ぐうたら剣姫行ex09 「ねがい」01
残酷な描写あり。
誰の物語かは、今話ではまだ明らかになりません。
1
濃灰色の空から、雪が降り始めた。
顔に触れた白粒が溶けて、流れてゆく。
右腕に抱いている妹の顔に落ちた白粒も溶けてゆく。
だが左腕に抱いている弟の顔に降った白粒は、ゆっくりとしか溶けてゆかず。
次の白粒、さらに次、次……と降ってくるものは、ほどなくして、まったく溶けなくなった。
「もう…………寒くないんだね……」
ガタガタ震えていたのが、少し前から動かなくなっていた弟は、そういうところへ飛んでいったのだ。
「ねえちゃん……おうちに、帰りたい……とうちゃんと、かあちゃん……どこ……?」
「もうすぐ会えるよ。もうすぐ。だから、ちょっとだけ、姉ちゃんと一緒に、待ってようね……」
雪は激しくなり、視界は自分たちと白いものだけになった。
これは夢だ。
間違いなく夢だ。
きっと、何もかもこの真っ白なものに埋め尽くされたら、夢は終わって、目が覚めるんだろう。
今朝と同じように――。
だから早く、もっと沢山降って、全部白くしてほしいと心から願った。
※
「まだかい!? 早くしな!」
「待って! こらグリス! 動くな、じっとしてな!」
「ねえちゃーん、はなみず出たー」
「あああっ! カイラ、ライル拭いてやって! 妹に世話させてんじゃないよ! 服汚すなよ! グリスも、じっとしてろって言ってんだ! 遊びに行くんじゃないんだよ! はやく! 母ちゃんも手伝ってよ!」
「いやだよ、このめんどくさい服、やっと着れたのにさ、乱れたらあんた直せんのかい?」
「乱れんならこっちもだよ! あたしはどうすんだよ! よし、グリス、いい子だ、もう動くんじゃないよ! もう三歳だ、お前はかしこい! ちゃんといいつけ守れる! そうだね!?」
「んあー、ねーちゃん」
「よーしいい子だ! ライル、顔きれいになったね? カイラ、よくやった! そら行くよ! 父ちゃんの大事な日だ、みんなちゃんとするんだよ! 母ちゃん、そっちの二人の手ぇつないでやって! グリスはあたしがだっこしてくから!」
もうかなり肌寒い季節、じきに雪が降り出しそうな灰色の空の下。
寒さを追いやる明るい色合いの晴れ着に身を包み、表情も足取りも晴れ晴れとして出かけていった母親と子供たち。
その目の前で、杭に縛りつけられた父親が、冷たい河に放りこまれていった。
「貴族たるこの尊き身に、平民ごときが場もわきまえず直言した、その無礼によるものである!」
きらきらした服を着た、腹が出て体中丸っこいお貴族さまが告げたが、意味はよくわからなかった。
だけど、もうしばらく会えていなかった、おっきくて強くて大好きな「お父ちゃん」が、もう二度と会えないところへ行ってしまったことははっきりしていた。沈みゆく父と目が合った。言葉を超えたたくさんのものが一瞬で流れこんできた。父の姿はすぐ灰色の水流の下に永遠に消えた。
川岸は人で埋まっていた。上流も下流も見渡す限りの人、人、人。この日を祝うために集まってきたものすごい数の人が、ついさっきまではにぎやかだったのに、しんとなって、河のごうごう言う音だけがあたりを包みこんだ。
――この大河は、これまで何度も洪水を起こしていた。二本の大きな川と三本の小さな川とが合流して一気に大河になるこの近辺から下流にかけて、かなりの広さの土地が開発もできず荒れるがままだった。それを数年かけて治水工事を進め、今日、ついに大堤防が完成したのだ。
父親は、実際に手を動かす人たちのまとめ役で、その指示のもとに何千、何万人という男たちが、資材を運び石を積み上げ時には冷水に潜って難しく危険な作業に従事した。
何人も何人も途中で死んだ、その長く難しい工事がついに終わって、今日は「父ちゃんが領主さまからほめてもらえる」日だと聞いていた。自分たちの晴れ着も、その領主さま、「すごくえらいひと」の前に出るため……そのはずだったのに……。
「死んでいった者の慰霊碑を立てろだと? この堤防の完成によりわがガイアール家が第五位から第四位へと昇進する、めでたく輝かしきこの栄光の時を、平民ごときが台無しにするつもりか! 無礼者め! せめて川神への供物となるがよい!」
父親が沈んでいった灰色の川面にお貴族さまはなおも怒鳴った。
その人はものすごく怒っていたが、そのまわりの人たちは笑っていた。意地の悪い、ニヤニヤした顔が、右から左までずらりと。
「無礼者の家族か。ならば罪人よの。まかせる、好きにせよ。まったく、せっかくの気分が台無しだ。ご検分の方々にも言い訳せねば。ランベール侯爵閣下のおぼえもめでたくなろうというこの大事な日に、これだからものをわきまえぬ平民は!」
隣の人にわめくと、お貴族さまはいなくなってしまい――。
言われた人がさらに周囲に何か言って、体の大きな騎士さまたちが、自分たちを取り囲んだ。
「伯爵閣下、いや第四位侯爵閣下となられるお方からの、祝いのくだされものだ! お前たち、ありがたく受け取れ!」
伸びてくる何本もの手。母親の悲鳴、引き裂かれる服、露出する体。叫ぶ口は丸めた布でふさがれ、もがく体が持ち上げられ、胸のふくらみが揺れて両脚を大きく開かれた。
父親と一緒に働き続け、ようやく迎えたこの日をつい先ほどまで心から誇らしく思っていた、たくましい男たちが呼び集められる。
「とうが立っているとはいえ、平民にしては美しい、いい女であろう!? 工事を成功させた褒美としてお前たちにくれてやる! ためこんだものを存分に発散させよ! 閣下からのご下賜品に、まさか手をつけぬ者はおるまいな!」
母親のうめき声がすさまじいものになった一方で――固まっていた自分たちの前には、九歳の自分よりちょっと年上だろうというくらいの、見習い騎士さまなんだろう男の子たちが押し出されてきた。
見習いとは言っても自分たちの晴れ着よりもずっといい布地の服を身につけており、普段からいいものを食い鍛えられている体はみな大柄だ。
「さあ、日頃豪語している勇気と忠誠心とを見せてみよ! この者たちは、侯爵閣下が仰せの通り、処刑されて当然の罪人にすぎぬ! ゆえに、お前たちの日頃の鍛錬ぶりを見せてもらうに格好の相手である! もちろんやれるであろうな!?」
少年たちがためらっていたのは、ほんのわずかの間だけだった。
「抜くか?」
「お祝いの場で刃はだめだろ!」
「じゃあ……!」
腰の短剣こそ抜かなかったが、拳を固めて、あるいは血を流してはならない場所で使うための棒を握りしめ、襲いかかってきた。
腕の中の幼い弟をかばったが無理矢理引き剥がされた。取りもどそうとしたら腹を殴られ顔を殴られ折れた歯が飛んだ。地べたに転がされた三歳の弟に、甲高いわめき声をあげる少年が飛びついて、小さな体を持ち上げ、投げ上げて、落ちてきたところを思い切り蹴り飛ばした。他の弟、妹も同じような目に遭っていた。少年たちの瞳は残虐に輝いていた。
認識できたのはそこまでで、そこからはもう何がどうなったのかわからない。
気がつくと、多分折れているだろう片腕にライルをかかえ、反対側にはカイラをかかえて、街の中、灰色の路上にいた。幼いグリスも母親もいない。
殴られ腫れて半ば以上ふさがっている視界の先では、今朝その中で目覚めた我が家に、沢山の人が押し入り、ものというものを片端から持ち出していた。自分の持ち物も誰かの手の中にあった。
ここは侯爵さまに逆らったざいにんの家である、すべてをせっしゅうした上でこうせきのある者にあらためてさげわたす。声高に叫んでいる役人らしい人の声が聞こえた。
腕の中のライルがうめき声と共にどす黒いものをどろどろと吐き出した。その頭部は拳ひとつほども陥没し血みどろで片目がなくなり、ガクガクと異様な痙攣をくり返していた。
反対側のカイラも、腕も足もおかしな方向に折れ曲がっていて、顔面はめちゃくちゃに変形し、乳歯が残らずへし折られた赤い口からだらだらと血まみれのよだれを垂れ流している。
(たすけて……誰か……)
見まわすと、知っている顔がいくつもあった。父のいとこという人もいた。
その誰もが露骨に顔をそむけ、背を見せて逃げ去っていった。
「まだいたのか、伯爵さまに逆らった馬鹿のガキども! 罪人にふさわしい化け物づらになりやがったな! ざまあみろ! ここはもうお前らの家じゃねえ! さっさと出ていけ! でなけりゃとっつかまえて、奴隷として売りに出すぞ!」
いつも父親の前で小さくなっていて、母親にはいやらしい目を向けていた近所の小男が、自分たちを怒鳴り、蹴りつけてくると、今度は役人のところへ足早に寄っていってすり手をし始めた。
ここにいてはいけないということだけはわかって、かかえこむ弟、妹の足を引きずりながら歩き出す。
どこもかしこも痛く、重たく、つらい。父親は水の下に消えた。どこにいるのかわからないが、母親のところへと、その思いだけで足を動かす。
死に物狂いで歩き続けたつもりだったが、気がつけば街の外で、へたりこんでいた。ほんのわずかしか移動できていなかった。
雪が降り始めた。
ひらひら舞ったと思うと、すぐにすべてがそれだけになった。
真っ白な世界で、ライルが動かなくなり、その肌がすべて白いものに覆われた頃、血の固まった口で、おうちにかえりたい、ねーちゃん、かーちゃんとつぶやいていたカイラもまた、冷たいものになっていった。
呼びかけようとした自分の口から、赤いものが漏れ出た。
ああ、終わるんだ、この悪い夢ももうすぐ終わる、そうすれば暖かい家にお父ちゃんが帰ってきて、みんなでにぎやかに、おいしいごはんを……。
「飲みなさい」
聞いたことのない子供の声と共に、口に何かが流しこまれた。とろりとした感触。血でいっぱいだったところに甘みをおぼえた。ぼやけていた視界の中に、きらきらした――あのお貴族さまみたいな飾ったものの光じゃない、本当に光っているような、信じられないほどに美しい顔があった。
神さまだった。お貴族さまが祈る風神、水神、神さまが認めた最高のお貴族さまである国王さまとかいうやつらとは違う、本当にえらい、とうといおかた。だからこんなにきれい。
本物の神さまが、自分を迎えにきてくれたんだ。これでもう何も心配はない。家族のところへ行ける。
頬をゆるめてまぶたを閉ざした。




