「ねがい」16(完)
16
ノックされ、扉の外から声がかけられる。
「お時間にございます」
よく訓練された侍従は、内側から開かれるまでは決して室内に踏みこんでこようとはしない。
部屋の主の地位が高いからだけではなく、この部屋に踏みこむと、見てはならないものを見てしまうからだ。
ファラのまどろみは終わった。
そして、もう一人。
「ん……」
寝ぼけた声がした。
ファラの胸元から。
ゆらり、と細身の青年が身を起こした。
彼女の夫にして、カルナリア女王が治める新生カラント王国の宰相。ガルディスの乱により大きく乱れたこの国は、彼の卓越した行政処理能力なくして立ちゆかない。
夫――セルイではなく、『覆面宰相』ライズ・ディルーエンが今の彼の名。誰もが彼をその名で知りその名で呼ぶ。彼もそれが自分の名だと思い定めている。セルイと呼んでも反応せず、そういえば前はその名でしたねと笑うだけだ。
「さて、がんばりますか」
相変わらずきわめて美しい、しかし激務で以前よりは全体的に細くなっている若い父親は、深々としたかぶりもので頭部全体を覆い隠した。
ガルディスの配下だったということを知られないためにつけていた覆面が、いつしか彼のトレードマークとなり、またその存在が今のカラント王国にとって重要となればなるほど命を狙われる危険も高まったため、彼はこの部屋以外では常にかぶりものを装着して様々な暗殺の試みから身を守り、時には影武者と入れ替わり誰にも居場所を知らせないまま政務を行うような真似もしているという話だった。
「行ってらっしゃい」
ファラは言い、夫が顔を埋めていた生の乳房を隠した。
他の者がどれほどの緊急事態でも勝手に入室してこないのはこれ――宰相の妻の胸を見てしまうという無礼を避けるためだった。
元から見事だったふたつのふくらみは、子を宿すたびに大きさを増し、今ではもうセルイの頭部が谷間にすべて埋まるほどになっている。
覆面宰相は、どれほど激務のさなかであっても、愛する妻のその巨大な丘に顔を埋めずには休息しようとしないのだった。
そのため、新たな王宮において、宰相の執務室と王国筆頭魔導師の居室が隣接している状態となり、その区画は「リスティス宮」などと呼ばれてしまっている。
「行ってくるよ。子供たちも、また夜にね」
わずかな休憩を終えた夫は手を振り、覆面をしたまま背を向け――その身にみるみる怜悧なものが宿っていった。父親から宰相へ、妻に甘える大きな子供から一国を支える冷徹なる政治家へ変貌して、彼の採決を仰ぐ案件を山ほど用意して待ち構える官吏たちの前に出てゆくのだった。
その後ろ姿を、目をじっとり甘細くして見送ると――別な扉から女官がぞろぞろと入ってくる。
それぞれが子供のための様々な布や用具を持った彼女たちは、横たわるファラの左右に位置取って、広い寝台で父親と一緒に寝つかせていた三人の幼子たちの面倒を見てくれるのだった。
ファラ自身のことも、医師として実績ある女性が色々と診てくれる。
王国宰相と筆頭魔導師の子供という、この国で上から数えた方が早い地位にいる存在のさらなる子供、四人目がお腹にいるためである。
(貴族を憎み、滅ぼしたいと思ってたあたしたちが、今や新しい貴族に――それも一番偉いお貴族さまになっちまってるんだよねえ)
それはそれでありがたいことは否定できない。
きれいな部屋。
たっぷり栄養をとることのできる環境、それにより大きくなった体を横たえて夫婦と子供みんなで眠ることのできる寝台。体型の変化に合わせて次々と用意される立派な衣服。
とにかく大変な複数の乳児の世話を手伝ってくれる、信頼できる侍女たち。何かを求めれば大抵のものは即座に用意してもらえるし、何かを命じればそれもまた大抵のことは即座に実行される。
すでに生まれた子、これから生まれてくる子、この先ももっともっと作る予定の子たちのために、この環境を失いたくはない。
だが、誰もが自分たちを重視し敬意を示し頭を下げ言うことを聞くというのは――誰かを邪魔だと地位ある自分が言えば実行されるだろうし、自分を狙う者が出た場合これも即座に処刑されることだろうということだ。
自分自身でやらなくても他人の命を容易に踏みにじることができるのが今の自分たち「権力者」。
そのことを恐ろしく感じるし――正直言って、面白く、気持ちよくもある。そこは否定できない。クソ貴族どもはこういう気分だったのかと納得し、生まれた時からこれが当たり前だったら、従わない相手や自分を偉いものとして扱わない相手をものすごく憎たらしく思うだろうとも理解できた。
(でも、あいつらと同じものにはならないよ。絶対に。あたしも、あのひとも、あたしの子供たちも)
現カラント王国筆頭魔導師、大魔導師を超えた『偉大なる』魔導師ファラ・リスティスは、どれほど賞賛されようとも、どれほど高い地位につけられようとも、そして実際にどれほど他の魔導師より優れていようとも、自分は偉いのだと思いこむことだけは決してない。
(確かにあたしには、すごい魔法の才能があった。自分でできることもものすごく多くなった。本物の神さまたちの世界なんてものも経験してきた今のあたしなら、父ちゃんが殺された時に並んでたくそやろうども全員、指一本から放つ魔法だけで片付けられるし、あの大堤防だって土魔法と水魔法で半日かけずに作り上げられるだろうさ…………だけど、どんな才能あってもしょせんは人間ごときって簡単に食っちまう魔獣を知ってるし、それを斬り殺した上で今からでも一瞬でこっちの首を飛ばせる相手と深く関わっちゃってるし……)
慢心したくてもできない、というのが現実だ。
もちろん、もしまた愛しい夫や子供たちに危害が加えられそうになったら、自分自身が全力を出すのはもちろん、自分の言うことをきいてくれる者たちの力を使えるだけ使いまくって家族を守るが。
それが通用するかどうかもまた、自分の意志とはまったく別な話。
願いは、かなうとは限らない。
だけど願ったこととは別なものが与えられ、満たされ、幸せになることもある。
未来とは、どうなるかまったくわからないものなのだ。
これまで、やりたかったことやってやると思っていたことは、ことごとく失敗するかできなくなるかだった。
こうなるだろうと思っていた予想や期待もことごとく外れた。
しかし現状は、かつての自分が思ってもみなかったものになっている。想像すらできなかった、豊かで幸福な状態。
それなら、その現状を楽しみ、愛するのが幸せへの道。
まさか自分と夫婦になるとは思っていなかった最愛の男は、幼さが抜けきっていないし頭はいいが国政を担う能力はまだまだ足りていない若き女王を支え、国まるごとを新しく作り替えるのに夢中。
まさに今、人生で最高の時期の只中にいる。
自分はそういう、輝いている夫を愛し、支え、もっと子供を作り、たくさんの家族とともに過ごす。
ずっとずっと、老いて死んでゆくまで、楽しく、幸せに……。
(それが、色々なことを経験し乗り越えてたどりついた、今のあたしの願い)
(…………………………と、心から言えたら良かったんだけどね)
ファラの心の中には、くろぐろとしたものがわだかまり続けている。
それは――。
「んーあー」
それまで眠っていた長男が、目を覚まし頭をふらふらさせながら、寝台を降りようとし始めた。
乳母のひとりがその体をやんわり押さえ、母親の腕に戻してくれる。
「はいはーい、ライルー、おかーさんはここにいますよー」
油断するとどう動くかわからない二歳児を抱きかかえ、あやす。
ライル。あの雪の中で失った彼女の弟の名。
兄の動きにつられたように、長女が目覚め、泣きだした。一歳を迎えたものの兄のようにはまだ歩けない、あらゆる動作が可愛くて仕方のない赤ん坊。
「はーい、カイラ、おむつでちゅかーお乳でちゅかー」
カイラ。自分と母を呼びながら死んでいった妹の名。これも抱きかかえ、頬ずりする。熱い。今度は絶対に守ってみせる。
火のついたように激しく泣きだしたのは、生まれてちょっとしか経っていない三人目。乳房を急いで出し、吸わせる。子供のためのものが困るくらいにあふれているのを、ちゅぱちゅぱ音を立てて吸ってくれる。ちっちゃくてちっちゃくて、自分が守ってやらなければすぐ死んでしまうだろう赤子の名前はもちろんグリスだ。今度は決して蹴り殺されることのない、幸せな人生を過ごさせる。たとえ人の世では許されないどんなことをしてでも。
(父ちゃん、母ちゃん。みんな、取りもどしたよ。こうしてあたしの所に戻ってきてくれたよ)
三人を抱きかかえ、幸せに浸りながら呼びかける。
(あたしが母ちゃんになるなんてなんか不思議だね。お腹に四人目がいるし、もうひとり、おっきい赤ちゃんもいるし)
彼女の夫は、子供を作る能力を持ってはいるが、彼女以外にその欲望を向けることが一切ない。どれほど美しい女性を前にしても、もちろん男性であっても、今まで通り気持ちはまったく動かないとのこと。
(親を知らないあの人は、ガルディス様に父親を見てたけど――あたしを、母親って感じてるんだろうね)
妻にして恋人にして、母。
彼にとってこの世でただ一人の「女性」。それが自分。
幸せだ。そのように愛してもらえてたまらない。それなら自分も同じように、いやそれ以上に愛し返す。夫にしてもうひとりの子供として、胸の中にいる時は徹底的に甘やかす。
自分は今、幸せの中にいる。
これ以上望むべくもない、全てが満たされた、最高の幸せ。
…………だけど。
誰にも言わない、言っても理解してもらえない、秘めた願いがひとつだけ。
「お。やっとお戻りだね」
部屋の外がにぎやかになる。
明るく、華やかな気配。
忙しい政務の間、宮殿の裏庭でしばしの休息を取っていた女王カルナリアが戻ってきたのだ。
その帰還の際、わずかだが新王都の民たちに姿を見せるようにされている。
ガルディスの「反乱」を鎮圧し国を立て直した美しき女王。そのもとで戦った兵士をはじめ民衆からの人気はすさまじく、この「帰り際」の姿を見るために人がつめかけ女王をたたえる大歓声が湧きあがるのは今や新王都の日常風景だ。
警護の者たちも誇りに満ちて通路の左右に立ちならぶ。初めてこの任務につく若い騎士が感極まって女王陛下万歳と叫ぶのもよくあること。
その全てを笑顔で受け入れ、手を振りながらカルナリア女王は歩を進める。この国そのもの、祖国に身を捧げカラント王国そのものと結婚すると宣言した尊き存在。誰もが美しきその身をたたえ、高貴な名をありったけの喜びをこめて叫ぶ。
出迎える高官たちもその思いはほとんど変わらず、最前列にいるだろう夫もまた、今では心からの忠誠を女王陛下に誓っているはずだ。
だから、この宮殿の中で、違う思いを抱いているのはファラ・リスティスただ一人。
(女王陛下。いやカルちゃん。
あたしは、あんたのことが好きだよ。あたしたち家族の恩人で、今の幸せは全部あんたたちのおかげなのはもちろん、見てて面白いし、育ってもやっぱり可愛いし、抜けてるとこそのまんまなのも愉快だし――この国のために頑張ってる、あたしたち家族みんなを大きなところで守ってくれてる、すごく重たいものを背負ってくれてることには感謝して、尊敬してる。ほんとだよ。
あたしのことを臣下じゃなく友達と思ってくれてることも知ってるし、あたしだってあんたのことはそう思ってるよ。あんた見てると他人とは思えなかった。最初に出会った相手が最高の相手だったことも。その相手が傷つけられたときに魔法に目覚めたことも。何もわかってないけどとにかく治したいとだけ念じてたあの時のあんたは、昔のあたしそのものだった。大切な人と会えない時間が長く続いてつらかった、その気持ちも多分他の誰よりもよくわかってた。今のあたしにとって、一番仲良くて大事な友達は間違いなくあんただよ。
でもね……。
それでもやっぱり、あたしは――あんたの味方にはならないよ。
敵に回るってわけじゃない。そんなのあらゆる意味で無理。あたしだってこの国はできるだけ良いようになってほしいんだからむしろ全力で協力する。求められることはきっちりやる。あたしにできる限りのことをする。
でもね……味方じゃないんだ…………あんたにとって悪いこと、いやなことはしないけど……何て言うのかね――そう、いたずら者であり続けるよ。あんたの一番近いところで、からかい、いじめ、もてあそび、困ったことが起きるように仕向け続けるよ。
あんたがカルナリアだから仕方ないんだよ。あんたのせいじゃないよ。だけどどうしようもないんだよ。
あたし自身の願いは全然かなわず、今手にしているこの幸せは全部あんたのおかげ……そのあんたがカルナリアである限り、心にチクチク刺さるトゲ、この胸のもやもやは絶対に消えてくれないんだよ。
だって……)
ファラは子供たちを抱きかかえながら目を閉じる。
ライル。カイラ。グリス。かわいそうなあの子たちの名前はこれから自分がいくらでも呼んでやる。他人からもたっぷり呼ばれることだろう。
父と母の名も大堤防の名として後世に残される。その名と功績を彫りこんだ石碑はすでに大河のほとりに屹立している。
けれども、親がつけてくれて、その名と共に抱きしめられ、あやされ、時には叱られ、あるいはほめられ、弟妹たちからもそう呼ばれながら育ってきた、彼女の本当の名前は、これまでも、この先も、絶対に誰からも呼ばれることはない。
この世でそれを知っている自分以外のただ一人の相手も、その名で自分を呼んでくれることはない。彼にとって彼女の名はファラ、自分が付けたその名こそが愛しい妻の名。元の名を呼んでくれと求めれば応じてくれるだろうが、親に与えられたものを知らず自分自身がまったく名前に頓着しない彼に、彼女の気持ちを本当に理解することは不可能だ。
したがって、その遠い名を心に抱いているのは、この世で自分ひとりきり。
(いまあの名前に戻しても、女王にあやかったとしか見られない。それは絶対にだめ。女王があの名である限り、もう二度と元の名前に戻ることはできない。
だから、あたしの中の昔のあたし、永遠に誰からも名前を呼ばれることのないあたしは、いつまでもいつまでも、あんたがカルナリアだからこそ、いつまでもあんたの味方じゃないままであり続けるよ……)
誰もがたたえ、うやまい、賛美する女王カルナリアの名は、カルナル……「願いたてまつる」という意味の、祈祷の最後に神に捧げる誓願句からとられたもの。
そしてまったく同じ誓願句から親が選んでくれた、幸せに生きてくれという願いをこめられた彼女の元の名は――――――……「カルナ」という。
「ねがい」、これにて終了です。
女帝カルナリアの長い治世、その終盤まで共にあり続けた「筆頭魔導師」「帝国のトリックスター」「大母」そして「悪友」。
望みうるかぎり最高の、能力も伴侶も子供も家庭環境も、新たな自国も体制も、財産や地位だって手に入れたのに、「本当に欲しかったもの」は求める手を次々とすり抜けてゆくばかりだったかつての少女は、どれほど栄誉を得ようとも常に心の奥底でどす黒いものを放ち続けていました。
幸せであることは間違いありませんが、その幸せに浸りきることができない少女を心の奥底に住まわせ続けていたからこそ、最後の最後まで「王国の問題児」と呼ばれるに至った、女帝の師匠でもある人物の物語でした。
読んでくださってありがとうございました。




