触れると魔力が暴走する王太子殿下が、なぜか私だけは大丈夫みたいです
『触れると魔力が暴走する王太子殿下が、なぜか私だけは大丈夫みたいです。』
【出会いは、国中が諦めかけている時に】
王都では、今日も被害報告書が山積みだった。
「また、庭園の池が吹き飛んだそうです」
「昨日の令嬢は土属性だったので、温室ごと地割れしました」
「前回の風属性の方は、衛兵十人が屋根に飛ばされ……」
「もうやめて! 王宮の施設耐久がゼロよ!」
侍従たちの声は日に日に切実さを増し、ついには笑いも失われた。
この国の第一王子、シルヴェスター=ルクレイン殿下。
容姿、知性、人徳、政治手腕、魔力量、すべてが完璧と称される王太子は唯一、重大な問題を抱えていた。
異性に触れると、触れた相手の魔力が暴走する。
それも、ただの魔力漏れや誤発動レベルではない。
氷属性なら、城が凍りつく。雷属性なら、空が裂ける。
大災害である。
当然ながら、誰もが王太子妃になることを怖れた。
王宮ははじめ、政略結婚のために名門の娘たちを集めた。
だが、触れただけでその場が戦場と化すお見合いが繰り返され、いつしか噂は国中に広まり…
「触れれば国が沈む王子」などと、民間で異名までつけられていた。
それでも王宮は諦めなかった。
お相手探しは名門から中堅貴族へ、さらに下流へと徐々に範囲を広げられた。
ついには、地方の田舎貴族にまで招待状が届くようになった。
そして今では、貴族身分を持つ未婚女性全員を対象とした「ふれあい確認式(建前:社交パーティ)」が、年中行事のように開催されている。
「立派なお城だなぁ……」
そう呟いたのは、フィオレッタ男爵家の娘、リュシア・フィオレッタ。
招待された[ふれあい確認式]のために辺境の田舎から出てきた。
王宮に入るのは初めて。
正直、パーティという響きにも慣れない。
ふわふわした栗色の髪を揺らしながら、緑のドレスの裾を両手でつまんで、首をかしげる。
「このお花、初めて見るなぁ。かわいい。」
門前の花壇の前に立ち止まり、小さく背をかがめて香りを嗅ぐ。
付き添いの侍女が慌ててリュシアの腕を引くも、彼女は「あ、すみません」と悪びれもせず笑った。
周囲の令嬢たちは、みなピシッと背を伸ばし、準備万端という表情。
リュシアの姿は、どう見ても場違いだった。
でも、そんな彼女に、控えの間の使用人たちは、なぜか自然と笑みを浮かべていた。
不思議と空気が和らぐ。
気取らず、飾らず、よく笑い、よく謝る。
見栄も虚勢も一切ない、丸ごと素の女の子。
「ほんとにこの子、貴族?」
「フィオレッタ家って、確か薬草農園の……」
そんな声がひそひそと漏れる中、控えの扉が開いた。
「皆さま、パーティ会場へご案内いたします」
*
パーティ会場は、白と金を基調にした大広間で、天井から吊るされたクリスタルのシャンデリアが、陽光を跳ね返して輝いていた。
入室順に貴族たちが名を呼ばれ、王太子と短く挨拶を交わしていく。
といっても、非接触。
会釈のみである。
王太子に触れようとする者は誰もいない。
そんな中、
「リュシア・フィオレッタ様」と名が呼ばれ、彼女が前に出た。
「はいっ」
元気よく返事をしたリュシアに、周囲が小さくざわつく。
そのままぺこりと頭を下げた姿も、どこか抜けていて、思わず笑みが漏れる者すらいた。
「フィオレッタ様ですね。はじめまして。シルヴェスターです」
穏やかな声が、正面から聞こえた。
顔を上げると、そこには、書物の挿絵のように美しい青年がいた。
けれど、近寄りがたい美しさではなかった。
柔らかい物腰に、控えめな微笑み。
声も、目線も、安心させるような雰囲気。
リュシアは目をぱちくりさせた。
彼の姿は、噂で聞いていた魔力暴走の化身でも、近寄ると危険な存在でもなかった。
むしろ、誰よりも優しく、丁寧で。
「えっと…あの、リュシアです。お会いできて、うれしいです!」
なんとかそう答えると
「リュシア様」
王子が、その名をゆっくりと繰り返した。
その目に、ほんの一瞬だけ、驚きの色が浮かんだ気がした。
華やかなパーティの影で、城の東翼にはひときわ静かな部屋が用意されていた。
【談話室】
建前ではそう呼ばれているが、実際は「異性に触れた時、魔力がどう反応するか」を確認する場所だった。
王太子の特異体質は、公式には「王族魔力と特性魔力の共鳴反応」とされていたが、
その正体は未だ不明で、相手によって暴走の形も被害の規模もまったく異なった。
だからこそ、触れる場は別室で。
万一の事態に備え、魔法防壁と対処班が配置された半ば実験室のような空間だった。
「次、ノエル=アーデン令嬢入室を」
扉が閉まり、静寂が訪れる。
数秒後、ぎゃあああああ!と天井が揺れるような悲鳴。
そしてガシャンという音。
爆発、そして、室内から大急ぎで撤収する召使いの姿。
「……彼女、水魔力だったよね?」
「うん、今回は何だろうね…」
「次、リュシア・フィオレッタ令嬢」
静寂が落ちる。
数名の従者と騎士が、手元の記録用紙を覗き込んだ。
「植物属性か。」
「フィオレッタ家は薬草栽培中心の自然共存系って記録されてる」
「前の似た系統、全部暴走してるよね。あの城中にツタ増殖はキツかったなぁ…」
「魔力レベルは微弱…だが、逆に反応しやすいかもしれんな。」
魔力が大きければ、王子に反発する。
だが、微細で繊細な魔力ほど、王子に吸い寄せられやすい傾向があると、一部の魔道学者は報告していた。
——つまり、どちらにしろ危ない。
リュシアは何も知らぬまま、小さく頭を下げて入室した。
「失礼します。わっ、床……ぴかぴか」
まるで教会のように静かな空間。
周囲の壁には結界が張られ、四方から監視の目が注がれていた。
その中心に、王子がいた。
立っていた彼は、微笑んで会釈を返す。
「ご案内が不十分だったかもしれません。この部屋では、少しだけ手を取らせていただくことになっています」
「……はい」
「怖がらなくて大丈夫ですよ。ほんの一瞬です。万一のことがあっても、私が必ず止めます。ですから…」
王子の声は、まるで傷ついた動物をあやすように、静かで優しかった。
リュシアはきょとんとしたまま、目の前の椅子に腰かけた。
「手……ですね」
リュシアの差し出された手を、王太子の手が、ふわりと重ねる。
その瞬間——
何も、起こらなかった。
暴風も、氷結も、火柱も、地鳴りもない。
それどころか、部屋の空気がすっと柔らかくなるのを、誰もが感じた。
「……あれ?」
リュシアが指先を見つめる。
魔力の反応がない。
いつもなら、小さな芽吹きを起こすのに。
それがまったく反応しない。
「……ありがとう」
王子が、小さく息を吐いた。
リュシアは首をかしげる。
「あの、何か終わったんですか?」
「はい。……すべて。」
王子が、初めてそんな風に微笑んだ。
部屋の中で。息をのんでいた魔導師たちが一斉に記録を取り始める。
「記録確認。暴走反応なし」
「安定魔力確認」
「接触後、王太子の周囲魔力に波動減衰あり」
「何も起きなかった」
それはまるで、深い深い湖面がひとときも揺れずに澄んだような、静けさだった。
誰かが小さくすすり泣いた。
それが引き金になったかのように、周囲の魔導師たちの目元が次々に潤む。
「魔力、安定……してる……」
「接触後の反応ゼロ」
「ど、どういう……えっ、いや、これ、本当に……?」
誰もが動揺しながら、記録用紙に震える手で書き込んでいた。
そして、室内の隅で立ち尽くしていた年配の侍従が、ハンカチでそっと目頭を押さえた。
「殿下が女性と、普通に手をつなげた。それだけのことが、こんなに……」
涙声の中に、込み上げるような安堵と喜びが滲んでいた。
リュシアはというと、ぽかんと口を開けたまま、状況をまったく理解していない。
「あの……みなさん、どうして泣いて……?」
「……リュシア様」
王子が、そっと手を離した。
けれど、その瞳は今にも涙が零れそうなくらいに潤んでいて、
それでも笑っていた。
「ありがとうございます。……私にとっては、これが初めてだったのです」
「初めて?」
「はい。私が異性と触れても何も起きなかったのは……今日が、人生で初めてです」
その言葉の重みが、ようやくリュシアの胸に届く。
「でも、私は……ただ、草のお世話が得意な田舎者なだけで……」
王子が、微笑んだ。
「私にとっては、あなたの存在そのものが特別です」
思わず、リュシアは頬を赤らめた。
まわりの魔道士たちから、あたたかい拍手が起きた。
堅苦しい報告でもなく、儀礼的な礼でもない。
ただ、純粋な祝福と感動からの拍手。
その輪の中に、嫉妬や羨望は、一切なかった。
「まさか、こんな日が来るなんて……」
「神様は、見ていてくれたんだな……」
ひとり、またひとりと目を拭い、微笑む大人たち。
それを見て、リュシアは胸がじんわりと熱くなるのを感じた。
まるで、何もしてないのに自分が良いことをしたような、そんな不思議な気持ちだった。
ただただ、何も起こらなかったという真実だけが、そこにあった。
*
それは、風の気持ちよい午後だった。
王宮の南庭に面したテラスに、小さなテーブルと椅子がふたつ。
紅白の小花が咲く鉢植えがそっと置かれていて、まるでそこだけが春の箱庭のようだった。
「ご足労いただきありがとうございます。お席へどうぞ、リュシア様」
シルヴェスター王太子の声は、やさしい音色だった。
誰かを責めることも、急かすことも決してしない。
それは、あの日の確認室で初めて聞いたときと、何も変わっていなかった。
リュシアは、少しきょろきょろと周囲を見回してから、控えめに席についた。
「殿下がお茶を淹れてくださるんですか?」
「ええ。今日は私のお気に入りのブレンドで。南庭で採れたカモミールと、ベルガモットの花びらを少しだけ」
「……すごい。香りが良いです。」
「よかった。季節のかわり目ですから、少しでも気分がやわらげばと」
ティーポットから注がれた紅茶から立ちのぼる香りに、
リュシアは自然と目を細めた。
それだけで、心がふわりとゆるむ。
二人の間に流れる時間は、静かで、温かくて、やさしいものだった。
リュシアはカップを両手で包みながら、そっと言った。
「……殿下って、とてもやさしいんですね。話していると、すごく安心します」
「そう感じていただけたなら、嬉しいです」
「うまく言えないんですけど……なんというか、風みたいだなって」
「風……ですか?」
「はい。そばにいても重たくなくて、静かに寄り添ってくれる風です。
優しい風って、気づいたときにはそばにいてくれて、心地よいですよね」
その言葉に、王子は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。
そしてすぐ、いつものように穏やかに微笑んだ。
「私にとっては、新しい表現です。けれど、そうですね……風のように、在れたらいいなと、思いました」
ふたりはふわりと笑い合った。
それはとても静かで、特別な意味を込めたものではなかったけれど——
午後の紅茶に似合う、小さな優しい共感だった。
リュシアは、ふと思い出したように口を開いた。
「あの、殿下。あの日、手をつないだときに、なにも起きなかったのって、ほんとうに珍しいことだったんですね?」
「はい。奇跡のようなことでした」
「私、草を育てるのが得意なだけで、魔力も特別ではないのに」
「ええ、だからこそ」
王子は紅茶に目を落としたまま、そっと言った。
「何も特別でない方が、私にとって特別になるなんて、不思議ですね」
「……?」
「いえ。私の話です」
そう言って、彼はカップを傾けた。
琥珀色の液体が、光にきらきらと揺れていた。
会話の合間に沈黙が流れても、それは決して気まずくなかった。
むしろ、その沈黙さえも心地よさに包まれていた。
誰かと一緒にいて、何も話さなくても安心できる。
そんな時間が、この世界に本当にあるんだ——と、リュシアは初めて思った。
「あったかいですね」
「え?」
「今日の紅茶も、風も……それに、殿下も」
その素直な言葉に、王子はふわりと息を漏らすように笑った。
「リュシア様は、とても……面白い方ですね」
「えっ、おもしろい?」
「良い意味です」
そうしてまたふたりは笑った。
午後の陽射しがやわらかく差し込むテラスで、
ふたりの距離はほんの少しだけ、自然に近づいていった。
※王太子シルヴェスター視点
「殿下、解析結果です。リュシア=フィオレッタ嬢の魔力は、属性:草木。分類:非攻撃性。特性:生命共鳴型。反応値……ゼロ」
「ゼロ、ですか」
「はい。正確には、無干渉。殿下の魔力に共鳴も反発もしない?あえて言えば、ふわっとすり抜けるような…」
「まるで、風が葉を撫でるような?」
「はい。まさに、です」
わずかに驚いた様子で報告を続ける魔道士の横で、私は机に置かれた一冊の記録簿をめくっていた。
ページの端には、これまで私が触れた者たちの名前と、発動した魔力の現象がずらりと並んでいる。
水、氷、火、風、雷、土、毒、音、幻……
名家の令嬢たちは皆、何かを暴走させていた。
それを見て、私はいつも思っていた。
——人に触れるって、こんなに怖いことだっただろうか?
だからこそ、リュシアとの接触は、衝撃だった。
何も起きなかった。
でも何もないわけじゃなかった。
彼女の手は、温かくて、柔らかくて、ちゃんとそこにあって。
その事実が、たまらなく嬉しかった。
「殿下?」
「いえ、続けてください」
「は、はい。魔力の強さそのものは中下位。ですが、あの無反応ぶりは統計的にも、例がありません」
「結論としては?」
「なぜ、殿下と接触しても暴走しなかったのか……」
魔道士は、言い淀んだ末に、ぺこりと頭を下げた。
「不明です」
部屋の中に、静かな沈黙が落ちた。
でも私は、それを意外に思わなかった。
むしろ——
(ああ、やっぱり)
という、妙な納得があった。
世界には、理屈では割り切れないものがある。
魔力も、心も、人の縁も。
数字にできないからこそ、そこに確かな何かがある気がした。
私は、そっと目を閉じた。
思い浮かぶのは、あの午後の陽だまりのなかで、カップを両手で包みながら、ふわりと笑っていた彼女の顔。
……あったかいですね。
たったそれだけの一言が、なぜあんなにも、嬉しかったのだろう。
「殿下、ご命令を。さらなる解析を継続いたしますか?」
魔道士が、慎重に問うてきた。
だが私は、そっと首を横に振った。
「いいえ。これ以上は、必要ありません」
「はっ……?」
「分からなくてもいいのです。分からないままでも、彼女がそばにいてくれるのなら、それでいい」
言って、自分でも驚くほど自然に笑えていた。
この体質を呪いだと呼んだ日もあった。
誰にも触れられず、愛する人も持てない——そう思っていたこともあった。
でも、今は違う。
たったひとりでも、触れて、笑って、手を握ってくれる人がいる。
それは、もう十分すぎるほどの奇跡だった。
「リュシア様には、何もしないことをしてください」
「何もしない?」
「余計な測定も、封印も、理論付けもいらない。どうか、今のままの彼女を守ってください」
「はっ、畏まりました」
魔道士が涙ぐみながら頭を下げたのを見て、私はまた、少しだけ笑ってしまった。
どうしてだろう。
理屈じゃないものを信じるのって、
こんなに気持ちが軽くなるんだな。
※リュシア視点
「リュシア様、そちらは一緒に運ばなくて大丈夫ですか?」
「あ、大丈夫ですよ〜。これ、けっこう軽いので」
そう言ってにこにこと笑いながら、
リュシアは両手に抱えた鉢植えを、小さな温室の棚に丁寧に並べていく。
場所は王宮の薬草園。
彼女の植物魔力を活かすためにと設けられた名目の一角だったけれど——
気づけばそこは、職員たちにとっての癒やしの場所になっていた。
「あれ、葉っぱが元気ないですねぇ。ちょっとお水多かったかも……」
「えっ、それ見ただけで分かるんですか?」
「うーん、葉の張りと色でなんとなく。あと、しゃべってる気がするので」
「しゃ、しゃべってる……?」
「はい。『ちょっと苦しいな〜』って感じで」
真顔でそう言われて、侍女長はぽかんとしたあと、思わずふふっと笑った。
リュシアの口から出る言葉は、一見ふわふわしていてつかみどころがないけれど、聞くほどに「妙に納得してしまう」不思議な説得力があった。
しかも、手をかけた植物たちは、
本当にみるみるうちに元気になる。
「まるで、彼女自身が癒やし魔法みたいだね」
と、園芸担当者がこっそりつぶやいたほどだ。
別の日。
「リュシア様、この資料室での分類作業はちょっと難しいかと」
「あ、これ年ごとじゃなくて品目ごとに分けたほうが探しやすいと思います!」
「えっ? た、確かに……そのほうが効率的ですね!」
気づけば、リュシアは書庫係の仕事も手伝っていた。
王宮書庫の分類法に関しては、昔から誰も疑問を持たなかった。
だがリュシアのなんとなくが、結果として整理効率をぐんと上げる形となり、書庫の責任者が感動のあまり紅茶を淹れてくれたとか。
さらには、厨房。
「そのお料理、少しだけこのハーブ乗せると香りが立ちますよ〜」
「えっ!?本当だ!」
本人はただの家庭の知恵のつもりなのに、料理長すら驚くレベルで「味のバランスが取れる」リュシアの食感覚。
……そんな毎日を過ごすうちに。
王宮中に、こんな言葉がひそやかに広まりはじめていた。
「リュシア様ってあの、王子に触れても大丈夫な方よね?」
「そうそう。でも、なんかそれだけじゃないのよね。どこでも可愛がられるっていうか」
「本当、王子様にとって運命の相手じゃない?」
「分かるわ〜あの子が近くにいると空気がやわらかくなるのよ」
「まるで春風」
「それ、王子様も言ってたらしいよ」
いつの間にか、誰が言い出したともなく、
人々の口から出るようになった言葉。
「あの子、王宮のひだまりね」
リュシア本人はというと、
そのさざ波のような広がりに気づくこともなく、今日もひとこと。
「王太子様って、本当にやさしくて素敵な方ですよね〜」
そしてまた、周りが和んでいくのだった。
*
「リュシア様、本日は王太子殿下と共に、魔導研究棟の視察でございます」
「はい〜。あの、地図持って行ったほうがいいですか?」
「いえ、殿下がすでに手配済みですので……
あっ、もうお迎えに」
「リュシア様。ご一緒に、よろしいでしょうか?」
テラスの扉の向こうに立っていたのは、
いつものやわらかな笑顔のシルヴェスター殿下。
春の光を背に、差し出された手のひらがやさしく揺れていた。
気づけばこんなやりとりも、すっかり毎日になっていた。
最初は一回きりの予定だった懇談。
けれど「ご迷惑でなければ」「またお話を」の言葉とともに定着し、王太子の公務予定表に「リュシア様同行」が当たり前のように組み込まれていた。
まるで、朝の紅茶みたいに。
あって当然、でも特別な時間。
「わぁ、今日のネクタイ素敵ですね〜。お花みたい」
「気づいてくださって光栄です。実はリュシア様のドレスのの色に合わせてみました」
「えっ…本当だぁ。すごい。」
言われて、あらためて王子のネクタイを見る。
花の刺繍に似た模様が、淡く光っていた。
胸の奥が、きゅうっと小さく鳴る。
「嬉しいです」と言おうとして、先に笑みがこぼれてしまった。
さりげなく“特別扱い”されていることに、最近やっと気づいてきた。
いまだに慣れないけれど、不思議と嫌じゃない。
少しだけ胸がくすぐったくて、あたたかい。
まるで陽の光に包まれるみたいな、やさしくて、やわらかくて、ほっとする感覚だった。
「リュシア様、王子とお食事を?」
「リュシア様、今日も王子に同行されるのね」
「リュシア様のお席、王子の隣でご用意いたしました」
……周囲もすっかり、そのつもりらしい。
「あの、これって……婚約者って扱いなのでは?」
ある日、侍女の視線がやさしくて、少しだけ照れくさくなって、思わず尋ねてみた。
「えっ、違ったんですか?」と逆に返されて、
「ち、違いますよ〜! だって、まだ何も言われてませんし!」
「じゃあ、まだなんですね?」
「い、いえ、まだというか、たぶんというか、でもまさかというか……」
リュシアがわたわたしていると、
侍女はふふふと楽しそうに笑った。
「リュシア様ってほんと、リュシア様ですね」
「それって褒めてます?」
「もちろんです。王宮中が、リュシア様のこと大好きですから」
その日の午後。
王太子と並んで歩く廊下の途中、ふと彼が立ち止まった。
「……リュシア様」
「はい?」
「今日、お話したいことがありまして。よろしければ、お時間をいただけますか?」
「はい〜。紅茶、淹れますね」
「ふふ、ありがとうございます」
王子様はそのまま、少しだけ顔を近づけて、静かに言った。
「あのとき、あなたに触れて“なにも起きなかった”こと。あれは、私にとっての始まりでした」
「え……?」
「今は、あなたと一緒にいるすべての時間が、奇跡のように愛おしいのです」
「…………」
顔が、耳まで熱くなるのが分かった。
王子の瞳はまっすぐで、やさしい。
いつもの、春風のようなまなざし。
「焦らなくて構いません。けれど、
いずれあなたの隣に、ずっと立っていたいと願っているのは、本当です」
リュシアは、胸の中がふわっと浮くような気がして、うまく返事ができなくて。
ただ、いつものように、ぽつりと笑った。
「王太子様って……ほんとうに素敵な方ですね」
それは、彼女なりの「はい」だった。
そして王子は、それをちゃんと受け取って、とても嬉しそうに目を細めて笑ってくれた。胸の奥に、ぽっと明かりが灯るみたいに、うれしかった。
その日から、リュシアは王宮のひだまりとして、さらに存在感を増していった。
それでも彼女は、変わらず草花を育てて、今日もにこにこ笑っていた。
※王太子シルヴェスター視点
ずっと、自分に言い聞かせてきた。
「自分の意志で、誰かに触れてはいけない」と。
儀礼としての握手、式典の挨拶はすべて王子としての触れ合いでしかなかった。
手を取れば、壊れて傷つく。
だから私は、心を込めることをやめた。体も、言葉も、感情さえも。
王太子として、全ての責任を引き受ける代わりに——
私は誰のものにもならない存在でいようと決めていた。
それが、私の在り方だった。
あの日、君と出会うまでは。
小さな手が、私の手のひらに重なった瞬間。
何も起こらなかった。
炎も、水も、風も、土も、暴走することなく、
ただ——そっと、手がつながっただけだった。
けれど、私の中では何かが確かに始まっていた。
ふわりと香るジャスミン。
陽だまりのような笑顔。
そっと撫でられるような、優しい声。
「殿下って……風みたいですね」
君がそう言ったとき、
私は初めて「誰かと一緒にいたい」と思った。
誰にも触れられないはずだったこの手が、
今では、毎日のように君の手を求めている。
触れるのがもう、怖くない。
むしろ、触れてしまいたくて仕方がない。
君のそばにいると、
この世界は少しやわらかくて、少し明るくて、
そして、何より——やさしい。
「王太子様、今日の紅茶、少し甘くないですか?」
「リュシア様の笑顔を思い浮かべながら選びましたから、きっと甘さがうつったのでしょう」
「え、そんなの……ずるいです……」
君がそう言って紅茶を口に運び、
ふっと笑う。
その横顔が、今の私の宝物だ。
かつて私は、この手で触れることで人を傷つけると思っていた。
けれど、あの春の日。
私はやっと、知ったんだ。
誰かに触れるということは、壊すためじゃない。
つながるためにあるのだと。
この手が、もう誰も傷つけない世界を、君がくれた。
だからこれは——
始まりの物語。
ふたりの優しい日々の、最初のページ。
完