キッチンにて
僕がキッチンに行くと、キッチンの彼女はこちらに近づいてきた。エプロンの裾で手を拭きながら「どうしたの?」と言う。昼だけどなぜか足下がおぼろげに見えた。休日だからって遅く起きたからだろうか。
「いつもありがとう。手伝わせてくれないかな」
首をかしげる彼女はやはり僕の行動に戸惑っているようだ。
仕事がら家事をすることのない僕を妻は懸命に支えてくれている。それを直に見たくて、また「手伝わせてくれるかい?」と言いたくてそれこそ柄でもないことをしている。
「いいわよ。疲れてるでしょ?」
多分、彼女なりの懸命な照れ隠しだったのだろう。ふいに後ろを向いて顔を見せようとしない。それを見て更に彼女を愛おしいと思った。そして僕は、
「手伝わせてくれ」と少しだけ背伸びをして囁くような声で言った。
「もう。じゃあ先ずそこのお皿洗ってくれる?」
皿洗いか。小さい頃以来だな。洗い場の前に立ち、スポンジを手に取る。軽く水で食べ残しを落としてからほんの数量だけスポンジに洗剤をたらし作業に取りかかった。
「ちゃんと私のやり方見てたんだ。お母様があなたは洗い物なんてめったにしないって言ってたから心配だったわ」
なんだかばかにされたようなほめられたような変な気持ちだった。彼女は鼻歌で何かのCMの歌を歌っている。
「忘れたの? 私たちが付き合った年のCM」
「そんなの忘れたよ」
そりゃ結婚して数年、覚えているほうがおかしい。でもお前は覚えているんだな。僕が君を一人にしすぎたのかもしれない。狭い世界にいさせすぎたのかもしれないな。
「大丈夫。それより次にこっちへ来てお菓子作るの手伝ってくれない? ちょっとここに砂糖入れて」
彼女は手招きしている。戸棚から砂糖を出した。そして僕はそちらに行こうとした。
「あらあなたはやっぱり馬鹿ね。まだこっちには来ちゃだめよ。それにそれ塩って書いてあるじゃないの。まったく、もう少しで事故よ」
そこで世界が暗転した。彼女は消えた。
「おとうさん。おとうさん」
娘の声が聞こえた。僕を揺さぶっている。僕は意識を失っていたようだ。
妻が事故で亡くなってからもう一年。働くしか脳がない僕はとにかく働いた。妻の残していってくれた娘のために、自分を見失わないために。
でもそれはある意味自分を見失っていたのかもしれない。だから倒れたんだろう。
「おとうさん。たまにはあそんでよ」
「うん。今日はお菓子を作ろう」
「うん!」
娘は満面の笑みを見せてくれた。そうだ、少し仕事を休もう。今日は娘に母の話をしよう。