第三話 「天に叛くもの」(1)
朝のラッシュが終わったあとの駅前のロータリーは閑散としている。
7月の過激な日光の底でゆらめく舗道も、熱風にあおられて息絶え絶えな街路樹の緑も、分厚いガラスの内側の冷房のきいた屋内から眺めると、さわやかな避暑地の風景のように見えるのが不思議だ。
夏休み。朝10時。ハンバーガーショップの窓際の特等席で飲むアイスティー。
学生に与えられた最高のぜいたくだと思う。
「ほら見ろ、統馬。詩乃どのはさっきから、がっかりしてため息をつき通しではないか」
テーブルの上にちょこんと乗っていたマスコットの白狐が、いきなり口を利き始めた。
「痴漢行為を働いて迷惑をかけた罪滅ぼしのご馳走じゃぞ。それなのに、ファストフード店はないだろうが」
「うるせえ。誰が、痴漢行為だ」
向かいの席で、統馬は相変わらず退屈そうに椅子の背にもたれている。Tシャツにジーンズ、薄手のパーカー。はじめて見る彼の私服姿は、高校の制服に身を包んでいるときよりずっと大人びて見えた。
子どもっぽいフレアスカートなど着てくるんじゃなかったと、詩乃は後悔する。
「勉学に励むべき学び舎での同意なしの接吻。あれを痴漢行為と言わずしてなんとする」
「ナギちゃん、私は別にがっかりして、ため息をついてるわけじゃないからね」
なだめるように白狐のふわふわの頭に手を置いた。
もし誰かがずっと聞き耳を立てていたなら、詩乃はプロの腹話術師と思われただろう。もっともそんな暇な人間は、平日のこの時間の店内にいるはずもないが。
「ため息をついたのは、幸せで胸がつまりそうだから。だって、これから40日も夏休みだなんて、わくわくするじゃない?」
結局、夏休みになるまでのあいだ、2年D組で詩乃は孤立したままだった。露骨は嫌がらせはなくなったが、男子も女子も遠巻きに彼女を避けている。担任もイジメに関しては、おまえも悪い、一時的なものだから我慢しろと、解決には及び腰だ。針のむしろの毎日の中で、学校の門をくぐらなくてすむ日々が、詩乃にはどれほど待ち遠しかったことか。
そうして訪れた夏休み初日。たぶんひと夏、級友からの誘いもないに違いない彼女を少しでも慰めようと、草薙が強制的に今日のデートを提案したのだが。
「矢上くんは、どうしてポテトとコーラだけなの?」
詩乃が彼の顔を不思議そうにのぞきこんでいる。
「もしかして、お金なかったんじゃない? 割りカンにしようか?」
草薙がわははと笑い転げる。
「女子高生に360円のモーニングセットをご馳走したくらいで、これだけ心配されるとは悲しいな、統馬」
統馬は腹立たしげに、コーラの氷をがりがりと噛んだ。
「夜叉追いは、夜叉以外の殺生をしないと決められているんだ。だから、肉や魚を食べない」
「それで、いつも大根ばかりなのね」
「俺だって、給料くらいもらっている。余計な気はつかうな」
「え? 夜叉追いってお給料がもらえるの?」
「まとめ役がひとりいて、そいつが調査や調伏の依頼を伝えてくる。報酬も定期的に振り込まれる。俺たちと言えど、生きるためには金が必要だからな」
「俺たち……って、他にも夜叉追いの人がいるの?」
「何人かは」
「ふうん、会ってみたいな。みんな矢上くんみたいに怖いのかな」
「こいつは特別じゃて」
草薙が口をはさんだそのとき、着信音が鳴った。
統馬はポケットから携帯を取り出し、画面を見て口の端をゆがめるように笑った。
「噂をすれば……。久下からだ」
「くげ?」
「今話していた、まとめ役の所長さんじゃよ」
彼が応答しているあいだ、詩乃と草薙は、そばでひそひそと頭を寄せ合う。
「なんだか、こうして見てると不思議」
「なにがじゃ」
「矢上くんが銀行振り込みでお給料をもらってて、会社から携帯かかってくるのを見るのって。……ほら、曼荼羅を描いたり刀で夜叉を祓ったり、いつもまるで江戸時代の人みたいでしょう?」
「確かにとんでもなく浮世離れしとるからのう、こいつは」
統馬は携帯を閉じて、言った。
「仕事が入った。今から事務所に行かねばならん」
「あ……、そうなんだ」
詩乃は、がっかりした気持ちを押し隠す。
「また夜叉を祓う仕事?」
「ああ」
「気をつけてね。……あ、そうだ」
詩乃は、持っていたタータンチェックのリュックから、包みを取り出した。
「ゆうべ、やっと完成したの。すぐに渡せてよかった」
中からでてきたのは、藍染めの端布を何枚か縫い合わせた、刀入れだった。
「うちにミシンないの。手縫いだから、目が粗くてごめんね。でも寸法はぴったりのはずだから。それと、内側に錫杖やナギちゃんを入れるポケットもつけておいたよ」
「詩乃どのは、毎日夜遅くまでかかって作ってくれたのだぞ。中は綿入りで、すっごくふかふかで居心地がいい」
草薙は感涙に大きな黄金色の目をうるませている。「この、中がぼろぼろウレタンのクラブケースとは大違い。わたしと叢雲のすてきなニューホームじゃ」
「よかったら使ってみて。もう知らない人に、ハンディはいくつだなんて聞かれないと思うよ」
「そうだな」
統馬はどういう表情をしていいかわからなくなり、しかめ面のまま目を伏せた。
「あとで、どこか人目のない所で入れ替える。……ありがとう」
「うん。じゃあ。今日はほんとにごちそうさま」
草薙をリュックの金具に結びつけ、詩乃は立ち上がった。
「弓月」
「え?」
「いっしょに来るか。久下に会ってみたいのだろう」
統馬を見下ろす目がぱっと喜びに輝いた。
「いいの? でも……」
「ここからそう遠くはない。だが何か予定があるのなら無理にとは言わないが」
「……一時半から塾の夏期講習があるんだけど」
しかし、もうすでに彼女の頬は、いたずらっぽい笑みにゆるんでいた。
「こんなの生まれて初めてだけど、……さぼる!」
電車で五駅。駅からは、車の吹き出す熱い排気ガスを浴びながら道路伝いに数分歩くと、目指す事務所は雑居テナントビルの3階にあった。
エレベーターを降りてすぐ眼の前のドアに、「久下心霊調査事務所」という、おどろおどろしい手書きのプレートがぶらさがっている。
「な、なんだか、思いっきりアヤしいね……」
詩乃は来たことをしみじみと後悔していた。
「久下のやつ、懲りずにまたこの看板を持ってきたのか」
統馬が眉をひそめている。
「懲りずにって?」
「ああ、前の事務所はこれのせいで3ヶ月で追い出されたからな」
「……だよねえ」
彼が開けた扉をおそるおそる続いて入ると、中はごく普通の明るい事務所で、奥の窓際には事務机、間仕切りがわりのファイル・キャビネットの手前には簡単な応接セットが置いてあって、エアコンが適度に効いていた。詩乃の危惧に反して、インド風の音楽もお香も、空中に浮いている行者もなかった。
別の意味で驚かせたのは、彼らを出迎えた30歳前後の派手なスーツを着た男。短髪を金色に染めてツンツンに立て、眉を剃り、短い顎ひげを生やしている、どこから見ても業界人風な男だった。
「はじめまして。ここの所長をしています、久下尚人です」
と、意外にソフトで礼儀正しい口調で名乗る。詩乃のことは前もって聞かされているのか、驚く素振りも見せなかった。
「弓月詩乃です」
「詩乃さん。……いいお名前ですね」
そして、チラリと統馬の方を見ると、
「デートの最中に、邪魔をして悪かったですね」
「おまえが都合のよいときに連絡してきたことなど、一回でもあるか」
からかわれていることがわかっている統馬は、普段にもまして不機嫌だ。
「それで、今日は何をすればいいんだ」
「調査の依頼が入りました。S市で、霊現象が起きる家があるそうです」
「どうせ、無駄足に決まってる」
「まあ、そう言わないで。S市の住宅地図を持ってきます。そのソファにかけて待っていてください」
彼がデスクのほうに行ってしまうと、詩乃が訊ねた。
「家に起こる霊現象って、夜叉が関係してるの?」
統馬が首を振る。
「99%はガセネタだ。古い家が家鳴りを起こしたとか、埋め立てた井戸にたまったガスで、池の鯉が死ぬとか」
「だが残りの1%は夜叉の存在につながるときがある」
リュックにぶらさがっている草薙が口をはさんだ。「それを見逃すわけにはいかないぞ。統馬」
「それに、何よりも金になるしな」
「矢上くんもたまには、サラリーマンらしいことを言うんだね」
感心したように、詩乃が言う。
「でも、サラリーマンなら自分の上司にあんな口の利き方、ないんじゃない? 仮にも目上の人なんだし、あれじゃどっちが上司かわからないよ」
「何が目上だ、あいつがガキのころから俺は……」
「え?」
「……なんでもない」
「ははは。統馬をこれほど完璧に尻に敷く女性がいるとは」
久下所長は、麦茶のコップを盆に乗せて戻ってきた。
「弓月さん。その調子でこいつに一人前の社会人としての常識を叩きこんでやってください。どうせデートなんて言っても、ロクなところには連れてってもらってないでしょう」
「はい、今日はハンバーガーチェーンのモーニングセットでした」
と、調子に乗って答える。統馬からはおよそ望むべくもない優しい言葉を大人の男性からかけてもらうのは、女として悪い気はしないものだ。
「それはひどい。今度僕が、おいしいステーキでもご馳走しましょう」
「何がステーキだ。この生臭坊主」
「え、久下さんて、お寺のお坊さんなんですか?」
「もちろん、違います。肩書きは『心霊問題コンサルタント』。ただ前世が坊さんだったらしいですよ。統馬によると」
「へえ、矢上くんは人間の前世もわかるんだ」
統馬は、久下の持ってきた書類と地図をテーブルに放り投げた。
「この仕事、どうしても行かねばならんのか」
「頼みます。今日中にうかがうと、大家さんの方に連絡を入れてしまったんですよ」
「……ちぇっ」
「そうだ、弓月さんもいっしょにいらっしゃいませんか? かなりの霊感も持ってらっしゃるみたいだし、興味がおありでしょう」
「え? わ、私が?」
「デートの続きということでいかがでしょう。もし行ってくださったらお礼に、統馬とふたりでステーキハウスにご招待しますよ」
苦りきって久下を睨んでいる統馬を気づかって、詩乃は手をひらひらと振った。
「でも、きっと、邪魔になると思うし」
「だいじょうぶじゃよ。わたしが結界を張っているし、危険はない」
草薙も援護射撃をしてくれる。
「それに、礼儀知らずの統馬がひとりで乗り込むより、詩乃どのがいっしょのほうが向こうの心証もいいじゃろう。報酬もはずんでくれるかもしれぬ。詩乃どのはどうなのじゃ?」
「行き、たい」
詩乃は口から出てきたことばに自分で驚いていた。いっしょにいたいという気持ちが、これほど人間を積極的に変えてしまうものか。
統馬はすっと、ソファから立ち上がった。
「久下……。ちょっと話がある」
ふたりの姿が奥に消えると、彼女はしょんぼりと肩を落とした。
「どうしよう。ナギちゃん。矢上くん、怒っちゃったかな」
「だいじょうぶ。ヤツも内心は悪い気はしていないのじゃ。それに詩乃どのと関わりたくないと思っておるのなら、元からこの事務所に連れて来たりはせぬわい」
「いい子ですね。詩乃さんは」
久下が、キャビネットの資料の背を指でなぞりながら、にこやかに微笑んだ。
「おまえまで、そんなことを」
「すみません」
「それより、婆多祁哩のことだ」
ふたりの視線が険しく交わる。
「ほかの仲間にも、できるだけT市とその周辺をさぐるように頼んであるのですが」
「奴はまだこの一帯から離れてはいない。動き始めれば、必ず見つける。だが、今度見つけたときは……」
「そのときは?」
深淵を見据えるような目をして、統馬がつぶやいた。
「おまえが俺にかけた封印を解く。いいな、慈恵」