うわばみ
止まない雨はないというが、夕刻から降り続く雨の量は普通ではなかった。会社からの帰り道、男は雨宿りのため傘を畳んだ後、いきつけのバーに入った。
「いらっしゃい、よく降りますね」
顔なじみのマスターは、カウンターの中でグラスを拭きながら男に話しかけた。
「困ったもんさ。こう降るとうんざりしてくるよ、小止みになるまでいさせてよ」
男は雨に対する苦笑いを浮かべながら、マスターにそう言い、
「バーボンをちょうだい」
と、いつもの酒を注文した。
男はバーボンを少しずつやりながらマスターと談笑していると、しばらくして、店の片隅のテーブル席に若い女がいるのに気づいた。客であるようには見受けられる。ただ、格好があまりにも清楚で、この店に似つかわしくなく、そのため、その若い女の姿が目立って見えた。
「マスター、あの人はいつ頃からいるんだい?」
「ん? ああ、二時間くらい前からかな、結構早いペースで飲んでるみたいだけど、全然様子が変わらないな。あの女性は相当酒が強いぞ」
カウンターを拭いていたマスターは手を止め、抑揚をつけてそう言っている。
(そんなに強いのか)
件の女性は先ほどから、まるで変わらないハイペースでウイスキーを飲み続けている。酒によって何一つ乱されない、見事なうわばみぶりに興味を持った男は、その清楚な女性に話しかけてみることにした。
「こんばんは、かなり長い時間雨宿りをなさっているようですね」
男は気さくな風に、清楚なうわばみの女性に話しかけた。そうすると、
「ええ、よく降っているところに、このお店を見つけたんですよ。雨宿りにちょうどよくて助かりましたわ」
笑顔を交えた返事がその女性から返ってきた。男に悪い印象は持たなかったようである。
「そうでしたか、それはお困りだったでしょう」
清楚な女性に話しかけながら男は「相席していいですか?」とさりげなく訊き、了承を得ると、うわばみの女性から見てテーブル越し正面の席に座った。そして、しばらく色々な話を交えながら、男は女性と打ち解けていった。
「ところで、あなたはお酒が非常に強いんですね」
男はいい酔い加減で話していたが、相手の女性を見ると飲酒によって乱れた所は微塵もなく、ほんのりともしていない。相変わらずの清楚さである。
「いえ、私は本当は全然呑めないんですよ」
考えに全くなかった女性の返事を聞き、男は一瞬きょとんとした。
「いやいや何をおっしゃいます、さっきから相当な量をお呑みですよ」
気を取り直して、笑いながら女性に訊くと、
「私が呑めているのは、これをあらかじめ飲んでいたからなんです」
と、ある物を取り出しながら女性は返答をした。それは小さな白い錠剤だった。
「実は、この時間の雨に合うのも、ここでお酒を飲むのも、そしてあなたとお話するのも予定通りでした」
女性は言葉を続けたが、男には勿論何を言っているのか理解ができない。
「わけが分かりませんよ、どういうことです?」
女性は「ふふっ」と笑い、
「私は時間旅行中なんです、普段呑めないお酒を楽しみ、あなたとの話をこの時代のこの時で楽しみに来ました。あなたが何を話してくれるのか楽しみにしていたんですよ」
そう、男を柔らかく包み込むように言った。男は呆然としていて、酔いもかなり回っていた。
「そろそろ止む頃ですね、では私はこれで失礼致します。あなたと呑めて楽しかった」
外の雨が止み始めたのを確認すると、清楚な女性はマスターに、お金を払い店から出ようとしたが、何かを思い出し男の所へ戻ってこうささやいた。
「言い忘れていましたが、雨が止んでも1時間はこのお店にいて下さいね。もっとも、あなたはこれから1時間半眠ることになりますが……」
そう謎の予言を残すと、女性は微笑みながら店のドアを開け、出て行った。
「何だったんだいったい……」
酒に酔った男の意識は徐々になくなり、眠りへと落ちていく……。
「起きたかい?」
男は酒に潰れて意識を失ったあと、うわばみの女性が予言した通り、丁度1時間半眠った。
「ああ、なんだか狐につままれた気分だよ」
「そうだろうなあ。まあ何にしても運がよかったよ。いやね、この近くでさっき通り魔が出たらしくてね、かなりの人が斬られたらしいよ。酔い潰れててよかったよ」
マスターの言葉を聞き、男はゾッとした。
(何もかもあの女性が言ったことは本当なのかも……)
うわばみの女性が何者だったのか全く分からないが、そう考えざるを得ない。
後日、男はある女性と知り合い、結婚することになる。その女性の笑顔は、店で話をした、清楚なうわばみの女性とよく似ていた。
他人の空似なのか何なのかは分からない。ただ、男はその女性の笑顔が好きで、結婚の決め手にもなったらしい。