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死神少女は、明日の僕を知らない

作者: いろはサカ
掲載日:2026/05/02

放課後の教室には、世界を使い終わったあとに残る匂いがする。


 チョークの粉。

 日に温められた木の机。

 誰かが置き忘れた半分だけの水。

 それから、グラウンドの向こうから一つずつ転がってくる、金属バットの音。


 僕は最後列の窓際で、半額の焼きそばパンを食べていた。


 紅しょうがが多い。

 しょっぱい。

 でも、どうせ他に食べたいものもない。


 三口目を噛んだところで、誰かが言った。


「あなた、七日後にはこの世界から消えるわよ」


 僕は二回噛んだ。

 飲み込んだ。

 顔を上げた。


 教卓のそばに、一人の少女が立っていた。


 黒い長い髪。

 黒い制服。

 黒いショートブーツ。

 胸には分厚い黒い名簿。

 全身が黒い。

 葬式から教室を間違えて入ってきたみたいだった。

 けれど顔だけはやけに整っていて、影の中に立っていても、影には見えなかった。


 彼女は僕を見ていた。

 僕が叫ぶのを待っているみたいに。

 だから僕は言った。


「へえ」

「……へえ?」


 少女の眉が動いた。


「反応、それだけ?」

「じゃあ、どうすればいいの」

「普通、自分が七日後に消えるって聞いたら、少しは立ち上がるでしょ」

「パン、まだ食べ終わってないし」

「あなた、馬鹿なの?」

「たぶん」

「認めるの早すぎるのよ!」


 彼女は一歩前に出て、名簿を僕の机に叩きつけた。

 焼きそばパンが、危うく机から落ちそうになった。


「おい。パンが死にかけた」

「先に自分の心配をしなさい!」


 彼女は名簿を開いた。

 紙が擦れる音は乾いていた。

 冬の葉っぱみたいだった。


 そのページには、僕の名前が書いてあった。


 灰原悠人。

 クラス、誕生日、住所、血液型。

 中学二年の美術の時間に、犬のつもりで描いたものが馬に見えた、という本人も消したい黒歴史まで書いてある。


 一番下に、一行。

 消失予定日:七日後。

 僕はしばらくそれを見た。

 字が黒い。

 インクというより、穴みたいに黒かった。


「これ、プライバシーの侵害じゃない?」

「死神にプライバシー問題はないわ」

「便利だな。ブラック職場」

「誰がブラックよ! 福利厚生は悪くないんだから!」

「ボーナスあるの?」

「ある……じゃなくて、なんで私が死神の福利厚生について説明してるのよ!」


 少女はまた机を叩いた。

 この死神は、机を叩くのが好きらしい。

 ただ、その音は小さい。

 小さくて、まるで彼女がこの世界に、あまり触れられないみたいだった。


「よく聞きなさい、灰原悠人。あなたの魂は薄くなっているの。体が病気になったわけでも、運命が事故を用意しているわけでもない。あなたとこの世界のつながりが、どんどん少なくなっているのよ」

「つながり?」

「誰かに覚えられていること。何かをしたいと思うこと。誰かに会いたいと思うこと。嫌いなもの。好きなもの。そういうものが、人を世界につなぎとめるの」

「画鋲みたいに?」

「もう少しロマンチックに言えないの? 死ぬわよ?」

「七日後でしょ」

「自分の消失で冗談を言うな!」


 彼女の声が、急に大きくなった。


 ちょうどその時、廊下を男子二人が通り過ぎた。

 そのうち一人の肩が、少女の腕をすり抜けた。


 霧を通り抜けるみたいに。

 少女は顔をしかめて、腕を振った。

 二人は振り返らない。

 彼女が見えていない。

 本当に、見えていない。

 そこでようやく、少しだけ実感が出た。

 これは悪戯じゃない。

 僕の机の前には、本当に死神が立っている。


 そして僕は、七日後、本当にこの世界から消えるかもしれない。


 でも、正直に言えば。


 そのことは思っていたほど遠い話には聞こえなかった。


 僕はクラスで嫌われているわけじゃない。

 いじめられているわけでもない。

 プリントが回ってくれば隣の人は僕の名前を呼ぶ。班活動になれば、ちゃんと人数に入れられる。出席を取られれば、僕は「はい」と答える。


 ただ、それ以外がない。

 苦しくてたまらないほどではない。

 幸せでここに残りたいほどでもない。

 朝起きる。

 学校へ行く。

 家に帰る。

 眠る。

 何度もコピーされた紙みたいだった。

 文字は残っている。

 色だけが薄くなっていく。


「それで、僕はどうすればいいの」


 少女は、ようやく正しい質問を待っていたみたいに顎を上げた。


「今日から七日目が終わるまで、私があなたを観察するわ」

「観察?」

「そう。あなたにまだ、この世界に残る理由があるかどうかを」

「なかったら?」

「私が連れていく」

「どこへ?」

「死神機密」

「遠い? 僕、乗り物酔いするんだけど」

「本当に緊張感ないわね!」


 僕は肩をすくめた。


「緊張したところで、結果は変わらないでしょ」


 彼女は黙った。


 窓から夕陽が差し込んで、黒いスカートに落ちた。

 けれど光は彼女を通り抜けていた。

 彼女はそこに立っているのに、完全にはそこにいない。


 ふいに彼女が訊いた。


「やりたいことはある?」

「ない」

「会いたい人は?」

「ない」

「夢は?」

「昔は漫画家になりたかった」

「今は?」

「下手だったから、やめた」

「友達は?」

「購買のおばさんが、僕がいつも焼きそばパンを買うのを覚えてる」

「それは友達じゃなくて接客業よ!」


 彼女は、完全に負けたみたいな顔をした。


 なぜだか、僕は少し笑った。

 ほんの少し。

 自分でも意外だった。

 少女はすぐに顔を上げた。


「今、笑った?」

「気のせい」

「あなた、笑うことまで死んだふりするの?」

「死んだふりは死神の専門でしょ」

「私は死んだふりを見せに来たんじゃない!」


 彼女は怒って、頬を少し赤くした。


 僕はこの死神が、思っていたよりずっと面倒な存在なのだと知った。

 とても面倒だ。

 でも、不思議と嫌いではなかった。


「わかった」

「何が?」

「七日間の観察、いいよ。どうせ僕、特に用事ないし」

「軽すぎるでしょ!」

「じゃあ契約書にサインする?」

「いらない」

「拇印?」

「いらない」

「ならいいじゃん」


 僕は鞄を背負った。

 彼女は名簿を抱えてついてきた。


「待ちなさい。まだ名前を言ってない」

「死神も自己紹介するんだ」

「当然でしょ。七日後には使わないかもしれないけど」


 彼女は目をそらした。


「凛」

「凛?」

「名前よ。七日間だけ呼んでいい。友達みたいに呼ばないで」

「わかった、凛」

「自然に呼ばないで!」

「呼べって言ったのはそっちでしょ」

「昔から知ってるみたいに呼べとは言ってない!」


 面倒くさい。

 靴箱へ向かう。


 僕が靴を履き替えていると、凛は横でじっと見ていた。


「かかと、踏んでる」

「面倒だから」

「だらしないわね」

「死神も身だしなみにうるさいの?」

「見ていて腹が立つから」


 彼女はしゃがみ、僕の靴のかかとを直そうとした。


 指先が、そのまま靴をすり抜けた。

 彼女が固まる。

 僕も固まる。

 数秒後、凛は立ち上がった。

 顔に不満が全部書いてあった。


「……自分で直しなさい」

「はいはい」


 僕はかかとを直した。

 彼女は鼻を鳴らした。


「それでいいわ」

「母親みたいだな」

「誰が母親よ。呪うわよ」

「呪えるの?」

「学べばできるわ」

「死神の業務範囲、広いな」

「黙りなさい」


 その日、凛は僕について校舎を出た。


 夕陽が彼女の黒髪に、淡い金色の縁をつくっていた。


 彼女には影がない。

 それなのに僕の隣に立って、僕の影までまっすぐ立たせようとしているみたいだった。


「灰原悠人」

「何?」

「私がいいと言うまで、勝手に消えるのは禁止」

「死神が言うと変だね」

「私は担当者よ。私が言ったらそうなの」


 彼女は僕を睨んだ。

 表情は偉そうだった。

 けれど声は、さっきより少し低かった。


「あなたが本当に何もかもどうでもいいと思っているのか、私が確認してあげる」

「何を?」

「本当に、この世界に残りたい気持ちが一ミリもないのか」


 僕は彼女を見た。

 風が僕たちの間を通り抜ける。

 七日後、本当に消えるのだとしても。

 少なくとも、この七日は退屈しないかもしれない。


 その時の僕はまだ知らなかった。


 この、うるさくて、偉そうで、面倒くさい死神少女が。


 七日目に、誰よりも不格好に泣くことを。



 凛は現実のものに触れられない。

 カーテンは開けられない。

 僕のスケッチブックはめくれない。

 ネクタイを直せない。

 僕を蹴ることもできない。


 普通の人には見えないし、声も聞こえない。


 だから二日目の朝、彼女がベッドの横に立って、冷たい声で「起きなさい」と言った時も、僕は自分で布団を頭まで引き上げるしかなかった。


「拒否する」

「拒否権はないわ」

「死神って起床管理もするの?」

「言ったでしょ。この七日間、あなたを観察するって。布団の中にこもられたら、何を観察すればいいのよ。カビた布団の生態?」

「これは二度寝」

「これは現実逃避」

「どうせ現実も七日後には僕を削除するし」


 布団の外が、一秒だけ静かになった。

 しまった。

 また空気が面倒になることを言った。


 寝たふりをしようかと思った瞬間、凛の声が耳元に近づいた。


「起きないなら、今から英単語を耳元で読み上げるわ。abandon から」


 僕は三秒黙った。

 そして起きた。

 それは本当に怖かった。

 彼女は毎日、僕について登校した。


 道を歩く時、凛は地面から十センチくらい浮いていた。


「飛べるんだ」

「死神が浮くのは常識でしょ」

「初めて死神に会ったから、業界常識は知らない」

「無知ね」

「その知識はなくても困らないと思う」

「本当にロマンがないわね」

「君の浮き方もそんなにロマンないよ。壊れた掃除ロボットみたい」


 凛は空中でバランスを崩しかけた。


「し、死神少女を掃除ロボットに例えた!?」

「黒色モデル」

「覚えておくわ」

「死神も根に持つの?」

「かなり持つ」


 彼女はうるさい。


 うるさすぎて、学校へ行くのが面倒だと考える暇がなかった。


 凛は僕に人と話させようとした。

 山田が宿題を集めに来て言った。


「灰原、数学」

「はい」


 僕はノートを渡した。

 彼は一瞥して言った。


「ここ、線曲がってるぞ」

「死神のせい」


 山田が顔を上げた。

 僕も顔を上げた。

 まずい。


 凛と話すのに慣れて、口が頭より先に動いた。


「……へえ。最近そういうアニメ見てるの?」

「まあ」

「面白い?」

「そこそこ」

「今度タイトル教えて」


 山田はノートを持って行った。

 凛は横で目を丸くしていた。


「ほら。アニメのタイトルを訊かれたわ」

「ただの雑談でしょ」

「雑談でも会話よ」

「基準が低すぎる」

「あなたのスタート地点が低すぎるの」


 真顔で言われると、反論できない。

 佐伯は僕の前の左側の席にいる。

 短い髪。

 ヘアピン。

 字がきれい。

 ときどき僕に消しゴムを借りる。


 以前なら彼女が「ありがと」と言っても、僕はただ頷くだけだった。


 その日、凛は横で僕を睨んでいた。


「返事」

「何を?」

「どういたしまして」

「堅すぎない?」

「じゃあ、うん。でも相手を見て言うこと」

「要求が多い」

「人間関係はもともと面倒なものよ」


 凛はその時、妙に真面目な顔をしていた。


「君、人間じゃないのに」


 彼女は一瞬固まった。

 そして顔をそらした。


「だから学ぶのよ」


 その言葉は軽かった。

 チョークの粉に紛れるくらい。

 僕は何も言わなかった。


 なぜだか、その時だけは彼女を茶化してはいけない気がした。


 昼休み、購買で牛乳を買った。


 最後の普通の牛乳に、一年生の男子と同時に手を伸ばしてしまった。


 僕は手を引っ込める。


「どうぞ」

「え、いいんですか? ありがとうございます」


 彼は走って会計へ向かった。

 僕は隣のいちご牛乳を取った。

 凛が横で見ている。


「甘すぎるって言ってなかった?」

「死にはしない」

「どうして譲ったの?」

「彼のほうが飲みたそうだったから」

「あなたも飲みたかったでしょ」

「まあ」


 レジのおばさんは、僕のいちご牛乳を見て少し驚いた。


「今日は普通のじゃないの?」

「売り切れで」

「あら、早く来ればよかったのに。いつもそれ飲んでるでしょう?」


 彼女は笑って、ストローを貼ってくれた。


「明日、取っておいてあげようか?」


 僕は固まった。


 凛が横で、何か証拠を見つけたみたいに僕を見た。


 ほら。

 誰かが覚えている。

 彼女は言わなかった。

 でも目がうるさかった。


「……じゃあ、お願いします」


 おばさんは笑った。


「はい。明日、普通の牛乳ね」


 ただの普通の牛乳。

 けれどその日、僕は初めて知った。

 普通のものにも、重さはある。

 重すぎはしない。


 でも、人を少しだけ地面に戻すくらいの重さはある。


 凛は僕のスケッチブックを見つけた。

 机の端に長く眠っていたものだ。

 表紙には埃が積もっていた。

 払うと、小さな雪みたいに舞った。


「昔、漫画家になりたかったんでしょ」

「昔ね」

「今は?」

「黒歴史」

「見せなさい」

「嫌だ」

「どうして?」

「死ぬから」

「七日後でしょ?」

「恥ずかしさでも人は死ぬ」

「馬鹿なこと言わないで」


 凛は紙に触れられない。

 だから隣に立って見るだけだった。

 僕は一ページ目を開いた。


 中学の頃に描いたキャラクター設定が出てくる。


 最強の孤独な剣士。

 誰にも真の力を理解されない。

 僕は即座にページをめくった。


「今のページ」

「見てない」

「最強の孤独な剣士」

「読むな!」

「誰にも真の力を理解されない」

「名簿燃やすぞ」

「燃やせないでしょ」


 凛の口元が明らかに上がっていた。


「笑わないって言ったよね」

「笑ってないわ。顔の筋肉が少し動いただけ」

「死神も言い訳するんだ」

「正当防衛よ」


 彼女は笑いをこらえて肩を震わせていた。


 でも、僕は思ったほど逃げたくならなかった。


 後ろには二十ページの短編があった。


 誰にも見えない幽霊の少年が、こっそりクラスメイトを助ける話。

 卒業の日、誰にも覚えられていないと思った彼が、黒板に「ありがとう」と書かれているのを見つける話。


 普通だ。

 今見ると恥ずかしいくらい普通だ。

 コマ割りは下手。

 手も変。

 背景は倒れそうな机と椅子だけ。

 台詞も硬い。


 でも、あの頃の僕はきっと、この話が本当に好きだった。


 だって一ページ一ページ、力を入れて描いてある。

 紙の裏に、鉛筆の跡が残るくらい。


「下手でしょ」

「うん」

「本当に言うんだ」

「嘘をついてほしいの?」

「せめて柔らかく言って」

「じゃあ柔らかく言うわ。手と足が喧嘩して別居したみたい」

「どこが柔らかいの?」

「人体崩壊って言うよりマシでしょ」

「ありがとう」

「どういたしまして」


 でも最後のページで、凛は黙った。


 彼女は黒板の「ありがとう」を見ていた。


 長い間。


「ここは、嫌いじゃない」

「ここ、絵が下手だけど」

「知ってる」

「毎回認めなくていいよ」

「でも、何を描きたかったかはわかる」


 僕は固まった。

 凛は俯いたまま、指を紙面に通した。


「彼は、誰にも覚えられないと思っていたのに、見えないところでずっと何かをしていた。最後に、それを誰かが見ていたってわかる。描きたかったのは、そういうことでしょ?」


 喉に何かが詰まった。

 この死神は本当に卑怯だ。

 紙には触れないくせに。

 よりによってそこに触れる。


「だから、完全に駄目ってわけじゃない」

「何が?」

「あなたの漫画」


 彼女は顔をそらした。


「絵は下手。台詞も硬い。背景は手抜き。キャラの手はいつ身体を退職してもおかしくない。でも、見てほしいものは残ってる」

「それ、褒めてる?」

「違う」

「また違うの?」

「観察結果よ」


 凛は人を褒めない。


 でも彼女の観察結果は、褒め言葉よりもずっと面倒だった。


 その後、彼女は僕にスケッチブックを学校へ持っていかせた。


 命令ではない。

 脅迫だった。


「今日、佐伯に見せなかったら、abandon から zoo まで読んであげる」

「拷問だよ」

「効くならいいの」


 佐伯がスケッチブックを見る間、僕は判決を待つ人みたいだった。


 彼女はゆっくりページをめくった。


 ゆっくりすぎて、一秒ごとに何かを削られる気がした。


 最後、黒板のページで手が止まった。


「ここ、好き」

「どこ?」

「最後のところ。絵は……うん、個性的だけど」

「下手って言っていいよ」

「じゃあ、まだ伸びしろがある」

「優しさをありがとう」


 佐伯は笑った。


「でも、この幽霊が教室の入口に立っている感じ、いいと思う。ずっと誰にも見られていないと思っていたのに、最後に誰かが覚えていたってわかる感じ」


 昨日、凛も似たようなことを言った。


 でも佐伯の口から聞くと、まるで違う感じがした。


 凛は死の側に立って、僕を押し戻す。

 佐伯は人間の側に立って、僕の袖を少し引く。


 どちらも面倒だ。


 そしてどちらも、もう僕に何もかもどうでもいいふりをさせてくれない。


 山田も草稿を見た。


「なあ、この幽霊、灰原に似すぎじゃね?」

「黙れ」

「でも面白いじゃん。完成したら見せてよ」

「見るの?」

「見るだろ。俺も漫画読むし」


 彼は軽く言った。

 本当に軽かった。


 でも「完成したら見せてよ」という一言は、水面に流れてきた小さな板みたいだった。


 立つには頼りない。

 でも、何もないよりはずっといい。


 その夜、僕は幽霊少年の漫画を描き直した。


 急に上手くなったわけじゃない。

 線は歪む。

 手は変。

 背景は崩れそう。

 でも、破らなかった。

 凛は窓辺に座っていた。


 座っている、といっても窓台には触れられない。ただ座っているように見せているだけだ。


「目が歪んでる」

「うん」

「口が低い」

「うん」

「この手、鶏の足みたい」

「死神さん、もう少し優しく言う予定は?」

「ないわ」

「だよね」


 彼女は僕が線を直すのを見ていた。

 しばらくして、ふいに言った。


「漫画を描いている時のあなたは、そんなに消えかけの人間には見えない」


 鉛筆が止まった。


「じゃあ何に見える?」


 凛は少し考えた。


「面倒くさい人間」

「それ褒めてる?」

「褒めてる」


 彼女の褒め言葉はわかりにくい。

 でも、僕にはわかった。

 その日から、明日には音がついた。

 佐伯の声。

 山田の声。

 購買のおばさんの「取っておいたよ」という声。

 凛が僕の手を鶏の足だと言う声。

 本のページをめくる音。

 鉛筆が紙をこする音。

 以前の明日は、今日のコピーだった。


 あの日から、明日は少しうるさくなった。


 それでいて、面倒になった。

 でも人は、明日を期待し始めると。

 明日を失うのが、怖くなる。



 四日目の朝、凛はいなかった。


 目覚ましが一度鳴って、僕は目を開けた。


 机のそばに彼女はいない。

 窓辺にもいない。

 ベッドの横にもいない。

 冷たい「起きなさい」もない。

 abandon もない。

 「かかと踏んでる」もない。


 部屋は、彼女が現れる前に戻ったみたいに静かだった。


 でも僕は、もう慣れていなかった。

 静けさもうるさいことを知った。

 うるさくて、不安になる。

 僕は一人で朝食を食べた。

 一人で学校へ行った。

 一人で購買のおばさんが取っておいてくれた普通の牛乳を受け取った。


 おばさんが言った。


「今日は静かね」

「寝不足かもしれません」

「若いんだから夜更かししすぎちゃだめよ」

「はい」


 牛乳を持って購買を出た。

 反射的に横を見る。

 凛はいない。

 ほら、誰かが気づいているわよ。

 そう得意げに言う声もない。

 牛乳の紙パックが、急に重くなった。

 佐伯はすぐに気づいた。


「灰原、今日ずっと誰かを待ってるみたい」


 放課後、彼女は僕の机の前に立っていた。


 クラスメイトたちが少しずつ教室を出ていく。

 夕陽が机の上に落ちている。

 僕は長く黙った。


「もし僕が、誰にも見えない死神がいつも横にいるって言ったら、どう思う?」


 佐伯は笑わなかった。


「最近、灰原がよく話してる相手?」

「知ってたの?」

「知らない。でも見てたよ。よく横を見てるし、急に言い返すし、誰かの話を聞いてるみたいに止まる時がある」

「変だと思わない?」

「変だよ」


 彼女はあっさり言った。


「でも灰原はもともと変だし。それに、灰原が前より生きてる感じになったの、その頃からでしょ?」


 彼女は「彼女」と言った。

 幻覚。

 想像の友達。

 ではなく。

 彼女。

 佐伯には凛が見えない。


 それなのにその瞬間、凛がこの世界に少しだけ認められた気がした。


「だから、その子、今日は来てないの?」

「うん」

「心配?」

「誰があんな偉そうでうるさい死神を心配するんだよ」

「今してる」


 僕は俯いた。


「ただ、腹が立つだけ。突然現れて、七日後に消えるって言って、勝手についてきて、勝手に黒歴史を見て、勝手に草稿を君に見せろって言って、勝手に本屋に連れていって、勝手に毎日を面倒にして」

「うん」

「それで、今日は勝手にいない」


 声は最後に小さくなった。


「腹が立つ」


 佐伯は最後まで聞いた。

 そして言った。


「じゃあ、探しに行く? 初めて会った場所」


 初めて会った場所。

 放課後の教室。

 最後列の窓際。

 夕陽。

 焼きそばパン。

 彼女は教卓のそばに立って、黒い名簿を抱えていた。


 僕は立ち上がった。

 佐伯が訊く。


「私も行っていい?」


 以前の僕なら、面倒だと思ったはずだ。

 でも今はただ頷いた。


「うん」


 その空き教室には、最初の日と同じ夕陽が差していた。


 チョークの粉。

 机と椅子の影。

 遠くの野球部の声。

 ただ、教卓のそばに誰もいない。


「凛」


 返事はない。


 僕はスケッチブックを取り出して、黒髪の少女の絵を開いた。


「出てこないなら、掃除ロボットに描くぞ」


 教室はまだ静かだった。


「黒色モデルで」


 隅のほうから、とても小さな声がした。


「……やってみなさいよ」


 僕は顔を上げた。


 教卓のそばの影の中に、凛が立っていた。


 黒い名簿を抱えている。

 昨日よりずっと淡い。

 夕陽の中の薄い煙みたいだった。


「凛」

「そんな大声で呼ばなくても、聞こえてるわよ」


 声も軽い。

 僕は近づこうとした。


「来ないで」


 彼女が言った。

 僕は止まった。


「どこ行ってたの?」

「仕事」

「僕の担当じゃないの?」

「だから仕事」

「じゃあ、どうして一日中いなかった?」


 凛は答えない。

 佐伯が入口で小さく訊いた。


「そこにいるの?」

「うん。いる」


 佐伯は教卓のほうに向かって、ゆっくり頭を下げた。


「こんにちは、凛。佐伯です。私はあなたが見えないけど……ここ数日、灰原がお世話になりました」


 凛は固まった。


 かなり長い沈黙のあとで、小さく言った。


「誰が世話したのよ」


 僕が伝える。

 佐伯は笑った。


「やっぱり、灰原が好きになりそうなタイプだね」

「変なこと言うな」


 僕と凛が同時に言った。

 佐伯はますます笑った。

 凛は怒って足を踏み鳴らそうとした。

 けれど足は床に触れない。

 音はしなかった。

 僕は笑えなくなった。

 凛もそれに気づいた。


 彼女は自分の足を見下ろし、それから何もなかったみたいに名簿を抱え直した。


「とにかく、少し離れていただけよ。あなた、飼い主に捨てられた子犬みたいな顔してたわ」

「してない」

「してた」

「一日中いなくなっておいて、よくそんなこと言えるね」

「私は死神だから、顔はあるわ」

「その顔も、ほとんど見えなくなってる」


 教室が静かになった。

 言い当てた。

 でも、少しも気持ちよくない。


「何が起きてるの?」


 凛は窓の外を見た。


「あなたの魂が重くなったの」

「それで?」

「だから、あなたはもう、あまりこっち側に近くない」


 彼女は手を上げた。

 指先が、ほとんど見えない。


「死神が見えるのは、あなたが世界から落ちかけていたから。消失に近いほど、私が見えて、聞こえて、感じられる」


 彼女は僕を見た。


「逆に言えば、あなたが人間の世界に戻るほど、私は見えなくなる」


 空気が止まった。


「じゃあ今朝……」

「あなたは私を見られなかった。完全にじゃないけど、私の存在があなたにとって薄くなったの」


 彼女は少し笑った。

 ひどく無理をした笑顔だった。


「おめでとう、灰原悠人。あなたは生き始めてる」


 喜ぶべきだった。

 本当に。

 佐伯が僕の漫画を読んだ。

 山田が完成したら見せろと言った。

 購買のおばさんが牛乳を取っておいてくれた。

 僕は次のページを描き始めた。

 明日を考え始めた。

 消えることが怖くなった。

 それは全部、いいことだ。


 でも、そのいいことの行き先が、凛を見られなくなることなら。


 それはいったい、何なのだろう。


「最初から知ってた?」


 凛は答えない。


「一日目から?」

「……知ってた」

「どうして言わなかったの?」

「言ったら、あなたはどうしたの?」


 凛が顔を上げる。


「佐伯と話さない? 漫画を描かない? 山田と話さない? 取っておいてもらった牛乳も飲まない? 私を見るために、消えかけた場所に残り続ける?」


 言葉が出なかった。

 僕は一瞬、本当にそう思ったからだ。

 ほんの一瞬。

 それでも、たしかに思った。


「だから言わなかった」


 凛は言った。


「あなたは逃げるのが上手すぎる。最初に言ったら、きっと立ち止まる理由にした」

「じゃあ君は?」

「私?」

「僕を押し戻したあと、君はどうなるの」

「私は死神。任務が終われば帰る」

「それで次の任務?」

「うん」


 あまりに簡単に言う。

 明日の席替えみたいに。


「不公平だと思わないの?」


 凛は目を見開いた。


「何が?」

「君は僕を人間の世界へ戻して、僕は君を見られなくなる。君は僕を生活に押し戻して、自分はその外に置いていかれる。どこが公平なんだよ」


 凛は俯いた。


「死神に公平は必要ないわ」

「誰が決めたの?」

「規則」

「その規則、最悪だ」


 凛は少し笑った。


「今のあなた、熱血漫画の主人公みたい」

「ダサい?」

「かなり」

「じゃあ笑わないでよ」

「嫌」


 彼女は顔を上げた。

 目が少し赤い。

 でもまだ泣いていない。


「灰原悠人」

「何?」

「生きなさい」


 僕は答えなかった。


「私の仕事だからじゃない。佐伯が期待しているからでもない。山田があなたの漫画を読みたいからでもない。購買のおばさんが牛乳を取っておいてくれるからでもない」


 彼女は僕を見る。


「あなた自身が、もう生きたいと思い始めているから」


 拳を握りしめた。


「じゃあ君は?」

「私?」

「僕が生きたら、本当に君を忘れるの?」


 凛は顔をそらした。


「そんなこと、私が知るわけないでしょ」

「また嘘」

「嘘じゃない」

「君は嘘をつくと返事が早い」

「まだ四日しか一緒にいないくせに、わかったような顔しないで」

「四日でも十分だよ」


 僕は言った。


「君がよく怒ること。意地っ張りなこと。すぐ耳が赤くなること。漫画をよく知らないくせに偉そうに批評すること。ツンデレの女の子が出る小説が好きなのに認めないこと。脅しが英単語だけなこと。呪いも焼きそばパンを買えなくするくらいしか思いつかないこと」

「な、なんでそんなこと覚えてるのよ!」


 凛の顔が赤くなる。

 目も、もっと赤くなる。


「どうせ忘れるのに」


 彼女は小さく言った。


「そんなに覚えて、どうするのよ」


 僕は何も言えない。

 佐伯がそっと僕の隣に来た。


「灰原」


 彼女の声は静かだった。


「何を話してるのかはわからないけど。そこに凛がいるなら、ちゃんと話しなよ。本当に言いたいことを」


 本当に言いたいこと。

 僕は凛を見た。


「消えたくない」


 彼女の肩が小さく震えた。


「漫画を描き終えたい。佐伯に見せたい。山田にも見せたい。明日も購買のおばさんが牛乳を取っておいてくれるか知りたい。あの小説も読み終わりたい」


 凛は俯いている。


「うん」

「それに、明日の朝、目が覚めた時、君にいてほしい」


 彼女は答えない。


「君に、かかと踏んでるって怒られたい。手が鶏の足みたいだって言われたい。逃げようとしたら英単語を読まれたい。小説なんて興味ないふりをしながら、ページをめくれって急かしてほしい」


 情けない。

 ひどく情けない。


 でも、今言わなければもう言えないかもしれない。


「生きたい」


 僕は言った。


「でも、君が見えなくなるのも嫌だ」


 凛の目が潤んだ。

 彼女は唇を強く噛む。


「欲張り」


 彼女は言った。


「あなたって、本当に欲張りね」

「うん」

「少し前まで、全部どうでもいいって顔してたくせに」

「うん」

「今さらそんなこと言うなんて、遅いのよ」

「ごめん」

「謝るな!」


 彼女は僕を睨んだ。


「あなたはいつもそう。何でも先に謝る。心配されても謝る。見つけられても謝る。生きたいと思うことまで、悪いことみたいに謝る」


 彼女は息を吸った。

 息なんて必要ないのに。


「灰原悠人。生きたいと思うことに、誰にも謝らなくていい」


 僕は立ち尽くした。

 喉に何かが詰まる。

 彼女は手を上げた。

 僕の額を小突こうとするみたいに。

 でも、途中で止まる。

 彼女は僕に触れられない。

 僕たちは、それを知っている。

 彼女はゆっくり手を下ろした。


「明日も来る?」


 僕は訊いた。

 凛は僕を見た。

 彼女らしくない、優しい目だった。


「あなたがまだ、私を見られるなら」


 その日、彼女は消えなかった。

 少なくとも、その時はまだ。

 五日目、僕は凛の手に触れた。

 図書室だった。


 彼女の姿がふらつき、黒い名簿がぱたりと床に落ちた。


 僕はとっさに駆け寄った。

 触れられるはずがない。

 僕はずっと彼女に触れられなかった。

 彼女も僕に触れられなかった。


 でもその瞬間、僕の手は彼女の手首をつかんでいた。


 冷たい。

 冬の川に手を入れたみたいに冷たい。

 凛の顔色が一瞬で変わった。


「……触れた」


 彼女が低く言う。

 僕も固まる。


 ずっと、彼女がすり抜ける存在でなければいいと思っていた。


 でも本当に触れた瞬間、少しも嬉しくなかった。


 彼女の顔が、あまりにも悪かったから。


「最悪」

「何が?」

「あなたが私に触れたってことは、あなたの魂がまた死神の側に近づいたってことよ」

「でも、僕は重くなったんじゃないの?」

「さっきは違う」


 凛は僕を見る。


「あなたは今、私を失うのが怖くて、自分をこっち側へ引き戻そうとしたの」


 何も言えなかった。

 手はまだ彼女の手首をつかんでいる。

 冷たい。

 でも離せない。


「それの何が悪いんだよ」

「悪いに決まってるでしょ!」


 彼女は初めて、そんなに激しく声を上げた。


 いつもの毒舌じゃない。

 強がりでもない。

 本当に怒っている。


「それが感動的だと思ってるの? 死神の手をつかめば、自分がどれだけ私を大事にしてるか証明できると思ってるの? 馬鹿! 大馬鹿! それはただ、あなたがまた逃げてるだけよ!」


 目が赤い。


「あなた、生きたいんでしょ? 漫画を描き終えたいんでしょ? 佐伯や山田に見せたいんでしょ? 明日、あの牛乳を取りに行きたいんでしょ? なら今、私をつかんで何をしているの!」


 僕は震えていた。

 寒いからじゃない。

 彼女の言う通りだったから。

 僕は彼女が消えるのが怖かった。

 怖すぎて、一瞬だけ思ったのだ。

 彼女を見続けられるなら、消えかけの場所に戻ってもいいと。


 その考えは卑怯だった。


 凛がしてくれたことを全部否定するから。


 彼女は僕を世界へ押し戻そうとしていた。


 それなのに僕は、彼女をつかんで、世界の外側に一緒に留まろうとした。


 佐伯が僕のそばに来る。

 彼女には凛が見えない。


 それでも、僕のもう片方の腕をそっと握った。


 温かい。

 人間の温度。


「灰原。戻ってきて」


 僕は佐伯を見る。


「凛も、きっとそう思ってるんでしょ?」


 自分の手を見る。

 片方は冷たい。

 片方は温かい。

 片方は死神。

 片方は人間。


 僕はその真ん中で、どこへ行けばいいかわからない子どもみたいに立っていた。


 凛はもう抵抗しない。

 ただ僕を見ていた。

 目が赤い。


「灰原悠人」


 声が震えている。


「放しなさい」


 僕は口を開いた。

 言葉が出ない。

 凛が、初めてそんな声で僕に言った。

 命令じゃない。

 皮肉じゃない。

 強がりじゃない。

 お願いだった。


「お願い」


 僕はゆっくり手を放した。

 冷たさが掌から離れていく。

 凛の姿は、すぐにさらに透明になった。

 僕は手を伸ばしたくなった。

 でも、こらえた。


 凛は僕を見て、少し安心したように見えた。


 それから、少し痛そうに。


「よくできました」


 彼女は軽く言った。


「馬鹿な人間にしては、よくできたわ」

「全然よくない」

「いいの」


 凛は言った。


「あなたは放したから」


 その日の放課後、僕は凛を探しに行かなかった。


 家に帰った。

 ご飯を食べた。

 風呂に入った。

 机に座った。

 スケッチブックを開いた。

 部屋には誰もいない。

 毒舌もない。

 英単語もない。

 「本当に面倒な人間ね」もない。

 紙はまた白くなった。

 白すぎて怖い。

 僕は長く止まった。


 最後に、五ページ目の隅に、窓辺に立つ黒髪の少女を描いた。


 彼女は物語には出てこない。

 ただ小さい。

 読者は気づかないかもしれない。

 窓辺に立って、幽霊の少年を見ている。


「これでいい?」


 部屋には返事がない。

 僕は少し待った。

 やっぱりない。


 そして初めて、沈黙をやめる理由にしなかった。


 僕は俯いて、次のコマを描いた。

 凛が言ったからだ。

 放課後、三ページ目を描き終えなさい。

 夜、小説の三章。

 明日の朝、遅刻禁止。

 彼女は言うことが多すぎる。

 面倒すぎる。

 だから僕は、まだ止まれない。

 夜十一時半。

 五ページ目の下書きが終わった。

 指には鉛筆の黒。

 机には消しゴムのかす。


 横に置いた小説は、まだ三章を開いていない。


 もし僕が一人で読んだら、凛は怒るだろう。


 「先に読むなんて、人間助手失格ね」


 そう言うに決まっている。

 だから開かなかった。


 スケッチブックの横に置いて、付箋に書いた。


 三章、待ってる。


 書いたあと、自分で馬鹿みたいだと思った。


 恋愛漫画の男主人公みたいで、破りたくなるほどだった。


 でも、破らなかった。

 付箋を表紙に貼った。

 寝る前、窓辺を見た。

 誰もいない。

 死神少女はいない。

 黒い名簿もない。

 偉そうで、うるさくて、意地っ張りな彼女はいない。


 僕は目を閉じる。

 心の中で言った。

 明日ね。


 彼女が来ると確信していたわけじゃない。


 ただ、明日の世界に彼女の場所があってほしかった。


 六日目、凛は現れなかった。

 朝も。

 昼休みも。

 放課後も。


 僕はいつも通り購買で牛乳を受け取った。

 いつも通り佐伯に草稿を見せた。

 いつも通り山田に幽霊が僕に似ていると言われた。


 その日、僕は十六ページ目まで描いた。

 終わりまで、あと四ページ。

 凛はまだ現れない。

 でも僕は止まらなかった。


 彼女が隣で罵ってくれなければ、きっとまた逃げると思っていた。


 鉛筆を置く。

 スマホを見る。

 「やっぱり向いてない」と自分に言う。

 でも、そうならなかった。

 描いた。

 遅い。

 下手。

 面倒。

 でも描いた。

 物語は、そうやって前へ進むからだ。

 三ページ目の次は四ページ目。

 四ページ目の次は五ページ目。

 人間も、たぶん同じだ。


 最初から一生どう生きるかを知っている必要はない。


 今日、一ページ多く描く。

 明日、また一ページ描く。

 それだけで、足りる日もある。


 六日目の夜、最後のページを描き終えた。


 黒板には「ありがとう」。


 幽霊の少年は、教室の入口に立っている。


 今回は、彼は泣かない。

 大げさに笑いもしない。

 ただ顔を上げて、その二文字を見る。


 そして、ゆっくり教室の中へ歩いていく。


 消えるのではない。

 入っていく。

 鉛筆を置いた。

 指は黒い。

 目は乾いている。

 肩は鞄を二つ掛けられたみたいに痛い。

 でも今度は、捨てたいと思わなかった。

 これは僕が描き終えた物語だ。

 中学の時に止まっていたものじゃない。

 今の僕が、描き終えたものだ。


「終わったよ」


 僕は言った。

 返事はない。

 少し待った。

 やっぱりない。


 だからスケッチブックを閉じて、小さく言った。


「明日、見せる」


 七日目の朝、僕は早く目が覚めた。

 外の空はまだ灰色だった。

 机のそばに誰もいない。

 窓辺にも誰もいない。

 ベッドの横にも誰もいない。

 凛の名前は呼ばなかった。

 ただ起きて。

 顔を洗って。

 制服に着替えた。

 ネクタイを結ぶ。

 かかとを直す。

 スケッチブックを鞄に入れる。

 玄関で一度立ち止まった。


 凛がいれば、きっと不満そうな顔をして言う。


 「自分でできるなんて、つまらないわね」


 僕は小さく言った。


「ごめん。今日はツッコミどころ減らした」


 誰も答えない。

 それでも家を出た。

 その日は、とても天気がよかった。

 腹が立つくらい。

 七日目なのに。

 何かが終わるかもしれないのに。

 世界は全然、空気を読まない。


 購買のおばさんは、いつも通り普通の牛乳を取っておいてくれた。


 山田は僕を見るなり言った。


「灰原、描き終わった?」

「終わった」

「マジ? 見せて」


 佐伯も振り返った。


「本当に終わったの?」

「うん」


 スケッチブックを鞄から取り出す。

 今度は、あまり迷わなかった。

 机の上に置く。


「読んでいいよ」


 山田と佐伯は静かに読んだ。


 山田にしては珍しく、あまり口を挟まなかった。

 佐伯はゆっくりページをめくった。


 最後、黒板の「ありがとう」のページで止まる。


 山田は頭をかいた。


「なあ、これ、結構いいじゃん」


 佐伯は顔を上げた。


「灰原。私、この終わり方好き」


 派手な褒め言葉ではない。

 天才とも言わない。

 投稿できるとも言わない。


 でもその一言を聞いた時、胸の中に温かいものがぶつかった。


 山田がスケッチブックを返してくる。


「次のも描いたら見せてよ」


 次。

 彼はとても自然に、その言葉を言った。

 まるで僕がまた次も描くみたいに。

 明日も、明後日も、来月も、僕がこの教室でぐちゃぐちゃの草稿を誰かに見せるみたいに。


 僕はスケッチブックを受け取った。


「うん」


 昼休み、おばさんに明日も普通の牛乳がいるか訊かれた。


 僕は少し止まった。

 それから言った。


「お願いします」


 言った瞬間、自分が震えていることに気づいた。


 明日。

 七日目に、僕は明日と言った。


 放課後、僕と佐伯はあの空き教室へ行った。


 夕陽は一日目とよく似ていた。

 僕は教室に入る。

 佐伯は入口に立つ。


「ここで待ってる」

「ありがとう」


 僕はスケッチブックを机に置いた。


「凛」


 返事はない。


「描き終わった」


 教室は静かだった。


「まだ下手だけど。手は相変わらず鶏の足だし。背景も歪んでるし。台詞もたぶん硬い」


 僕はスケッチブックを見る。


「でも佐伯は好きって言った。山田も悪くないって言った。購買のおばさんは、明日も牛乳がいるか訊いてくれた。僕は、いるって言った」


 声が少しずつ小さくなる。


「明日って言ったんだ」


 顔を上げる。


「だから、出てきてもいいだろ」


 返事はない。

 長く待った。

 グラウンドの声が少なくなるまで。

 廊下の足音が消えるまで。

 夕陽が沈んで、教室の影が長くなるまで。


 佐伯は入口で待っている。

 彼女がまだそこにいるのはわかる。

 でも凛はいない。


「最後まで責任を持つんじゃなかったのかよ」


 声が震えた。


「今日が、最後の日だろ」


 それでも返事はない。


 スケッチブックは夕陽の中に静かに置かれている。


 完成した。

 僕はまだここにいる。

 本来なら、これはいい結末のはずだ。

 本来なら。


「……おめでとう」


 とても軽い声が、窓際から聞こえた。

 顔を上げる。

 凛が立っていた。

 姿はほとんど見えなかった。


 黒い制服は夕陽に洗われて透明になっている。

 髪も煙みたいだった。

 ただ灰色の目だけが、はっきり僕を見ている。


「凛!」


 僕は一歩進む。

 彼女は手を上げた。


「止まりなさい」


 僕は止まる。

 もう近づけない。


 昨日みたいに、自分をそちらへ引き戻すわけにはいかない。


 凛は僕を見て、少しだけ笑った。


「本当に描き終えたのね」

「うん」

「思ったより役に立つじゃない」

「最後まで毒舌?」

「まさか泣きながら天才って褒めてほしかった?」

「それはちょっと気持ち悪い」

「でしょ」


 彼女はいつものように鼻を鳴らした。

 でも声は軽すぎる。

 今にも切れそうだった。


「読む?」

「うん」


 僕は一ページずつめくった。


 前に公園で、小説を彼女のためにめくった時みたいに。


 違うのは、今回のほうがずっと遅いこと。


 一ページ一ページ。

 めくるのが遅い。


 最後のページに辿り着かなければ、時間も終わらないような気がして。


 凛は急かさなかった。

 ただ静かに読んだ。

 一ページ目で言う。


「空き教室、前よりいい」


 三ページ目で言う。


「カーテンはまだ変」


 八ページ目で言う。


「ここ、台詞は少ないほうがいい。あなたもわかってるでしょ」


 十二ページ目で、彼女は長く黙った。


 そこでは、幽霊の少年が廊下に立ち、教室の中で笑うクラスメイトたちを見ている。


 彼は入らない。

 離れもしない。

 ただ入口の外に立っている。


「ここ……嫌いじゃない」


 最後のページ。

 黒板の「ありがとう」。

 幽霊の少年は教室に入っていく。

 凛はそのページを見ていた。

 長く。


「前より、いい終わり方ね」

「本当?」

「うん」


 彼女は顔を上げた。

 目が赤い。


「今回は、彼が誰かに助け出されるのを待っていないから」


 凛は最後のコマを見る。


「自分で入っていった」


 教室には風の音だけが残った。

 カーテンが揺れる。

 今度は本物だ。


「凛」

「何?」

「まだ見える」

「うん」

「じゃあ僕は、まだ完全には戻れてないの?」


 凛はすぐに答えなかった。


 名簿を抱く彼女の身体は、消しゴムで消されかけた鉛筆線みたいだった。


「違うわ」


 彼女は言った。


「私が最後の権限を使ったの」

「どういう意味?」

「担当者は、任務終了前に一度だけ、対象者に別れを告げられる」


 別れ。

 その言葉がようやく出た。

 ずっと知っていたはずなのに。


 この数日、ずっとそこへ向かっていたのに。


 聞いた瞬間、胸を殴られたみたいだった。


 凛は名簿を開く。


 僕の名前の下にあった「消失予定日:七日後」が、ゆっくり薄れていた。


 かわりに、別の文字が浮かぶ。

 帰還:人間。

 凛は名簿を見ながら、静かに言った。


「灰原悠人。あなたはもう消えない」


 僕は俯いた。


「じゃあ、君は?」

「私は死神だから」

「どこへ行くの」

「帰る」

「それで次の任務?」

「うん」

「僕のこと、覚えてる?」


 凛の唇が動いた。

 でも、すぐには答えなかった。

 長い沈黙のあとで言う。


「死神の名簿は封印されるわ」

「名簿の話じゃない」

「……」

「君の話をしてる」


 凛が僕を見る。

 その目に、とうとう涙が浮かんでいた。


「本当に、あなたって面倒」

「何回も言われた」

「どの人間より面倒」

「それは褒め言葉?」

「違う」


 彼女は、人間みたいに息を吸った。


「覚えてる」


 凛の声は小さい。

 でも、はっきりしていた。


「名簿が封印されても、干渉できなくなっても、あなたに見えなくなっても……私は覚えてる」


 涙が落ちた。

 透明な涙。

 床には落ちない。

 空中で消えていった。


「最初は全部どうでもいいって顔をしてたくせに、面倒な人間がいたこと」

「絵が下手で、手が鶏の足みたいだったこと」

「甘すぎるいちご牛乳を飲んで、平気なふりをしていたこと」

「私のために小説をめくったくせに、めくるのが遅かったこと」

「私がここにいるって、言ってくれたこと」


 声が少しずつ崩れていく。


「全部、覚えてる」


 僕は立っているだけだった。

 喉が痛くて、何も言えない。

 凛は袖で目を強く拭った。


「最悪」


 彼女は歯を食いしばる。


「死神は泣かないって言ったのに」

「泣いてる」

「黙りなさい」

「うん」

「笑うの禁止」

「笑ってない」

「泣きそうな顔も禁止」

「それはちょっと難しい」

「努力しなさい、馬鹿」


 入口の佐伯は入ってこなかった。


 最後の時間を守るみたいに、静かに立っていた。


 凛は佐伯のほうを見る。


「佐伯に伝えて」

「何を?」

「ありがとう」


 僕は振り返った。


「凛が、ありがとうって」


 佐伯の目が一瞬で赤くなった。


 彼女は凛のいる場所に向かって、そっと頭を下げる。


「私のほうこそ、ありがとう」


 僕が伝えると、凛は顔をそらした。


「まったく、人間って一人も二人も面倒ね」

「君が一番面倒だよ」

「あなたよ」


 彼女は僕を睨んだ。

 泣いて目が赤いのに、それでも睨む。

 本当に彼女らしい。


「灰原悠人」

「何?」

「明日も起きなさい」

「うん」

「牛乳を取りに行くこと」

「うん」

「漫画をもっと人に見せること」

「うん」

「つまらないって言われても、すぐやめないこと」

「うん」

「次に手を描く時は、もう少しマシに描きなさい」

「最後まで具体的だね」

「当然よ。あなたの手、本当にひどいから」

「最後まで容赦ないな」

「担当者だから」


 彼女の姿はどんどん薄くなる。

 足がもうほとんど見えない。

 僕は一歩前に出た。

 凛は止めなかった。

 でも僕も手を伸ばさなかった。

 触れてはいけない。

 触れられないからではない。


 僕がもう、自分をそちら側に引き戻してはいけないからだ。


 凛はそれをわかったように見ていた。

 そして笑った。

 初めて見る笑い方だった。

 偉そうでもない。

 強がりでもない。

 照れ隠しでもない。

 ただ、優しかった。


「よくできました」


 彼女は言った。


「今度は手を伸ばさなかった」

「君に怒られるから」

「わかってるならいいの」


 声がどんどん軽くなる。


「凛」

「何?」

「あの小説の三章、まだ読んでない」

「うん」

「付箋を貼った」

「知ってる」

「見たの?」

「見た」


 凛は俯いた。


「嬉しかった」


 その言葉は風みたいに軽かった。

 でも僕には聞こえた。


「でも、残りは自分で読みなさい」

「ネタバレする」

「誰が聞くのよ」

「読みたかったんでしょ」

「読みたかった」


 彼女は初めて、そんなに素直に認めた。


「でも、ページは自分でめくるのよ」


 僕は頷いた。


「うん」


 凛は輪郭だけになっていた。

 灰色の目だけが残る。


「灰原悠人」

「何?」

「生きなさい」


 僕は謝らなかった。

 ごめんとも言わなかった。

 できないとも言わなかった。

 ただ頷いた。


「生きるよ」


 凛は笑った。


「それでいいわ」


 風が窓から入ってくる。


 スケッチブックの最後のページがめくれ、また落ちた。


 黒板の「ありがとう」が、夕陽の中で少し光った。


 凛は思い出したように眉を寄せる。


「あと」

「何?」

「明日、ネクタイを曲げないこと」


 僕は固まった。

 それから笑った。

 涙も落ちた。


「わかった」

「かかとも踏まないこと」

「わかった」

「朝食は焼きそばパンだけにしないこと」

「要求多すぎない?」

「あなたが頼りないから」

「うん」

「それから……」


 彼女は止まる。

 最後に、とても小さな声で言った。


「私を忘れないで」

「忘れない」

「嘘。規則で忘れるわ」

「じゃあ、描くよ」


 凛は固まった。


「何を?」

「記憶がぼやけたら、描く。下手でも描く。手が鶏の足でも描く。背景が歪んでも描く」


 僕は彼女を見る。


「君を物語に描く」


 凛の涙がまた落ちた。

 今度は拭わなかった。


「馬鹿」


 彼女は言った。


「可愛く描きなさいよ」

「難しい」

「努力しなさい!」


 それが、彼女がほとんど最後に僕を叱った言葉だった。


 次の瞬間、声が遠くなる。

 厚いガラスの向こうみたいに。

 僕には、夕陽の中の彼女だけが見えた。

 黒い制服。

 黒い長い髪。

 名簿を抱えて。

 目を赤くしている。

 彼女の唇が動いた。

 聞こえなかった。

 でも、何を言ったのかはわかった。

 明日ね。

 そして、死神少女は消えた。

 教室には夕陽だけが残った。

 チョークの粉。

 遠くの野球部の声。

 机の上のスケッチブック。

 佐伯が僕の隣に来た。

 「行っちゃったの」とは聞かなかった。

 「泣かないで」とも言わなかった。

 ただ、僕の肩にそっと触れた。

 人間の温度だった。


「灰原」

「うん」

「行っちゃった?」


 僕は頷いた。


「うん」


 佐伯も頷いた。


 しばらくして、彼女は空き教室に向かって小さく言った。


「明日ね、凛」


 涙がスケッチブックの表紙に落ちた。

 僕は慌てて袖で拭った。

 凛が見ていたら、怒るに決まっている。

 原稿を濡らすな、馬鹿な人間。

 だから濡らしてはいけない。



 八日目。

 世界は終わらなかった。


 目覚ましが一度鳴って、僕は目を開けた。


 部屋には誰もいない。

 死神はいない。

 黒い名簿もない。

 英単語もない。

 起き上がって、机を見る。

 スケッチブックがある。

 小説もある。

 窓から朝の光が入っていた。

 自分のネクタイを見る。

 まだ結んでいない。

 だから起きた。

 顔を洗う。

 制服に着替える。

 ネクタイを結ぶ。

 少し曲がった。

 鏡を見つめる。

 もう一度結び直す。

 今度は少しマシだった。

 かかとも踏まなかった。

 朝食は焼きそばパンだけにしなかった。

 コンビニでおにぎりを一つ買った。

 結局、焼きそばパンも買ったけれど。


 学校へ入ると、購買のおばさんが笑った。


「今日も普通の牛乳、取っておいたよ」

「ありがとうございます」

「今日は元気そうね」

「はい」


 僕は少し考えて、付け足した。


「遅刻するなって言われたので」


 おばさんは笑った。


「厳しい人ね」

「はい」


 僕は手の中の牛乳を見る。


「とても厳しい人です」


 そして、面倒な人。

 それから、優しい人。

 教室で、佐伯が言った。


「灰原、早」

「早」


 後ろから山田が声をかけてくる。


「灰原、あの幽霊漫画、家に持って帰っていい? 弟も見たいって」

「弟?」

「小学生だからわからないと思うけど、幽霊好きなんだよ」

「なくすなよ」

「わかってるって」


 僕はスケッチブックを渡した。

 手はまだ少し固い。

 でも引っ込めなかった。

 佐伯が僕を見て、少し笑う。


「今日、ちょっと違うね」

「どこが?」

「ネクタイが曲がってない」


 僕は固まった。

 それから笑った。


「怒られるから」


 佐伯は誰に、とは聞かなかった。

 ただ頷いた。


「うん」


 一年後。

 僕は別に、すごい人になってはいない。


 成績が急に学年上位になったわけでもない。

 クラスの中心になったわけでもない。

 世界中を驚かせる漫画を描いたわけでもない。


 今でも面倒なことは苦手だ。

 会話も上手くない。

 手は相変わらずよく変になる。

 でも、まだ描いている。


 あの幽霊少年の漫画は、あとでちゃんと原稿にして、ネットに投稿した。


 読んだ人は多くなかった。

 コメントも数件だけ。

 「雰囲気が好き」

 「最後、少し泣いた」

 「絵はもっと頑張って」


 一年前の僕なら、「絵はもっと頑張って」を見て、ページを閉じて、そのままもう描かなかったと思う。


 今はその文字をしばらく見て。

 心の中で返す。

 わかってるよ。

 手は練習する。

 その言い方は、少し彼女に似ていた。

 佐伯は、僕の最初の固定読者になった。


 彼女は僕の草稿を真面目に読んで、優しく、でも容赦なく指摘する。


「ここ、台詞が多い」

「この表情、違うと思う」

「灰原、またモノローグで逃げようとしてない?」


 ときどき、佐伯が凛に似てきたと言う。

 佐伯は笑って訊く。


「それって褒め言葉?」

「たぶん」


 山田もたまに読む。

 感想はだいたい短い。


「このキャラかっこいい」

「ここ、わかんなかった」

「この怪物、エビフライみたい」


 なぜか、そういう感想も役に立つ。


 購買のおばさんは今でも普通の牛乳を取っておいてくれる。


 ただ、僕はたまに別の味も買う。

 凛が知ったら、きっと言う。


 ようやく絶滅危惧種の人間から、普通の人間になったわね。


 僕は凛を完全には忘れていない。

 少なくとも、そう思っている。

 でも、記憶はたしかにぼやけていく。

 声が思い出せない時がある。

 表情が霧の向こうみたいになる時もある。


 彼女が偉そうだったこと。

 うるさかったこと。

 すぐ耳を赤くしたこと。

 死神は泣かないと言ったこと。

 最後の日、ひどく不格好に泣いたこと。

 それは覚えている。


 でも顔が、夢から覚めたあとみたいに曖昧になる時がある。


 そういう時、僕はスケッチブックを開く。


 一年の間に、何度も彼女を描いた。

 黒い長い髪。

 黒い制服。

 名簿を抱えて。

 窓辺に立っている。

 一回目は下手だった。

 二回目も下手だった。

 三回目は、少しだけマシになった。

 今も上手いとは言えない。

 でも、手は前より人間らしくなった。

 たぶん。


 ある日の放課後、僕は一人で教室に残って草稿を描いていた。


 佐伯は図書室へ本を返しに行った。

 山田は部活。

 夕陽が斜めに差し込んでいる。

 僕は最後列の窓際に座っていた。

 机の上にはスケッチブック。


 今回の話は、一人の少年と死神少女の話だ。


 少女はいつも怖い顔をしている。

 いつも、自分は仕事をしているだけだと言う。

 いつも少年をけなす。


 でも最後に、彼女が少年を人間の世界へ押し戻す。


 最後のコマを描いた。


 死神少女が夕陽の中に立って、少年に言う。


「生きなさい」


 僕は鉛筆を止める。

 しばらくそのコマを見つめた。

 それから、横に台詞を一つ足した。


「明日、ネクタイを曲げないこと」


 書いた瞬間、笑ってしまった。


「雰囲気ぶち壊しだな、これ」


 返事はない。

 教室には風の音だけ。


 その時、窓辺から黒いものがふわりと入ってきた。


 一枚の黒い羽根が、机に落ちた。

 とても軽い。

 この世界のものではないみたいに。


 羽根の縁には、少しだけ銀色の光があった。


 何なのかはわからない。

 ただのカラスの羽根かもしれない。

 夕陽で見間違えただけかもしれない。

 何でもないのかもしれない。


 でもその羽根の下に、小さな黒いしおりがあった。


 そこには見覚えのある字で、一行だけ書いてあった。


 きれいで。

 偉そうな字。

 今日もちゃんと、生きてる?


 僕はその文字を見た。

 胸が少し痛んだ。

 悪い痛みではない。


 古い傷が、雨の前に少しだけ自分の存在を知らせるような痛み。


 しおりを握って、僕は笑った。


「生きてるよ」


 声は小さい。

 自分にしか聞こえないくらい。


「ちゃんと、生きてる」


 窓の外では、夕陽が沈んでいく。

 教室には死神はいない。

 黒い名簿もない。

 僕を馬鹿と呼ぶ少女もいない。


 でも、見えないことと、存在しないことは同じじゃない。


 紙に引いた線みたいに。

 黒板の「ありがとう」みたいに。


 明日の朝、購買に取っておかれる普通の牛乳みたいに。


 僕は黒いしおりをスケッチブックに挟んだ。


 死神少女の物語の、最後のページに。

 それから鉛筆を持って、続きを描く。

 物語はまだ終わっていないから。

 描くページはまだたくさんあるから。

 明日はまた来るから。

 僕は明日、目を覚ます。

 ネクタイを結ぶ。

 かかとを直す。

 学校へ行く。

 普通の牛乳を買う。

 下手な草稿を佐伯に見せる。

 山田に怪物がエビフライみたいだと言われる。


 そして放課後の教室で、少しずつ、あの死神少女をもっと可愛く描く。


 どこか、僕に見えない場所で、彼女がまた腹を立てないように。


 きっと彼女はこう言う。


「まあ、悪くないじゃない」


 それから少し間を置いて、耳を赤くして付け足す。


「少しだけよ。調子に乗らないで、馬鹿」


 だから僕は調子に乗らない。

 ただ、笑って続きを描く。

 夕陽が教室を橙色に染めている。

 風がページをめくる。


 黒いしおりは、スケッチブックの中で静かに眠っている。


 その日、僕の世界に死神はいなかった。


 でも夕陽が教室に落ちるたび、僕は彼女を思い出す。


 僕の余命を数えていた死神少女。

 最後の日に泣きながら、僕に言った。

 生きなさい。

 僕は今でも、その約束を守っている。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


誰かの明日に、少しだけ残る物語になっていたら嬉しいです。

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