「ねがい」10
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「たいへん…………だったね……」
話を聞き終えたファラは、涙と共に口にした。
「なぜあなたが泣くのです」
「だって……そんな、ひどいところから、助けてもらって、助けてくれた人に、恩返ししようって思ったのに、そのために頑張ってたのに……あんな……あいつら……お前なんかいらない、ガルディス様のためにならないって…………ひどい!」
「……ありがとう」
すすり泣き続けるファラの額に、セルイは唇を触れさせた。
その感触はきわめて熱く、ファラは硬直し、さらにその感触が下に降りてきて唇に重ねられることも覚悟し、さらにそれ以上のことをされるかもと思い、まだおとなじゃないけどこの人にならされても仕方ないかと受け入れる心地になった――が、セルイはそれ以上のことをせずに離れてしまった。
美しい顔に、これまで見たことのない、暗い、いやな笑みが浮かんだ。
「言ったでしょう。話した通りの出自と経験をしてきた私は、相手が男であれ女であれ、触れたいと思うこと――くだけた言い方なら、ドキドキするということが一切ないのです。
助けた際に、あなたの体の全てを見て、怪我の具合を確認していますが、どれだけ思い出しても何とも思うことはありません。健康な、よく成長しそうな九歳の女の子だ、というだけです。
もちろん、あなたぐらいの年代の女の子でも、気持ちよくしてやり、淫らに堕とすすべは知っています。それが必要ならいくらでもやりましょう。ですが、私自身の欲求として誰かにそれをやりたいと思うことは、これから先、一生、ないのですよ」
「じゃあ…………今のは?」
口づけされた額に手をやりファラは訊ねた。
「私のために泣いてくれたあなたへの、感謝です。それだけですよ」
セルイは背を向けた。もうじき詳しい話を訊きに役人たちが来るでしょう。その前に軽く食事をしておきましょう。あなたも身支度をなさい。…………続けざまにそう言う少年の耳が、わずかに赤くなっていた。
※
「貴族の馬車を平民たちが襲ったという事件」の事情聴取に来た役人――貴族――を前に、ファラはひたすら耐えた。
「まったく、先の馬鹿者に続いてまたしても平民か。下手人どもはすでにこの世にいないというのなら、その家族のうち成人は同じように河に放りこむべきだな。子供は奴隷に落とす。貴族にたてつくやつらなどそうして当然だろう」
父のことを持ち出されても、拳を握ることも、呼吸を乱すことすらしないで、自分は人形だとひたすら思いこみ、耐え忍んだ。
なぜなら、セルイが耐えているから。
どのような目に遭い、どれほどの怒りを抱きながらも抑えこんでいるかが、今なら本当によくわかるから。
役人相手に、まだ回復しきっていない疲れた感じではあるが、まぎれもない貴族だという態度で振る舞いつつ、自分を嘲り罵り殺そうとしてきた者たちを哀れな被害者としてその死を悲しんでみせ、襲ってきた相手とはいえ手駒として使われただけの平民を悪人として扱う。それらのひとつひとつが屈辱だろうに、耐えて、どこまでも上品に振る舞っている。
ならば、それをしょうげきとかいうもので台無しにしてはならない。こんな下級貴族ひとりを吹っ飛ばしたところで、本当の敵には何も届かない。あいつらは痛いと思うことさえない。
(べんきょう、しなくっちゃ)
こんな態度を取らなければならないのも、自分がまだ何もできず、何も知らないからだ。もっと色々なことを知って、貴族や大人にやられないように、上手く振る舞えるようにならなければ。
そう、セルイは通りすがりの魔導師が助けてくれたということにしたが、自分が本当にそういうものになるのだ。襲われている人を助けられる、すごい魔法を使える存在に。
傷ついた美少年と人形のような美少女という二人の子供に、役人は最後に、頼れる相手はいるのか訊いてきた。いないのなら自分のところへという欲望が露骨に見えていた。セルイが平民であったら一方的に命令していたことは間違いなかった。吐き気がして、セルイはこの何倍もひどい欲望にさらされ、その相手をしてきたのだということも理解した。
「……さすがに、疲れましたね」
役人や兵士たちが出て行き、こっそり戻ってくるような不埒者も現れないと確認してから、セルイがようやく肩の力を抜いた。
ファラは返事もできずにぐったりする。
「よく我慢しました」
「うう…………」
「へたばっている場合ではありませんよ。この後、恐らくですが『風』から接触があるでしょう。もしかすると今夜にも移動し始めることになるかもしれません。そのつもりで準備しなさい」
「はぁい……」
セルイの言葉通り、午後に宿の者を装った男がやってきて――その者からファラは、先にボーリフから感じたのと同じ、見た目とは違う何かぞっとするようなものを感じた。これからの手はずをセルイと打ち合わせている間はずっとその感じがしていたのに、話を終えた途端に気配が変わり、今度はあのマルガンのような、人当たりのいい宿の従業員としか思えなくなった。これが影の世界に潜む者たち、忍びというもの。猛烈に背筋が冷たくなった。
日が落ちた直後に、こっそりと宿を出た。
先ほどの男かどうかもわからない影に先導されて、裏口から出て、暗がりを伝って移動し、待ち受けていた馬車に乗りこむ。
二度目の馬車は、今度こそ一切妨害されることなく街を出て、わずかな灯火と月明かりだけでゆっくりと道を進み、川べりに着いた。
「ここからは船になります。……いいですね?」
「はい」
気をつかってくれたセルイにうなずきで礼を伝えると、父親が投げこまれた大河に浮かぶ小舟に、ファラは乗りこんだ。
家族の顔が、まだ戻れそうな気がしてしまうこれまでの家が、慣れ親しんだ街並みや見慣れた景色や遊び仲間や近所の人々が――「故郷」が、頭の中を埋め尽くしたが、足が地面を離れた瞬間に、それらは遠いもの、なくなったものとなった。
連れてきてくれた男とは違う、最初から乗っていた影のような男が棹を繰る小舟は、滑るように岸を離れ、父親たちが長年かけて築き上げた大堤防に沿って、下流へと動き出す。
(父ちゃん。母ちゃんもこの流れの中にいるのかい。下の三人、守れなくてごめん。必ず仇は取るから。あたし、魔法使えるみたい。そういう風に産んでくれてありがとね。おかげであいつらにやり返せる。父ちゃんと母ちゃんからもらったこの力で、必ずあいつらにやり返す。
だからあたしは行くよ。セルイ様と一緒に。遠い所で、いっぱい勉強して、いっぱい稽古して、力を手に入れて、戻ってくる。あの伯爵や、伯爵にああいう真似をすることを許したやつらを、皆殺しにする。誰にも、もう二度と、あたしの家族を奪わせはしない。
それがあたしの願い)
わずかに残っていた空の色も消え失せ、故郷は完全に見えなくなり、永遠に失われた。
暗がりを進んでゆく小舟の中で、ファラは自分からセルイの手を探し、握った。
「ねがい」という物語の前半終了です。
ここからは時間が飛びます。投稿は明日以降といたします。




