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夜叉往来  作者: BUTAPENN
第五話 「時を経しもの」
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第五話 「時を経しもの」(1)



 伊予国宇和。

 今は愛媛県北宇和郡と呼ばれているその地に、四百年前まで『矢上郷』という村があった。



 山あいに、木の撃ち合わさる甲高い音が、幾重にもこだました。

 朝の霧がひたひたと立ちこめる墨絵のような森に徐々に白い光が差し込み、やがて中天の日がすべてのものにくっきりと影を落とすまで、その激しい響きは鳴り止まなかった。

 地面に差していた椎の丸太がボロボロにささくれ立ち、ついにぐずりと崩れ落ちるのを見て、ようやく男は打ち込みの手を止めた。

 稽古着を脱いだ上半身には滝の汗が流れ、しとどに濡れた前髪からも顎からも、雫が伝い落ちる。

 激しくついていた息をどうにか治めた頃、ふもとの方から、まだ声変わりを終えたばかりの少年の叫びが聞こえた。

「統馬さまぁ」

 立ち木稽古の音をたよりに、ここを探し当てたのだろう。彼のもとに駆け寄った少年は、しゃちこばってお辞儀した。

「ただいま、しもの村の矢萩さまが、信野さまとともにお屋敷にお見えになられたとのことでございます」

「わかった。すぐに戻る」

 役目を終えてほっとしたのか、少年は満面の笑みを浮かべて、一目散に元来た道を駆けて行ってしまった。

 自分も、数年前はあれと同じ歳だった。統馬は思う。毎日、仲間たちと野山を走り回っていた。後の日のことなど何も考えずに。

 解界げかいの真言を唱えて修行を終えると、刀を腰に差し、山を下り始めた。

 半年前まで、自分がこの名を受け継ぐなどとは夢想したこともなかった。一族の誰もが、兄の誠太郎が矢上家の跡継ぎであると認めていた。真言を自在に操る知識と霊力のみならず、出会う者すべてに慕われる兄の鷹揚さは天分とも言うべきものがある。

(統馬の名を、二男翔次郎に譲る)

 父が家人けにんたちを呼び集めたとき、人々の間に広がったどよめきが今でも耳の奥にこびりついている。

 理由はただひとつ。矢上一族に代々伝わるご神刀・天叢雲が、もっともふさわしい者として彼を選んだのだ。

 父はそう言った。だが、誰も父のほかに天叢雲の声を聞くことのできる者などいない。

(お館さまは、西園寺殿についての誠太郎さまの進言がお気に召さなかったのだ)

 まことしやかな噂が、長く尾を引くようにあちこちで囁かれ続けた。

(だから、ご自分の言いなりになる翔次郎さまに家督を譲られるのだ)

 それ以来、統馬は誰の視線をも避けるように、修行を口実に屋敷から逃げ出している。毎日気を失う寸前まで木刀を振るい、真言を唱え続ける。

「俺には、一族を背負って立つ、そんな器量はない。統馬の名は俺には重過ぎる」

 いったい何度、そう言おうとしたかしれない。だが、そう言わせないものもまた、己の心のうちにあった。

 麓との山道の途中に、細い源流がある。

 ひざまずいて、湧き出たばかりの氷のように冷たい水に頭を浸した。目を上げると、2枚の落ち葉が岩壷で激しく浮き沈みしながら、それでも離れずに流れていった。その行く先で川は次第に幅を増し、矢上郷の下の村と上屋敷を隔てる浅く広い流れとなる。

 昔から、そこは上屋敷の子どもと村の子どもが、どちらともなく集まり、ともに遊ぶ場所だった。

 まだ童女わらわの髪をした信野が、少女たちと一緒に笹舟を流していた。そして、ときどき対岸で釣りをしている誠太郎のほうをそっと見やる。

 翔次郎はいつもその視線の方向に気づいていた。だから余計に仲間と大声で笑ったり、水しぶきをあげたりしたのだ。自分の気持ちを自分にさえも気取られぬように。

 あの頃は誰もが、信野は大きくなったら誠太郎に嫁ぐと思っていた。



 平安時代から続く夜叉追いの一族が、京を離れ、この平和で温暖な地に住み着いたのは、鎌倉幕府の開かれた頃。

 同じく京より下向した公家・西園寺氏が宇和を領地とすると、その一角に広い荘園を与えられ、やがて一族はふたつに分かれて住んだ。上屋敷の村には夜叉を祓うことを生業なりわいとする本家が、そして下の村には傍系の矢萩家が、主に農業を営むことによって一族の生活を支えていた。

 真言の秘術を修め究めるためには、幼い頃からの厳しい修行とともに、生まれついての天資が必要となる。霊力の強い濃い血を絶やさぬために、男女は生まれた時から結婚相手を一族の中で定められた。

 そして近親婚の弊害を避けるために、ときおり矢上・矢萩が互いの娘を相手に嫁がせることが、古くからの慣わしとなっていた。



「統馬さま」

 割れ竹の組垣から裏庭に入ると、膝までの小袖を着た娘が、洗い物を抱え、井戸の方から小走りで近づいてきた。

「まさか、その稽古着のまま大広間に行きなさるんじゃないよね」

「悪いか」

 けやきは同い年の、家人の娘。小さいときから上屋敷でいっしょに育ってきて、頼りない統馬の世話を何くれとなく焼きたがる。

「そんな臭くて汚い格好で出たら、信野さんに嫌われちゃうよ。とっとと、着替えておいでなさいまし」

「別に、これでいい」

「いいわけないでしょう。大声出して、大方さま呼ぶよ!」

「ああ、もう! 畜生、わかった。わかったよ」

 統馬は昔から、けやきに言い勝ったためしがない。

 しぶしぶと、綿の筒袖と丈の短い括袴くくりばかまに着替えて、父と客人が待つ大広間へと向かった。

「おお、統馬」

 父は、彼を一目見ると、円座から立ち上がった。

「ずっと待っておられたのだぞ。早く、宗右衛門様と信野どのにご挨拶を」

 と言いつつ脇に退き、代わりに統馬が上座に座った。

「統馬さま、ご息災の様子、何よりです」

「矢萩さまもお変わりなく」

 下の村の庄屋・矢萩宗右衛門とその娘は、新しい当主に向かって深々と辞儀をする。

 ふたりが顔を伏せた一瞬だけ、統馬は信野にそっと目を走らせた。

 淡い常盤色の小袖。色白の細面。ふっくらした薄紅色の唇は、固くきゅっと結ばれている。

「それで、今日の御用の向きは?」

 ふたりが顔を上げる前に視線をはずし、庄屋に問いかけた。

「はい。祝言まであと1月。今日から信野をこちらに預けようと思いましてな。上屋敷のことを何も存じぬゆえ、せめて大方さまのもとで、くりやのことだけでも仕込んでいただければと存じます」

 父・宗右衛門の上機嫌の声にも、信野は表情を変えずうつむいたままだった。

 祝言。

 矢萩家の最も霊力の濃い血を受け継ぐ庄屋の家に生まれた彼女は、幼い頃から矢上家の次の当主のもとに嫁ぐことが定められていた。

 弟の翔次郎が総領の名を継いだ今となっては、それは彼と祝言を挙げることを意味していた。兄の誠太郎ではなく。

 信野は子どもの頃からずっと兄のことだけを見つめてきたのだ。人望の厚い、すべてに秀でた男を見続けてきた女性が、いったい他の誰に嫁ぐことを喜ぶものか。信野は今、目を伏せたままわが身の運命を呪っているのだろう。

 統馬にしても――、望むものは初めからないと思えば苦にならなかった。誰でもよいから親に定められた女を妻にめとって、一生を平穏に過ごせればそれでよかった。

 一番恋しい女が自分のものになる。だが、その心は自分ではなく別の男に向いていると知ったとき、男はいったい、どうすればよいのだろう。

 一方で、何もかも劣っている自分が初めて兄のものを奪えるという喜びもふつふつと、はらわたに疼いてくる。その卑屈さに気づくことも、また地獄だった。

「一刻も早く、統馬さまと信野のややを見たいものですな。さぞかし可愛いややが生まれることでしょう」

「まことに」

 笑顔で語り合う父たちを横目に、

(俺も信野も、子を作るための道具に過ぎないのか)

 統馬は誰にも知られぬよう、奥歯を噛みしめた。



「統馬さまは、ずっとわしらを睨みつけておられたのう」

 宗右衛門は屋敷を辞するとき、竹垣の前で茜空を見上げた。

「はい……」

「あの方はまだ子どもじゃ。来年18になられると言うが、これまでがあまりに天真爛漫に育ってこられたからだろう。その分、今になって戸惑っておられるのじゃ」

 不安げに眉をひそめる娘に、「信野」と父は呼んだ。

「案ずるな。あの方は、矢上家の総領の器を十分に持っていなさる。誠太郎さまより大きな器をな。ご神刀の選びは、間違うてはおらぬ」

「……でも村の誰もが、このたびのお館さまのご決断はおかしいと、噂しています」

「誠太郎さまは、優秀すぎるのじゃ。お館さまはそのことが、昔からわかっておられた」

 諭すように何度も、宗右衛門はうなずく。

「夜叉追いの資質というのはのう、何よりも、人の心の痛みを知ることなのじゃ」



 厨から、自分に与えられた部屋に戻る途中の灯りのない裏庭で、信野は突然ぐいと腕を引かれた。

「あっ……」

 暗い茂みに引きこまれると、誰かのたくましい胸が彼女を抱き入れた。

「信野」

「せ、誠太郎さま?」

 彼女はあわてて、その腕をふりほどいた。

「いけません、誠太郎さま。わたくしは……」

「会いたかった。信野」

 誠太郎は、暗闇を射抜くような涼しい眼差しで、信野を見つめる。

「知っておろうに。俺が子どもの頃から妻と思い定めたのは、おまえひとりだった」

「それは……、わたくしとて同じでございます。でも……」

 彼女は顔をそむけた。

「父とお館さまは、わたくしを統馬さまにめあわわせると。そうお決めになったのでございます」

「おまえはそれで得心しているのか」

「矢上のお家のためならば。それがわたくしの役目でございますれば」

「翔次郎はほかに、好いた女子がいるのだぞ。小さい頃からこの家に仕えておる、けやきという女だ」

「それは……わたくしには関係のないこと」

 誠太郎は、彼女が頑なな態度を崩さないと見て、話題を変えた。

「……ここへ来て3日、母上はよくしてくれるか?」

「はい。大方さまも、回りの方々もとても親切にしてくださいます」

「母上は、俺の味方だ。母上ばかりではない。父と弟以外、この屋敷中の人間が俺とおまえの味方だ」

「え……」

「父上は西園寺に与するあまり、御目を曇らせておられる。四国全土の状況も時代も見誤っておられるのだ」

 彼は微笑んで、さらに続ける。

「やがては父上に間違いを悟っていただくように、お諌めせねばならぬ。そうすれば統馬の名はふたたび俺のものになる。それがまことに一族のため。

……どうだ。おまえも俺の味方をしてくれるな」

「あ……」

 有無を言わせぬ力で、誠太郎の唇が信野のそれに重なった。



 ふたりの姿に影を落とす竹林の重なりのさらに奥に、鋭い光があった。

 ふたつの光る目が愉悦に歪みながら、じっと彼らを見つめている。

 夜叉追いの屋敷の中と言えども、そのまがまがしい妖力に満ちた存在の正体を知る者は、まだ誰もいなかった。





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