紅の戦場(前編)
焦げた土と血の匂いが、風に混じって流れていた。
夜襲の勝利は決定的。
だが、その光景に歓喜の声を上げる者はいない。
そこにあったのは、ただ静かな終焉と、
黒崎レンという“異界の勇者”の冷たい現実だけ。
人間たちの魂は回収され、
焼けた地には、まだ息のある獣だけが残された。
彼は言う――
「生きられるものは、生かして使えばいい。」
第九章『紅の戦場(前編)』。
勇者はもはや英雄ではなく、
世界の均衡を塗り替える者となった。
第一節 焦土の平原
夜明けとともに、風が焼けた土を運んだ。
戦場には、倒れた兵士たちの亡骸が果てしなく横たわっていた。
焦げた鉄と血の匂いが混じり合い、
それでも、静寂だけが支配していた。
帝国・魔族連合による夜襲は完全な勝利だった。
二万を超える連合軍の兵のうち、半数以上が命を落とし、
残りは散り散りに逃げ惑っている。
黒崎レンは戦場の中心を、ゆっくりと歩いていた。
その足取りは軽く、感情の欠片もなかった。
「……これで、終わりか。」
足元の泥を踏みしめながら呟く。
兵の魂が淡い光となって立ち上り、風に流れようとする。
レンは掌を掲げ、指を軽く鳴らした。
禁書《原罪の書》で得た収納魔法――
空間を折り畳むように、無数の光がその掌の中へ吸い込まれていく。
戦場に散った人間たちの魂は、一つ残らず回収された。
「無駄にするほど、価値が安いものじゃない。
……いつか、渡す手土産にはなる。」
その声には、感情も哀れみもなかった。
ただ、合理的な判断としての“収穫”だった。
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第二節 静かな慈悲
戦場の片隅で、馬たちの嘶きが聞こえた。
倒れた兵の隣で、瀕死の馬が何頭ももがいている。
矢が刺さり、足を折り、血を流している。
ヴァルゼインが背後で言った。
「主よ。これらも処分いたしますか?」
レンは首を振った。
「いや、殺す必要はない。
あれらは人間のために戦ったわけじゃない。
ただ巻き込まれただけだ。」
レンは右手を上げ、静かに詠唱する。
淡い光陣が馬たちの足元に広がり、
大地を包むように温かな風が流れる。
裂けた肉が再生し、折れた骨がゆっくりと繋がっていく。
呻き声が静まり、やがて嘶きが止んだ。
全ての馬が目を開き、穏やかに息をしている。
その光景を見て、ザグレイドが苦笑いした。
「主よ……それが、“勇者の慈悲”ってやつですか?」
レンは短く答える。
「さぁな。ただの再利用だ。
生きられるものは、生かして使えばいい。」
その声は静かだったが、どこか皮肉めいていた。
ネフィアが肩をすくめ、ヴァルゼインが剣を軽く構える。
誰も笑わない。
ただ、目の前の主の行動に、言葉を失っていた。
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第三節 帝国への帰還
戦場の片付けが終わると、レンは連合軍の物資をすべて回収させた。
死体は魔族たちが焼却し、
瀕死の馬はレンの命で帝国へと運ばれた。
数日後、帝都バルディア。
傀儡皇帝アレストが報告を受ける。
「回収した馬は、全て治癒済みとのことです。
帝国の財産として再利用の手続きを進めております。」
「……そうか。」
レンは短く答え、窓の外を見た。
街では、民たちが噂していた。
“勇者レンは人を殺し、獣を救った”と。
それは恐怖と敬意の入り混じった噂だった。
人々は彼を、救世主ではなく“支配者”として語り始めていた。
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第四節 新たな報せ
夕刻、帝国宮殿の一室。
レンの前にゼルグレイスが立ち止まる。
「レン殿よ、新たな動きがありました。
連合軍の第2陣、本命が動き出しました。」
レンが視線を向ける。
ゼルグレイスは続ける。
「報告によれば、兵は三万。
規模は先の戦の倍。
完全な戦争体制に入った模様です。」
レンはゆっくりと椅子から立ち上がり、
窓の外――赤く沈む夕空を見つめた。
「そうか。
連中も、少しは学んだらしい。
……だが、遅い。」
静かな声が部屋に響く。
ネフィアが尋ねた。
「主、次はどうなさいますか?」
レンは背を向けたまま、淡々と答えた。
「狩りを続ける。
殺し合いなんてもう慣れた。
ただ、今回は――少しだけ見せてやるさ。」
ザグレイドが眉を上げる。
「何を、です?」
「“勇者”ってものが、どれほど人間離れしているかを。」
風が吹き抜け、窓の外で黒い旗が揺れた。
戦場の火は、まだ消えていない。
連合軍第一陣の壊滅により、
世界は“勇者”の意味を改めて知ることになった。
それは救済ではなく、徹底した破壊と整理。
焦土に立つ男は、誰よりも冷静に生と死を見極め、
その手で命を奪い、また与えた。
人間の魂はすべて収納され、
馬だけが生かされて帝国へと帰還する。
皮肉なほどに正確な、彼なりの“秩序”だった。
そして、戦は終わらない。
新たな報せが届く――
連合軍の本命が、いよいよ動き出した。
世界はまた、紅に染まる。




