「ねがい」02
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家族ではなく、神さまと同じ部屋にいた。
暖炉に火が燃えている。とてもりっぱな、あたたかな部屋で、自分はすごくきれいな寝台に横たえられ、痛みがどこにもなく――かたわらの椅子に、神さまが腰かけていた。
「私は、セルイといいます」
神さまはそう名乗った。
「この国の王太子、ガルディス様にお仕えして、見聞を広めるべく各地を回っている、第七位貴族、セルイ・ラダーローンと申します」
……違った。信じられないほど美しいのに、神さまじゃなく人間だった。
まだ成人していない少年で、お貴族さま、自分たちとは違っていて自分たちをどうにでもできる、どういうことをしても許される存在。
「ダルンゾン河の大堤防が完成したと聞き、式典を見物していたのですが、あの騒ぎが起きて……両腕に幼子をかかえて必死に逃げていくあなたの姿が垣間見えて、気になって後を追ったのです。
何の伝手も、使える立場もない身ゆえに、あの場では何もできず、あなたを見つけるのにも時間がかかり、あなただけしか助けられなかったことを許してください」
美少年はこちらの反応を待たずに謝罪し――あなた「だけ」という表現によって、弟と妹がどうなったのかがわかってしまった。
涙は出なかった。漏れたのはうめき声だけ。心には冷たいものが分厚く降り積もって、固まっている。
「母ちゃんと……グリスは……?」
「お母さまと、幼い弟さんですね」
セルイは麗しいまつげを沈痛にひそめ、しかしすぐには教えてくれず、先に温かいものを飲ませてくれた。口の中の痛みはないが、温かいという以外、味はまったくわからなかった。
「……弟さんは、まだ三つなのにかわいそうにと、女の人たちが弔ってくれていました」
また、うめき声が自分の口から漏れた。
「お母さまは…………お亡くなりです、とだけ言っておきます。詳しく知りたければ早く元気になってください」
今の自分には伝えられないくらいにひどいことになっていた、ということなのだろう。服を引き裂かれたはだかの母親に伸びる無数の男たちの手が頭に浮かぶ。浮かぶだけで何も思うことはない。思うことができない。何もかも、凍りついた向こう側にあって、今の自分にはどうすることもできない。
何も感じない、心が動かない、何もかも遠くにあるような状態のまま、意識が沈んでいって、また闇が広がった。
目が覚めると、部屋の中には誰もいなかったが、すぐに扉が開いて、セルイというあの美少年が来てくれた。まぶしい。やっぱり神さまだ。しかしその背後にちらりと大人の男が見えて、人だ、貴族さまなんだと思い直した。
自分は、わずかに起きてはまた眠ることをくり返して、今ではもうあれから五日経っているそうだった。
体の痛みはどこにもない。口の中も、折れたはずの腕も、元通りになっていた。すべて悪い夢だったようにすら感じる。だがあの時の恐怖も痛みも、家族がいなくなってゆく真っ黒な心地も自分の中にある。そもそも夢ならここは自分の家のはず。だがちがう。
ここは、自分も外から見たことだけはある、貴族さまだけが使える大きな宿屋だそうだ。その端の方の一室。
お祭りとか特別なおめでたい時じゃなければ食べられない、いい匂いのするスープをはじめとしたきちんとした食事をセルイが運んできてくれて、一緒に食べた。味がわかった。おいしい。このひとに助けてもらったんだ、あのひどい怪我も治してもらったんだと、あらためてセルイを見つめた。ものを食べるということはこのきれいすぎる少年はやっぱり人間だ。だけど食べる姿もまた見た目と同じようにとてもきれいで、気がつけば手から匙が滑り落ちていた。
「まだ動かせませんか」
「い、いえっ! だいじょうぶ!」
顔がカッと熱くなり――自分たちの家では落とした匙などすぐ拾ってまた使ったものだが、新しいものを渡されて、その際にセルイの手が触れてビリッとした感じがはしって……。
気がつけば、自分の前に置かれたものはすべて食べ尽くしており。
頬を大量の涙が流れ落ちていた。
「父ちゃんは……母ちゃん……ライル、カイラ、グリス……は……?」
ボロボロ泣きながら訊ねた。
分厚い氷は溶け落ちていた。あれはすべて現実のことで、生々しい記憶と恐怖と無数の激しい感情がよみがえっていた。
「……ご家族の方々は、まとめて、共同墓地の一角に葬られました。申し訳ないことに、あなたを助けた際に弟さんと妹さんは置いてくるしかできなかったのですが、そのご遺体もお知り合いのみなさんが引き取り、丁寧に葬ってくださったようです」
聞かされて、嗚咽があふれ出た。
温かくにぎやかな家、時には騒がしく荒っぽい声も飛び交った自分の家、みんながいた家。時々帰ってくる父ちゃんに飛びついて大きな手で抱き上げられ振り回してもらった思い出。笑う母親。自分も自分もとせがむ小さな弟妹たち。
「会いたい…………会いに……行きたい……!」
「残念ながら、今はできません。あなた方一家は、あの者、ガイアール伯爵により、罪人とされてしまいました。そのため、街のみなさんによる弔いもおおっぴらにはできず、役人たちの目を盗んで主に女性たちがひっそりと行ったものです。葬られたのは墓地の隅の無縁者区画です。神官の祈りが捧げられることもありませんでした」
「………………」
人が死ぬと、その魂は風神さまの吹かせる風に乗って天へ舞い上がっていくのだという。そのためのお祈りをされていないということは……。
「じゃあ……今……死んだら……まだ、みんな、この辺にいるの?」
「おかしなことを考えてはいけませんよ。あなたは生き残ったのです。それなら、ご家族みんなの分まで生き抜くのが使命です」
セルイの手が自分の手に重ねられた。
「使命……」
そんなものいらない、両親ときょうだいたちの所へ行く……と反射的に思ったが。
セルイの手から、熱いものが流れこんできた。
たっぷり間を開け、ゆっくりとした口調で、セルイは言った。
「私があなたを助けたこと、助けることができたということも、何らかの使命によるものだったと思っています。あなたの使命だけではなく、私の使命も全うさせてはいただけませんか?」
まっとうする、という言葉の意味はわからなかったが、熱いものが体を駆け巡るままに、小さくうなずいていた。
しばらく、様子をうかがうようにセルイは押し黙っていたが――次に、思いもよらないことを言われた。
「では……今からあなたには、ファラという名前になってもらいます。ファラ・リスティス。それがあなたの『本当の名前』です。申しわけありませんが、これは強制です。そうしなければならないのです」
「ファラ……?」
その響きは、自分の名前とは似ても似つかなかった。




