼
の自由な表現を奪い取ってしまった。
「姉ちゃんはどうだったの?」
「うっ」
今度は鋭太郎が姉にテストの結果を聞いてくると、笑顔のまま硬直した。
「……知りたい?」
「無理にとは」
「なら聞かないほうがいいわー」
姉は座っていた椅子の元に戻り、再び座って向かい合う。
鋭太郎はわかっていた。姉は勉強が苦手で常に点数は学年の平均いくかいかないかの二つに一つであることを。
「どうして鋭太郎はそんなに勉強してるの?」
「夢があるから」
「それは?」
「姉ちゃんを幸せにしたい。いつか恩返しがしたいんだ」
「お姉ちゃんとっても嬉しいわ。でもね、ちょっと…………」
姉は下を向き考えをまとめていた。
「夢はね、もう少し自分勝手でいいんだよ。夢は『人のため』というより、『自分が何になりたいか』『どんな人になりたいか』が大切なんだと思う。鋭太郎の夢はまるで外せる足かせを外してはダメだと自分に厳しくし、無理に前に歩いているようなものなの。だから、鋭太郎には誰にも曲げられない立派な夢を持って欲しいの。いつか私のことなんか忘れて――」
「嫌だ! 姉ちゃんのことを忘れるなんて! 絶対」
鋭太郎は立ち上がり、強く言い放った。
鋭太郎は姉のことになる時だけ、唯一感情が表に出るのだ。
「鋭太郎…………」
「! ごめん…………」
鋭太郎は冷静になり、座る。
「いいのよ、夢は自由であるのが本来の姿だから、それを否定した私が悪いの…………」
「……………………」
沈黙――場の空気が一気に重くなった。
「……そうだ、姉ちゃんの夢は何?」
「そうね、それはいつの日か話しすわ」
「今はダメなの?」
「今は…………まだ話すべきじゃないと思うから」
だが――もう一生、姉の夢を聞くことが出来なくなった。
※
「………………」
話は現代に戻る。
鋭太郎は普段通り朝の六時に起床した。制服に着替え、テレビを点けて朝食を作り始める。
鋭太郎は高校に上がってから、アパートで一人暮らしを始めた。元々料理は得意だったため、朝食、弁当には困らなかった(料理もできなかった姉を補うために身につけただけである)。
朝食を作っている最中、テレビのニュースの内容が耳に入り込んでくる。気になった鋭太郎はテレビに目を移す。
『昨夜、文月市にて、謎の地番沈下が発生しました。その直後の目撃者は現在いません。警察は自然に発生したものか、誰かが意図的に行ったものか慎重に調査を進めています』
「近くだな…………」
テレビには、文月高校近くの住宅街の道路が映っていた。その道路は、コンクリートの一部がボロボロに剥がれ、大きな半球型に凹んでいた。
「地番沈下が起きただけならまだマシか。けどあそこはコンクリートを張り替えたばっかのはずだが…………」
鋭太郎が地番沈下が起きたことに不自然なことではないかと疑問を浮かべ、考えるがそれを邪魔するように近くにあったスマホから、メールの着信が入る。
鋭太郎はすぐさまスマホを手に取り、内容を確認する。
恋侍からだ。
『カノジョニフラレタ シニタイ』
「…………ざまぁみろ!」
※
時刻は九時過ぎ。
一時間目――国語の授業を受けていた。
授業に退屈した鋭太郎は思わず大きく口を開いてあくびをした。
失恋した恋侍は死んだ魚の目をして下を向いているが、放っておいても心配ないであろう。
鋭太郎は暇に辺りに目をやると、クラスメイトのほとんどがこそこそ話をしていた。
「昨日は驚いたよな」「昼のことね。夏織様はあんなやつがタイプだったの?」「そんなはずないだろう。鋭太郎、人柄悪いし性格も悪そう」「昨日の放課後、あの山本先輩が夏織先輩に振られたって」「信じられないわ。山本先輩は学園の中でも一、二を争うほどのイケメンなのに」
男女問わず、こそこそ話の声が聞こえてくる。
耳を澄ますことなく聞き取れる声量だったが、男性教師は耳が遠くて聞こえてないのか、あるいは無視しているのか平然と黒板に文字を書いている。書き終えた男性教師は生徒たちの方を向くと、教卓を両手でバン!! と強く叩いた。
「山茶花! いい加減にしろ! お前は何をしにこの学園の高等部に入った!!」
男性教師はなぜか授業に集中せずこそこそと話している生徒たちにではなく、何もしてない鋭太郎に叱った。
理由は明白――本当に何もしてないから。
鋭太郎の机には教科書どころか、ノートも、筆記用具すらも出ていなかった。他の生徒たちの机には、しっかりと授業の準備物があった。心が死んでいる恋侍ですら教科書を開き、ノートを取っている。
鋭太郎は明らかに他の生徒より、授業態度が悪かった。
「……………………」
鋭太郎は男性教師から目を逸らし、黙って他所を見ていた。
「聞けばお前は中学の時、成績トップだったそうじゃないか! 授業も真面目に受け、活気もあったと知り合いの先生が言ってたぞ!」
男性教師の発言に、クラス全体がざわつく。
クラスの皆は、授業態度の悪さと人柄から勉強に関しては皆無だと思っていた。これまでの授業で適当な答えを出したり、『わからない』の一点張りをしていたため、頭が悪いと思われても仕方がなかった。
「何があったかは知らんが、やる気がないならここから出てけ!!」
男性教師が怒鳴りつけると、鋭太郎は平然としながら机の脇に掛けてある鞄を持ち、立ち上がって教室を出ようとする。
「おい! 山茶花!」
改心を狙っていた男性教師は鋭太郎がした予想外の行動に戸惑い、呼び止める。だが鋭太郎は無視し、挨拶もせず教室を後にした。
鋭太郎が教室を出たと同時に、生徒一同は一斉にクスクスと笑い始める。
実は鋭太郎が勝手に教室を抜け、早退したのは今回が初めてではない。他の教科でもう四、五回はしている。
クラスの笑いものになるのも、当然のことである。
※
学校から出た鋭太郎は街の中をぶらぶら歩いていた。
これではもう不良と同レベルである。
鋭太郎は元々このような人間ではなかった。真面目で誰とでも打ち解けられる優しい性格だった。
――姉が死ぬまでは…………
姉がいなくなってから鋭太郎は別人に生まれ変わったかのように変貌した。
いままで趣味のようにやってきた勉強を一切せず、ロクに運動もせず、だらだらとした自堕落な生活を送り始めた。新しい友達を作ろうともせず、打ち解けようともしないためか周りからの印象も悪くなっていく。
そのため、恋侍だけが親友と呼べる唯一の存在となった。
幼なじみというのもあるが、ろくなことをしない恋侍を見てると、自身のの悩みが小さく思えてくることがあった。
鋭太郎にとって、恋侍は必要な存在だった。
(今日も早退しちまったな。めんどくさかったからいいけど。夏織先輩に告白は…………どうしようか)
鋭太郎は昨日の放課後、山本が夏織に振られる一部始終を陰から見ていた際、夏織が鋭太郎のことが好きであることを知った。いても立ってもいられない鋭太郎は、告白しようと決意した。
鋭太郎は好きであることを知ったその日に夏織のことを知ったため、前から好きだったというわけではない。普通に考えば、夏織ほどの美少女が自分のことを好きだとわかって告白しないやつなどもはや男ではない――そう言い切っても過言ではない。
それに鋭太郎自身、夏織は自分のタイプにとても当てはまっていた。
ポニーテールに水色の髪。胸は丁度いいくらいのCカップ。
まるで夏織は、鋭太郎の好みを事前に知り、理想の女性になるように努めたようだった。
(そういや、何で先輩は俺の過去を……? 本当に誰にも話してないのに…………)
鋭太郎は考えながら歩いていると、見覚えのある人物が逃げるように走っているのが遠くに見えた。
(あれ? なぜ夏織先輩が学校外に?)
夏織は鋭太郎から見て左側の、昨夜――地番沈下が起こった住宅街へ走って行った。
気になった鋭太郎は駆け足で夏織の後を追う。
夏織が曲がった道を曲がろうとしたその時――
「う゛ぐッ!!」
鋭太郎は何者かに背後から当て身をくらい、膝から崩れ落ちうつ伏せに倒れる。
鋭太郎は訳のわからないまま、意識が遠退いていった。
「――――っ!?」
数分後、鋭太郎の意識が戻る。目に映る景色が全く別のものに変わっていた。
人気がなく、近くには古びた建物が多く建っていた。
その中でも一際目を奪われたのは、目の前にいた夏織。驚いた顔で鋭太郎を見つめていた。
「夏織先輩!?」
鋭太郎は起き上がろうとするが、なぜか両手足の自由が効かず立つことが出来なかった。
「!?」
鋭太郎は自身の両手足を確認すると、背筋が凍り驚きの言葉が出てこなかった。
鋭太郎の両手足には鎖が強く縛られており、人並みの力では簡単に解けるものではなかった。
「起きたのね…………」
声を発したのは夏織――ではなく、鋭太郎の後ろに立っていた赤色の短髪少女だった。
その少女は夏織と同じ制服を身に纏っている。身長は同じくらい。
だがよく見ると、右手には西洋の剣が握られている。
少女は夏織を見てニヤケ面を見せる。
「どうしたの? さっきまでの威勢は?」
「…………あなたはそういう卑劣な手を使わないと思ってたのに、ガイア」
夏織が普段より低い声で話した。
(ガイア? 確かギリシャ神話に出てくる地母神――だったっけな。でもどうして?)
「僕にこんなことをさせたのはカオス――君のせいだよ」
少女は剣を夏織に突きつけ言い放った。
「おい待てよ!」
「? どうしたのチェリーボーイ」
「チェリーっておま――いや、今は置いといて。身の危険がさらされている状況の俺がこんな質問をするのはおかしいと思うが、なぜ神話の神の名が会話に出てんだ?」
空気の読まない鋭太郎の質問に、少女はため息を吐く。
「あのねー、普通に聞いてれば誰でもわかることだよ。僕の名はガイアであいつがカオス。それだけだよ」
「おい! ますますわかんなくなってきたぞ! 先輩の名前は『夏織』だぞ!」
「…………あー、まだ何も知らないって訳ね」
ガイアと名乗る少女は数秒頭を抱えた後、何かを察した。
「どういうことなんだ!?」
鋭太郎はますます疑問が深まっていく。
「君厄介だね、疑問は何でも質問する系の人? でも答えても意味がないよ。用が済んだら君の記憶をいじくるからね」
「!?」
鋭太郎は気づいた。
自分は入ってはいけない領域に入ってしまった。
二人はただ者ではないことに。
「カオス、アイテール様が帰りを待っている。僕たちの世界に帰ろう」
(僕たちの? もう一つパラレルワールドがあるとでもいうのか?)
「無理。私にはやるべきことが残っている」
「それは知っているさ。でも大丈夫……」
ガイアは剣を持った右腕を天に掲げ――
「僕がそれを消化するから」
――振り下ろした。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
耳を塞ぎたくなるような、鋭太郎の痛々しい悲鳴が辺り全体に響く。
もがき苦しむ鋭太郎の姿、飛び散った両手を目の前に、夏織は理性が吹き飛びそうだった。
「あ゛―! うがあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
人生でほとんどの確率で体験しないほど強烈な痛み。両手の感覚などすでに過去のもの。両腕から大量の血が溢れ出す。初めて見る生々しい肉片とむき出しにされた骨。
鋭太郎の脳内は今――早く楽になりたいという感情で埋め尽くされていく。
「カオスが治癒系エフェクトを持っていないことはすでに把握済み。おとなしく帰ると言うなら僕が治して――あれ?」
ガイアが有利な状況で交渉を求めたが、気づくと目の前に夏織の姿はなかった。
「混沌<グラビティ・ブラスト>」
「!?」
ガイアの後ろに回りこんでいた夏織が呪文か何かを唱えた。
ガイアが後ろを向くと同時に体が後ろに引っ張られ、後ろの建物に背中を強くたたきつけられた。
「くそ! いつの間に!」
ガイアは動こうとするが、強い重力のような圧力を前方から受けており、まともに身動きが取れなかった。
夏織がその様子を目で確かめると、鋭太郎の前でしゃがむ。
「―――っ!! ――――――っ!!」
目は虚ろ。悲鳴すらまともに出なくなる。両腕からの出血も止まらず、体が痙攣し始める。
「鋭太郎さん…………」
夏織は右手を鋭太郎の頬に添え、顔を近づける。
「!!」
鋭太郎は感じた。自分の唇が、夏織の唇と重なっている。
――キスをしていることを。
キスは人によって味が違うらしいとかなんとか。だが激痛を浴びている鋭太郎にキスを堪能する余裕はなかった。しかし、時間が経つにつれて痛みが消えていく。
――二十秒程経ったところで夏織は唇を離し、立ち上がって後ろを向いた。鋭太郎にキスしたことが後から恥ずかしくなり、顔を見られたくなかったからである。
キスのおかげなのか、鋭太郎の体から痛みが完全に消え、両手の感覚も戻っている。
「――ぇ?」
――両手の感覚も戻っている。
「なんでだ!? まるで意味がわからんぞ!」
切断されたはずの両手が嘘のように元通りに戻っていた。
鋭太郎は慌てて辺りを見渡す。鋭太郎の前方に、確かに切断された自分の両手が転がっている。切断されたことは嘘ではない。
不思議なことに、両手が再生したのである。
鋭太郎は立ち上がろうとするが、両足の自由が効かない。鎖で縛られていることをすっかり忘れていた。
「このっ! って、ありゃ?」
鋭太郎はダメ元で足を広げて鎖を切ろうと試みたところ、本当に切れた。
鋭太郎は立ち上がる。普段より体が軽く、今にも体を動かしたい気分だった。
「体が軽い。日頃の疲れが嘘のようだ…………!」
鋭太郎は自分の体の状態を確認し始める。
圧力から解放されたガイアはふらつき前に膝を崩す。ガイアは鋭太郎を見て戸惑い始める。
「どうして!? カオスは確かに治癒系エフェクトを持ってないはず――まさか……力を分け与えたな!!」
ガイアは剣を槍のように夏織に向けて投げ飛ばす。その速度は発射された弾丸の速度を超える。少なくとも人並みの人間ではかわせない。
夏織はよそ見をしていて剣が向かってくることに気づいていない。
鋭太郎はそれに気づいてくれた。
「危ない!!」
鋭太郎は無理だとわかってでも剣を止めようと動いた。
「!?」
夏織は意味を瞬時に察し、飛んでくる剣の方向を向いた。
夏織は焦ることなくそれを――
「…………え?」
――掴んだ。
――鋭太郎が。
夏織は弾丸の如く迫る剣を、体に刺さる前に素早く取ることが可能だった。だがそれよりも速く、音速を超えるような速度で鋭太郎が剣を掴んでいたのだ。
「マジかよ!」
鋭太郎は自分自身に驚く。絶対に止められるはずのない剣を止めたからだ。
鋭太郎は剣を後ろに投げ捨てる。
「まさか、神の力を得た人間が、ここまで強くなるなんて……!」
ガイアは剣を止められたことに驚き、立ち上がる気力をなくした。
夏織はガイアの前まで、ゆっくりと歩み寄る。
「悪く思わないで……」
夏織は右腕を引き上げ、拳を強く握る。
「混沌<パニッシュメン――」
「させるかよ!!」
上空から男性の声が聞こえてくる。
「うおおおおおおおおりゃ!!」
槍を持った男が空から落ちてくる。男は夏織たちに向けて槍を突き刺す。
落ちた衝撃で風圧が起き、雑草が舞い散る。
「くそ! 逃がしたか!」
槍を指した地面には大きな凹みが出来たが、二人の姿がなかった。
「アキレス、勝手なことすんなって言っただろ!」
ガイアが自身を助けた男――アキレスに対して怒る。
「わりい。だがお前もピンチだったろ? あいつの<パニッシュメント・ネメシス>をまともにくらったら死んでたぞ」
「わかってる!」
ガイアはアキレスに強く怒鳴った。アキレスはため息を吐く
「そんで、この後はどうすんだ?」
「もちろんカオスを追う。それと、あの人間もね」
二人は空高く飛び上がり、夏織たちを探し始めた。
「…………もう大丈夫ですね」
誰もいないはずの辺りから、突如夏織と鋭太郎が姿を現す。
「今のはステルス迷彩かける的な魔法か?」
鋭太郎は驚きの連続で頭が混乱し、敬語を使うことを忘れている。
「その通りです。その魔法を私たちはエフェクトと呼んでいます」
「あまり変わらないと思うが……それよりだ」
「?」
「さっきの連中は何もんなんだ? それに先輩のこと……『カオス』って」
「…………」
夏織は下を向き、考えをまとめ口を開く。
「鋭太郎は私が言うことを信じてくれますか?」
「信じられなくても、受け止める」
「……わかりました」
夏織は鋭太郎と少し距離を置き、目を合わせる。その眼差しには、強い思いが籠もっていた。
「私の本名はカオス。知っての通り、混沌の神です」